機動戦士ガンダム 宇宙世紀0010 重力より重い住宅ローンに魂を引かれた男 連邦軍の社畜、有給申請を宇宙の塵にされる 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
宇宙世紀0010年、秋。木星往還計画が本格的に動き出したことに伴い、底辺組織であるデブリ課の事務作業は、お上のハンコが必要な書類だけでタワーマンションが建つレベルの膨大な量に膨れ上がっていた。
そんな中、キーボードを「タタタタタン!」と残像が見える速度で叩き、完璧な事務処理能力を見せるクールな事務員、エーデルガルド。彼女は誰ともランチに行かず、定時のベルが鳴った瞬間にシュバッと霧のようにステーションから消え去る私生活ゼロの女性だった。
「エーデルさんって、本当にお家での姿が見えないですよね。気になって連邦の社員データベースを覗いてみたら(※職権乱用)、数年前の履歴書以降の記録が全部白紙なんです」
サハラが純粋な疑問(というかストーカー一歩手前の好奇心)を口にするのに対し、ハチローは「へえ、定時退社できるなんて羨ましいな」と興味なさげに鼻を鳴らすが、チームの修羅場をくぐってきたフィーの視線だけは鋭かった。
「宇宙世紀のネット戸籍なんてさ、金と怪しいコネがあればいくらでもPhotoshopみたいに書き換えられるんだよ。特に、連邦のお偉いさんにとって『ここにいられては不都合な出身地』を持つ人間ならなおさらね……」
ある日、エーデルは「私用です」とだけ書いた有給申請書を残して休暇を取り、月面都市の最下層(=要するに一番家賃が安い日当たりの悪いエリア)にある、かつての難民収容所を無理やり改築したボロアパートへと向かう。
そこには、連邦のナウい英語を全く喋れず、宇宙のパサパサに乾燥したエアコンの空気に適応できずにベッドでゴホゴホと伏している、彼女の「本物の家族」が隠れるように暮らしていた。
そう、彼女の本名は、連邦の公式サーバーには存在しない。彼女は「エーデルガルド(※いかにも仕事ができそうな旧西側ドイツ系っぽい響き)」というそれっぽい偽名を闇市で買い取り、自分の過去のデータを漂白(フォーマット)することで、ようやく連邦の末端組織の安月給の事務職に滑り込んだのだ。
宇宙世紀の地球連邦政府は、この「市民権のマイナンバー格付け」という胸糞悪いシステムで全人類を管理していた。
かつて西暦の時代に、イギリスやアメリカに石油や資源を全部ぶんどられた中東やアフリカ系のルーツを持つ人々は、連邦のAI治安システムから「こいつらは放っておくとテロを起こすかもしれない予備軍」として、常にスマホを盗聴されるレベルの監視対象になる。
宇宙で生き延びるためには、自らのルーツ(故郷の記憶)を完全に消去し、連邦が「こういう真面目で大人しい市民が一番扱いやすいね!」と好む旧西側的なマニュアル人間の仮面を被らなければならない。
エーデルが1円のズレも許さない完璧なエクセルシートを作れるのは、彼女が連邦というシステムに自分を100%最適化させた、絶対にクビにならないための絶望的なサバイバル戦略だったのである。泣けるぜ、エーデルさん!
そんなエーデルの前に、アパートの暗い廊下で「お久しぶり、お嬢さん」とニヤニヤ笑う一人のトレンチコートの男が現れる。
男はかつて彼女の故郷の村を軍事演習でめちゃくちゃに破壊し、連邦軍の地上げ(介入)を先導したブラック民間軍事会社(PMC)の元社員であり、現在は連邦の「戸籍精査官(=要するにお上のネチネチした身辺調査員)」に転職したハキムの親戚みたいな男だった。
男はエーデルの「履歴書詐称」という最大の弱みを握り、彼女をデブリ課の機密データを盗むためのスパイ(内部工作員)としてこき使おうと、精神的な揺さぶりをかけてきたのだ!
「お前の本当の故郷の村はな、最新のGoogleマップの上ではもう『連邦軍のミサイル演習場』として塗りつぶされて存在しない。お前がここで小綺麗なオフィスレディとして生きられるのは、俺たち連邦が『見逃してやってる』からだ。自分が奴隷だってことを忘れるなよ?」
男のねちっこい言葉は、かつて大昔の英米が、インドやアフリカの植民地の現地協力者に対して「俺たちの言うことを聞いて身内を裏切るか、それとも今すぐ全員で飢え死にするか選べ」と迫った、伝統的な脅迫そのものだった。
エーデルはメガネの奥の瞳を完全に無機質な状態にして、表情を一切崩さない。だが、彼女がポケットの中でギュッと握りしめた古いスマホのフォルダには、故郷の砂漠の夜に母親が歌ってくれた古い子守唄のMP3データが、何度消去しろと言われても捨てられずに残っていたのだ。
偶然にも、おつかいの途中でエーデルが変な男に絡まれている現場を目撃したハチローとサハラ。
サハラは「ちょっと何やってるんですか! セクハラですか!?」と割って入ろうとするが、ハチローはその肩をガシッと掴んで全力で止めた。
「……行くな、サハラ。あれは俺たちみたいなフツーのゴミ拾いが首を突っ込んでいい、生ぬるい場所じゃねえ。あそこにはな、宇宙世紀が始まる前の、それこそ西暦の時代から何百年も積み重なった、地球上のドロドロした因縁と恨みが渦巻いてるんだ……」
結局、エーデルは自らの天才的なパソコンスキルと、デブリ課で毎日やっている「お偉いさんが不法投棄した闇データの隠し場所をネットの履歴から逆探知する技術」を応用。逆に男の「会社の経費で裏ビデオを買っていた履歴」という特大の不正を暴き出し、「これ以上私に構うと、奥さんと会社に全データを一斉送信します」の一言で完全に沈黙・バックレさせたのである。事務員強えぇぇぇ!
しかし、彼女の戸籍が100%偽物(詐称)であるという、綱渡りのような事実は何一つ変わらない。
翌日、ステーションに戻ったエーデルは、何事もなかったかのように再び「完璧なサイボーグ事務員」の仮面を被って席についていた。
そんな彼女のデスクの端には、サハラが「お疲れ様です!」とこっそり置いた、月面の温室で採れる数少ない「地球の砂漠に咲く花によく似た、黄色いタンポポみたいな花」が、マグカップに挿して飾られていた。
「エーデルさん、おはようございます! 今日の午前中の領収書チェック、いつも通り爆速で終わらせてくれてマジ助かってます!」
サハラのいつものうるさいくらい明るい声に、エーデルはキーボードを叩く手を一瞬だけ止め、本当に、画面のブルーライトに照らされて1ミリだけ、口角をフッと上げた。
「……別に。私の仕事ですから」
宇宙世紀0010年。連邦という名の巨大な全自動洗濯機は、世界中の人々のカラフルな民族の色彩を「白一色(クリーンな市民)」へと冷酷に洗い流し、均一なロボットへと作り替えていく。だが、その漂白された綺麗で白いシャツの裏側には、どれだけ洗っても決して消えない、故郷の熱い砂の色と、奪われた本当の名前の記憶が、血のように染み付いているのだ。
一年戦争まで、あと69年。
「お上に本当の名前とプライドを奪われた者たち」の長い長い沈黙は、やがて「俺たちのルーツをナメるな! ジオン公国万歳!」という、過激な宇宙ナショナリズムの爆発的な土壌となり、サイド3におけるジオン軍のあの狂信的とも言える団結力を生む一因となっていくのを、この時の連邦の偉い人たちは1ミリも想像していなかった。
エーデルガルドは、再び「カチャカチャカチャ!」と猛烈な勢いでキーボードを叩き始める。
彼女が入力する膨大なデブリのデータは、連邦の偉い奴らの資産を支える砂の一粒に過ぎないが、そのデータの一つ一つに、彼女の「いつかお上のサーバーを全部ハッキングしてやる」という静かな復讐のウイルスが仕込まれていることを、高給取りの官僚たちは知る由もなかったのである。
この「支配層にとって受け入れやすい名前や文化を強要し、元のアイデンティティを捨てさせる」手法は、19世紀から20世紀にかけて英米が行った「同化政策」にその原型がある。米国やカナダ、オーストラリアでは、先住民の子供たちを強制的に寄宿学校へ入れ、母国語を禁じ、英語名を与えて「白人社会の末端」として再教育した。これは肉体的な殺戮以上に残酷な「文化的ジェノサイド」であった。