八月三十一日。
夏休み最後の日。
空はどこまでも青く、入道雲はまだ夏の名残を誇るように浮かんでいた。
駅前には買い物客や学生たちの姿があり、祭りでもないのにどこか浮ついた空気が流れている。
そんな中、駅前の時計台の下で、黒屋海斗(くろや かいと)は落ち着かない様子で何度もスマートフォンの画面を確認していた。
約束の時間まで、あと二分。
別に遅刻しているわけではない。
むしろ海斗は、約束の三十分前には駅に着いていた。
ただ、落ち着かなかった。
制服ではなく私服姿の自分も、女子と二人きりで出かけること自体も、何より――相手が宮狐燈(みやこ あかり)であることも。
海斗は普段、人と距離を取る癖があった、誰かと深く関わるのが苦手だった。
それは性格の問題だけではない。
幼い頃から、誰かに期待した先にあったのは失望だった。
母親に褒められたくて勉強を頑張った時も。
祖母に認められたくて家事を手伝った時も。
返ってきたのは感謝ではなく、否定だった。
「そのくらい当然でしょ」
「余計なことしないで」
「役立たず」
そんな言葉を何度も聞いてきた。
だから海斗は、いつからか人に期待することをやめていた。
仲良くなっても、心のどこかで線を引く。
近づけば傷つく、そう思っていた。
だが――
「ごめん、待った?」
明るい声が聞こえた。
海斗が顔を上げる。
そこにいたのは、私服姿の宮狐燈だった。
白いワンピースに、薄いカーディガン。
長い髪が夏の風で揺れている。
教室で見る制服姿とは違う、どこか大人っぽい雰囲気。
海斗は一瞬言葉を失った。
「……黒屋君?」
燈が不思議そうに顔を覗き込む。
「あ、いや……その……」
海斗の顔が赤くなる。
燈はくすっと笑った。
「変なの」
海斗は視線を逸らした、心臓がうるさい。
燈はそんな海斗の反応を見て、どこか楽しそうに微笑んだ。
だがその瞳の奥には、一瞬だけ冷たい光が宿ったことに、海斗は気づかなかった。
「最初どこ行く?」
燈が歩きながら聞く。
「え、えっと……宮狐さんが決めてくれていいよ」
「またそうやって人に合わせる」
燈は少し頬を膨らませた。
「今日はデートなんだから、もっと自分の意見言ってよ」
デート。
その言葉だけで海斗の思考が止まる。
「で、でで、デートって……!」
燈は楽しそうに笑った。
「冗談冗談」
そう言いながら、自然に海斗の少し前を歩く。
だが彼女の口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。
海斗が緊張しているのを見て、安心したような。
あるいは――思惑通りに事が進んでいることを確認するような笑み。
二人はゲームセンターへ行き、クレーンゲームをした。
当然、海斗は苦手だった。
三回連続で失敗し、肩を落とす。
燈は隣で笑っている。
「黒屋君、勉強はできるのにこういうの苦手なんだね」
「う、うるさいよ……」
「ふふ、可愛い」
燈がそう言うと、海斗はさらに顔を赤くした。
その後、燈は器用にぬいぐるみを取ってみせた。
狐のぬいぐるみだった、燈はそれを海斗に差し出した。
「はい、プレゼント」
「え……?」
「記念」
海斗は戸惑いながらそれを受け取る。
誰かから物をもらうことなんて、ほとんどなかった。
海斗の胸の奥に、知らない温かさが広がった。
昼にはカフェへ行った。
燈はパンケーキを頼み、海斗はコーヒーだけ。
燈は不満そうに眉をひそめた。
「それだけ?」
「……甘いの苦手だから」
本当は違った。
節約癖が抜けないだけだった。
一人暮らしの海斗にとって、外食は贅沢だ。
だが燈はそれを見抜いていた。
「半分あげる」
「え?」
「いいから」
そう言って、フォークに乗せた一口を海斗の前に差し出す。
海斗の動きが止まった。
「……は、早く」
燈が少し照れたように目を逸らす。
海斗は震える手で受け取った。
甘い。
でもそれ以上に、胸の奥が苦しくなる。
誰かが、自分に何かを与えてくれる。
そんなことがあるなんて。
知らなかった。
その後も、二人は雑貨屋へ行き、本屋へ行き、商店街を歩いた。
燈は自然に海斗との距離を縮めていく。
歩く時の肩の距離。
何気ない会話。
時々見せる笑顔。
どれも完璧だった。
海斗の心の壁は、本人も気づかないうちに少しずつ崩れていった。
燈はそれを確認するように、時々海斗の表情を観察していた。
最初はぎこちなかった視線。
引きつっていた笑顔。
それが、少しずつ自然になっていく。
初めて味わうような穏やかな時間に、ほんの少しだけ心を許し始めていた。
そして夕方。
燈は、何気ない調子で言った。
「ねぇ黒屋君」
「ん?」
「このまま、肝試し行かない?」
燈はいつも通りの笑顔だった。
夕暮れの空はまだ夏の熱を残しているのに、山の中へ一歩踏み込むだけで空気は妙に冷たかった。
黒屋海斗は、懐中電灯を片手に細い山道を歩いていた。
その背中には薄く汗が滲んでいる。
暑さのせいではない。
隣を歩く少女の存在が、海斗の心臓を落ち着かなくさせていた。
宮狐燈。
高校二年になってから同じクラスになった少女で、学校では知らない者はいないほどの人気者だった。
整った顔立ち。誰にでも分け隔てなく接する明るい性格。男女問わず人望があり、教師からの信頼も厚い。
そんな彼女が「このまま、肝試し行かない?」
あの時、海斗は何も言えなかった。
断る理由も浮かばなかった。
むしろ胸の奥では、少しだけ嬉しかった。
中学卒業と同時に祖母の家を出てから、一人暮らしを続けている海斗にとって、誰かから必要とされること自体が珍しかった。
実母からも、母の死後に引き取った祖母からも、愛情というものをほとんど与えられずに育った。
怒鳴り声。冷たい目。殴られる痛み。
否定され続ける日々。
海斗はその中で学んだ。
目立たないこと。逆らわないこと。迷惑をかけないこと。
そうして自分の感情を押し殺して生きてきた。
だから、誰かが自分を必要としてくれるかもしれない――そんな可能性に弱かった。
「……黒屋君?」
燈が振り向く。
「大丈夫? 顔色悪いよ?」
「い、いや……平気」
海斗は慌てて笑った。
燈は小さく笑う。
「ふふ、相変わらず緊張しすぎ」
その笑顔は、学校で見せるものと何一つ変わらなかった。
山の奥へ進むほど木々は深くなり、虫の鳴き声すら遠ざかっていく。
やがて二人は、古びた祠の前に辿り着いた。
鳥居は半分崩れ、苔に覆われている。
燈が立ち止まった。
「……ここが最後みたい」
海斗も足を止める。
息が少し上がっていた。
燈が振り向く。
その頬が、わずかに赤かった。
海斗の心臓が跳ねる。
「あのね、海斗君」
燈が視線を逸らしながら言った。
「こんな時に言うのも変だと思うんだけど……」
海斗は無意識に喉を鳴らした。
だが次の瞬間。
燈は微笑みながら言った。
「……死んでくれない?」
時間が止まった。
理解するより先に、燈の周囲に青白い炎が浮かび上がる。
鬼火
十、二十、三十。
無数の鬼火。
「――え?」
鬼火が一斉に放たれた。
轟音。
海斗は本能だけで横に飛んだ。
さっきまで立っていた地面が焼け焦げている。
「な、なんで……!」
海斗は叫びながら全力で駆け出した。
足がもつれそうになる。
肺が焼けるように苦しい。
頭の中は真っ白だった。
訳が分からない。
でも一つだけ分かった。
殺される。
逃げなければ。
木々の間を必死に走る。
その途中、木の根に足を取られた。
身体が地面へ叩きつけられる。
膝から血が滲んだ。
恐る恐る振り返る。
そこに立っていたのは、もう宮狐燈ではなかった。
巨大な狐。
青白い炎を纏い、黄金の瞳が夜のように冷たい。
その中心に、燈の姿が重なっていた。
「貴方の力は危険なの」
燈は静かに言った。
「悪いけど、ここで死ぬのが世界のためよ」
鬼火が海斗を包み込む。
熱い。
皮膚が焼ける。
呼吸ができない。
苦しい。
痛い。
その瞬間、海斗の意識は闇へ沈んだ。
――そして、その闇の中で。
6つの黄金の瞳が開いた。
アジ・ダハーカ
闇そのもののような巨躯。
三つ首の邪龍。
「……ようやく条件が揃ったか」
低く、世界そのものが震えるような声。
「安心しろ、小僧」
邪龍が嗤った。
「今だけは、俺が生かしてやる」
その瞬間、山全体が揺れた。
翌朝。
海斗が目を覚ました時、そこは自分のアパートのベッドだった。
六畳一間。中古の机。
積み上がった参考書。
カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
夢だったのか、そう思った。
だが昨日ぬいぐるみはある、海斗はきっとデートをした後肝試しをせずにそのまま解散したのだろうと思うことにした。
急いで制服に着替え、学校へ向かった。
教室には久しぶりに会うクラスメイトたちの声が響いていた、いつも通りの日常。
海斗は少しだけ安堵した。
「よぉ海斗!」
元気な声が飛んでくる。
海斗の小学校からの親友、国近一(くにちかはじめ)だった。
短く切った髪、日に焼けた肌。
バスケ部のエースで、誰にでも好かれる学校の人気者。
「相変わらず休み中も本ばっか読んでたんだろ?」
「そ、そんなことないって……」
「嘘つけ!」
一は笑いながら海斗の肩を叩いた。
その時、海斗はふと気づく。
教室に宮狐燈がいない。
「……なぁ、一」
「ん?」
「宮狐さんって、今日休み?」
一はきょとんとした。
「宮狐? 誰それ」
海斗の顔から血の気が引いた。
「え……?」
「何言ってんだお前。そんなやつ、このクラスにいたっけ?」
海斗は震える手でクラス名簿を見る。
そこにも――燈の名前はなかった。
冷や汗が背中を流れる。
ーーーー精神世界ーーーー
「面白いだろう?」
邪龍の笑い声が、海斗の意識の底で響いた。
「歓迎しよう、小僧」
「ここからがお前の――本当の人生だ」
その日から、黒屋海斗の日常は終わった。
最後まで見てくれてありがとうございます。
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