トレーナーのみなさん、こんにちは。
巻いていきたいけど、これをスルーはさすがにできなかった。
「絶対合格してね! ユー・コピー?」
「あなたの走り、激マブのチョベリグだったわ!」
「うぉぉぉぉん!!! 頑張れぇぇぇぇぇ!!!」
「またウチとやろーや!」
「なかなかやるね、ポニーちゃん。……いや、ルベウスロード君。」
様々な声が、ロードの記憶に残っている。
スピカとの模擬レースで、ロードは己の力不足を思い知らされた。
スタミナが足りない。
速度を維持できない。
そして何より――レースというものを知らなかった。
だから、走った。
何度も。
自分と、様々な相手と。
逃げという脚質を学び、自分に必要な持久力を鍛えた。
ただ速く走るのではなく、速く走り続けるために。
――あれから一ヶ月。
ロードの走りは、以前とは明らかに変わっていた。
無論、ただ速くなったわけではない。
序盤から高い速度を維持しながら、終盤までスタミナを残す。そして最後の直線で、残された力を一気に解放する。
初の模擬レースでは、第四コーナーを前にして力尽きた。
しかし、今は違う。
背後からどれだけ足音が迫っても決して焦らず、ただ前を見る。背中に感じる視線に揺さぶられることもない。
そして――最後の直線。
ロードにしかできない、唯一無二の武器が顕現する。
左足以外の力を抜き、身体を前傾。左脚へ力を集め、一気に解放。
スズカから学んだ『大逃げ』に、自らの武器を掛け合わせた、彼だけの走り。
それが、今のルベウスロードの走りだった。
メキメキと力をつけていくロードの噂は、本人の知らないところでトレセン学園へ広がっていった。
けれど、広まったのは単なる成績やタイムの話だけではない。
ロードと走ったウマ娘たちは、口を揃えてこう言った。
『また、一緒に走ってみたい。』
それは決して、ロードが強いからではなかった。
もちろん、レースをこなすうちにロードの勝率も上がってきている。以前なら届かなかった相手にも、今では食らいつけるようになった。
それでも。
彼女たちがもう一度ロードと走りたいと思う理由は、それだけではなかった。
速いから、一緒に走りたいのではない。
勝てるから、競いたいのでもない。
ただ――
この先、彼がどこまで行くのか。その過程を自分も走って確かめてみたい。
そんな気持ちを、自然と抱かせるのだ。
ロードの強さは、誰かから与えられたものではない。何度も走り、失敗し、それでも立ち上がって積み重ねてきたものだ。
その姿を知っているからこそ、彼女たちはロードを羨むのではなく、もう一度走りたいと思った。
気がついた頃には、彼を「男」として意識する者は、ターフの上ではほとんどいなくなっていた。
それでも、ロードの日々は変わらない。
今日もまた、ライツと共にトレーニング場へと向かっていた。
ライツはロードに車椅子の操作を任せ、膝元のタブレットを操作している。画面には、並走トレーニングの相手の名前が並ぶ。
ロードとの並走を希望する生徒が増えたため、ライツが簡単な応募フォームを作ったのだ。
空いている日時に、自分の名前と戦績を入力してもらう。それだけの簡単なものだった。
「今日もまた、実力者揃いだ。」
ライツが画面をスクロールする。
「G3以上での勝利経験がある者が三人もいるよ。」
ロードは小さく頷く。
「楽しみです。」
その声に迷いはなかった。
「……おや、彼女はG1勝利の経験もあるようだ。」
ライツの補足に、ロードは前を向いたまま笑って答える。
「誰が相手だろうと、全力で走るだけです。」
有名なウマ娘だから。
実績のあるウマ娘だから。
強いと評判のウマ娘だから。
そんな理由で走り方を変えることはない。
ロードにとって、並走相手が誰であろうと同じだった。
スタートラインに立ったなら――最後まで全力で走る。
ライツは小さく笑った。
だからこそ、なのだろう。
強者も、そうでない者も。
G1ウマ娘も、未勝利ウマ娘も。
一度ロードと走ったウマ娘たちは、また彼と走りたいと思う。
相手によって態度を変えない。
手を抜かない。
ただ真っ直ぐに、自分の限界へ挑み続ける。
そんなロードの姿が、少しずつトレセン生徒たちを惹きつけていた。
「今日の走りも期待しているよ。」
「少しでも喰らいつけるよう、頑張ります。」
ロードは力強く答えた。
・・・・・
トレーニング場へ到着すると、そこには見慣れた顔があった。
「よう、ルベウス。ライツ博士もこんにちは。」
声をかけてきたのは、スピカのトレーナー、沖野だった。
「こんにちは、沖野トレーナー。」
「やぁ、沖野君。」
二人も挨拶を返す。
「また模擬レースの提案かい?」
「ははっ、今回は違いますよ。」
笑って返しながら、沖野はロードを見る。
(あの頃とは別人だな……。)
スピカのメンバーと模擬レースをし、目を赤く腫らしていた時とは比べものにならない。
身体つきが変わったわけではない。
立ち姿も、表情も、以前と大きく変わってはいない。
それでも――走り始めれば、すぐに分かる。
技術だけではない。
自分の走りに対する理解も、レースに対する考え方も、そして何より精神面も。
あの時、悔しさに打ちのめされていた少年は、今では自分から強い相手を求めるようになっている。
「……沖野トレーナー?」
こちらをじっと見たまま動かない沖野に、ロードが声をかける。
呼ばれた沖野は、ハッとして咳払いをした。
「転入試験のための勉強をしている今のルベウスなら分かると思うが、そろそろとあるG1レースがあるだろう?」
「日本ダービーですね。」
「そう。そこで――」
「『キタサンが出るから、誘いに来た』……ってところですか?」
ロードは僅かに笑みを浮かべる。
沖野は口の中でチュッパチャプスを転がしながら、答えた。
「一言一句当てられちまった。しっかり勉強してるんだな。」
「当然です。」
ロードは迷いなく答えた。
ライツとのトレーニングだけではない。
空いた時間には教科書を開き、レースについても少しずつ学んでいる。
目指している場所がある。
ならば、そのために必要なことを知るのは当然だった。
「今ルベウスが言った通りだ。来週の日曜日、キタサンがダービーに出る。」
「どうだ、一緒に来るか?」
ロードは一度、ライツを見る。
「博士、並走トレーニングの予定は?」
「来週の分のフォームはまだ配信していないが……。」
そこまで言って、ライツはふっと微笑む。
「その日は無しにしておこう。」
「ありがとうございます。」
ロードもまた、小さく笑った。そして、沖野へと向き直る。
「ぜひ、観に行かせてください。」
・・・・・
そうして迎えた、日曜日。
ここ東京レース場には、早くから多くのファンが詰めかけていた。
東京優駿、またの名を日本ダービー。
クラシック三冠、その二冠目を懸けた大舞台とあって、場内は普段とは比べものにならないほどの熱気に包まれている。
その中には、スピカのメンバーたちの姿もあった。
そしてロードもまた、その場に立っていた。
「……すごい人ですね。」
周囲を見渡しながら、ロードが呟く。
「皐月賞も凄かったですけど、こっちも同じくらい……いや、それ以上に。」
「ああ。これが日本ダービーだ。」
沖野が答える。
その言葉を聞き、ロードは静かにターフへ視線を向けた。
これから十八名のウマ娘が、たった一つの玉座を目指して走る。
そして、その中心にいるのはもちろん――。
「ドゥラメンテー!!」
「頑張れー!!」
出走ウマ娘たちはまだ入場していないと言うのに、早くも声援が飛び交う。
クラシック路線の一冠目である皐月賞を制したウマ娘、ドゥラメンテ。彼女の人気は圧倒的だった。
彼女が皐月賞で見せた末脚は、レース場にいた観客たちを魅了した。
最後の直線。
後方にいたドゥラメンテは、外へ持ち出される。
そこからだった。
まるで別の生き物になったかのように、彼女の脚が伸びていく。
先に抜け出していたキタサンとゲンジツスティールを、瞬く間に捉える。
そして、そのまま一気に躱し、突き抜けた。
勝ちタイム、1分58秒2。
圧倒的な末脚。
圧倒的な勝利。
クラシック一冠目を手にしたドゥラメンテは、この世代の頂点に立つ存在として、鮮烈な名乗りを上げた。
そんな彼女が、二冠目を懸けて再びターフに立つ。その相手となるのは、同じ世代を走る十七名のウマ娘たち。
当然、その中には――。
「ねぇ、ルベウス君。」
不意に、隣から声をかけられる。
視線を向けると、テイオーがこちらを見ていた。
「キタちゃん、勝てると思う?」
あまりにも唐突な問いだった。
ロードはすぐに答えない。
再び、広大なターフへ視線を向ける。
皐月賞では、キタサンは三着だった。
決して悪い結果ではない。
しかし、その先にはドゥラメンテがいる。
あの末脚を見せつけられた今、誰もが彼女を最大の有力候補として見るだろう。
「……分かりません。」
少しの間を置いて、ロードは答えた。
「でも。」
ロードは僅かに笑う。
「俺は、勝ってほしいと思っています。」
「……そっか。」
テイオーもまた、ターフの方を見つめる。
その表情は、いつもの明るいものではなかった。
けれど――。
「ボクも。」
短く呟いたその声には、確かな想いが込められていた。
・・・・・
ターフへと続く入場口。
その少し手前で立ち止まったキタサンは、静かに息を吐いた。
吸って、吐いて。
高鳴る胸を落ち着かせるように、何度も繰り返す。
日本ダービー。
この日のために、ずっと走ってきた。
勝ちたい。
その気持ちは、今まで走ってきたどのレースよりも強い。
――その時だった。
横を、一人のウマ娘が通り過ぎていく。
黒を基調とした勝負服。
そして、その身から放たれる圧倒的な存在感。
彼女こそ、皐月賞を制したウマ娘――ドゥラメンテだった。
彼女は足を止めなかった。
その歩く姿に、緊張の色はない。
ただ真っ直ぐに。
当然のように、自分が走るべきターフへ向かっていく。
そして。
彼女が太陽の光に照らされた瞬間。
レース場を揺らすような歓声が湧き上がった。
(さすが……。)
キタサンの頬を、一筋の汗が流れ落ちた。
最後の直線で、後方から一気に躱された瞬間のことは、今も脳裏にこびりついている。
きっと今回も、彼女は後方につけるのだろう。
そして最後に――。
(それでも。)
キタサンは拳を握る。
(負けない。)
(負けたくない。)
二度も。
スピカのみんなの前で、ロードの前で、情けない姿は見せられない。
そう思った瞬間だった。
僅かに、身体へ力が入る。
落ち着いていたはずの胸の鼓動が、再び加速し始めた。
「力、入ってるよ。キタサン。」
「えっ?」
不意に背後から声をかけられ、キタサンは振り返る。
そこには、同じくダービーを走るサトノクラウンが立っていた。
「クラちゃん……。」
「ドゥラメンテのこと、考えてた?」
「うん……。」
隠すことなく、キタサンは頷いた。
「まぁ、皐月賞では完璧にしてやられたからね。」
クラウンは小さく笑う。
その声に、悔しさはあった。
けれど、それ以上に。
「でも、二度目はないよ。」
クラウンの瞳が、真っ直ぐ前を向く。
「今回は、私が勝つ。」
その目には、強い光が宿っていた。
キタサンは一瞬だけ目を丸くする。
そして――。
「勝つのは、あたしだよ。」
自然と、言葉が口からこぼれた。
「『笑顔でまた会おうね』って、約束したから。」
「ふーん。」
クラウンが、どこか楽しそうに口元を緩める。その表情を見て、キタサンはハッとした。
「み、みんなとだよ!」
「まだ何も言ってないよ。」
「うっ……!」
キタサンの顔が、みるみる赤くなっていく。
そんな彼女を見て、クラウンは小さく笑った。
「それじゃあ、行こうか。」
「え?」
「もう、力は抜けたでしょ?」
そう言われて、キタサンは自分の身体に意識を向ける。
先ほどまであった緊張は、不思議なくらい消えていた。
強張っていた肩も。
速くなっていた鼓動も。
いつの間にか、元に戻っている。
キタサンは、隣に立つクラウンを見た。
「こういうの、『敵に塩を送る』って言うんだよ。」
「万全のキタサンに勝たないと、意味ないでしょ?」
それから数秒間。
キタサンとクラウンは、お互いの顔を見つめた。
そして、力無くふっと笑う。
「負けないからね。」
「それはこっちの台詞。」
二人は拳を合わせる。
今日、このレースでは互いに敵同士だ。
勝利を譲るつもりは微塵もない。
けれど。
最高の状態で走りたいと思う相手でもあった。
「行こう、クラちゃん。」
「うん。」
そうして二人は、歓声に包まれるレース場へ足を踏み出した。
・・・・・
歓声に包まれる東京レース場。日本ダービーは、すでに中盤へと差しかかっていた。
先頭を走るのは、リボンピーアン。そしてそのすぐ後ろには、キタサンの姿があった。
「練習通り、前に着けれてるね。」
「ええ。」
テイオーが言うと、マックイーンが静かに頷いた。
「とても安定して走れていますわ。」
「いい感じね。」
「しゃあ!行け、キタサン!」
スズカとゴールドシップも、嬉しそうに声を上げる。スペ、ウオッカ、スカーレットも同様にキタサンに声援を送る。
東京レース場の広いターフ。
十八名のウマ娘たちが、それぞれの思惑を胸に走っている。
その中でも、先頭を行く二人の姿はひときわ目立っていた。
「……すごい。」
ロードは、思わず呟く。
あれほどの速度を出しながら、彼女たちはすでにマイルに近い距離を走っている。
これまでロードも、何度もトレセンのターフを走ってきた。様々なウマ娘と並走し、自分自身も少しずつレースというものを学んできた。
それでも。
実際のレースで走るウマ娘たちは、まるで違って見えた。
隣を走る相手。
背後から迫る気配。
そして、十八人ものウマ娘たちが一斉に駆ける圧倒的な迫力。
ただ速く走るだけではない。
一つの勝利を目指し、それぞれが自分の走りをぶつけ合っている。
自然と胸の鼓動が速くなる。
皐月賞を見た時にも抱いた、熱いもの。
それでも、あの時と違うことが一つだけあった。
それはーー
(俺も必ず、あっち側に……!)
トゥインクルシリーズを目指すと言う、確固たる意思。男だからと迷っていたロードはもういない。
そしてロードは、ターフから目を離さなかった。
その一方で――。
「………。」
沖野だけは、神妙な面持ちでレースを見ていた。
キタサンの走りに問題はない。
足運びも、呼吸も安定している。
予定通り、前の位置を維持できている。
ここまでは、何も問題ない。
だが――。
(残り400mからが、本番だ。)
それはレース前、沖野がキタサンに伝えた言葉だった。
皐月賞よりも400m長い日本ダービー。
キタサンにとってその距離は、未知の世界だ。
どれだけトレーニングを積んでいても。
どれだけ順調に走れていても。
どれだけ脚を残せていたとしても。
残りの400mは、何が起きるかは分からない。
だからこそ沖野は、腕を組んだままターフを見つめていた。
そして――。
キタサンたち先頭集団が、第四コーナーに差し掛かろうとした時。
「………。」
それまで隣で騒いでいた声が、不意に止んだ。
ロードが横を見る。
そこには、先ほどまでとはまるで別人のような表情をしたゴールドシップがいた。
笑みはない。
ふざけた様子もない。
ただ、真っ直ぐにキタサンたちを見つめている。
「……ゴールドシップさん?」
ロードが呼びかけても、彼女はすぐには答えなかった。
しばらくして。
「見とけ、ルベウス。」
低い声が、耳に届く。
「こっからが、日本ダービーだ。」
その言葉と同時に。
オオオオオオオッ!!!
背後の観客席から、これまでに聞いたことがないくらいの歓声が轟いた。
ロードはすぐに視線をキタサンたちへ向ける。
「……来やがった。」
ゴールドシップが呟く。
キタサンたちの後ろ。外を走るウマ娘が一人。
「ドゥラメンテ……!」
東京のターフを、一つの黒が切り裂いた。
・・・・・
(このまま。)
キタサンは、一定のリズムで脚を動かしていた。
前にはリボンピーアン。
その背中を追いながら、自分の位置を保つ。
呼吸はまだ乱れていない。
脚も、動く。
(このまま、前へ。)
後ろに誰がいるかなんて考えない。
今の自分にできることは一つだけ。
とにかく、前へ進むこと。
(負けない。)
(今回は、絶対に。)
ロードが見ている。
みんなも見ている。
だから――。
第四コーナーが近づく。
その瞬間。
レース場の空気が、変わった。
「……っ!」
キタサンの耳が、背後から迫る足音を捉える。
一つではない。
複数のウマ娘たちが、後方から一気に距離を詰めている。
そして。
(……来る。)
分かっていた。
分かっていたはずだった。
皐月賞と同じ。
後ろで力を溜め。
最後に、一気に前へ出る。
あのウマ娘が――。
(あの時と、同じ……。)
キタサンの横を、一つの影が駆け抜けた。
黒い勝負服。
ドゥラメンテ。
「っ……!」
キタサンは、脚に力を込める。
負けない。
まだ、終わっていない。
ここからだ。
(行ける……!)
もう一度。
もう一度、前へ――。
けれど。
(……え?)
脚が、動かない。
動いている。
それでも。
先ほどまでのように、身体が前へ進まない。
(なんで……?)
呼吸が乱れる。
脚が重い。
いつの間にか、身体中に溜まっていた疲労が、一気に押し寄せてくる。
(まだ……。)
キタサンは、必死に脚を動かした。
(まだ、走れる……!)
けれど。
ドゥラメンテの背中は、見る見るうちに遠ざかっていく。
そして。
一人。
また一人。
後方にいたウマ娘たちが、キタサンの横を通り過ぎていった。
「……っ!」
サトノクラウン。
ゲンジツスティール。
他のウマ娘たちも。
次々と。
次々と。
キタサンを、置き去りにしていく。
(待って……。)
前へ伸ばした手が、届くはずもない。
(待ってよ……!)
心の中でそう叫んでも。
誰も待ってはくれない。
レースは止まらない。
キタサンだけを置き去りにして、前へ進んでいく。
(嫌だ……。)
まだ走れる。
まだ、走りたい。
なのに。
前との差は、広がっていくばかりだった。
――そして。
最初で最後の日本ダービーが、終わった。
・・・・・
歓声が、東京レース場を包み込む。
勝者を称える声。
二冠を達成したドゥラメンテの名を呼ぶ声。
その全てが、場内に響き渡っていた。
「………。」
ロードは、何も言わなかった。
ただ。
じっと、ターフを見つめている。
遅れてゴール板を通過したキタサンは、しばらくその場を動かなかった。
そして。
ゆっくりと、ターフの上に手をつく。
「キタちゃん……。」
テイオーが、小さく呟く。
誰も、続けて言葉を発することはできなかった。
俯いたキタサンの顔は、ここからでは見えない。
それでも。
その背中が、いつもよりずっと小さく見えた。
どんな時でも笑っている彼女が。
今はただ一人、広い東京レース場のターフの上で、俯いていた。
「………。」
ロードは、目を逸らさなかった。
目を逸らしてはいけないと思った。
これもまた、レースなのだ。
誰かが勝てば、他のウマ娘は負ける。
努力をしたからといって、必ず報われるわけではない。
それでも、あの場所を目指すと決めた。
ロードは、
普段よりも小さく見えるキタサンの背中を、
その姿を、胸に刻み込んだ。
・・・・・
レースが終わり、そしてウイニングライブも終わった。ファンの人たちは、今日のレースを振り返りながら帰路に着く。
沖野やテイオーたちは、キタサンの控え室へと向かっていった。
当然ながら、ロードはついていかなかった。
トレセン学園の生徒ですらない自分が、関係者用の控え室へ入ることはできない。
だからロードは、一人レース場の外で、スピカのメンバーたちを待っていた。
「………。」
ベンチの背にもたれながら、星空を見上げる。
今日、ロードは初めてウイニングライブを最後まで見た。
前回、皐月賞の時は、レースで受けた衝撃が頭から離れなかった。
ドゥラメンテが見せた走り。
ターフを駆けるウマ娘たち。
そして、自分もあの場所へ行きたいと思った。
あまりにも多くの感情が胸の中を駆け巡り、ウイニングライブを見る余裕などなかった。
だからこそ今回は、最後まで見届けた。
勝者となったドゥラメンテ。
その後ろで、笑顔を浮かべながら踊るウマ娘たち。
キタサンの姿も、確かにそこにあった。
「………。」
けれど。
これといった感想は、何も浮かばなかった。
ライブが悪かったわけではない。むしろ、多くの観客が歓声を上げるほど素晴らしいものだった。
それでも。
ロードの頭に残っていたのは、別の光景だった。
広いターフの上。
ゴールを終えた後、一人で手をつくキタサン。
いつも笑っている彼女の背中が。
あまりにも、小さく見えた。
「………。」
目を閉じても、その姿が消えることはない。
キタサンの敗北は、ロードが思っている以上に衝撃的なものだった。
日本ダービーを制したのは、やはりドゥラメンテ。その末脚は距離が伸びても健在で、皐月賞に続き、クラシック二冠を達成した。
そして、キタサンは――14着に終わった。
前半は、決して悪くなかった。
リボンピーアンのすぐ後ろ。先頭集団という理想的な位置で、自分の走りを続けていた。
けれど、残り400m。
ドゥラメンテを始めとした後方のウマ娘たちが一斉に動き出すと、キタサンの脚は止まった。
いや。
止まったわけではない。
最後まで、彼女は走り続けた。
それでも。
前へ進むための力が、残っていなかった。
皐月賞とは違う。
これは、誰の目にも明らかな敗北だった。
ロードは、キタサンと別れる前のことを思い出す。
『笑顔でまた会おうね!』
そう言って、キタサンはレース場へと向かった。
その時の表情は晴れやかで、瞳の中には確かな光が宿っていた。
そして。
その結果が、これだ。
(……前みたいに、感情を出してたらいいけど。)
そんなことを考える。
皐月賞では、“悔しい”という感情をしっかりと表に出していた。
ドゥラメンテに負けたこと。
自分の力が足りなかったこと。
それらを隠そうとはしなかった。
けれど、今回は違う。
14着という、誰の目にも明らかな敗北。
きっと、悔しいだけでは済まない。
そしてキタサンは、その感情を押し殺すのではないか。
そんな気がしてならなかった。
しばらくして。
建物の入口から、見慣れた姿が現れた。
「あっ、ロードくん!」
こちらに気づいたキタサンが、大きく手を振る。
そして。
笑った。
「お待たせ!」
「………。」
ロードは何も言わず、静かに立ち上がる。
その笑顔を見た瞬間。先ほどまで抱いていた嫌な予感が、確信へと変わった。
明らかに、作っている。
口元は笑っている。
けれど、その目は笑っていなかった。
無理をしていることなど、誰が見ても分かる。
キタサンの後ろから、沖野たちが歩いてくる。
明るい表情をしている者は、誰一人としていなかった。
「………。」
不意に、沖野と目が合う。
彼は何も言わない。
ただ。
僅かに困ったような表情を浮かべた。
――キタサンを頼む。
そう言われたような気がした。
言葉にする必要などなかった。
「いやぁ、ドゥラメンテちゃんはやっぱり強かった!」
キタサンは、明るい声で言った。
「後ろからあんな勢いで来られたら、もう――」
「キタサン。」
ロードが名前を呼ぶ。
「なぁに?」
キタサンは変わらず笑顔のまま。
ロードは小さく息を吐いてから、尋ねた。
「……苦しくないか?」
キタサンの瞳が僅かに揺れる。
しかしキタサンは――
「大丈夫! 完璧に負けちゃったから、一周回って気が楽だよ。」
笑顔。
声も明るい。
「次はもっと強くなって、ドゥラメンテちゃんにも負けないように――」
その場にいた誰も、言葉を挟めなかった。
キタサンだけが気づいていない。
自分の周囲に漂う、重い空気に。
皆がどんな表情をしているのか。
誰も、キタサンの言葉を聞いていないことにも。
ただ。
笑顔を崩さないことだけに、必死になっていた。
「……キタサン。」
再び名前を呼ばれ、キタサンがロードへ視線を向けようとする。
けれど。
その顔を見た瞬間、キタサンは思わず息を呑んだ。
ロードは、じっと彼女を見つめていた。
先ほどまでの柔らかな表情は、もうない。
僅かに眉を寄せ、真っ直ぐにキタサンを見据えている。
「……ロードくん?」
「いつまで、そんな顔をしているつもり?」
「……え?」
瞬間、キタサンの顔から――
ついに、笑顔が消えた。
つづく
途中で真面目なゴルシを描いたのは、ダービーを走ったスピカメンバーの中で、唯一勝てなかったウマ娘だからです。普段バカやってるからこそ、真面目な顔をしたら引き締まる。
そして、この話がアニメ3期の第一話が終わったあたりということに気がつきました。
では、また次回。