白鯨討伐までのタイムリミット、16時間。
場所は王都貴族街、カルステン公爵別邸の大ホール。
「──400年だ」
集った戦士たちの前でその言葉が始まりを告げた。
重々しい声音と、張り詰めた空気。伸ばした背筋に痛みが走るような鋭い感覚の中、この場に集まる全員からの注視を浴びるクルシュが、堂々と胸を張りながら真っ直ぐに立っている。
カルステン家の家紋『牙を剥く獅子』の刻印が刻まれた宝剣を床に立てて、柄尻に手を置いたクルシュがゆるりと全員の顔を見渡し、
「世界史に残る最悪の災厄、『嫉妬の魔女』が世界を脅かした時代から400年。その魔女の手で生み出された白鯨が世界を狩り場とし、我が物顔で弱者を蹂躙しながら跋扈するようになって、それだけの月日が過ぎた」
かつて世界の半分を滅ぼし、いまだ恐怖の代名詞として語り継がれる『嫉妬の魔女』。
その魔女の僕にして、主を失った今も自由を謳歌し続ける霧の魔獣。各国で多くの犠牲を生み、数多の戦意を呑み下した怪物。
「白鯨により、奪われた命は数え切れない。その霧の性質の悪辣さも相まって、犠牲者の正確な数は誰にもわからないというべきだろう。400年の時間を経て、銘の刻まれた墓碑と、銘すら残すことのできない墓碑の数は増えるばかりだ」
クルシュの言葉に下を向き、歯を食い縛って嗚咽を堪える老兵がいる。握りしめた拳に爪を突き立て、血を滴らせる戦士がいる。
彼らの無念が、積み上げられてきた屍の数だけの怨念が、澱んだ闇となって大広間の空気を取り巻き始めている。
だが──、
「だが、その無為の日々は今日をもって終わる」
「────」
「クルシュ・カルステン、アナスタシア・ホーシン、エミリア、フェルト。4人の王選候補者を筆頭に、ルグニカ王国が誇る文武の精鋭たちが、ここに集った──我らが終わらせる。白鯨を討ち、数多の悲しみを終わらせよう」
「──ッ!」
「悲しみにすら辿り着けなかった悲しみに、正しく涙の機会を与えよう。すでに主を失った身で、なおも終わらぬ命令に従う哀れな魔獣を終わらせよう」
胸が熱くなる。
無言でいる誰もが、スバルと同じ熱を共有しているのが伝わってくる。
下を向いていた老兵が、拳を固めていた戦士が、今はその目を見開いて、正面に立つクルシュを見つめている。
それらの視線の熱を受け、クルシュは手を前に突き出し、声を大にする。
「出陣する! ──場所はリーファウス街道、フリューゲルの大樹!」
「──おう!!」
応じる声が重なり、地を踏み鳴らす轟音が地面を揺るがした錯覚を生む。
噴き上がる戦意の熱に浮かされて、スバルも気付けば叫んでいた。
その中で一際強く、高く、クルシュが抜き放った宝剣を空に向けて掲げ、
「今宵、我らの手で──白鯨を、討つ!!」
白鯨攻略戦──異世界召喚されて以来、最大の作戦が今、始まる。
◆
クルシュ・カルステン公爵を筆頭に、今回の『白鯨討伐』の遠征は行われる。
この遠征のために編成され、クルシュの指揮下にあるカルステン領軍と義勇兵。15名ずつ15の小隊に分かれ、総数は225名。各小隊の隊長を大広間での演説に参列していた老兵たちがそれぞれ請け負っている。
決戦の地であるフリューゲルの大樹には、ラッセルの指示で先行した
さらにはアナスタシアより貸し出された、リカード率いる獣人傭兵団『鉄の牙』の一団が30名。こちらは全体をリカードが仕切り、その下に副団長2人を据えている形だ。
「んで、アタシたちはこうしてのんびりしてるってわけか」
王都を出発した討伐隊を見送って、フェルトはアストレア邸にいた。暫く会えないと思っていた爺や・婆やとは3日ぶりの再会であった。
「悔しいのは分かるけど、動きがあるまで待つしかないんよ」
対面のソファではんなりと笑うのはアナスタシアだ。彼女は夜通し武具や道具の確保に奔走し、表情には疲労が滲んでいるが、婆やお手製のお菓子を摘むと少しだけそれが緩んでいる。
「そうですね。フェルト様だけでなく、私もアナも、戦闘能力はないですから。場を整え、兵を送ってしまえば、後は吉報が届くのを待つしかできません」
「ウチも慣れとる言うたら慣れとるけど、歯痒い気持ちはいつだって無くならんよ」
アリーゼとアナスタシアはそう言って、落ち着かないフェルトを宥める。
「それはそうだけどよ……」
フェルトは口を尖らせながら、丁寧に菓子を口へ運ぶ。意識は別のことに向いていても、ほぼ無意識に作法を守ることができている。
アリーゼはそれを喜ばしく思う一方で、彼女にさらなる重荷を背負わせてしまうことにそっと目を閉じた。
「アリーゼ? どないしたん?」
アナスタシアがそれに気付いた。フェルトも釣られてアリーゼを見る。
「少し、心の準備をしていました」
首を傾げる2人を余所に、アリーゼは身体を斜めにずらし、隣に座るフェルトを見据える。
フェルトも、アナスタシアも、自然と背筋が伸びる。
「フェルト様」
「…おう」
「此度の白鯨討伐。ナツキ・スバルさんの情報が正しく、クルシュたちの作戦が完全に成功し、ラインハルトが『剣聖』の名に恥じぬ戦いをしたとしても、それでも犠牲は出るでしょう」
「……だろーな」
「そして貴女は先ほど、犠牲が出てもそれはラインハルトの責任ではないと仰いました」
「ああ」
フェルトは重く頷く。それを受けて、アリーゼは「ですが」と続けた。
「今日の日の犠牲で、それが重く語られることがあるとすれば、クルシュか、フェリスか、ラインハルトが犠牲になったときのみです。その他の犠牲は数として処理されます」
「気に食わねえ言い方だな」
「私も好きではありません。ですが、歴史も、政治も、人の記憶も、そういう形でしか悲劇を扱えない」
アリーゼはそっと息を吐くと、また話を再開した。
「カルステン領軍に3名、鉄の牙に4名、アストレアの養成所出身の者がいます。今回の討伐にも計4名が派遣されているそうです」
「……それでも、アリーゼはそいつらを数として見るのか」
「ええ。私は彼らの人柄も、好物も、家族構成も、語った夢も知っています。それでもなお、彼らを数として扱わなければならない。それが上に立つ者の責務です」
「……そーかよ」
フェルトの声は低かった。怒りとも、戸惑いともつかない感情が滲んでいる。
フェルトはアリーゼから視線を逸らし、アナスタシアを見た。
「ウチも同じやね。魔物や野盗、対立しとる商会からの刺客、どうしたって犠牲は出る。けど、傭兵を持つ者としては『よく守ってくれた』言うて、死んだもんを弔い、生き残ったもんを労わなあかん」
「……慣れるのか?」
「こればっかりは、慣れないよ。いや、少しは慣れたんやろけど……それでも失うことに慣れて、平気になったりはせん」
「そこで平気になるまで慣れるようであれば、本当に終わりです。当人の善性も、その下に就く兵たちも。兵をただの数字と見て使い潰し、いつか破綻します」
アナスタシアの吐露に、アリーゼが別の視点から補足した。
フェルトがアリーゼに向き直る。
「騎士、衛兵、傭兵。呼び方は様々あれど、武器を持つ者たちの営みは、これまで死んだ者と、これから死ぬ者の上に成り立っています。私たちは彼らを知り、敬意を持ち、そして危険を背負わせる」
「……」
「今回の白鯨討伐でもそうです。私たちの命令で、戦って、死んだ。その犠牲を受け止めた上で、勝ったと、400年続いた厄災を終わらせたと。そう言って声を張り、彼らを讃えることが、私たちが負う義務です」
フェルトは何も言わなかった。ただ、小さく握りしめた拳が、焼き菓子の甘い匂いの中で微かに震えていた。
貧民街にいた頃にも、人の生き死にを見たことはある。けれどそれは皆、自業自得であり自己責任。奪う側と奪われる側、そういう構図だった。
だが、今回は違う。他者に命を賭けさせ、その死を背負い、それでも前へ進まなければならない。
以前ロム爺に教えられ、今再びアリーゼとアナスタシアから告げられた『王』という存在の、ひどく歪んだ本質。
自身が放った『アタシの責任』という言葉の重みを、フェルトは静かに噛み締めていた。
◇◇◇
──定刻が迫り、大樹の周囲には戦場独特の緊迫感が張り詰めつつあった。
交代で食事と仮眠を取り、戦域に集った討伐隊のコンディションは万全だ。騎兵に従う地竜とライガーも、今か今かと鼻息を荒くして号令を待っている。
息を殺し、心を落ち着けて、全員でその時を待ち続ける。
リーファウス街道の夜空、風の強い今宵は雲の流れる動きが速い。
月光が雲に遮られるたび、白鯨の巨体が空を泳いでいるのではと視線を上げる者が後を絶たない。それだけ、警戒心が皆の心を支配しているのだ。
「定刻まで、あとわずかだな」
静かに呟き、クルシュは横に立つフェリスが小さく頷くのを目端に捉える。
長年クルシュに仕え、常に軽妙さを失わないのが持ち味のフェリスも、今ばかりは普段の諧謔を口にする余裕が一切ない。
張り詰めた緊張に呑まれている、のではない。
フェリスは自分の役割──己がこの討伐隊における、一種の生命線であることを理解して、その役割に徹しようと心に決めているのだ。
事実、フェリスの活躍次第で、この戦いにおける最終的な勝者の数は変わるだろう。
クルシュは自分の陣営の勝利を信じている。
だが、犠牲なしで白鯨を討てると考えるほど自惚れてもいない。しかし、その必要な犠牲の数を減らすことはできると、そう考える程度には自信を持っている。
その自信が、自分の騎士であるフェリスへの信頼からなるものなのだから、これを自信と呼ぶべきなのかはいささか疑問の余地があるが。
「────」
背後、討伐隊の後方に控えるのは『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレアだ。彼は龍剣を背負い、腰には2本の剣を帯びている。
本来なら白鯨討伐への参戦は叶わなかった、ルグニカ王国の最高戦力。たった一人で白鯨を落とせるであろう彼には、枷を嵌めている。
クルシュに、アナスタシアに、エミリアに。それぞれの陣営の功績と均衡を保つという、物理的ではなく、政治的な枷だ。
背負わせた重荷に応える義務が自分にあることを、クルシュは強く自覚している。
──勝たねば、ならない。
刻限が近付き、じりじりと心地良い戦意がクルシュの内側を焦がしていく。
クルシュの手は宝剣の柄に触れて、そこに彫り込まれた『獅子』の家紋の感触を確かめている。幼い頃からの手癖で、それはクルシュに覚悟を注ぎ込む魔法だった。
傍らにフェリスの存在を、そして指先には『獅子王』の遺志を感じている。
それだけでクルシュは、どれだけ強大な敵が相手だったとしても戦えるのだから。
そして──、
「──ッ!」
唐突に、それは闇夜に沈むリーファウス平原に響き渡った。軽やかな音が連続し、鼓膜を震わせるそれが音楽であることに遅れて気付かされる。
音の発生源に目を向ければ、輝く『ミーティア』を手にするスバルの姿があった。その手元の『ミーティア』から、その音楽がやかましく流れ出している。
スバルが言っていた、その時を告げる合図だ。
「総員、警戒──!」
クルシュの掛け声がかかると、討伐隊が一斉に身構える。
スバルの話では、『ミーティア』の報せから数十秒で白鯨が出現するとのことだ。
彼の言を信じるなら、今この瞬間にその巨体が空を泳ぎ始めても不思議ではない。場所も、『ミーティア』の報せがあった以上、ここで正しいはずだ。
疑う余地はいくらでもあるが、その疑いを生む理由がスバルにはない。疑念と疑心を置き去りにして、クルシュは神経を研ぎ澄ませながら、その魔獣を待ち構えた。
しかし、
「────」
静寂の中に、その強大な魔獣が現れる気配は感じられない。
拍子抜けした、という表現は正しくないが、一分が経過しても変化の生まれない戦場の中で、クルシュは珍しく動揺を禁じ得ない。
情報の食い違い、想定の誤り、何かしらのアクシデント。
リーファウス街道に落ちる静けさは変わらず、周囲の景色にも敵影はない。今も月明かりが雲に遮られ、暗く大きな影が平原にかかっているが──、
「──っ」
見上げ、クルシュは自分の浅はかな考えを即座に呪った。
月明かりの消えた平原に、影が落ちている。
月光を遮断した雲霞がゆっくりと高度を下げ、目の前に迫る。
──雲霞ではない。
それは、あまりにも大きな魚影を空に浮かべる魔獣であった。
クルシュが息を呑んだのと同時、討伐隊のほぼ全ての人員が同じ理解に達した。そして全員の意思が統一されると、彼らの視線がクルシュへ投げかけられる。
──先制攻撃、その命令を待っているのだ。
機先を制し、白鯨の出現の頭を押さえることには成功した。
あとは手筈通りに奇襲を叩き込み、この戦線を支配するだけだ。
「────」
息を吸い、クルシュは最初の号令を発しようと心を決める。
白鯨はいまだ、矮小なこちらの存在に気付いていない。
巨大な頭を巡らせる白鯨の動きは、まるで自分がどこにいるのか確かめようとしているかのようだ。そしてその仕草は無警戒で、何より隙だらけであり──、
その様子にクルシュの肚が決まった。
「──全員」
総攻撃、とそれを口にしようとして、
「──ぶちかませぇッ!!」
「──アル・ヒューマ!!」
クルシュを飛び越えて号令が発され、同時に魔法の詠唱によりマナが展開する。
世界が凍てつく音を立て、凄まじい密度の強大な氷柱が生み出される。一本一本が屋敷の大黒柱に匹敵するサイズの氷柱が都合四本。それが超高速で射出され、宙を走る氷柱が白鯨の胴体を直撃。一拍遅れて魔獣の絶叫と噴出する血が大地に降り注いだ。
慌てて見れば、地竜に相乗りするスバルとレムが先陣を切って駆け出していく。レムの腰に抱き着くスバルが拳を突き上げ、魔法の先制攻撃を果たしたレムは自らの役割を全うしたとばかりに会心の表情だ。
その二人の先走り──もとい、抜け駆けに討伐隊が動揺する。
駆け抜ける二人の姿に、クルシュは自分の口が大きく歪むのを堪えられない。
怒り、ではない。笑いによってだ。
「全員、あの馬鹿共に続け!!」
動揺を掻き消すクルシュの号令に、討伐隊の面々が反射的に攻撃を開始する。
粉塵が舞い上がり、その向こうで白鯨の絶叫が再度高らかに、リーファウス街道の夜空へ木霊していく。
──白鯨攻略戦が満を持して、その火蓋を切った。
次回、白鯨討伐戦。
多分長くなるので、何話かに分割して、一気に投稿します。