フェルトは苛立っていた。
彼女は都市庁舎の一室にて、十人会の面々と会議を進めている。広々としたその部屋は、壁に大きく亀裂が入っており、扉も外れている。
都市の代表が集まる場所としては貧相で、この最悪の状況を象徴していた。
気休めを言えば、十人会の彼らは優秀だった。
この非常事態に私益を狙う愚か者もいなければ、特別扱いを求めて叫ぶ阿呆もいない。
会議自体は恙無く進められる。
アナスタシアから貸し出された『鉄の牙』や、キリタカの私兵である『白竜の鱗』など。都市内の警邏に当たっている彼らからプリステラの現状報告が回ってくるが、目新しい話はない。
住民のほとんどは避難を済ませており、人的被害はそれほど多くない。それは先ほどの一時的な水門開放を経ても変わらなかった。
建物の被害など、この状況では些事。十人会の彼らと共に復興の段取りを付けるだけで終わる。
フェルトを苛立たせているのは焦りだった。
制御塔を握られている以上、明確に状況が好転しない限り、時間が経てば経つほど負の感情は積み重なる。
それが『憤怒』により共有・増幅されるのだ。今のところ衝動的な暴発が起きたという報告はないが、いつそうなってもおかしくない。
なのに、何もできない。
フェルトには戦う力がない。この状況を打破できる術を、彼女は持っていない。
彼女の一の騎士、ラインハルトには世界最強の武力がある。住民を守らなくていいのなら、プリステラを崩壊させていいのなら、すぐにでも大罪司教たちの討伐に向かわせられる。
だが、そんな事はできない。できるはずがなかった。
何もできない。
できるのに、できない。
状況だけが悪くなっていく。
「ふぅー…………」
フェルトは思わず舌を打ちそうになり、それを深く吐き出す。
フェルトは王選候補五人の代表としてここにいる。苛立ちを表に出せば、それは下の者たちに伝播する。
今の彼女は、舌打ちすら自由にできない立場にあった。
──もう十分に苦労したはずの貴女は、これから別の、もっと大きな苦労を抱える
──美味しいご飯を食べて、清潔な服を着て、贅沢にお風呂に入って、温かい布団で寝る
──それと引き換えに、貴女はこれから、もっともっと苦労する
王選開始前、アリーゼに言われた言葉が蘇る。
この一年、テレシアやフラム・グラシス、ラインハルトが作った美味い飯を、腹いっぱい食ってきた。
肌触りのいい服は着ていて楽だし、テレシアやアリーゼのお陰でお洒落とやらも悪くないと思えるようになった。
デカい風呂も、ふかふかな布団も、貧民街にいた時には想像もできないくらい、至福の時間だ。
その対価だと割り切ることで、アリーゼとテレシアを脳内に召喚して励ましてもらうことで、フェルトは何とか役割を果たそうとしていた。
そうでなければ、今すぐラインハルトに命じて上空に──雲の上に逃げて、プリステラを脱出し、ハクチュリに帰りたくなってしまう。
ハクチュリ繋がりで、アストレア養成所について思考が向いた。
ここプリステラにも、養成所の卒業生はいる。
『白竜の鱗』に一人、治安維持の衛兵に七人の計八名だ。
生存が分かっているのが五名。彼らはそれぞれの避難所で、住民を守り、落ち着かせ、万が一の暴動に備えている。
都市庁舎を守っていた二人に関しては、ハエになって別室で保護されているか、多腕族の大男に斬り刻まれたか。どのみち最悪には変わりない。
そして、残る一人を、フェルトは思い出せない。
プリステラに到着した昨日、都市を巡り、確かに八人と会話したはずなのに、フェルトには七人分の記憶しかない。
『暴食』の権能。不自然なまでに自然な記憶消去が、それに喰われたのだと教えてくる。
再び舌打ちしそうになるフェルトだったが、今度はそれを抑え込む必要はなかった。
「フェルト様」
十人会の警護を担当しているラインハルト。部屋の外に控えていた彼が、フェルトの前にやってきたからだ。
「どーしたよ」
近づいてきたこと自体は、彼が隠していなかったため気付いていた。簡潔に用件を訊ねると、ラインハルトも余計な修飾を入れることなく答えた。
「アナスタシア様とスバルが、フェルト様に相談したいことがあるそうです」
◆
──『ミーティア』を使い、人々の希望を蘇らせる。
ドン底に沈むプリステラ、その状況を変える切り札になる一手。
アナスタシアとの相談が終わり、放送案にGOサインが出れば、その後の動きは早い。エミリアから伝言を預かってきたアルに、引き続きメッセンジャーを頼み、フェルトとラインハルトを呼んでもらう。
彼らがこの最上階に来るまでの僅かな時間、スバルは交渉への心構えを整えていた。
かくの如く、勇往邁進と交渉に臨んだスバルだったが、
「ダメだ」
そう発言したのはフェルト。そのセリフを向けられた相手は、『ミーティア』を背に長い説明をしたスバル。
フェルトは『剣聖』の主として、スバルはアナスタシアに責任を突きつけられたことで。
アナスタシア、ユリウス、ガーフィール、アル。──同席者はいるが、交渉は向かい合う二人に一任されていた。
「理由を聞いてもいいか?」
交渉の焦点は、『ミーティア』を使った放送において、ラインハルトにその大役を担ってもらうこと。
アナスタシアから、フェルトが賛同しない可能性を示唆されていたため、スバルも戸惑うことなく訊ねることができた。
「逆に聞きてーけど。なんでナツキ・スバルは、ラインハルト・ヴァン・アストレアにその放送役を任せてーんだ?」
おそらく意図的にフルネームの呼称を使ったフェルト。その理由は分からなくとも、質問の答えはすでに決まっていた。
「ラインハルトは王国最強の『剣聖』で、この場にいる誰より知名度が、何より力がある」
「そーだな」
「そのラインハルトの口から戦おうって意思表明すれば、きっと勝てるって思える、都市中に希望が蘇るはずだ」
「そーかもな」
スバルの答えに二度相槌を打ったフェルトは、間を取り、続きがないことを確認してからこう切り出した。
「で、希望を持ったからって何になる?」
「は?」
スバルは思わず呆けた。だって、意味がわからない。
今のプリステラは『憤怒』の権能の影響で不安が共有・増幅され、爆発寸前の火薬庫と化している。現状は燻っているだけで留まっているが、いつ火が付くのかわかったものではない。
それを希望に変えられるのなら、その意義は極めて大きいはずだった。
「希望を持たせるってんなら、確かにコイツは最適だ。都市中の全員を立ち上がらせることだってできるだろーぜ」
「なら!」
「けど、それじゃ意味ねーだろ。目的を履き違えんな」
フェルトの断言に、スバルは二の句を継ぐことができない。
フェルトとて、放送によるメリットを理解していないわけではない。理解した上で、その優先順位を下げているのだ。
「プリステラを取り戻す、そのために四つの制御塔を奪還しなきゃなんねー。逆に言えば、それ以外はその場しのぎでしかねえ──放送した後の算段は付いてんのかよ」
「……てめェもさっき、ここを取り戻すのに賛成してッたろォが」
言葉に詰まるスバルに代わり、ガーフィールが嫌みをむき出しにして反論する。
だがそれが、論理的に反論できないが故の苦し紛れの嫌みであることは明白だった。
「あれはここの『ミーティア』を好きにさせてっと、状況が一瞬で悪化しちまうからだ。危険を冒してでもやる必要があった。結果的に水門を開かれて追加の放送もされた。状況は悪化したけど、その代わりここを取り戻せて、これ以上『色欲』に放送されることはなくなった」
フェルトはそれに論理的に反論し、ガーフィールを沈黙に追い込む。
彼女が視線を、ガーフィールからスバルに戻す。
「良い感情なんて長続きしねえ。希望が持てたって、状況が変わんなきゃ薄れて、一瞬で絶望に変わる。一回上げて、また落とされたら、もう立ち直れねーぞ」
◇◇◇
フェルトが去った後、スバルは『ミーティア』に手を置いて呟いた。
「どうすっか……」
フェルトはラインハルトに放送役を任せることは拒否したが、放送案自体は否定しなかった。
希望から絶望に叩き落とされるリスクは無視できないが、今の都市の状況が悪いのも事実。
フェルト個人としては反対だが、対策本部としての決定なら従う。だがその大役を負うつもりはない……絶望の矛先を己の一の騎士には向けさせない。そんなスタンスだった。
「ナツキくん、どうするん? 放送、やめる?」
「……やめねえ」
アナスタシアの問い掛けに、スバルは首を振った。
「フェルトの言ってることは、正しいと思う。希望を持たせることにもリスクはあって、良いことだけじゃねぇ。……でも、それでも避難所を今のままにしておけねぇ」
「そう」
アナスタシアは肯定も否定もせず、ただ一つ相槌を打った。
「そんなら人選のやり直しや。誰が放送役を担うか、決め直そか」
「だな……つっても、あの話をされた後だと頼みづらくはあるんだが」
スバルは遠慮がちに、アナスタシアを見返す。
この都市庁舎からの放送で、街中にいる人々の希望を奮い立たせ、その心に巣食った不安を追い払う。
『剣聖』の次に相応しい人物となると──、
「別にウチはその責任を負ってもええよ。都市に巣食う不安を払拭するんは、それだけの価値がある。──でも、こんなん自分で言うのもなんやけど、ウチの言葉にそこまでの効果を期待するんは難しいと思う。ホント、力不足を認めるみたいで癪なんやけど」
アナスタシアは視線の意味を理解し、その上でそれを却下した。
「なんでだ、アナスタシアさんは王選候補者で、プリステラに住む人たちもその事を知ってる。知名度で言えばラインハルトにだってそうそう劣らないはずだろ?」
「知名度の話だけでいいんなら、そうやね。それでうまくいくんなら、ウチも喜んで何でも話したる。けど、そうはならんよ。現状、ウチの名前に魔女教の不安を追っ払う力はない。無名の誰かよりは期待できる、ぐらいがせいぜいやね」
「そ、それでも!」
「それじゃ意味ない。ナツキくんもわかってるやろ? 必要なんは希望。不安に支配された人たちの心が、一気に突き動かされて沸き立つ、そんな希望」
アナスタシアの自己評価と断言に、スバルは二の句を継ぐことができない。
本音を言えば、そんな彼女の弱腰を叱咤し、考えを正したい。しかし、他の誰でもない、アナスタシア自身が自分の無力を悔しく思っている。
「────」
白く、小さな拳が自憤に震えるのが見えて、スバルは歯痒い思いを噛みしめた。
アナスタシアとて、考えなしにこんなことを言い出したわけではない。その逆だ。考えに考え抜いたからこそ、自分ではこの役目に不足していると正しく判断した。
「口先で騙くらかしたらええって話なら、やれんことはない。十人の五人ならウチが騙しても構わん。けど、ナツキくんがやりたいんはそれと違うやろ。身を切るって判断を嫌やって否定した、ナツキくんの考えとは」
「それは……なら、クルシュさんならどうだ? 王選の場でも、白鯨戦のときでも、クルシュさんの言葉には力があった。あの人の言葉なら……」
「……せやね。クルシュさんの言葉なら、きっと力があった。でも、今のクルシュさんにその力はない。彼女をここに引っ張り出して、『ミーティア』の前に立たせるなんて不可能や」
「────」
スバルだけが、この目でクルシュの容態を確認できていない。だから、アナスタシアの表情の沈痛さが、ユリウスとガーフィールの見せた哀憫が、理解できない。
「なら、ユリウスはどうだ? お前ならその資格が……」
「……すまない。君の期待に、私では応えられない」
「ん……ユリウスはウチの自慢の騎士、近衛騎士隊の精鋭でもある。でも、ユリウス自身の武勲が、どこまで魔女教相手に通じるん? 知名度って意味ならウチの方が上、口の上手さも含めたら、やっぱりウチの方が勝算あるくらい」
クルシュは立たせられず、ユリウスの推薦も当人と主人の二人から弾かれる。
それなら、残る可能性はリカードになるか。あるいは都市の中を駆け回り、今も避難所を巡るプリシラと、リリアナを連れてくれば──、
「──ナツキくん、いい加減目逸らすのやめたら?」
思考に沈むスバルを引き上げたのは、アナスタシアの咎めるような声だった。
「────」
何を言っているのか。
そんな言葉は、真っ直ぐに自分を見つめるアナスタシアの眼光に粉々に砕かれた。
言い訳を封じられ、思考に空白が生まれる。そこへ、アナスタシアは強く踏み込んだ。
「王選候補者でも、近衛騎士でも足りない。『剣聖』の代わりを務められる『英雄』なんて、この都市に一人しかおらんやろ」
ただ、静かに、事実を並べる彼女に、ナツキ・スバルの逃げ道が塞がれてゆく。
『英雄』
それはナツキ・スバルが、この世界で最も大切にしている言葉だ。
──スバルくんは、レムの英雄なんです。
一人の女の子の告白に勇気づけられ、ナツキ・スバルは立ち上がることができた。彼女の英雄であろうと誓った。
──貴方は『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレアに並ぶ功労者の一人
──貴方はもう、身の程知らずの大法螺吹きではいられない
──共に戦った兵は皆、貴方を英雄として見ている
──ナツキ・スバルという名は、貴方が思っている以上に重くなってしまった
そうして成し遂げた偉業は、ナツキ・スバル本来の器とかけ離れて大きくなり、
「俺、なのか……?」
今改めて、その重さを突きつけられた。
スバルの揺れる視線が、弟分のそれとぶつかった。
「大将しか、いねェ」
ガーフィールの真っ直ぐな言葉が、スバルに再び視線を逸らすことを許さなかった。
「大将なんだよ。だって、そォだろ? 魔女教の大罪司教を、『怠惰』を倒したなんて肩書き、他の誰も持っちゃいねェんだ。それが今、この街で一番……一番、でけェ意味がある」
ガーフィールの言葉に熱がこもり、視線にも少しずつ力が宿っていく。牙を一度だけ強く噛み鳴らし、少年は仰ぐようにスバルを見ている。
「魔女教に占拠された街に、魔女教の大罪司教を倒した男がいる。これ以上、相応しい誰かがいるもんかよォ。ナツキ・スバルの名は、『剣聖』ラインハルトにだって負けねェ! 大将! アンタなんだよ!」
「──っ」
近付くガーフィールが両手を広げ、吠えるようにそう言った。
その勢いに気圧され、スバルは思わず後ろへ一歩下がる。その背中が、すぐ背後に立った誰かとぶつかった。ちらと見れば、細身の長身がスバルの背中を支えている。
ユリウスだ。彼もまた、ガーフィールと同じようにスバルを見つめ、顎を引く。
「ウチも、そう思うよ。『剣聖』の代わりになれる『英雄』がいるとすれば、ナツキくんしかおらんて」
「アナスタシアさんまで……」
ユリウスの後ろではアナスタシアが、襟巻きに自分の口元を埋めて俯いていた。
その表情には、憂慮があった。スバルを『英雄』にさせてしまうことへの憂慮があり、その瞳はやめてもいいと語っていた。
しかし同時に、都市を守らんとする責任者として、その声に揺らぎはなかった。
「お前も同じか、ユリウス? お前まで、本気で……」
「──。覚えているかな、スバル。君が王城で、王選の場で、大勢の騎士たちの前で啖呵を切ったことを。その後、私が君を練兵場で打ち倒したことを」
スバルの問いかけに、一拍溜めたユリウスがそう聞き返した。それを受け、スバルは軽く息を呑み、そのままそれを吐く息として、
「生涯、三指に入る大反省と屈辱の瞬間だぜ。忘れようったって忘れられるもんかよ」
「私も、よく覚えているとも。君の根拠のない宣言も、騎士を呪った醜態も、その後に白鯨との戦いに加わり、ついには『怠惰』の討伐をも成し遂げたことも」
「────」
「この都市にいる誰かの声が、不安に震える人々の一助となるなら……それは、君こそが相応しいと私は考える。少なくとも、君が手を貸せと言えば私は貸そう。君の求めに応じるものは、ガーフィールを始めとして大勢いるだろうが、その中に私もいるだろう。そのことを、覚えていてくれるといい」
それは、それらは、途方もないほど重い信頼の上に成り立つ誓約だった。
「────」
驚き、息を詰めて、スバルは自分に寄せられる期待の大きさに目が眩む。
首を巡らせ、アナスタシアを見た。彼女は唇を噛み、それでも頷いた。
振り返り、今度はガーフィールを見る。彼は牙を見せ、拳を突き出した。
ユリウスもまた、変わらずスバルを見ている。向き直れば、優麗に顎を引いた。
「──大将」
ガーフィールが、アナスタシアが、ユリウスが。それぞれの想いでスバルにそれを期待する。
重みに潰されそうになって、いつだってスバルは必死なのに、必死なだけでは足りないのだとばかりに、次から次へと重石がスバルへ圧し掛かる。
──事ここに至り、スバルは『放送役』が背負う重荷を真に理解する。
『英雄』は、その人のための称号ではない。
一度『英雄』になってしまえば、背負ったものを下ろすことは許されない。
たった一人の少女のための、小さく温かな誓い。彼女だけの『英雄』であった少年は、共に戦った兵にとっても『英雄』になった。
ここで選んでしまえば、ナツキ・スバルはプリステラ全ての『英雄』になってしまう。
フェルトは、ラインハルトにこれ以上重石を背負わせないと誓った。
ナツキ・スバルがここで選ぶべき、これから歩むべき道は──
「──迷うなら、やめちまえよ、兄弟」
その、頬を硬くしていくスバルの鼓膜を打ったのは、そんな掠れた訴えだった。
顔を上げる。正面、昏い眼差しがスバルを見ている。
「あの嬢ちゃんも言ってただろ。放送なんかしてもその場しのぎでしかねぇ。迷うんなら、やらなくていい。やめちまえ」
「てめェ、この期に及んでまだそんなッこと言いやがるのか……ッ!」
口を挟んだアルに対して、ガーフィールが怒りも露わに前に出た。そのまま距離を詰め、ガーフィールの腕がアルの太い首を鷲掴みにする。そうして、いつでも首をへし折れると言わんばかりの体勢で、ガーフィールがアルを睨みつけた。
「黙ってろ! てめェに大将の何がわかる? 知ったような口利くんじゃァねェ!」
「お前の方こそ、知ったような口を叩きやがる。大将ってのは魔法の呪文か? どんな状況でも打開してくれる、スーパーマンのお名前かよ」
「──ッ」
冷たい口調で言い捨てるアルが、自分の首を掴むガーフィールの腕に触れる。途端、ガーフィールが顔色を変え、アルを掴んでいた腕を素早く引っ込めた。
その、自分の反応の理由がわからない顔のガーフィールに、今度は逆にアルが顔を近付け、黒い兜とガーフィールの額が衝突する。
「ずいぶん頼りっきりにしてるみてぇだが、ここにいる奴がそんな大層な男かよ。殴り合いすりゃお前の方が強い。知恵比べしたって、そこの嬢ちゃんにも騎士にも勝てねぇ」
「うるッせェよ! てめェが大将を語んな! この人が、俺様にとってどんだけ……」
「何もかも背負って、それでどうにかなるんなら大したもんだ。主役の器だぜ。けど、大多数の凡人はそんな役目なんて背負えねぇんだよ。オレはもちろん、兄弟だってそうさ。なのに、なんでそんなに背負わされなきゃならねぇ。……可哀想だろうが」
最後、付け加えるような一言にガーフィールの表情が揺らいだ。
今のアルの言葉に何を思ったのか、強く、噛みついていた勢いが損なわれる。
「なぁ、兄弟。兄弟にとって、一番大事なもんはエミリアじゃねぇのかよ」
身を引いたアルが、ガーフィール越しにスバルにそう問いかけていた。
答えを聞く前から、アルの声には失望したような響きがある。すでに、答えのわかっている質問をしたような、まるで期待していない白けた響きが。
「────」
アナスタシアと、ユリウスの二人は何も言わず、無言で二人の対峙を見守っている。
すでに、かけるべき言葉はかけた。あとの判断は、スバルがすべきと委ねている。
「お、俺様ァ……ぁ、た、たい……」
顔を上げ、すぐに俯いて、ガーフィールがかける言葉を迷った。躊躇った。普段のように大将とスバルを呼ぼうとして、それが孕む意味を思って形にできない。
そうして唯一、スバルに何の期待もしようとしない男が、言葉を重ねる。
「オレは姫さんの……プリシラのために行動する。だから、他の奴らのことは全部後回しにするつもりだ。オレと姫さんと、あとはシュルトちゃんが助かりゃ御の字さ」
「アル……」
「兄弟もそうしろよ。エミリアだけ助けて、尽くせばいい。どうせ魔女教の奴らなんざ、潰しても潰しても湧いて出てくる害虫だ。通り魔みたいなもんだよ。関わるだけ、損をするのさ」
そう言って、アルはどこか縋るように、頼りなく声を震わせた。
アルの考えは、また一つの答えではあった。
魔女教の奴らが害虫だというのは、スバルも全くの同感だ。関わり合いになっても何の得にもならない、それも否定しようのない事実である。
だが、状況は収束し、奴らはスバルたちと関わってきた。降りかかる火の粉を払うために、スバルは行動しなくてはならない。
アルからすれば、それが何故という疑問に繋がるのだろう。
無論、エミリアが囚われているという差し迫った状況があるのは事実だ。
ただ、仮にエミリアと無関係であったとしても、きっとスバルは逃げる選択肢は選ばない。
それは『英雄』だからではなく──、
「赤信号の交差点に子どもが飛び出したら、理由を考える前に手を引いて歩道に連れ戻すよな。……たぶん、そんな感じなんだよ」
ただ、それだけだった。
◇◇◇
スバルからの交渉を拒否したフェルトは、十人会がいた会議室には戻らず、
「フェルト様、僕は……」
彼女に声を掛けたのはラインハルト。彼は何かを言いかけ、その唇の動きが止まった。
フェルトが彼を見やると、その瞳が揺れる。そして、フェルトはそんなラインハルトに先を促すでもなく、薄く笑った。
「アタシも、てきとーな言い回し上手くなったろ?」
そう言い放ったフェルトに、ラインハルトが目を見開く。そして直後、彼の表情に大きな変化が生じた。
「──はい」
微笑みと共に頷いて、ラインハルトの青い双眸に光が戻った。
武力でも、名声でも。都市の悲惨な現状を打破する力があるのに動けない。彼を苛んでいた痛苦が、その瞬間だけでも確かに晴れたのだ。
「ま、言い訳を二つ、三つ作ってたのは、アリーゼのやり方見てきたからだけどな」
「言い訳などと……フェルト様のそれは、れっきとした主張でしたよ」
「本音を隠してんだから、言い訳なんだよ」
ラインハルトは、先ほどの交渉の席にいなかった。フェルトが外させた。
だが、都市のどこにいても主の声を聞き分ける『剣聖』が、扉越しの声すら聞き取れないはずもない。フェルトも盗み聞きされていたことを当然と受け取っていた。
「魔女教の報復はないって話になったときは、備えといてよかったって思ったぜ」
アナスタシアは当初、放送した後の魔女教の報復を憂慮していた。
フェルトも当然それを言い訳にするつもりでいたが、それはスバルの推論によりクリアされてしまった。
故にフェルトはさらに、希望と絶望は紙一重であると、そう建前論で主張した。
その裏には、ラインハルトを『英雄』にさせないという意図を乗せた。
だが、それらは全て、さらなる本音を隠すためのものだった。
嘘はついていない。真実を一枚ずつ前に出して、最も言いたくない本音だけを隠し通した。
『変心の加護』
他人の心を自由に変えることができる加護。
ラインハルトは思うだけで──加護を望むことで、ではない──加護を自由に取得できる。その特異体質が生んだ悲劇。
決して外部に知られてはならない、ルグニカ王国の秘事。おそらくこの都市の誰も、クルシュすら知らないそれを、フェルトはアストレア家から聞かされていた。
幼いラインハルトは、国家転覆さえできる危険な加護を、父親の助けになりたいという一心で、そうと知らずに取得してしまった。
幸いハインケルが「この子はまだ幼い」「自分が善悪を教える」と主張したことで事なきを得たが、その危険性は想像に容易い。実際にその加護は、ラインハルト自身が消去している。
『ミーティア』を使った放送で都市中を鼓舞するのは構わない。
けれど、ふとした弾みでラインハルトが『扇動の加護』なんかを得てしまうことは、絶対に避けなくてはいけなかった。
世界の治安という意味もあるが、それ以上にフェルトの、主としての矜持だった。
「フェルト様、ありがとうございます」
「そういうのいいから。テメーはいざってときにちゃんと戦うことだけ考えとけ」
「はい」
おざなりに手を振るフェルトに、ラインハルトは小さく、けれども深く頭を垂れた。
それは騎士の礼であると同時に、主君へ捧げる、心からの感謝の証だった。
どうでしたでしょうか、
演説前の誰がやるか問題。『英雄』とはなんぞやというテーマを原作とは少し違う展開で描いたお話でした。
今回のお話は、
17話の「英雄」の出来事を色濃く受け継いでいます。同じタイトルを二重括弧で括っているのも、それが理由でした。
良ければ読み返していただけると嬉しいです。
それでは今回は以上です。
ではまた次回。