それは、西行寺幽々子であった。
雨の降る夜だった。
博麗神社は霧に包まれていた。
ぽつぽつと雨粒が軒を叩き、境内の木々を白く煙らせている。
縁側には、博麗霊夢と、西行寺幽々子が並んで座っていた。
「……で、何しに来たのよ」
霊夢が湯飲みを傾けながら言う。
「散歩よ」
「亡霊の散歩って、しゃれになんないのよね」
幽々子はくすりと笑った。
だが今日は、どこか様子が違った。
いつものような掴みどころのない軽さがない。
ただ静かに、雨を眺めている。
霊夢はその横顔を見ながら、小さく眉をひそめた。
「ねえ霊夢」
「なによ」
「七日前のこと、覚えてる?」
その言葉に、胸の奥が妙にざわつく。
七日前。
何かがあったはずなのに、そこだけ霧がかかったみたいに思い出せない。
「……何よ急に」
「別に。ただ気になっただけ」
幽々子はそれ以上言わなかった。
風が吹く。
境内の木々が揺れ、季節外れの桜が雨の中を舞った。
その時だった。
神社の鳥居に影が浮かんだ。
そこに立っていたのは、霧雨魔理沙だった。
びしょ濡れだった。
黒い帽子から雨水が滴り落ち、肩は小さく震えている。
「……魔理沙?」
返事がない。
俯いたまま、ゆっくりと境内へ入ってくる。
その様子に、霊夢は違和感を覚えた。
いつもの魔理沙なら、もっと騒がしい。
「邪魔するぜ!」くらいは言う。
なのに今日は、一言も喋らない。
「どうしたのよ」
霊夢は立ち上がる。
魔理沙は顔を上げた。
その目を見た瞬間、霊夢の背筋が凍った。
泣いていた。
ひどく、取り返しがつかないものを見る目で。
「……れいむ」
掠れた声。
その響きと同時に、霊夢の頭に激痛が走る。
七日前。
雨。
霧。
妖怪退治の帰り道。
そして。
――血。
自分の身体が崩れ落ちる感覚。
冷たい地面。
遠ざかる意識。
霊夢は息を呑む。
「……あ」
視線が、自分の手に落ちた。
指先が透けている。
湯飲みを持っている感触もない。
いや。
最初から、何も触れていなかった。
「気づいた?」
幽々子が静かに言った。
霊夢は何も答えられない。
魔理沙が、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
けれど。
その足は、霊夢のすぐ前で止まった。
まるで見えていないみたいに。
「なんでだよ……」
魔理沙が震える声で呟く。
「なんで死んじまうんだよ、霊夢……」
霊夢の喉が詰まる。
魔理沙の頬を、涙が伝っていた。
「お前がいないと……誰が私を止めるんだよ」
その言葉が、胸に刺さる。
ああ。
自分は、本当に死んだんだ。
ようやく理解した。
霊夢はゆっくりと魔理沙へ手を伸ばす。
けれど、その指先は届かない。
触れられない。
魔理沙は霊夢を見ることすらできない。
「……泣くほどのことじゃないでしょ」
そう言おうとして。
声にならなかった。
幽々子が静かに立ち上がる。
「行きましょう、霊夢」
霧の向こうを見ながら、彼女は言う。
霊夢はしばらく動かなかった。
泣き続ける魔理沙を、ただ見つめていた。
やがて、小さく笑う。
困ったような。
諦めたような。
いつもの博麗霊夢の笑い方だった。
「……ちゃんと飯食べなさいよ、馬鹿」
もちろん、その声は届かない。
魔理沙は俯いたままだ。
霊夢はゆっくり背を向ける。
白い霧の向こうへ、一歩踏み出した。
その時。
「霊夢」
魔理沙が、不意に顔を上げた。
霊夢は足を止める。
「……?」
魔理沙は涙で顔をぐしゃぐしゃにして、言った。
「……またな」
見えているはずがない。
聞こえるはずもない。
それでも。
霊夢は少しだけ目を見開いて。
そして、笑った。
「ええ」
雨の音の中。
縁側の二つの湯飲みは、もう湯気を出すことはなかった。