アストレア家の長女   作:slo-pe

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白鯨討伐の本編。
本日4話目、お休みっていいですね。
まだの方はそちらからお読みください。


白鯨攻略戦 後編

 

 

 高く高く、遠く遠く、重なり合うように嬌声が響き渡る。

 霧の蔓延する世界で、巨体を揺らして遊泳する魚影が合わせて三つ。

 全身の歪な無数の口から、ガラスを掻き毟るような音を発し続ける異形の存在。数多の旅人を食らい、数え切れないほどの命を無に帰してきた悪意の怪物。

 

 ただの一体ですら人々に絶望を与えるのに十分な力を持つ化け物、それが今や三体にまで数を増やし、抗おうとする人間たちを嘲笑っていた。

 頭上に浮かぶ白鯨を見上げ、誰かが膝を突く音が小さく届く。次第にそれは連続し、高い音を立てて武器を取り落とす音が連鎖した。

 見れば、討伐隊に参加していた騎士の一人が肩を落とし、下を向いて顔を覆いながら蹲っている。肩を震わせ、喉を嗚咽が駆け上がるのを誰にも止めることができない。

 その騎士の周囲にいた仲間たちもまた、誰一人かける言葉を持たなかった。

 

 人数を揃えて万全の装備を持ち込み、機先を制して火力を叩き込み、これでもかと攻勢をかけた上での──この理不尽な状況だ。

 精神汚染による兵力の半減は深刻で、残った主戦力もまた新たに出現した白鯨の奇襲により粉砕されてしまった。

 残る力を結集しても、それは最初のこちらの戦力の半分にも満たない。その上で相手にしなくてはならない魔獣の数は三倍──勝ち目など、あるはずがない。

 誰もが一瞬で悟った。自分たちの命が、目的が、ここで潰えるのだと思い知らされた。魔獣の恐ろしさとおぞましさ。そしてその魔獣に奪われた大切な絆の重み。

 その絆に報いることのできない自分たちの無力さに、どうしようもなく。

 積み上げてきたものが崩れ落ち、支え続けてきた心が折られたとき、その場に膝を屈することを誰が責めることができるだろうか。

 理不尽で、どうにもならない現実を前に、誰に諦めを否定することができるだろうか。

 

「────ッ!」

 

 ふいに、怒号が沈黙の落ちかけた平原に大きく響く。

 声に思わず顔を上げれば、地を蹴って白鯨の一体に飛びかかる影──近衛騎士団の純白のマントを翻して、手にした剣で白鯨の横っ腹を斬り裂く『剣聖』の姿が見えた。

 彼の一撃一撃は、固い外皮を易々と斬り裂き、露出する骨と肉を抉って貫き、なおも破壊の傷口を広げる。

 絶叫が上がり、首を持ち上げて空へ上がろうとする白鯨。

 その巨体を『剣聖』が蹴り落とす。空に逃げることを許さず、徹底的にその身体を削り取っていく。

 

「スバル! 腹に呑み込まれる前なら、まだ助け出せるはずだ!」

 

『剣聖』が叫んだ。

 痛む肩を押さえて額から血を流す少年へ、少女の喪失で呆然としていた少年へ、檄を飛ばした。

 

 少年はふらふらと立ち上がり、一歩を踏み出し、戦いに参戦することのできない己の無力さを歯痒く思う気持ちで顔をしかめ、それでも彼は足は止めない。

 少年の傍らに地竜が立った。その背にゆっくりと跨り、明らかに乗り慣れていない不格好な姿勢で、しかし力強く手綱を握り締めて、

 

「まだだ! ──まだ、何も終わっちゃいない!!」

 

 諦めに支配された騎士たちの前で、己の心を奮い立たせるように、顔を上げて、歯を剥き出し、目を見開いて、白鯨を睨みつけて、少年は叫んだ。

 

「──このぐらいの絶望で、俺が止まると思うなよ!!」

 

 

 

 

 ラインハルトが猛然と白鯨の全身を刻み続ける。血飛沫をぶちまけ白鯨が苦鳴を上げた。

 彼が攻撃するのは、背後からレムを呑み込んだ一体だ。咀嚼するように顎が動いたのは見えたが、レムならばされるがまますり潰されたとは考え難い。

 ラインハルトは中にいる彼女を傷つけないよう、けれど内側から出てこられるよう、白鯨の全身を刻み続けている。レムならば、鬼の生命力によるゴリ押しで出てこられるかもしれない。

 

 ──いや、出てくる

 

「ラインハルト、頼んだぞ──!」

 

 愛する人を任せ、スバルは手綱を引く。あまりに頼りない感覚の中で地竜の背に体重を預ける。

 レムではなく、スバルが自身で手綱を操るのはほとんどぶっつけ本番だ。方向と速度を指示し、あとは振り落とされないようしがみつくのが精一杯。

 それでも知能の高い地竜は、スバルの意図と実力を完璧に把握している。自らスバルを騎手に選んだ漆黒の地竜は、未熟な騎乗者を落とすまいと気遣ってくれていた。

 いい地竜だ。足が速くて、体力もあって、何より超賢い。今からお前の名前はパトラッシュだ。忠義に厚い相棒、そう考えたらそれしか名前が思いつかなかった。

 

「行くぜ、パトラッシュ! あっちは任せて、俺はもう一体の方だ! 鯨の鼻先でくるくる回れ!」

 

 高らかに叫び、手綱を弾いて地竜を走らせる。応じるパトラッシュが前のめりに駆け出し、強大な白鯨目掛けて恐れを知らずに突っ込んでくれる。

 もう一体、先ほどリカードを吹っ飛ばした白鯨が、スバルの接近を感じ取って首を思わずこちらへ向けた。

 

「ウル・ドーナ!」

 

 その横っ面を止めるように、地面が隆起した。

 だが止まらない。大地が抉られ、土塊が激しく散乱する。そのままスバルへと接近し──あわや直撃というところで、

 

「ババンとミミさんじょー!!」

 

 子猫の獣人が打撃の寸前に割り込み、手にした杖を振ると魔力の防壁が展開した。

 黄色の輝きが勢いの落ちた顔面を跳ね返し、生まれた間隙をライガーと地竜が一気に駆け抜ける。

 息をつき、スバルはすんでのところで救ってくれた子猫──ミミを振り返り、

 

「助かった! 反撃開始とかかっこいいこと言っていきなり終わるとこだぜ!」

「ふふーん、もっと褒めてもいいよー! でも、きょーのところはおにーさんがすごー頑張ったからおあいこにしたげるー!」

「頑張った……?」

 

 胸を張って、それからスバルに笑いかけてくるミミに首をひねる。

 すると少女は橙色のお下げ髪を軽く指で弾いて、

 

「みんなブルって立てなくなっちゃってたのに、一番早く立ち直ったでしょー? えらいぞー、すごいぞー、ミミの次だけどねー!」

「大したことじゃねぇよ。このぐらいで絶望なんて、してやれねぇってだけだ。つーか一番はラインハルトな」

「けんせーのおにーさんはべつー!」

 

 しれっとラインハルトを別枠扱いしたミミ、スバルは少しだけ気が楽になる。

 

 そうだ。ここまで、スバルがどれだけの辛酸を舐めて、味わってきたと思っているのか。

 それまでの抗えない絶望と比べれば、『剣聖』がいて、まだまだ戦いようのある現状──どうして、諦めに浸っている余裕などあるだろうか。

 諦めと遊んでいる暇があるなら、希望を探して血反吐を吐いている方がいい。

 諦めるより抗う方が、ずっとずっと、ずっと楽なのだから。

 

「ナツキ・スバル」

 

 戦場の向こうからクルシュが駆けてくる。

 彼女は走るスバルに地竜を並べると、白鯨を忌々しげに睨みつけ、

 

「一見して、事態は最悪にあるな。レムはどうした」

「あんたが覚えてるってことは、少なくとも霧に掻き消されちゃいねぇ。……ラインハルトの奮戦次第ってとこだ」

 

 首を巡らせ、反転してこちらに狙いを定める白鯨を警戒しながらスバルは答える。

 それを受け、クルシュもまた奮戦するラインハルトの方を見た。剣が一閃されるたびに鮮血が噴き、白鯨は自身の血の海で地響きを立てて跳ねる。

 

「どう見る、ナツキ・スバル」

「どう見るってのはどういう意味だ? 勝ち目って意味なら、俺の生死が色々と分けるって自分可愛さまじりに言ってみるが」

「そうではない。おかしいとは思わないか?」

 

 背後に迫る白鯨の鼻っ柱に、クルシュが不可視の斬撃を追加する。追撃の出鼻を潰されて悶える白鯨、それを背後にスバルはクルシュを見た。

 

「おかしい?」

「白鯨の数が三体に増えた。単純に見れば絶望的な状況にある。だが、事実として白鯨が群れを成す魔獣だとしたら、そのことが伝わっていないことなどあるものか?」

「言いたいことがイマイチわからねぇ」

「何かカラクリがあるはずだ」

 

 はっきりと断言し、クルシュはその凛々しい面差しをスバルへ向ける。自然、その強い眼差しに射抜かれて、スバルは背筋を伸ばした。

 その瞬間──。

 

「──なんだ!?」

 

 こちらを追おうとしていた白鯨ではなく、ラインハルトがタイマンしていた白鯨の動きが変化する。胴体を地面に擦りつけ、体内の異物感に身悶えするような仕草、そこに、

 

「そこだ」

 

 好機と見たラインハルトが白鯨を蹴り上げ、とある一点を十字に斬る。それは切り込みにも見えるようで、硬質の肌が弾け、亀裂が走り、出血した直後──

 

「──あぁぁぁあああ!!」

 

 傷口が内側から膨らみ、血肉をぶちまけて破られた。赤黒い体液が濁流のように流れ出し、その流れに乗って外に吐き出されてくるのは、

 

「レム!」

 

 白鯨に丸呑みにされ、生存が危ぶまれていたレムの帰還だ。

 暴れる白鯨に、『剣聖』が両手剣を低い姿勢で構える。すさまじい剣気が平原を押し包み、大気を震わせる。

 

 次の瞬間、白鯨が一刀両断され──そして、虚空に消えた。

 

「は?」

 

 スバルが、クルシュが、討伐隊や傭兵のメンバーが、呆然とそれを見た。そして気づく。

 

「てめぇら、三匹いたんじゃなく──分裂してやがるな!」

 

 声を上げたのはスバル。根拠のない、良く言えば直感、悪く言えば勘でしかない叫び。

 だが、数の暴力で心が折れていた彼らにとって、それは救いだった。

 

「一発が軽いのは分裂して戦闘力三分割だから! そうだろラインハルト!」

「おそらく君の推測は正しい! この分体は、明らかに当初より軽くなっている!」

 

 さらに口から出た推測を、ラインハルトが実体験から肯定する。

 絶望と悲嘆に暮れて、顔を俯けていた男たちが、僅かに視線を上げた。

 

「立て! 顔を上げろ! 武器を持て! 卿らは何のためにここまできた!」

「────」

 

 そこに、クルシュは堂々と、抜き放った宝剣を天にかざしながら、

 

「この男を見ろ! これは武器もなく、非力で、吹けば飛ぶような弱者だ。打ち倒されるところを、私もこの目で見た無力な男だ!」

 

 宝剣が、傍に立つスバルを指し示し、クルシュは声をさらに高く上げる。

 

「他の誰よりも、ナツキ・スバルが一番弱い!」

 

 そうだ。クルシュの叫びは真実だ。スバルは弱い。誰よりも弱い。

 戦う力がない。生き残るだけの能力もない。何度も何度も挫かれて、そのたびに打ちひしがれてきた敗北だらけの男だ。

 

「そんな一番弱い男が、まだやれると誰よりも早く吠えている」

 

 この場の誰より無力な男が、まだ戦えると歯を食い縛り、痛みに耐えて、涙を堪えて、血反吐を吐きながら、それでもまだ抗おうと上を見ている。

 

「それでどうして、我らが下を向いていられようか」

「────」

「我々の力は弱く、『剣聖』には遥かに及ばない。だとしても、最も弱い男が諦めていないのに、どうして我らに膝を折ることが許される!」

「お、おお……」

 

 希望を見出した男たちが顔を見合わせ、立ち上がる。

 取り落とした武器を拾い上げ、主の騎乗を待つ地竜がその傍らに寄り添った。

 手を伸ばし、手綱を握り、膝を屈したはずの騎士たちが地竜の背に跨る。

 地竜が嘶き、その背の上で騎士たちもまた、剣を抜いて喉を嗄らした。

 雄叫びが上がる。自らの心を奮い立たせるように、己の魂を誇るために。

 

 戦う弱い少年の後ろで、蹲って下を向くことの愚かしさを、吠えて猛って追い払う。

 

 ──その感情を、人は『恥』と呼ぶのだ。『恥』が恐れを、諦めを、足を止めるあらゆる感情を切り開き、騎士たちに顔を上げさせ、前へ踏み出す力を取り戻させる。

 

「本体は上空にいるあやつだ! 三分割されているのなら『剣聖』が斬ってくれよう! あれを引きずり下ろし、両断する。最後の大一番だ!!」

「おおおぉぉ──!!」

 

 クルシュの叱咤も、スバル同様その場で組み立てただけのもの。しかしそれは、屈したはずの魂を奮い立たせ、騎士たちが再び前進する力を与えた。

 地竜の軍勢が土煙を立ち上らせ、総勢で百を超える数の討伐隊が、刃の届く一体の白鯨に猛然と襲いかかった。

 その討伐隊の膨れ上がる士気と、それをやってのけたクルシュの一喝を聞き、スバルは口の端に苦笑が浮かぶのを堪え切れない。

 

「弱者だの負け犬だの、好き放題言ってくれやがって……」

「事実だろう?」

「そうだよ」

 

 否定する気にもならないのだから、それこそ重症だといえる。

 好きに呼べばいいし、好きに利用してくれればいい。スバルが無力で、負けっ放しで、折れっ放しの投げ出しっ放しでここまでやってきたのは事実だ。

 それがわかっているから、スバルは今、ここで吠えることができる。

 負けっ放しで終われないし、折れっ放しにはしておけないし、投げ出しっ放しはやめ時であるし、無力であることは許されない。

 

「スバル」

「ラインハルト──レム!」

 

 そこに、ラインハルトがレムを抱えて駆け寄ってきた。

 その全身を血で染めるレムは、ラインハルトの腕の中でスバルに手を伸ばしながら、

 

「す、ばるく……ごめんな、さい……っ」

「喋らなくていいって! ああ、クソ、どうしたらいいかわかんねぇけど、とにかく生きてんなら何よりだ。すぐにフェリスのとこに戻ろう!」

 

 その手を掴み、スバルはレムの想像以上の負傷具合に息を呑む。鬼の治癒能力を以てしても瀕死の状態だ。今すぐにでも治癒術師に見せなければ、命の灯火が燃え尽きてしまいかねない。

 だというのにレムは、ゆるゆると首を振った。

 

「ま、だ。レムが、やります……」

「言ってる場合かよ! 鯨の前にお前が死ぬぞ! このぐらいじゃ死なねぇとか眠たいこと言うのも聞かねぇ! 生き死にに関しちゃ俺の方が詳しいんだ!」

「な、にを……言って……」

 

 満身創痍のレムを一喝し、スバルは無理やりにその体をラインハルトから奪い取る。

 

「して、ナツキ・スバル、あの白鯨をどうやって落とす」

 

 そこに、クルシュは頭上の白鯨へと琥珀色の眼差しを突き刺しながら訊ねる。

 

「あそこまで高いところを飛ばれると、攻撃する手段がない。加護を使った私の剣も、あの距離への攻撃では威力に期待できない」

 

 スバルとレムも釣られて天を見上げる。

 上空へ逃れた白鯨の高度は、おおよそ雲と同じ高さに達している。最初の出現時よりさらに高い位置取りに、白鯨の性質の悪さが表れているようだ。

 

「スバル」

「……いや、ちょっと待て」

 

 ラインハルトがスバルに、白鯨討伐の共闘を持ち掛けた当人に、許可を求める。『剣聖』であれば、この距離でも問題なく仕留められるのだろう。

 だが、彼が一人でそれを成しては、ここまで積み重ねたものが無意味になってしまう。

 

 ラインハルトにクルシュ、二人の視線を受けてスバルは思考し──腕の中の少女に視線を落とした。

 

「……悪いレム、力を貸してくれ」

「──はい。レムは何をすればいいですか?」

 

 愛しい人からの要請に、レムは満身創痍でありながら歓喜に震えた。

 

 

 

 

「──よぉ。こうして間近で見ると、超気持ち悪ぃな、お前」

 

 ナツキ・スバルは、遥か上空を漂う白鯨の鼻先に着地した。

 

「ついてこいや。言っとくが、俺はシカトできねぇほどウザさに定評のある男だぜ?」

 

 レムの魔法の氷槍に乗って上空へ向かい、そこで退魔石を砕いて離脱──白鯨に取りつく、というのがスバルの立てた乱暴な作戦の概要だ。

 当然、猛烈なレムの反対があったが、そこは「俺はレムを信じてる!」の連呼で押し切り、無謀ではないと説き伏せてクルシュからも退魔石を引き受けた。

 

「ってか、マジ怖ぇぇぇ!」

 

 白鯨の鼻先に必死でしがみつき、スバルはそのざらつく肌と体毛の感触を掌に味わいながら、高空の風と強大な生き物の生臭さに顔をしかめた。

 取りつくスバル──つまり、魔女の残り香の塊に、白鯨の様子が一変する。

 それまで静観の姿勢だった魔獣が明らかに興奮状態に陥り、全身の口から霧と涎と哄笑を垂れ流して、荒々しくスバルを大歓迎してくれている。

 

「──うし」

 

 白鯨の嬉しくない歓迎を受けて、スバルは大きく深く呼吸し、心を落ち着けた。

 もちろん、ここからスバルが白鯨を墜落させる必殺技を放てるわけではない。

 覚悟一つで開眼できるほど現実は甘くないし、この場で身を削る覚悟でシャマクをぶちかましても、前後不覚になった間抜けが手を滑らせて墜落死するのがオチだ。

 だから、スバルが白鯨に取りついてすることは一つ。

 

「んじゃま、いっちょいこうか──覚悟決めて、な」

 

 白鯨が行動を起こす前に、手を放したスバルの体が岩肌を滑り──自由落下の軌道に入った。前後不覚ではない間抜けが、地上へ向けて墜落を始める。

 白鯨はその大掛かりな自殺を行うスバルの姿に頭を向け、それを追いかけようとわずかに身を動かしたが、何かを躊躇うようにその動きを止める。

 このままスバルを見送れば、制空権を取ったアドバンテージは揺るがない。白鯨はそのことを本能で理解し、残り香の誘惑に耐えようと踏み止まったのだ。

 なるほど、手強い本能だ。しかし、それでは困る。

 故に、切り札を切らせてもらう。

 

「この高さなら他に聞こえる心配がねぇ。大サービスだ、よく聞けや! てめぇのせいでレムが死んで、俺はすげぇトラウマ背負ったぞコラァ!!」

 

 言い切った瞬間、暴風を浴びていたスバルの肉体が世界から切り離された。

 全身の感覚が遠ざかり、それまで内臓が上へ持っていかれるような浮遊感に支配されていた意識が現実を見失い、時間の概念が存在しない場所へ誘われる。

 直後──、

 

『愛してる』

 

 何か、耳元で囁かれたような気がした。

 そして、

 

「戻って……きたぁぁぁぁぁ!!」

「────ッ!!」

 

 眼前、大口を開けた白鯨が猛然と、スバル目掛けて急降下してくる。

 禁忌の告白で魔女の香りが増大し、魔獣の本能がそれを上回る憎悪に塗り潰された。

 咆哮を上げ、もはや眼下の争いなど失念したかのように正気を失った眼で、白鯨はスバルの存在だけを消し去ろうとばかりに襲いくる。

 颶風を纏い、間にあった距離をぐんぐんと埋めてくる白鯨にスバルは恐怖する。

 自由落下に任せる他ない状態で、この突進をかわす術はスバルにはない。このままでは地面に到達する前に白鯨に捕まり、BADEND11『魚の餌』まっしぐらだ。

 このまま、では。

 

「──レム!!」

「はい、スバルくん!」

 風に掻き消されそうなスバルの呼び声に、しかし確かに少女の声は応じた。

 同時、スバルだけに囚われていた白鯨の横っ面に、真横から飛び出す氷柱が激突──開いた口の中を蹂躙し、黄色い歯をいくつもへし折って、その動きに遅滞を生んだ。

 その隙を突き、自由落下中だったスバルの体を、パトラッシュに跨るレムがモーニングスターで絡め取る。

 腰を締め付ける鎖に、強引に落下軌道を捻じ曲げられて内臓が偏る。「ぐげ!」とスバルは悲鳴を上げ、以前にも同じ衝撃を味わったことを思い出す。

 こうして転落する体をレムに救われるのは二度目、一度目は王都へ向かう途中の竜車でスバルが足を踏み外したときだった。

 

「なんでも、経験しとくもんだ……」

 

 今度は、気絶せずに済んだのだから。

 鎖が手繰られ、スバルの体がいささか乱暴にパトラッシュの背中に落ちる。そこでは腕を広げるレムが待ち構えており、スバルはその胸の中に飛び込む形だ。

 柔らかな衝撃と、温かい感触に頭が埋まり──瞬間、スバルの視界が回った。

 

 スバルは抱き留められたレムの胸の中、必死に状況を探る。

 既に満身創痍だったレムだ。なけなしのマナを振り絞って魔法を放ち、そしてスバルを救出したことで張り詰めていた糸が切れたのだ。

 だが、彼らが地竜から落ちることはない。

 

「パトラッシュさぁぁぁん!」

 

 賢明なる地竜は『風除けの加護』を展開し、自らの勝利条件──その背に負うた二人を落とすまいと、全力で駆け抜けていた。

 

「────ッ!!」

 

 勢いを殺し切れず、白鯨が頭から地面に激突。

 轟音と土煙が爆砕された地面から立ち上り、その威力に大地が激震した。

 爆風のような風を浴びながら、パトラッシュは彼らを乗せたまま走り続ける──その背後から、土煙をぶち破って白鯨が飛び出してくる。

 凄まじい威力にその頭部をぐしゃぐしゃにして、なおも白鯨は我を忘れた絶叫を上げながらスバルに追い縋る。

 そのあまりの勢いに、悠然と空を泳いでいた姿は見る影もない。泳ぎ方はメチャクチャになり、風を追い越すようだった速度はパトラッシュといい勝負。

 だが、気迫だけは圧倒的だ。

 地面を削り、大地を尾ではたきながら、猛然と白鯨が背後に迫る。

 意識を失っても決して離さない少女の胸の中、スバルはパトラッシュの底力に命を賭ける。

 ここまで必死で懸命に、スバルに尽くしてくれた地竜だ。短時間ではあるが、命を乗せて走ってもらうに相応しいだけの信頼をスバルは抱いた。

 

「頼むぜ、パトラッシュ! ドラゴンなんだろ!? かっこいいとこ見せてくれ!」

「──ッ!」

 

 パトラッシュが嘶き、速度が一段と上がったのを風に感じる。

 白鯨の咆哮が轟き、鼓膜が乱暴に揺すられて世界がぼやけるのがわかった。

 真っ直ぐ、真っ直ぐ、ただひたすらに走り、走り、駆け抜け。

 そして、揺らめく『赤』とすれ違った。

 

「頼んだぜ──」

「──分かったよ」

 

 微かな声が交わされた。

 

「──『剣聖』の家系、ラインハルト・ヴァン・アストレア」

 

 ラインハルトが剣を構える。すさまじい剣気が平原を押し包む。

 それを脅威と見たのか、白鯨は逃れようともがくが、理性のない挙動は速度を落としこそすれ、『剣聖』から逃げることは叶わない。

 そして、哀れな獣の征く先は──、

 

「──400年の歴史に、幕を下ろそう」

 

 白鯨の巨体が、ラインハルトへと肉薄する。その瞬間、剣は美しい軌跡を描き──

 

 ──光となって白鯨を飲み込んだ。

 

 

 

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