アストレア家の長女   作:slo-pe

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剣聖の家系

 

 

 王都での最後の朝を迎えて、フェルトはアストレア領へ向かう準備を終えていた。

 

「フェルト様、どうかお体にお気をつけて」

「婆ちゃん、爺ちゃん、世話になったな。二人こそ、元気にしててくれよ」

 

 二ヶ月余り世話になり続けた二人、爺やと婆やとは王都でお別れだ。涙ぐむ婆やと、無言で一礼する爺やに見送られ、フェルトも泣きそうな気持ちをグッと我慢する。

 

「本邸には私共の孫娘がおります。よくお仕えするよう手紙で伝えてありますので、どうぞかわいがってやってください」

「二人の孫か、そりゃ会うのが楽しみだな。……うん、ありがとーよ」

 

 この二ヶ月間、厳しく辛い貴族教育に耐えられたのは、二人の存在が大きい。だから、感謝は本物だ。

 また会いたいと、そんな風に思えていることも。

 

「おいおっさん」

「なんだじゃじゃ馬」

 

 同じく見送りに来たハインケルには、フェルト本来の荒い口調で声を掛ける。

 

「アンタも元気にしてろよ。アリーゼがいないからって、不摂生したりとかするんじゃねーぞ」

「はっ、お前、この屋敷の飯は誰が作ってると思ってんだ。爺婆の飯で不摂生になるわけねえだろ」

「清々しいくらいの他力本願だな……まあいーや、じゃあな」

「おう、ほどほどにやれよ」

 

 お互い軽口を叩きあって、フェルトは竜車のもとに向かう。

 

「やべえ、やべえよ、なんだこの竜車、当たり前だけど貴族すげえ」

「そんなビビるほどのもんじゃねえよ! それより、これ夢じゃねえか確かめてくれ」

「オイラに任せろ! ぐあああ! 痛ぇ! 焼けるように抓った頬が痛ぇーっ!」

 

 トン・チン・カンの三馬鹿は、そんな馬鹿丸出しの態度で門出に笑いを添えてくれた。

 

「お前ら、格好はまともになったんだから、少しは言動もまともにしろよな」

「うっせえ! 逆にテメエはなんでそんなに落ち着いてんだよ!」

 

 フェルトが呆れを露わに言うと、ラチンスが噛み付いてきた。

 彼はもちろん、他の馬鹿二人も、貧民街で身に着けていたボロから、簡素だが質のいいものに服装が変わっていた。髪や髭などのその他容姿も、貧民街出身とは思えないくらいには整えられている。

 昨日、フェルトとアリーゼが出掛けている間、爺や・婆やにより、アストレアの家紋の入った竜車に乗る、つまりアストレアの名を背負うに恥じないよう磨かれた結果だ。

 

「王選に行ってたときに、もっと成り金なやべー竜車があったからな。それを見た後だとむしろ落ち着くわ」

 

 あの竜車は、豪華絢爛の一言に尽きた。

 精緻な彫刻がなされていたり、金箔が施されていたり、車輪部分にも宝石がはめ込まれていたり、竜車を引く地竜にも強すぎる自己顕示欲が見えた。まさに贅を無駄に尽くし切って、飾り立てられた竜車だった。 

 フェルトはそれが誰の物かは知らないが、集まった候補者の言動や服装から、おそらくロズワールかプリシラの趣味だろうと想像していた。

 

 そんな一幕を挟みつつ、フェルトは二つあるうち片方の竜車に乗り込む。

 

 一つは、アリーゼや三馬鹿を乗せ、彼女の護衛が御者を務める竜車。

 もう一つが、ロム爺を乗せ、ラインハルトが御者を務める竜車。

 フェルトが乗り込んだのは後者だ。

 

「ではラインハルト様、参りましょう」

「ああ、行こうか」

 

 二人の御者が頷き合い、手綱に手を付けた。

 

 

 

 

 都合二日間竜車を走らせ、フェルトはアストレア本邸に到着した。

 小ぢんまりとした、けれど新しいとはっきり分かる屋敷。それに反して広大な面積を誇る庭は、咲き誇る花々に彩られている。

 

「フェルト様、長旅お疲れ様でした」

「アリーゼ、てめえ……」

 

 だが、そんな屋敷に到着したフェルトは、先に到着し、彼女を出迎えたアリーゼを怨念の籠もった瞳で睨みつけた。

 

「どうしました、フェルト様」

 

 揺るがない微笑みを称えたアリーゼに、フェルトの額に青筋が浮かぶ。

 

 怒りの理由は、ここに来るまでの道中、何度も竜車が停められたことに由来する。

 

『──おお、若様! お戻りになられていたんですか!』

『わあ、お久しぶりです、若様! お、お会いできて嬉しいです。きゃっ』

『ラインハルトさまー! また今度、歌を聴かせてください。約束ですよ!』

 

 と、そんな歓声のたびに竜車を止め、人々と交流する『剣聖』がいたからだ。

 そうした振る舞いが話題を呼んで、次から次へと人が竜車に集まってくる。『剣聖』は彼らを拒むことなく、都度停車して笑顔で応対する。

 そんな調子で頻繁に停車していては、竜車を引く地竜の『風除けの加護』の再展開も間に合わない。領地に入って以来、すっかり揺れとも風ともお友達だった。

 

「てめえ、こうなる事が分かってて、わざとアタシとラインハルトを同乗させたな?」

「ええ。アストレア領のありのままの姿を、フェルト様に知っていただこうと思いまして」

「ありのまま?」

「はい。フェルト様は、書面で理解されるよりも実際に足を下ろして体感する方を好まれるようですので……それに、ラインハルトが領民に愛されている事も分かっていただけたかと」

「……愛されてるねえ」

「少々、愛され過ぎていますけれど」

 

 アリーゼは苦笑した。

 

「つーか、それならアリーゼの方にも人は集まるだろ。なんでそっちだけ早く着いてんだよ」

「私も領主代理として、悪くは思われていないはずですが……頻繁に領地を回っていますから、物珍しさで言えばラインハルトの方がずっと上ですよ」

「……つまり、ラインハルトを広告塔にして、アタシの宣伝をしたっつーことか」

「ええ。ここは王都から離れた田舎ですから、王選の情報も入ってこないんです。ただその分、領内の情報は恐ろしい速度で回りますが」

「それは嫌んなるくらいに思い知らされたぜ」

 

 口では文句を垂れているが、フェルトも領民たちとの交流は嫌とは思ってはいない。ラインハルト越しではあるが、敬意を向けられるのも悪い気はしなかった。

 ただ、それを認めるのは、アリーゼの掌の上で踊らされていたと認めるようで。

 

「次は前以て言えよ」

 

 フェルトはそう一言残して、アストレア邸に足を踏み入れた。

 

 

◇◇◇

 

 

 屋敷内に入ったフェルトは、爺や・婆やの孫、フラムとグラシスの双子を紹介され、その愉快さに笑った。

 

 そしてもう二人の住人、『剣聖』と『剣鬼』。

 アリーゼたちの祖父母を見たフェルトは、開いた口が塞がらなかった。

 

「初めまして、フェルト様。アリーゼたちの祖母、テレシア・ヴァン・アストレアです。こちらは私の夫の、ヴィルヘルム・ヴァン・アストレア」

「フェルト様、ようこそおいでくださいました」

「っす……よろしくお願いします……」

 

 腑抜けた挨拶を返しながら、フェルトは目の前の老女──いや、老女なはずの美女を見つめる。

 先代『剣聖』テレシア・ヴァン・アストレア。その美しいかんばせには、薄く笑い皺があるのみ。アストレア特有の燃えるような赤髪は、白髪の一本すら見当たらない。

 その年齢は既に60を超えているはずだが、40、いや30代でも通用しそうな美貌を保っていた。

 

 しかもそれが、無理に若作りした結果ではない。歳月を重ねた大人の余裕と気品を纏いながら、それでもなお若い。

 意味が分からなかった。

 

 対して、その隣に立つ『剣鬼』ヴィルヘルム・ヴァン・アストレアは年相応だった。

 真っ白に染まった髪。深く刻まれた皺。だが、背筋は真っ直ぐ伸び、その身から漂う圧迫感は、貧民街のチンピラなどを遥かに凌駕する。

 丁寧な物腰でありながら、思わず背筋を正される気配を放つ老紳士。こちらは別の意味で恐ろしい。

 

「お祖父様、お祖母様、ただいま戻りました。フェルト様も長旅でお疲れでしょうから、夕飯の際にまたお話をしましょうか」

 

 そう言って場を仕切ったアリーゼに言われるがまま、フェルトは自室となる部屋に向かったのだった。

 

 

 

 

「なんだあれ、アリーゼとラインハルトの祖母ちゃんなんだよな? 母親じゃなくて?」

「ええ、信じられないかもしれませんが、私たちのお祖母様ですよ」

 

 案内された自室にて、フェルトはアリーゼにこう漏らした。

 

「アストレア家特有の赤髪は、基本的に死ぬまで衰えることはありません。私たちの曽祖父、先々代当主のベルトール・アストレアも、私が生まれて数日後に亡くなるまで、髪の衰えはもちろん、白髪の一本も無かったそうですよ」

 

 人によれば全てを投げ売ってでも欲しがるであろう性質を、アストレアの家系は生まれたときから約束されているというのだ。

『剣聖の加護』とは別に、最も優れた家系とも言えるだろう。

 

「ただ、あの美貌はお祖母様本人の資質ですね。アストレアは関係ないかと」

「そりゃそうだ」

 

 一族が全員テレシア並みの美貌を誇るなら、もっと国の中枢にアストレア家の血が混ざっているだろう。むしろアストレア家を巡って帝国あたりと戦争が起きていたかもしれない。

 

「ん?」

 

 そんな物騒な考えから思考を逸らそうとして、フェルトは首を傾げた。

 ちらりとアリーゼを見やる。その鮮やかな金髪と、一筋だけ混じった白金色の束を。そして、すぐに目を逸らした。

 

 その視線だけで十分だったのだろう、アリーゼが苦笑した。

 

「私も養子などではなく、正真正銘お父様とお母様の娘ですよ」

「そうなのか?」

「ええ」

 

 気まずそうに訊ねてきたフェルトに、アリーゼは穏やかに笑みを見せる。

 

「ただ、記録に残るアストレアの直系の中で、赤髪でないのは私だけでして」

「……つーことは、周りから色々言われたりもしたんだろ?」

「多少はありましたが、お祖父様やお祖母様、お父様、そしてお母様にも。温かく育てていただきましたから、特に引き摺ったりはしていませんよ」

「……なら、いーや」

 

 フェルトにはアリーゼの言葉の真偽は見抜けないし、その必要もなかった。

 本当ならこれ以上ツッコむのは野暮だし、嘘であるならそれが一番だ。フェルトは早々に話題を移した。

 

「んで、アタシは今日休みでいいんだよな?」

「ええ。もうお昼は過ぎていますし、夕飯までご自由にしてください。外に出るのも構いませんが、護衛を付けること、明日領地の案内をする予定ですのでそれもご了承ください」

「わぁーったよ。んじゃ、夕飯まで寝かせてもらうわ。ラインハルトの所為で竜車の乗り心地が最悪だったんだ」

 

 フェルトはそう言うと、テキパキと着替えを済ませてベッドに身体を預ける。揺れる竜車で痛んだ心と身体を労る心地よさは、王都の屋敷の物に劣らぬ一級品だと分かる。

 

「では時間になりましたら、フラムとグラシスが呼びに来ますので」

「おー」

 

 部屋をあとにするアリーゼを見送る。

 

「……もう暫くは遠出は勘弁だな」

 

 フェルトはぽつりと呟いて、ゆっくりと目を閉じる。長旅の疲労は想像以上だったらしく、その意識はすぐに眠りへ沈んでいった。

 

 ──そして翌朝。

 

 クルシュ・カルステンからの緊急に遣わされた使者が、アストレア邸の門を叩いた。

 

 

◇◇◇

 

 

 ──人生というものは、配られたカードで勝負するしかない。

 

 それが生まれであれ、容姿であれ、才能であれ、人徳であれ、培った技術であれ、全ての意味はひっくるめて同じだ。

 そのいずれも自分には欠けていると、ナツキ・スバルははっきり自覚している。

 何かの間違いでレムだけはスバルを全肯定してくれているが、彼女の肯定するナツキ・スバルの理想像に、自分が遠く及ばないことは百も承知だ。

 理想の中にいるナツキ・スバルと比較して、この場にいるスバルの手持ちのカードの枚数は少なく、その質も見劣りするものばかり──。

 

 だが、一度勝負の場面に立てば、そんな泣き言は誰も聞いてなどくれない。

 誰しも、配られたカードで勝負に挑むしかないのだ。あとはカードの切り方と、タイミングと、ハッタリのかまし方があるだけだ。

 

 場所は王都貴族街、カルステン公爵別邸の応接間。

 

 会談の参加者はスバルを除き5名。

 屋敷の主であるクルシュ・カルステンと、彼女の一の騎士であるフェリス。

 クルシュと同じく王選候補、ホーシン商会の会長であるアナスタシア・ホーシン。さらにスバル側のアドバイザーとして、王都でも有数の実業家であるラッセル・フェロー。

 そして、勇気を奮い立たせるスバルの袖に触れて、際限ない力を与えてくれるレムだけだ。

 

 都合6名が顔を合わせる会談の目的であり、焦点はエミリア陣営とクルシュ陣営の対等な同盟。

 魔女教の脅威に対抗するため、他陣営の協力を要するエミリア陣営に対し、クルシュ陣営は慎重な姿勢で待ちに徹する。

 

「改めて言う。エミリアとクルシュの同盟に際して、エミリア陣営から差し出せるのはエリオール大森林の魔鉱石採掘権の割譲と、白鯨出現の時間と場所の情報。つまり、長いこと世界を脅かしてきた魔獣討伐──その栄誉だ!」

 

 その均衡を崩す切り札。『白鯨』の出没場所とその時刻を、スバルは叩きつけた。

 

「白鯨を、討伐しよう。──ひと狩りいこうぜ」

 

 幾度となく自分と他人の命を支払い続けて得た情報と、それによる自身の推論が正しいことを信じて。

 スバルは右手を前に差し出し、クルシュに求める。この手を取り、スバルが見てきた未来の価値を証明し、壁を取り払うことを。

 

「……いくらか疑問の余地はあるが、こちらの思惑を見抜いたのは見事だった」

 

 そして。

 

「疑問はある。疑念もある。腑に落ちない点も多く、即座に頷くのは難しい。だが、この状況を作った卿の意気と、この目を信じることにしよう」

 

 スバルの差し出していた手が、クルシュの白く細い指と重なった。

 

 ──交渉が、成立した。

 

 

 

 

「して。卿らの話を聞くと、かなり時間の猶予が限られているようだが?」

「ウチも肝心なとこは聞いてないよ。たぁだ、話の進め方がそんな感じやったから。実際のとこ、結構切羽詰まってるのと違う?」

 

 クルシュとアナスタシアの両者に見つめられて、スバルは乾いた唇を湿らせる。

 同盟は締結、もはや情報を隠し立てする必要もない。

 

「──ああ、そうだ。『ミーティア』によると、白鯨が出るのは今から約三十時間後。場所は……フリューゲルの大樹、その周辺だ」

「三十時間……!」

「フリューゲルの大樹──」

 

 時間の猶予のなさにクルシュが歯噛みし、アナスタシアがその地名に首をひねる。

 そう、あとは時間との勝負なのだ。

 

「三十時間以内にリーファウス平原に討伐隊を展開し、出現した直後の白鯨を総攻撃にて仕留めなくてはならない。そのために……」

 

 素早く状況を呑み込んだクルシュが振り返ると、主君に頷くのはフェリスだ。

 

「カルステン領に軍と義勇兵を派遣するよう要請し、急いでアストレア領にも使者を出します。カルステン領はもちろん、アストレア家の方も、地竜を潰す気で走らせれば、往復と交渉、現地の移動までぎりぎり間に合います」

「頼んだ」

 

 いつもの砕けた喋り方を辞めたフェリスに、クルシュは短く頷いた。フェリスが足早に部屋を後にしてから、スバルがクルシュに訊ねる。

 

「ラインハルトを呼ぶのか?」

 

 剣聖──それは異世界に召喚されたスバルが目にした、最強の人物に与えられていた称号。スバルにとっては並び立つもののない『強さ』の象徴だ。

 今回の白鯨討伐において、王国最強の戦力を呼べるのなら、その勝率はぐっと上がる。

 

「そうだ。元々、王選開始前から内々に話を持ち掛けてはいた。相手は400年人類を苦しめた白鯨、ルグニカ王国の最高戦力でも決して過剰ではないだろう」

 

 クルシュは喜色を浮かべるスバルの問いを肯定し、けれど先走りを窘めるように続ける。

 

「ただ、準備不足は否めない。白鯨は神出鬼没、その討伐は王選三年間のどこかで果たすつもりでいた。我が領軍や、私が声を掛けた白鯨に縁のある(つわもの)たち、彼らにはカルステン領付近の警戒と情報収集に努めてもらっている。人間は間に合うとしても、備えてある物資全てを運ぶのは不可能だ」

「確かに、1日ちょいで人も物もってなると厳しいか……ただまあ、そこはアナスタシアさんとラッセルさんが何とかしてくれるでしょ?」

 

 クルシュの説明を受け、スバルは商人たちへパスを出す。

 

「すでに組合には動くよう呼びかけ、準備を進めております。明日の昼過ぎまでには、王都中の商人から必要なものを掻き集めてみせましょう」

「ホーシン商会も同じく、やね。組合に所属してない、隙間狙いの商人連中との商いは任せてもらおか。その他にも、色々と期待しててええよ」

 

 ラッセルの言葉を引き継ぎ、アナスタシアも実に力強い返事をくれる。

 それからアナスタシアは、腕を組んで感心した顔のクルシュへと笑顔を向けた。

 

「商機を見逃さんのが商人の鉄則、これがウチがここにきた理由やよ。それにそれに、物もそうやけど売るならやっぱり恩が一番! 形ないし、損ないし、在庫にならんし──何より、値札が付いてへんからね」

「今は味方だからいいけど、改めて聞くとマジおっかねぇな、この商売人!」

 

 頬を染めるアナスタシアは可憐だが、その根底にあるのが守銭奴根性なのだから空恐ろしい。恩にいくらの値段を付けさせられるかわかったものではない。

 上機嫌なアナスタシアを横目に、クルシュが納得した顔で頷いた。

 

「交渉以前に道は整えていた、か。なるほど。この場面において、先見と覚悟が足りていなかったのは私の方というわけだ。感服したぞ、ナツキ・スバル」

「予習復習がうまく嵌まったってだけだよ。ぶっちゃけ心底ホッとしてるぜ、俺」

 

 事前にこれだけ策謀を巡らせて、それでも交渉の成立は紙一重の綱渡りだ。

 

「なんとか、王都に残った面目は保てただろ、レム」

「──はい。さすが、スバルくんは素敵です」

 

 繋いだままの手を持ち上げ、この交渉の影の功労者であるレムと達成感を分かち合う。

 

 ──きっと、この交渉の結実を誰より喜んでくれているのはレムだろう。

 

 元々、この交渉はレムに任されていた役目だ。課せられた使命をスバルにも打ち明けられず、日々のクルシュとの話し合いに精神を削られていったのは想像に容易い。

 腐り続けるスバルと、エミリア陣営の今後──その重さに苦しんでいたはずだ。

 それでも支え続けてくれた彼女の想いに、少しは報いることができただろうか。

 それができていれば、今はそれだけがスバルには嬉しかった。

 

「時にナツキ・スバル、私は先ほど『話を持ち掛けてはいた』と言ったな」

「ん? ああ、そうだけど…………は?」

 

 喜びに浸っていたところに水を差されたスバルだが、暫しの思考の末クルシュの意図を察した。

 

「……断られてるのか?」

「そうだ。白鯨は神出鬼没、そんなもののためにラインハルトは貸し出せない、とな」

「……なら、俺の情報があれば、受け入れてはもらえそうか?」

「どうだろうな」

 

 希望的観測を口にしたスバルに、クルシュは薄く笑った。

 

「ナツキ・スバル、卿は私との交渉において、先見と覚悟を示した──だからこそ忠告しておこう。交渉の場において、アリーゼは加護に愛された私と同等以上に厄介だぞ」

「アリーゼ?」

「アストレア家の実質的な当主であり、当代『剣聖』ラインハルトの姉だ」

 

 その名がクルシュの口から出た瞬間、後ろで聞いていたアナスタシアが「ふふっ」と喉を鳴らした。

 スバルがそちらに目を向けるが、彼女はただ悪戯っぽく微笑むだけ。追及は諦めて、そのアリーゼという人物に思考を向ける。

 

 アストレア家、『剣聖』の家系の実質的な当主。

 当代『剣聖』を、ラインハルトを弟とする女傑。

 

「アリーゼ・ヴァン・アストレア……」

 

 スバルはそう口にして、会ったこともないその人に、その響きにしっくりくるものを感じてしまう。

 

「アリーゼ・アストレアだ」

「え?」

「ヴァンという剣名は、アストレア家において剣で功績を残した者に贈られる。アリーゼはそれを賜っていない。故にアリーゼ・アストレアだ」

 

 スバルはアリーゼという女性を知らない、ヴァンという名の重みも分からない。だが、剣での功績のない、『剣聖』ではないという事実が、彼に楽観を与えていた。

 

「一つ、考えを正そう」

 

 そんな浅はかなスバルを非難するように、指を立てたクルシュが視線でこちらを射抜く。

 

「確かにアリーゼは、アストレア家に受け継がれる燃えるような赤い髪も、卓越した剣の腕も、持ち得ていない。アストレア家としては異端の鮮やかな金髪であり、剣の腕なら私の方が遥かに上だ。治癒魔法は使えるらしいが、それもフェリスには遠く及ばない」

 

 だが、とクルシュの鋭い眼光がスバルを射抜いた。

 

「それでもアリーゼは実質的な当主として、アストレアの歴史の中で屈指の名君とされている。『剣聖』という個を輩出するだけの家系から、『剣』を育み王国に多大な貢献をする家へと押し上げた」

 

 クルシュはどこか誇らしげに述べると、愉快そうに口元を緩めた。

 

「今一度忠告しておこう、ナツキ・スバル。アストレア家に、アリーゼに首を振らせるのは、此度の交渉より困難かもしれないぞ」

 

 

 

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