アストレア家の長女   作:slo-pe

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王選候補として

 

 

 フェルトが脱走したあの日、『剣鬼恋歌』による歴史講義が終了したのは、日を跨ぐぎりぎりの時刻だった。

 ラインハルトの『歌唱の加護』と『仕様の加護』を無駄遣いした、神がかり的な美声とリュートの音色は一級品の芸術だった。しかし、それを一通り聴き終えてから、アリーゼによる亜人戦争の歴史講義が始まった。

 

『剣鬼恋歌』は、正史を基にした歌である。

 歌だけでなく劇の題材としても人気が高く、その台本を読み込むだけで、亜人戦争前後の歴史なら試験でそれなりの点が取れるとさえ言われている。当然、それを語るアリーゼの歴史講義も濃密極まりない。

 空腹かつ夜食ありという条件でなければ、フェルトは早々に投げ出していただろう。

 

 その翌日、フェルトが欠伸を噛み殺しながらドレスに身を包み、礼儀作法の授業を受け終えた。

 息苦しい格好から解放されたフェルトは、お行儀よく甘味を口にしていた。

 

「は? 領地に帰る?」

 

 そんな中、アリーゼからとある報告がされた。

 

「ええ、フェルト様がいらしたことで、本来より滞在が長くなってしまいましたが、いつまでも領地を空けておくわけにはいきませんので。明日にはここを発ちます」

 

 ティーカップを手に、涼やかな顔で微笑むのはアリーゼ・アストレアだ。彼女も夜遅くまでフェルトへ授業をしていたのだが、それを微塵も感じさせない。

 

「……じゃあ、誰がアタシの面倒を見るんだよ」

「ロム爺と、ラインハルトが代わりとなります。王選候補者の一の騎士は、騎士団の任を免除されるんです。正式な辞令はまだですが、明日からは実質的にフェルト様専属の騎士となります」

「…てことは、これからはアイツに付き纏われるのかよ」

 

 フェルトは恨めしげに、しかしどこか名残惜しそうに声を漏らした。

 

 アストレア家に来て1週間、アリーゼが所用で出掛けた事はあれど、全く顔を合わせなかった日はない。

 あんなに反発していたはずなのに、いざいなくなるとなると、心に妙な穴が空いたような気分になる。

 

「ええ。ですが安心してください。王選開始前には私も戻って来ますし、それまでに身に付けるべき教養は二人に伝えてあります」

 

 今は部屋に二人きり。これまでフェルトに付きっきりだったロム爺は、ラインハルトと授業予定の相談をしている。

 

「そーかよ」

 

 そう返してから、フェルトは残っていた焼き菓子を口へ放り込んだ。

 作法を無視した動作にも、お小言は飛んでこない。焼き菓子も、いつもより少しだけ甘さが足りない気がした。

 

「フェルト」

 

 アリーゼが、フェルトを呼んだ。呼び捨てだ。

 

「……なんだよ」

「こっちへ来て」

 

 ぽんぽんと、アリーゼはソファの空いたスペースを叩いた。

 

「はぁ? なんでだよ」

「来て」

「嫌だ」

「来て」

「……」

 

 フェルトは露骨に顔をしかめた。アリーゼは微笑んだまま、ソファを叩き続ける。

 しばらく睨み合いが続いた後、根負けしたようにフェルトがのそのそと歩み寄ってきた。

 

「ったく、なんなんだよ──って、おい!」

 

 瞬間、アリーゼは両腕をフェルトの背中に回した。そのまま引き寄せて、ぎゅっと抱き締める。

 

「ちょ、おま、おい!」

 

 フェルトが全力で暴れ出す。しかしアリーゼは逃がさない。

 

「離せ! 離せって!」

「嫌」

「なんでだよ!」

 

 腕の中で暴れるフェルトに、アリーゼは静かに言った。

 

「ごめんね」

 

 その一言に、フェルトの動きが止まった。

 

「……何がだよ」

「もう、十分に苦労したはずの貴女は、これから別の、もっと大きな苦労を抱える」

「……」

「美味しいご飯を食べて、清潔な服を着て、贅沢にお風呂に入って、温かい布団で寝る……それと引き換えに、貴女はこれから、もっともっと苦労する」

 

 沈黙するフェルトに、アリーゼはその頭を優しく撫でながら続ける。

 

「でもね、私は、貴女が頑張っているのを知ってるよ」

「……」

「フェルトは勉強も嫌いで、礼儀作法なんてもっと嫌い」

「当たり前だろ」

「それでも逃げずに向き合ってる」

 

 昨日は逃げ出したけど、それはそれね。アリーゼはおどけたように付け加えた。

 

「だから私は、貴女に期待してるよ」

「何をだよ」

「色々」

「……勝手にしろ」

「うん。勝手に期待する」

「……つーか、なに頭撫でてんだよ」

 

 むすっとした声、だが抵抗は先程より弱い。それに拘束から逃げ出す素振りもない。

 僅かな抵抗に、アリーゼは撫でる手を止めることはしない。フェルトも諦めた。

 

「……アタシは別に、お前のために頑張ってるわけじゃねえぞ」

「知ってる」

「ロム爺のためだ」

「知ってる」

「お前が脅迫したんだもんな」

「そうね」

「あとは飯と風呂とベッドのためだ」

「そう」

「それだけだ」

 

 アリーゼは微笑んだ。

 

「今はそれで構いません」

 

 フェルトは嫌そうに眉を顰めた。見なくてもわかる。アリーゼは今、あの穏やかな笑みを浮かべている。

 それがなんだか、ムカついた。

 

「……で、いつまで抱きついてんだ」

「嫌ですか?」

「嫌に決まってんだろ」

「そうですか。では休憩も終わりですし次の授業に……」

 

 アリーゼが腕を解いて離れようとするが……離れない。フェルトがアリーゼの服を掴んでいた。

 

「……もう少しだけ、こうしてやる」

 

 咄嗟に動いてしまった。

 授業よりはこうしている方が楽だからだと、フェルトはそう自身に納得させた。

 

「はい。もう少しだけ」

 

 アリーゼは再び、その頭をそっと撫でた。

 フェルトは子供扱いされているようで気に食わなかったが、不思議と振り払う気にはなれなかった。

 

 

 

 

 その日の夜。

 王都の中心にそびえ立つ、ルグニカ近衛騎士団の詰所。その一角にある会議室に、数人の男たちが集まっていた。

 

 上座に座るのは、近衛騎士団長マーコス・ギルダーク。頑強な肉体と、職務に対する厳格さを体現したような、鉄の規律を持つ男だ。

 その隣には、近衛騎士団副団長兼アストレア家当主、ハインケル・アストレアの姿もあった。

 

 そして彼らの前に並び立つのは、次代のルグニカを担う、王選候補者たちの『一の騎士』組だ。

 

 当代の『剣聖』であり、フェルトの騎士となるラインハルト・ヴァン・アストレア。

『最優の騎士』の誉れ高く、アナスタシア・ホーシンの騎士であるユリウス・ユークリウス。

 そして、クルシュ・カルステンの騎士であり、王国最高の治癒術師『青』でもあるフェリックス・アーガイル。

 

「──集まってもらったのは他でもない。間もなく、賢人会より『王選の開始』が正式に宣言される。五人の王候補、そして彼女らを支える騎士たちの動向は、これからのルグニカの命運を左右する」

 

 マーコスが低い声で切り出すと、会議室の空気がピリッと引き締まった。

 これまでは水面下での動きでしかなかった王選が、いよいよ公に始まる。

 

「既に決まっていた4人の候補はいいとして……ハインケル、アストレア邸で保護しているという『五人目の候補』の様子はどうだ?」

 

 マーコスに話を振られ、ハインケルは乱暴に鼻を鳴らした。

 

「一言で言やぁ、じゃじゃ馬だな。躾のなってねえクソガキって感じだ。……だがまあ、うちの娘が直々に面倒見てるからな。王選までには、なんとか見れるようになってるんじゃねえか?」

 

 ハインケルの言葉に、マーコスはふっと、厳格な顔を少しだけ緩めた。

 

「アリーゼ・アストレアか。……あの娘なら、じゃじゃ馬の扱いも得意か」

「当たり前だろ、誰の娘だと思ってやがる」

「少なくとも昔の跳ねっ返り具合は、お前とは似ていないと思うがな」

「あー、あれは親父の血だろうな……ただまあ、昔のアリーゼも、今のアリーゼも、変わらず可愛いだろ?」

 

 マーコスはため息をついた。言葉の端々に、娘に対する親バカっぷりが隠しきれていなかった。

 そんな上司たちの様子を見て、ユリウスがそっと、自身の胸元にあるアストレア家の家紋が入ったハンカチに手を当て、優雅に微笑んだ。

 

「副団長の仰る通りです。アリーゼは……私の婚約者は、昔から何一つ変わっていません。腕白でもお淑やかでも、その本質は気高く真っ直ぐなまま。彼女の指導であれば、どのようなじゃじゃ馬であろうとも、必ずや立派な淑女へと生まれ変わるでしょう」

 

 ユリウスがサラリと、熱烈な惚気を口にする。公の場であっても婚約者への賛辞を惜しまないその姿勢は、流石は『最優の騎士』といったところだ。

 ちなみに、正式に婚約者となった今も、お義父様と呼ぶと猛烈にキレられるため、ユリウスは副団長の呼称を続けている。

 

「はぁ」

 

 2人からの身内贔屓に、マーコスは再び、深くため息を漏らす。そして、もう一人の身内へと視線をやる。

 

「フェルト様は当家が保護する前から、文字の読み書きや数計算は習得していました。また姉上の指導の賜物でもありますが、食事作法は既に下級貴族と比べてもそれほど見劣りしません。フェルト様自身の飲み込みも非常に早い」

「ほう」

 

 ようやくもたらされた公平な評価、マーコスは視線で先を促す。

 

「明日には姉上が領地に戻ってしまいますので、私が教鞭を執ることになっています。王選までには、賢人会、並びに騎士たちの前に出ても恥ずかしくない王候補になると、お約束できるでしょう」

「そうか」

 

 先ほどハインケルとユリウスの身内贔屓を嘆いていたマーコスも、ラインハルトの宣言には満足そうに笑った。

 黙って聞いていたフェリスは、「ラインハルトも言ってること変わんにゃくない?」と思ったが、口にしたのは別の事だ。

 

「フェリちゃんとしては、そのフェルトちゃんって子がやる気あるのが意外だなぁって」

「フェリックスどういう意味だ」

「いやだって、貧民街の子がいきなり王様候補ですよ? 普通は逃げ出したくなると思うんですけど」

 

 フェリスの言葉に、各々はまさかという表情になった。徽章に選ばれた次代の王候補が、そんなだらしのないことなどあるものかと。

 ただ、ハインケルだけは違った。

 

「その辺はアリーゼが上手く制御してんな。昨日に一度脱走してたが、何だかんだ授業自体は真面目に受けてるらしい」

「へぇ……見逃されたんだろうけど、『剣聖』の屋敷から脱走しようだなんて、その子も肝が据わってますねえ」

「戻って来た時も笑えたぞ。『腹が減ったから戻ってきてやった』って、ふんぞり返ってやがった」

「わぁお、確かにそれはじゃじゃ馬だ」

「アリーゼも、あれは内心笑ってたな」

 

 フェリスの小気味良い反応に、ハインケルは屋敷でのフェルトの様子を語る。

 

 話を聞く限り、飲み込みは早く、度胸もある。王候補としての資質は十分に見えた。

 だが同時に……

 

 優秀そうだ。

 

 優秀そうなのだが。

 

 本当に大丈夫なのだろうか。

 

 マーコスとユリウスは、揃ってそんなことを考えていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 朝食を終えて少しした頃、アリーゼ・アストレアが王都を発った。

 

 だが、アストレア家の様子は変わらない。

 ハインケルは騎士団の任のため出掛けるが、ラインハルトは屋敷に留まったまま。アリーゼから教わっていたのがラインハルトに変わっただけ。

 いや、アリーゼが『ちょっと頑張ればできる』を基準としていたのに対して、ラインハルトは『為政者として学ぶべき』を基準としているため、むしろキツイのだが、美味い飯のためならと我慢もできた。

 

 ただ。

 

「なあ」

「どうしました、フェルト様」

 

 フェルトには、一つ気になる事があった。

 

「王様になったら、どんな苦労があるんだ?」

 

 昨日アリーゼに告げられた言葉が、ずっと引っ掛かっていた。

 

 ──美味しいご飯を食べて、清潔な服を着て、贅沢にお風呂に入って、温かい布団で寝る

 ──それと引き換えに、貴女はこれから、もっともっと苦労する

 

 抱き締められながら聞いたその言葉が、妙に頭から離れない。

 

「歴史と伝統あるルグニカ王国、その王となり民を養っていく。その責務こそが一番の苦労なのではないでしょうか?」

 

 即座に返ってきたラインハルトの答えに、フェルトは顔をしかめた。

 

「お前が言うと、難しいことが余計堅っ苦しく聞こえんな」

「そうでしょうか?」

「そうなんだよ」

 

 言葉としては理解できる。だが実感が湧かない。

 王だの責務だのと言われても、つい先日まで貧民街を駆け回っていたフェルトには縁遠すぎる話だ。

 

 そこでフェルトは、隣でティーカップを傾けていたロム爺へ視線を向けた。

 

「ロム爺、翻訳」

「まったく……」

 

 呆れたように言いながらも、ロム爺──バルガ・クロムウェルは静かに口を開く。

 

「つまりじゃな。国王や領主……人の上に立つ者は、その決断が自分一人だけで終わらんのじゃ」

「どういうことだ?」

「例えばじゃ。昨日、お主は授業をサボったことで夕飯を減らされたな」

 

 フェルトの眉がぴくりと動く。

 

「思い出させんなよ」

「お主一人の話なら、一食くらい抜いても死にはせん、腹が減ったで終わりじゃ。じゃが、国を治める者の失敗はそうはいかん」

 

 ロム爺は太い指を一本立てた。

 

「税の取り方を間違えれば農民が潰れる、商人が潰れる。備蓄を読み違えれば食い物が足りなくなる。兵を動かす判断を誤れば、帰ってこられん者が出る」

「……それだけか?」

「それだけ、ではない。それが何千、何万という単位で起こるんじゃ」

 

 フェルトは思わず黙り込んだ。

 

 何千。何万。

 貧民街の住人を全部集めても、そんな数にはならない。

 

「他にも戦争や暴動、魔獣災害。問題を挙げていけばキリがない。正しくとも犠牲は出るし、間違えても明日はやってくる。その判断の重みは、上に立つ者しか分からん」

 

 ロム爺の声は淡々としていた。だが、その瞳の奥には妙な重みがあった。

 

 かつて、万の亜人を率いて王国と戦い、敗れ、多くの同胞を死なせた男の言葉。

 その事情はフェルトには分からなくとも、語られる一言一言には確かな重みがあった。

 

「それに、為政者は自分が間違えた責任を、本当の意味では負えん」

「?」

「その間違いで死んだ者も、飢えた者も、生き返りはせん──自分の決断の結果を、一生背負い続ける。それが上に立つ者の苦労じゃろうな」

 

 部屋が静かになる。

 フェルトは難しい顔をした。正直、まだよく分からない。

 数万の民がどうとか言われても想像もつかないし、自分がそんな立場になることも実感できない。

 ただ、アリーゼが言っていた『苦労』が、勉強や礼儀作法の話ではないことだけは分かった。

 

「……王様って、面倒くせえな」

 

 ぽつりと漏らした言葉に、

 

「そんな事を言ってはなりませんよ」

 

 ラインハルトがそう窘め、

 

「今さらじゃな」

 

 ロム爺は、小さく笑った。

 

 

 

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