捨てられた赤ん坊、イリアの母親捜索の方針が決まり、アストレア家の面々はそれぞれ動き出した。
その中でフェルトはそれまでと変わらず、執務室という名の勉強部屋で、ロム爺が選び抜いた参考書相手に格闘していた。
区切りの良いところで、一旦休憩を取る。フェルトが柔らかな椅子に深くもたれ掛かると、コンコンとノックの音が響いた。
「フェルト様、入ってもよろしいですか?」
「いいぞ」
見られる程度には姿勢を戻して返事をすると、ゆっくりと部屋の扉が開かれる。そうして姿を見せたのは、微笑を称えたラインハルト。
「ただいま戻りました。町の住民と停留所の方には話を通し終えました」
「ごくろーさん。三馬鹿が出払ってるってことは、お前もアタシの教師役か?」
「いえ、むしろその逆です。フェルト様と共に徴税記録を見て学べと、姉上が」
「ふーん……まあお前、領地運営のこと何も知らねーって話だもんな」
フェルトが悪意なく刺すと、ラインハルトの苦笑が深まった。
「では休憩が終わる頃に戻ってきますので」
と、部屋に後にしようとするラインハルト、その背中にフェルトは目を細めた。
何となく、普段の彼と違和感があるような気がして。
「おい、ラインハルト。お前、ひょっとしてなんかへこんでねーか?」
「────」
自分を呼び止めたフェルトに、ラインハルトの目がわずかに見開かれる。驚いた彼の反応を見て、フェルトもまた少しばかり呆気に取られた。
彼が驚いたり、感心した素振りを見せることは珍しくはない。ただ、どんな反応であっても、──ただ一人の女性を例外として──彼の態度には一定の余裕やゆとりがあった。
その余裕が、フェルトがラインハルトを嫌がる理由の一つだった。まるで、自分が同じ舞台に立っていないような、そんな隔たりを感じさせる態度だったから。
今、彼の顔にはその壁のようなものが取り払われているように見えて。それがフェルトに踏み込ませる要因となっていた。
「何故、そう思われたんですか?」
「んえ? あー、別に大したこっちゃねーけど。いつものお前なら、どっかいって帰ってこよーもんなら聞いてもねーのにぺちゃくちゃ話すじゃねーか。だってのに今日は何にも話そうとしねーし、話もすぐに切り上げようとしたしな」
「……驚きました。フェルト様は僕を嫌っていらっしゃるとばかり」
「気付いたからって嫌ってねーってことにはなんねーかんな。そもそも、アタシは毎日毎日お前を出し抜いてやろーって血眼になってたんだぜ。むしろ、お前に隙ができねーかってじっくり観察してたってんだよ」
妙な勘違いをされてはたまらないと、フェルトは強い口調で疑惑を否定する。すると、ラインハルトは珍しく「わかっています」と微苦笑を浮かべた。
「んで、お前がそうなるつーことはアリーゼだろ。さっきの『三馬鹿に負ける』宣言がそんなに堪えたかよ」
「まだ負けると決まったわけではありませんが」
こんな風にムキになるのも、普段の彼らしくない。フェルトはその変化を好ましく思いながら、やれやれと頭を振った。
「お前、たまにホントにガキみてーなとこあるな。イリアと変わんねーぞ」
「それは……さすがに言いすぎかと」
「いーや、言いすぎでも何でもねーな。きっとお前、思ってるよりずっと姉ちゃんっ子だぜ。アリーゼに抱っこしてもらうか、ラインハルトちゃん」
「──されません!」
少し感情を昂らせたラインハルト。その声は、一拍、ほんの僅かに遅延していた。
その反応に、フェルトは藪蛇の気配を感じて、咄嗟に話題を探した。
「あ、あー……ああ、そういや、実際のとこ、お前はどう思ってんだ?」
「フェルト様?」
抽象的な問い掛けに、ラインハルトが眉を上げた。
「赤ん坊拾ったのも、親探すっつったのも、世話させてんのもアタシの勝手だ。アリーゼは元々、やべー間違いじゃねえ限り選択を任せてくるけど、お前はどっちかっつーと正しいほうを勧めてくるだろ。なのに今回はアタシに選ばせた」
正確には、選択肢があると思わせつつ、正しい択を選ぶよう正論を並べてくる。それがフェルトのラインハルト評だった。
「イリアの件、お前はどう思ってんだ。言っとくが、お前の考えにアタシの意見は入れんなよ。アタシはアタシ、テメーはテメーだ。そこは分けろ。じゃねーと、気持ちわりーから」
背もたれに寄りかかっていた上体を起こし、フェルトは正しい姿勢でラインハルトに向き直った。その視線の先で、ラインハルトは片目をつむる。
それから、彼はちらりと壁を、その向こうにいるイリアを見るようにして、
「僕は仮に、フェルト様が赤ん坊を捨て置けと言っていたとしても、それに従っていたと思います。この場合、真に正しい答えはありませんから」
「そりゃ、お前の意見じゃなくて……」
「そして、フェルト様に隠して、こっそりとイリアの親を探したり、屋敷のどこかに匿っていたと思いますよ」
「ああん?」
両手を広げ、ラインハルトが柔らかく微笑する。その笑みに唖然となって、フェルトは自分が彼に担がれたのだと気付いた。
瞬間、フェルトは込み上げてくる怒りに顔を真っ赤にして、
「おま……」
「フェルト様、イリアが」
「ぐ……っ! お前、調子に、乗んな、よ」
怒鳴り声を上げかけ、二度の反省からフェルトは寸前でそれを堪える。ただ、怒りはそのままにラインハルトを睨み、文節で区切りながら激発を伝えた。
結局、ラインハルトの思惑通りの流れだ。フェルトがどうあろうと、ラインハルトは赤ん坊のために尽力した。それが、彼自身の願いかは別として。
「テメーがそれをすんのは、その方が赤ん坊のためだからとかってやつか」
「確かに、助けを必要とする人を助けるのは僕の本懐でもありますが、この場合、赤ん坊に手を貸すのに難しい理屈は必要ないのではありませんか?」
「────」
「それに、個人的なことを言わせていただければ……」
その、個人的という響きにフェルトの眉が上がった。
ラインハルトが、個人的な意見などと前置きすることは滅多にないことだ。そしてそれこそが、この場でフェルトがラインハルトに求めていた返答でもある。
そんなフェルトの期待に、ラインハルトは薄く微笑むと、
「フェルト様と意見が一致したのは、騎士としての誉れだなと」
「──んなっ」
「僕もやはり、可能なら主の意向には沿いたいものですから」
真っ向から恥ずかしげもなく言われ、フェルトは口をパクパクとさせた。フェルトの反応を前に、ラインハルトは普段通りの態度で肩をすくめる。
してやったりでもなく、適当に話を合わせたわけでもない。紛れもなく彼の本音なのだろうが、それが本音なあたりがフェルトの激震の原因だった。
だからフェルトは、その激震のままにくわっと歯を剥いて──、
「──テメー、ホントにそういうとこ気持ちわりーんだよ!!」
フェルトの盛大な怒鳴り声が部屋中に響き渡る。
その反省を忘れた報いに、フェルトは「しまった」と自省する。屋敷を揺るがす大泣き声に備えて、身を固くするが──、
「あ? イリア泣かねえな」
「ええ、この屋敷は建て替えた際、壁の防音性能をしっかり造らせたそうですから」
「つーことはアタシが怒鳴っても問題ねーじゃねーか!」
先ほど黙らされた鬱憤も相まって、フェルトは猛然と噛み付いた。
◆
同時刻、談話室にてフェルトの怒声を遠くに聞きながら、アリーゼはイリアのおしめを取り替えていた。
「これで取り替えは終わりです。ラチンス、ガストンにカンバリーも、覚えましたか?」
「ああ」
「大丈夫です」「多分、何とかなります」
三人がそれぞれ返事をする。不安になる返事だが、アリーゼは「頼りにしています」と微笑んだ。
彼女はそもそも、一目見ただけで出来るようになるとは思っていない。不出来なら不出来で、その時にまたやり直させるつもりだった。
「さて、それでは二人には母親探しに出てもらいますが、見当はつきましたか?」
そんなアリーゼの確認に、ラチンスは「へっ」と頬をつり上げ、
「お前、気付いてんなら言ってやれよ」
「ラインハルトは世界最強の力を持つが故に、わかりやすい敵意以外にはとんと疎いですから。王選や領地経営では、どうしようもない事も往々にして起こり得る。取り返しの付かない負けが来る前にと、そう思っているだけです」
「……ほんと、優しそうに見えて、実は一番容赦ねえよな」
ラチンスたち三人の見解として。
アストレア家で一番優しいのはテレシア。そこから順にハインケル、ヴィルヘルム、ラインハルト、そしてアリーゼだ。
彼女が一番、やるときはやる。
加えてラチンスの脳裏には、アリーゼが仕出かした数々の事件が過った。それを振り払い、咳払いして、意識を目下の問題に戻す。
「オレたちの足は少ねえ。だから見張る場所を絞る。遠乗りの竜車、その乗り場だ」
アリーゼは視線で先を促した。
「鈍い奴は気付かねえが、オレは服見てすぐピンときたね。普通、親がガキ捨てる理由ってのは金だ。だから、捨てられるガキってのは小汚ぇもんだが、そのガキは服も籠も綺麗なもんだった。変だなって一目でわかったぜ」
「で、捨てる理由は金じゃねえし、置いてったのは『剣聖』の家……となりゃ話は簡単だ。命が危ねえんだ。親は、そのためにガキを置き去りにした」
「ガキを『剣聖』に拾わせて親はどうする? 一番あり得るのは、ガキのための囮になって遠くにいく、だ。ガストンとカンバリーは、遠乗りの竜車に照準を合わせて、そこで見張ってもらう」
ラチンスの推論を聞き終えて、アリーゼが「では」と言い掛ける。
「まあ待て、まだもう一つある」
そこに、ラチンスが得意げに頬を釣り上げ、カンバリーに視線を向けた。
「最後の決め手はこいつだ!」
それを受けたカンバリーは、大げさなで挙動で両手を正面に突き出した。アリーゼは目を細めて、その手に細長い糸が握られていることに気付いた。
「髪の毛ですか」
糸ではない。人の髪の毛だ。灰褐色の、長い髪の毛。
それを握り、カンバリーは勝ち誇ったように胸を張る。
「この籠に残ってた、別の誰かの髪の毛だ! ガキとは髪の色がちげーし、となるとこれは置いてった親! それも母親の髪の毛ってことになる!」
「……驚きました」
アリーゼが目を瞬かせる。
「なんだ? アリーゼ様も分かってたんじゃねえのか?」
「いえ、母親が金髪の可能性は低いと思っていましたが、籠の中に髪が残っているとは考えていませんでしたよ」
「じゃあどうやってオイラたちが見つけると思ってたんだよ」
「場所さえ絞り込めれば、周囲を警戒している女性を見つければいい。そういった嗅覚は、私たちよりも絶対的に優れているでしょうから」
「……なるほどな」
納得の表情を見せるカンバリーたちに、アリーゼは「それと」と続けた。
「カンバリーでしたら、敷布や毛布の匂いを憶えて、すれ違いざまの匂いで見つけられるかもと」
「むしろそっちの方が酷いだろ!?」
その変態的な捜索法に、カンバリーが目を剥く。が、アリーゼは「冗談です」と笑った。
「いや……」
「笑えねぇんだよな」
ガストンとラチンスは顔を見合わせる。
アストレア領へ来て一ヶ月あまり。その間にカンバリーは、高原を越えたフランダースの花街で一度、ちょっとした騒ぎを起こしていた。
その結果、アリーゼに迷惑を掛け、金銭面と稽古の両方で罰を受けている。
あの一件を思えば、アリーゼの言葉を冗談と断じる自信は、二人にはなかった。カンバリーもバツが悪そうに身を縮めている。
「何はともあれ、期待以上です」
脱線しかけた空気を、アリーゼが一言で本題へ戻す。
「ガストン、ラチンス、カンバリー──頼みましたよ」
「はい」「ああ」「分かっ…分かりました」
信頼の籠もった言葉と視線に、三人は気合十分に頷いた。