兄の日
鏡の中の自分が、知らない人みたいだった。
尾道で一番古いホテルの控室である。窓からは、朝の海が見えた。小春は振袖の帯を締めてもらいながら、身動きが取れずに立っていた。
「息、止めなくていいですよ」
着付けの人が笑った。
「止めてます?」
「止めてますね。そんなに緊張しなくても、今日の主役はお兄さんですから」
「……そうなんですけど」
小春は口の中で答えた。
そうなんだけど、なぜか朝から落ち着かない。昨夜もあまり眠れなかった。兄はと言えば、いつもどおり七時に起きて、いつもどおり味噌汁を飲んでいた。ああいうところが、少し憎らしい。
帯が締まり、着付けが終わった。
廊下に出たところで、隣の控室の扉が開いた。
「あら、小春ちゃん」
白無垢の凪が、そこに立っていた。
小春は、しばらく声が出なかった。
いつも法律の本を抱えて、兄に容赦のない指摘をしている人である。台所で肉じゃがの作り方を教えてくれる人でもある。その人が今、髪を結い上げて白い着物を着て、笑っていた。
「……きれい」
「ありがとう。重いけどね、これ」
凪は肩を回す仕草をして、それから小春の振袖を見た。
「小春ちゃんこそ、すごく似合ってる。大人っぽい」
「そんなことないです」
「あるわよ。陽太が見たら泣くかも」
「お兄ちゃんは泣きません。あの人、そういうとこ鈍いので」
凪が声を上げて笑った。
その笑い方が、いつもの凪だった。白無垢を着ていても中身は変わらないのだと分かって、小春は少しだけ肩の力が抜けた。
「小春ちゃん」
凪が声の調子を変えた。
「今日から、家族になるね」
「……はい」
「よろしくお願いします」
凪が頭を下げるので、小春は慌てた。
「そんな、こっちが。……あの、よろしくお願いします」
言ってから、顔が熱くなった。
廊下の向こうから、凪の両親が歩いてくるのが見えた。二人とも小春を見ると、丁寧に頭を下げた。娘の相手の妹に対する挨拶としては、やけに深い一礼だった。
家族が増える。
小春はその言葉を、頭の中で転がしてみた。
嬉しい。間違いなく嬉しい。
なのに、胸の奥に小さな棘みたいなものが刺さっている。それが何なのか、小春にはまだ言葉にできなかった。
◇ ◇ ◇
式が始まって、小春は親族席に座った。
座って、気づいた。
新郎側の親族席が、自分一人だった。
当たり前だった。湊家は、12.11のあの日から、兄と自分の二人だけである。父も母も骨すら帰ってこなかった。祖父母も遠い親戚も、誰も残っていない。
向かいの新婦側の席には、凪の両親と親戚が並んでいる。二列、三列と埋まっている。
こちらは、一列に一人。
小春は膝の上で手を握った。
寂しいと思ったわけではない。ただ、目に見える形で示されると、失ったものの大きさが急に立ち上がってきた。
父がここにいたら、どんな顔をしただろう。母がいたら、きっと泣いていた。
そのとき、小春は後ろの気配に気づいて、少し振り返った。
親族席の後ろ、一般の招待客の席が、埋まっていた。
それも、ぎっしりと。
見覚えのある顔がいくつもあった。造船所の親方さん。取引所の鑑定室の人。腕章をつけた探索者の人。市場が開いた日に、傍聴席から見た人たちである。
知らない顔も、それ以上にたくさんあった。船会社のおじいさん。大学の先生。東京から来たという議員さん。海の向こうから来たらしい、背の高い人たち。
三百人は入っているだろうか。
この人たち全員が、兄の関係者なのだと気づいて、小春は目を見開いた。
兄は、家では何も話さない。今日は疲れたとか、味噌汁がうまいとか、そういうことしか言わない。だから小春は、兄が外で何をしているのかを、新聞とテレビでしか知らなかった。
その兄が、これだけの人と繋がっていた。
誓いの言葉が読み上げられている。兄の声は、いつもより硬かった。
小春は前を向いた。
親族席は一人でも、この会場は満員だった。
父も母もいない。でも、兄は一人ではなかった。
そのことが、なぜか泣きそうなくらい嬉しかった。
◇ ◇ ◇
披露宴が始まると、小春はあちこちから声をかけられた。
「よう、小春ちゃん。でかくなったな」
最初に来たのは、義手の親方さんだった。
「村上さん。お久しぶりです」
「本当に久しぶりだな。あんた、市場の開場の日はまだこんなもんだったぞ」
村上さんは手のひらを胸の高さで止めた。あの日、小春は傍聴席でこの人と田中さんに挟まれて、動く数字を追いかけていた。何が起きているのか半分も分からないまま、兄の作ったものを見ていた。
「あのとき、村上さんが競り台のことを教えてくれました」
「覚えとったか」
「覚えてます。百年もつって言ってました」
村上さんは笑って、義手でグラスを持ち上げた。金属の指が器用に動く。
その隣に、少し緊張した面持ちの女の人が二人立っていた。村上さんの奥さんと娘さんだという。娘さんは小春より少し年上で、教師を目指して大学に通っていると聞いた。
次に来たのは、白髪の老人だった。
「大西です。船をやっとります」
「あ、シーライオンの」
「おう、知っとるか」
大西さんは嬉しそうな顔をした。この人とは会ったことがない。名前だけは、兄の口から何度か聞いていた。
「兄さんは、船のことなんか何も知らん学生でしたがな。それがまあ、わしらの会社を丸ごと買い取って、今じゃ瀬戸内を飛び出して世界の物流を回しとる」
「兄が、ですか」
「なんだ、知らんのか」
「……あんまり、家で仕事の話をしないので」
大西さんは目を丸くして、それから笑い出した。
「そうか。そういう男か」
その後も、次から次へと人が来た。
鑑定人の栗山さんは、開場の日にも会っている。あのときは査定場の人だと聞いていたが、今は取引所の鑑定室にいるのだという。丁寧に頭を下げて「兄上には、人生を変えていただきました」と言った。
腕章の男の人も、見覚えがあった。開場の日、セリの作法に戸惑う探索者たちに付いて回っていた人である。
「妹さん、俺、あんたの兄貴に伝票二枚で人生ひっくり返されたんすよ」
羽山さんはそう言って笑った。よく分からない話だったが、その顔が嬉しそうだったので、小春も笑った。
知らない顔も多かった。眼鏡の大学の先生は、兄の設計がいかに緻密かを十分も話した。東京から来たという議員さんは、名刺をくれた。研究をしているという女の人は、小春が水の研究をしたいと言うと、目を輝かせて喋り続けた。
みんな、小春の知らない兄の話をした。
会社を作り雇用を作った。窓口の値段を暴いた。市場を作った。国の会議で戦った。国際会議に出た。制度を作って、人が選べるようにした。
どれも小春が新聞で読んだ話だった。だが、この人たちの口から出ると、まるで別の話に聞こえた。
新聞には、兄が何をしたかが書いてある。
この人たちは、兄に何をしてもらったかを話していた。
小春はテーブルに戻って、遠くの高砂に座る兄を見た。
いつもどおりの、少し眠そうな顔をしている。家で味噌汁を飲んでいるときと同じ顔だ。
あの人は、外でこんなことをしていたのか。
◇ ◇ ◇
祝辞の時間になった。
司会が名前を読み上げると、義手の人が立ち上がった。
「ウォーター・ベイン、技術顧問、村上一鉄と申します」
村上さんはマイクの前に立って、一度咳払いをした。
「わしは、この会社で一番の古株です。社長がまだ学生探索者で、会社に人が一人もおらん頃に雇われました。日給五万で」
会場から笑いが起きた。
「当時、わしは腕を一本なくし造船所を追われて、家族と別れて暮らしとりました。まともな仕事もない。金もない。……そういう男に、あの坊主は日給五万を出した」
村上さんは義手を掲げた。
「落ちぶれた鉄屑に何ができると聞いたら、社長はこう言いました。あなたの経験が必要だ、と」
小春は息を詰めて聞いていた。
親方さんのそんな話は知らなかった。あの日、競り台を叩いて百年もつと笑っていた人が、その前に何を失っていたのか。
「わしは、その言葉で救われました。腕をなくして以来、誰にも必要とされんかった男が、必要だと言われた。……あの日から、わしはこの坊主のために働いとります」
村上さんはグラスを置いた。
「社長。あんたは、値段を直しました。腕が値段になる仕組みを作った。……ですがな、わしに言わせりゃ、あんたがやったのはそれだけじゃない」
村上さんは高砂の方を見た。
「あんたは、必要とされとらんかった人間に、居場所を作った。わしにも、ウォーター・ベインの工員にも、シーライオンの船乗りにも、査定場の職員にも、探索者にも、この会場におる連中の多くに。……皆、あんたに拾われて、ここにおります」
会場が静まっていた。
「凪さん」
村上さんは、新婦の方へ向き直った。
「この坊主は、人のことばっかり考えて、自分のことは後回しにする男です。放っといたら飯も食わん。……どうか、こいつの分まで、こいつのことを考えてやってください」
凪が、頭を下げた。
「わしからは、以上です。……坊主。おめでとう」
拍手が起きた。長い拍手だった。
小春は必死で拍手をしながら、目の端が熱くなるのを感じていた。
兄は、村上さんの方を向いて、深く頭を下げていた。
◇ ◇ ◇
手紙を読む時間が来た。
普通は新婦が両親に読むのだと、小春も知っている。だが凪は、自分の両親への手紙を読んだ後、マイクを小春に渡した。
「小春ちゃんからも、あるんですって」
会場がざわめいた。小春は立ち上がり、震える手で便箋を開いた。
昨日の夜、三回書き直したものだった。
「……お兄ちゃんへ」
最初の一言で、声が上ずった。深呼吸をして、続けた。
「12.11の後、わたしは毎日、お兄ちゃんの帰りを待っていました。お水がないと生きられなかったからです。お兄ちゃんは、どこかからお水を持って帰ってきてくれました。どうやって手に入れていたのか、わたしは知りませんでした」
会場が静かになっている。
「今日、みなさんのお話を聞いて、初めて分かりました。お兄ちゃんは、すごく大変なことをしていたんですね。……全然教えてくれないから、知りませんでした」
小さな笑いが起きた。小春も少し笑って、便箋をめくった。
「東京に行く前の夜、指切りをしました。わたしに何かやりたいことができたとき、ちゃんとその道が開いている世界にする、という約束でした」
高砂の方は見られなかった。見たら泣くと分かっていた。
「約束は、守ってもらいました。わたしは水の研究がしたいと言えました。学校に通えて、体育も見学しなくてよくて、毎日ごはんを作れます。……全部、お兄ちゃんのおかげです」
小春は一度、息を吸った。
「だから、今日からは、お兄ちゃんが幸せになる番だと思います」
便箋をめくる音が、マイクに入った。
「凪お姉ちゃんへ」
小春は新婦の方を向いた。
「わたしは、ずっと前から凪お姉ちゃんって呼んでいました。ほんとのお姉ちゃんじゃないのに、勝手に呼んでいました」
凪が、口元を押さえた。
「今日から、ほんとのお姉ちゃんになります。すごく嬉しいです。……でも、改めてお姉ちゃんって呼ぶのは、なんだか照れます」
会場から、温かい笑いが起きた。
「これからも、勝手にお姉ちゃんって呼びます。肉じゃがの作り方も、また教えてください」
小春は便箋を畳んだ。
「お兄ちゃん。凪お姉ちゃん。ご結婚おめでとうございます。……わたしの家族になってくれて、ありがとうございます」
最後まで読み切れた。
顔を上げると、高砂の兄が、下を向いていた。肩が動いている。
小春は思わず声を上げた。
「お兄ちゃん、泣いてる」
「泣いてない」
「泣いてるよ。みなさん見てください、この人泣いてます」
会場が笑いに包まれた。凪が笑いながら兄の背中を叩いている。
小春は席に戻って、それからようやく、自分も泣いていることに気づいた。
朝から胸に刺さっていた小さな棘は、いつのまにか消えていた。
兄が誰かのものになるのが寂しかったのだと、今なら分かる。
でも、そうではなかった。
減ったのではなく、増えたのだ。
二人だった家族が、五人になった。父と母がいなくなった日から、初めて増えた。
会場では、みんなが笑っている。兄が拾った人たちが、兄の門出を祝っている。
窓の外では、瀬戸内の海が午後の光を受けて光っていた。
あの海の上を、今日も船が走っている。兄が守った道の上を。
以上で完結とさせていただきます。
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