クルシュ・カルステンが主導した白鯨討伐隊は、その両断された頭蓋を引き連れて王都へ凱旋した。
400年もの長きに渡り、人々を脅かし続けた霧の魔獣。
その討伐成功の報は瞬く間に広がり、街道沿いには討伐隊を一目見ようと集まった人々が列を成す。
「白鯨が討たれたぞ!」
「本当に終わったんだ!」
「クルシュ様、万歳!」
「ラインハルトさまー!」
歓声はどこまでも続いていた。
騎士たちは誇らしげに胸を張り、商人たちは今後の安全な交易路に思いを馳せ、老人たちは涙ながらに空を見上げる。
誰もが理解していた。
この日は400年続いた厄災が終わった、後の時代まで語り継がれる歴史の一頁なのだと。
◆
王都凱旋を終えたカルステン邸には、クルシュたちを労うためアリーゼにフェルト、アナスタシアが訪れていた。
──だが、その場に祝勝会めいた空気はない。
白鯨討伐は確かに歴史的偉業だった。
だが、その帰路で起きた出来事が、彼らから勝利の余韻を奪っていた。
「『強欲』と『暴食』、ですか」
クルシュとラインハルト。当事者から受けた説明を、アリーゼが端的に繰り返す。
──クルシュたち討伐隊が見舞われた状況は単純だ。
白鯨討伐を成し遂げ、『怠惰』討伐へ向かうスバルたちと別れた。
白鯨の頭部を回収したクルシュたちは、王都へ戻る途中、別の魔女教徒に襲撃された。
魔女教大罪司教『強欲』担当、レグルス・コルニアス。
スバルたちが討伐に向かった『怠惰』と違って、記録に名前の残る被害は少ない。
だが、ヴォラキア帝国でも最も堅固な防備で知られた城塞都市ガークラ。かつての帝国最強『八つ腕』のクルガンを擁する数千の常備兵を相手に、たった一人で都市を攻め落とした異次元の強者。
ガークラを筆頭に、記録に残る被害はどれも規格外。その脅威は十分過ぎるほどだ。
その『強欲』は、ラインハルトをして傷一つ付けることができなかったらしい。
おそらくは何かの権能。そのカラクリが分からない以上、圧倒的な戦闘力を持つ『強欲』はラインハルトがタイマンで相手をせざるを得なかったようだ。
「──何はともあれ、お疲れ様。貴方たちのお陰で、400年続いた厄災は終わり、民も霧に怯えなくて済む」
アリーゼは、クルシュとラインハルトの二人をそう労う。
「その後の不幸についてもそう──」
そして、その視線をラインハルトに固定した。
「ラインハルト」
「…はい」
「貴方は白鯨を斬っただけでなく、あの『強欲』を相手に誰一人傷付けさせなかった。ラインハルトがどう思っているかは分からないけれど、間違いなく偉業よ」
「────」
強い宣言への返答には、微かな間があった。
それはもう一つの犠牲を防げなかった事への懺悔かもしれない。しかし、ラインハルトは一拍置いて、答えた。
「はい。ありがとうございます、姉上」
アリーゼはほんの少しだけ表情を緩めた弟から、クルシュに視線を移した。
「そしてクルシュも。白鯨討伐だけじゃない。未知の『暴食』を相手に、
「──ああ」
優しくも厳しくもない、ただ事実を告げるアリーゼに、クルシュもそっと息をついた。
だが──、
「彼女をどう対処するか、考えなくてはなるまい」
胸に手を当て、肯定されたことへの安堵を自覚しながら、しかしクルシュは感慨を引っ込めて首を横に振る。
犠牲は、最小限に抑えた。
『強欲』は『剣聖』が抑え、『暴食』の権能による被害も、
「名前が消され、しかし姿は残っている、か……ある意味で、白鯨の『霧』よりタチが悪い」
「せやね。ほんま悪趣味やわ」
ベッドに視線を向けるクルシュに、アナスタシアが嫌悪と共に同意した。
そこには、青髪の少女が穏やかに寝息を立てていた。
『強欲』と共に現れ、新たに認知された大罪司教、『暴食』担当ライ・バテンカイトス。
彼は、あり得ないほどに多彩かつ洗練された戦闘技能と、そして白鯨の『霧』と同種の権能を持つという。
──触れた者の名前とその記憶を喰らい、自身の糧とする。
そんな悪辣な権能を、クルシュはたった一度の行使で見抜いてみせた。その犠牲が、今寝台に横たわる彼女だった。
「彼女のことを、知っているものは」
クルシュの問いかけに、室内を沈黙が支配する。
無言の時間は無理解が原因ではない。全員、その質問の意図を正しく察して、安らかな寝息を立てる『見知らぬ少女』の立場に思いを巡らせていたためだ。
その上で広がる沈黙は、それ自体が質問への回答となっていて。
「推測にはなりますが、ロズワール辺境伯の関係者かと」
そこに、アリーゼが推論を投げた。
「根拠は」
「以前エミリア様とお会いした際、従者として控えていた女性がおり。その方は、髪色以外は彼女と瓜二つでした」
「ラムっつったか。確かにあのメイドの姉ちゃんとそっくりだ」
「彼女が着用していた給仕服も、おそらくは同じ仕様かと」
クルシュの問い掛けにアリーゼが答え、同じく現場にいたフェルトとラインハルトもそれに続いた。
「つまり、この少女はナツキ・スバルの関係者、それも王都での世話係を任されるほど信を置かれていた人物というわけか」
クルシュが苦い顔でそう結論付けた。
此度の白鯨討伐において、『剣聖』に並ぶ功労者ナツキ・スバル。王城での醜態を乗り越え、偉業を成し、さらに『怠惰』討伐を遂げて戻ってくるであろう英雄。
そんな彼の大切な人が、今は誰からも忘れ去られている。
どんな顔をして、何を言えばいいのか。
クルシュも、ラインハルトも、アナスタシアも、フェルトも、アリーゼも。
最適解など、誰にも分からなかった。
青髪の少女だけが眠る部屋、アリーゼはその額に手を添える。
ラムというメイドに瓜二つの少女。アリーゼはともかく、共に戦ったクルシュやラインハルトは彼女を知っているはずだった。
「『暴食』の権能……」
あまりにも自然な記憶改変。自然すぎて、逆に強烈な違和感を残す。
アリーゼの中には、権能を引き千切った残骸が宿っている。
理不尽そのものの力を、アリーゼは殆ど使う機会はない。直近では2ヶ月前に、とある願望を込めて彼女の姉妹(推定)に使用したきりである。
だが、力を手にした当初、祖母であるテレシアと共に試行錯誤を繰り返したことによって、アリーゼの感覚は磨かれている。
その研鑽された感覚が訴えている。
──この権能には、干渉できる。
「名前だけは戻る、か……」
アリーゼはぽつりと呟き、僅かな時間思考する。
完全ではない効果に対して、リスクは計り知れない。アリーゼの決断はすぐだった。
添えた手をさっと振るう。
権能に干渉するのではない。ただ、自身をその影響の外へと押し出した。
瞬間、欠けていた認識が元の形へと収まる。
脳裏をよぎるのは、交渉の席でナツキ・スバルを支えていた青髪のメイド。
そして、アナスタシアから伝え聞いた、クルシュたちとの交渉の席で尻込みするスバルの背を叩き、英雄への第一歩を踏み出させた少女がいたこと。
アリーゼは静かに目を伏せ、ベッドに背を向ける。
「ごめんなさい、レムさん」
そう一言だけ残して、部屋をあとにした。
◇◇◇
「──この、役立たずが!」
王都のカルステン邸、とある客室。
ラインハルトに叩きつけられたのは、悲痛な怒鳴り声だった。その、耐え難い悲憤を孕んだ叫びと、頬を打つ平手の乾いた音が重なって、響く。
「やめい、兄ちゃん! そないに責めてどないなるんや! 誰か一人に責任のあることやない。それは兄ちゃんかてわかっとるはずや!」
「うるせえ! そんな綺麗事が聞きたいんじゃねぇ! 外野は黙ってろ!」
言い合いが白熱し、ささくれ立った空気が室内を支配する。
──寝室のベッドの前、剣呑な雰囲気で睨み合うのは三人の人物だ。
顔を歪めたスバルと、その腕を掴んで牙を見せるリカード。そして、スバルの平手を甘んじて受け、頬を赤くしたラインハルトだった。
揉み合う二人を前に、力なく俯く『剣聖』は悔恨に青い瞳を揺らして、
「……すまない」
「言い訳しろよ! 何か理由があって、だから仕方なかったんだって、そう言って俺を納得させてみろよ!」
謝罪したラインハルトに、スバルはさらに激昂する。
「何が『剣聖』だ、何が英雄だ! お前なら助けられただろ! 白鯨も斬った、大罪司教も止めた! だったらなんで、なんでレムだけ助けられなかったんだよ!」
「兄ちゃん……気持ちはわかる。悔やんどるんは全員同じや。それは……」
「悔やむ……? 悔やんで何になる? それでレムが……レムが帰ってくんのかよ! お前らみんな、みんなそうだ! レムのこと……何一つ覚えちゃいねぇくせに、勝手な事言ってんじゃねぇ!」
息を荒らげ、スバルがラインハルトを、リカードを睨み、その場で膝をつく。
涙声の糾弾に、二人の男は何も言えない。そんな二人の──否、クルシュ、アナスタシア、フェルト、エミリア、そしてフェリスにアリーゼを加えた、七人の視線を浴びながら、スバルはベッドに縋り付いた。
美しく整えられたシーツが、皺を刻む。
「何が英雄だよ……レム一人守れないで、名前すら消えちまって……! クソっ! クソっクソっ、クソがよ……っ」
シーツに滂沱と涙をこぼしながら、スバルの弾劾は呪いのように続く。
その怒りの矛先が、周りの誰かへ向いているならまだマシだった。だが、それが無力な自分への怒りだとわかってしまえば、誰も彼の悲嘆を拭うことはできなくなる。
「レム……レムぅ……」
頽れるスバルに何も言えず、ただ悲痛な叫びと怒りの声だけが響いた。
やがて嗚咽すら弱々しくなり、スバルはベッドに縋り付いたまま動かなくなった。
室内を満たしていた悲痛な叫びも消え、残るのは荒い呼吸音だけ。
誰も声を掛けられない沈黙の中──
「顔を上げなさい、ナツキ・スバル」
彼に声を掛けたのは、アリーゼだった。
「……は?」
彼女はゆらゆらと顔を上げたスバルのおとがいに手を添え、自身と正対するよう仕向ける。
「顔を上げ、笑ってみせなさい、ナツキ・スバル」
「ふ、ざけてんのかてめぇ……!」
「ふざけてなどいません。むしろ、覚悟が足りないのは貴方です」
「は?」
溢れ出し、尽きたはずの怒りが、再びスバルの中に溜まってゆく。けれど、アリーゼは引かなかった。
「此度の
「てめぇ──」
「──そして」
激昂するスバルに被せるように、むしろ先んじて、アリーゼは反論を封じた。さらに視線でスバルを制してから、彼女はこう続ける。
「貴方は、『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレアに並ぶ功労者の一人。共に戦った兵は皆、ナツキ・スバルを英雄として見ている」
「っ……」
スバルの瞳が揺れた。英雄という言葉に、それに懸けていた想いに、喉が詰まった。
アリーゼ・アストレアは、英雄志願の少年に言葉の数々を叩きつける。
「ナツキ・スバルが……英雄が下を向いていて、どうして傷付いた兵たちが笑えますか」
「貴方はもう、身の程知らずの大法螺吹きではいられない。ナツキ・スバルという名は、貴方が思っている以上に重くなってしまった」
「この部屋では幾らでも泣きなさい、叫びなさい。私たちへの非難も、甘んじて受け入れましょう」
「けれど、一歩外に出れば、笑いなさい」
「貴方のためじゃない。共に戦った兵のため、誰よりも胸を張ってみせなさい」
「それが貴方の……英雄の義務です」
スバルは、何も言えなかった。
反論はいくらでも浮かぶ。
レムを忘れたお前たちに何が分かる。英雄なんて知るか。そんなものよりレムを返せ。
だが──、
それでも彼は、言い返せなかった。
おとがいに添えられていた手が、スバルの眼前にかざされる。
淡い青い、治癒魔法の光が発せられ、涙により腫れていた顔が治ってゆく。
「さあ、立ちなさい」
優しく、穏やかな声。差し伸べられた手を掴み、スバルは立ち上がった。
アリーゼはスバルの表情をじっと見て、安心したように微笑む。
そして、スバルの肩を掴み、二人の位置関係をズラす。アリーゼ、スバル、部屋の扉が一直線になった配置だ。
「あ、あの、アリーゼさん……?」
「ナツキ・スバルさん」
「は、はい」
「──舌は噛まないよう、にっ!」
忠告するが早いか、アリーゼの手が動く。
乾いた音が炸裂し、スバルは背に重すぎない衝撃を受けた。背中の中心に、小さな掌の形に熱を発する感覚がある。
その感触が、スバルにとある記憶を呼び起こさせた。
数日前の会談、尻込みする自分に活を入れてもらった、今はもうスバルの中にしかない記憶。
アリーゼは、それを知らない。その場にいないのはもちろん、そもそも彼女はレムを憶えていない。
だからこれは偶然だ。
偶然だとしても、胸の奥で何かが震えた。
自分を信じろと、前を向けと、笑えと。英雄であれと。そんな言葉と共に、レムに背中を押された気がした。
「行きなさい。自称エミリア様の一の騎士、ナツキ・スバル」
静かな声が背中に落ちる。
「貴方と共に戦い、貴方を英雄と信じた人たちに、胸を張って」
とんっと、今度は軽く背中を押される。それだけで、足は止まらなかった。
スバルは扉を開けると、一度だけ立ち止まった。
「アリーゼさん」
「はい」
「…………ありがとな」
アリーゼは返事をしなかった。できなかった。
スバルは消え入りそうな声で言うと、すぐに足を進め、扉を閉めたのだった。
◆
スバルが部屋を出てから、真っ先に口を開いたのはリカードだった。
「なんや、アリーゼの嬢ちゃんもあんな風に叩けるんやな。驚いたでほんま!」
豪快に大口を開け、リカードの胴間声が馬鹿笑いで室内を満たした。その遠慮のない笑い声の勢いに、先ほどまでの張り詰めた空気が緩む。
「私が言うのが最も角が立たないですし、何より一番上手くできる自信もありましたから」
「ま、そうかもな。あの兄ちゃんもひとまず面上げられたみたいやし、ワイもいっちょ混ざって盛り上げてくるわ」
「ええ、お願いしますね」
アリーゼはそう微笑むと、リカードからラインハルトに視線を移した。
「ラインハルト」
「はい」
「貴方も祝いの席に行ってらっしゃい。私たちは今回の後始末の相談をしてから向かいますので」
「分かりました」
ラインハルトは頷くと、足を進める前に、
「姉上」
「どうしたの?」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。ラインハルトこそ、お疲れ様」
「はっ」
ラインハルトは今度こそ足を進め、リカードと共に部屋をあとにした。
沈黙が戻る室内に、クルシュが口を開いた。
「……すまないな。嫌な役を背負わせた」
「いいのよ。さっきも言ったけど、私が一番丸く収められて、一番上手くできたのだから」
共に戦ったクルシュたちでも、間接的に支援したアナスタシアでも、彼の想い人であるエミリアでもない。赤の他人に近いアリーゼだからこそ出来ることだった。
それに当てはまらないただ一人。フェルトは、本来なら自分がすべきこと、将来は自分がすべきことだと、正確に認識していた。
「……アリーゼ」
「フェルト様、どうしました?」
「……アタシからも、悪かったな」
「いいんですよ。今はまだ、フェルト様が責任を負うのは、フェルト様本人と、自身で勧誘した3人だけです」
「…おう」
優しく、けれど甘やかしはしない慰めに、フェルトもそれを受け入れた。
そこに、アナスタシアが茶々を入れた。
「それにしても、アリーゼの意外な一面が見れて嬉しいわ。今で抑えてあれなら、昔はさぞかし腕白やったんやろなって……なに、その顔」
「先ほどの出来事が柄ではなかっただけで、私は今も昔も大人しいですよ。ずっとお祖父様の足にくっついているような、人見知りの子どもでしたから」
フェリスとエミリアはともかく。その過去を聞くフェルトにアナスタシア、さらには実体験として知るクルシュは、嘘つけお前と言わんばかりの視線を向ける。
アリーゼは周囲のその反応に唇を尖らせ、それから長い息を吐く。
「さて。息抜きはこのくらいにして、本題に入りましょうか」
「せやね。やるべきことがいっぱい出来てもうたし、そろそろ進めよか」
「エミリア様もよろしいでしょうか?」
「え、ええ。お願いします」
「それでは此度の討伐について、改めて情報の確認から始めるとしよう」
クルシュの号令を境に、六人は感傷を棚上げし、向き合うべき現実へと意識を向けた。
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