『水の羽衣亭』
アナスタシアがスバルたちを招待したその宿は、魔女教の都市襲撃にも拘らず、その美しい景観を全く損なっていなかった。
そして、その宿は現在、アナスタシア所有の傭兵団『鉄の牙』と、カルステン公爵家の貸切とされていた。
客間の一室には、二つの布団が少し離れて並べられている。
ワフー庭園が映える静かな夜にも拘らず、そこに眠る二人の寝姿は苦しげなものだった。
一人は常時身体を苛む痛みにより。
もう一人は敬愛する主を、その痛みから救えない現実に打ちのめされて。
時折主が苦鳴を漏らすと、その声に騎士も目を覚まして彼女に寄り添う。プリステラ攻防戦が終結しても変わらない、耐え難い苦痛の日々。それは今日も続く──そのはずだった。
「誰ッ!?」
室内に唐突に生じた気配に、寝衣姿の騎士──フェリスが跳ね起き、叫ぶ。
「こんばんは。急にごめんなさいね、フェリス」
暗闇でも判別できるほど鮮やかな金髪を持った女は、急な来訪を詫びた。
フェリスはその声と容姿に、彼女が誰であるか思い至った。
「アリーゼ……?」
「ええ。こんばんは、フェリス」
「こんばんは……」
侵入者──アリーゼは不気味なほど平然と、フェリスの問いを肯定する。
「明かりをもらえるかしら?」
「あ、うん、今つけるネ……」
その態度に、彼を襲っていた警戒心が薄れていく。『虚飾』ではなく、彼女の自然体な姿に、フェリスは場の異常さを忘れかけていた。
そうして灯った明かりの下、布団に横たわる女性、クルシュ・カルステンが照らされる。
アリーゼの喉が引きつる。覚悟して、平静を装って、淑女としてのカタチを保つ。──そんな簡単なことも、できないぐらいに。
──カペラの血を浴びて、黒い呪いを受けたクルシュは酷い状態だった。
首や手足など、見える範囲の肌には斑に黒い紋様が浮かび上がっている。タオルケットと服の下の肌も、同じ状態なのは想像に難くない。
当然、被害は首から下だけではない。凛々しく、鋭い剣を思わせたクルシュの怜悧な美貌、その顔の左側が黒い斑の侵食を受けている。何の悪意か、顔の右側は美しさを保ったまま、それがかえって顔の左右を対比させ、高潔が汚される嫌悪を催させる。
左目を覆うように眼帯がかけられているが、その下は想像すら憚られた。
それら黒い血管のような網目は不自然に脈動し、そのたびに寝息に激痛を思わせる震えが走る。
アリーゼは、フェルトからクルシュの病状を伝えられていた。
それを語る彼女が浮かべた沈痛さが、垣間見えた哀憫が、今になってようやく理解できた。──これは、あまりに酷な仕打ちだった。
「……ありー、ぜ?」
アリーゼが言葉を失うその先で、その琥珀色の瞳が開かれる。自身を照らす光により覚醒したクルシュが、突然の来訪者に気付いた。
「クルシュ……」
アリーゼも何とか唇を動かし、名前を呼んだ。
「みぐるしい、格好で、すまない……見舞いに、きてくれた、のか……」
「……ええ」
クルシュが弱々しい声で謝罪する。彼女の悲痛な態度に、アリーゼは唇を噛みそれ以上の表情変化を拒んだ。
二人を照らす明かりを持つフェリスは、前進しない主の姿に、何度目かも分からないほど自分の無力を悔やんでいた。
苦しむ親友を前に、アリーゼは跪き、その手を取った。
その手指にも、黒い斑の侵食がある。歪な見た目なのに、触り心地はすべらかで、それがますます不憫さを際立たせた。
「ねえ、クルシュ」
ただ、今度のアリーゼは、感情に言葉を奪われることはなかった。
「私を、信じてくれる?」
「……なにを」
「お願い、頷いて。──私を、信じて」
アリーゼは言葉を飾らなかった。幼い頃から積み上げてきた、二人の信頼に全てを委ねた。
クルシュは霞む意識の中、思考した。
なぜアリーゼはこんな夜更けに来たのか。
見舞いに来てくれたというのに。醜く成り果てた自分が、笑うこともできない自分が憎い。
信じろと言われた。彼女に何ができるとも思えない。何か、したいことがあるのだろうか。自分をこんな目に遭わせた『色欲』への報復、アストレア家を上げての魔女教殲滅でも。
──否、そんなことはどうでもいい。
アリーゼ・アストレアを、呆れるほどの問題児を、唯一無二の親友を。クルシュは信じたいと思った。
そして、
「────」
小さく、頷いた。
安堵したように、吐息に柔らかさが宿るのをクルシュは感じた。
その、眼帯で塞がった左目ごと包みこむように、アリーゼの手が彼女の頬へと手を伸ばされる。それが首筋を撫で、鎖骨を過ぎ、双丘を、腹を通ったところで。
「『消えろ』」
苛烈な一言が、穏やかな口調から発せられた。
変化は一瞬で、劇的だった。
醜悪な呪いに凌辱されていた肌が、色白で、シミ一つなかったクルシュ本来のそれに戻った。
「は……」
「え……」
クルシュとフェリス、主従が息を漏らす。
対してアリーゼは、一仕事を終えた安堵と達成感に息を吐いた。
クルシュは身体を起こし、半信半疑という面持ちで自分の身体を見下ろしている。呆然と主の姿を見詰めていたフェリスが、明かりを放り出して彼女に抱きつき、そして泣き出した。
そんな二人を、アリーゼは明かりを拾い、ただ傍で照らし続けていた。
◆
『水の羽衣亭』の一室は、沈黙に包まれていた。
何となく、口を開くのが憚られる雰囲気が漂っていた。だが、その不自然な沈黙に耐え続けることもまた、彼らにはできなかった。
「自分の身に起こったことだというのに……未だ信じられないな」
最初にポツリと呟いたのはクルシュだった。
「一体、何が起こったんだ? 何をどうすれば、こんなことが可能なんだ?」
彼女は己の騎士、王国最高峰の治癒術師『青』の技量に絶大な信頼を置いている。
そのフェリスが自身の病状に対して、思いつく限りの方法を試し、手を尽くした後だということは疑う余地もない。
それでも治癒の見込みがなかった呪いが、『消えろ』の一言で、文字通り消え去ったのだ。
「……アリーゼ、これだけは教えてくれ」
遂に、と言うべきか。
この奇跡の真相を知る彼女に、クルシュは問い掛けた。
「何かしら?」
応える口調は冷静なものだった。
ただ、表情の硬さは隠しきれていない。
いや、もしかすると、隠すつもりも無いのかもしれない。
アリーゼはわざと、水晶のように硬質な表情を作っているのかもしれなかった。
「この治癒は……いや、私の身体にあった呪いは、どうなったんだ?」
「消えたわ。その存在ごと、クルシュの身体から消え去った」
そうして返って来た答えは予想外の、けれども予想通りのものだった。
「……そうか」
アリーゼの回答は、クルシュの困惑を100%解消するものではなかったが、それでも追及しないことを選んだ。
だが、困惑を抱えていたのはクルシュだけではなかった。
「クルシュ様を救ってくれたことには感謝してるけど……でもアリーゼは何をしたの。私が何をしても変わらなかったのに。スバルきゅんもそう、私じゃ助けてあげられないのに……そんなの、おかしいでしょ? 私は『青』なのに、だったらアリーゼは何なの。あれは治癒魔法じゃないの? クルシュ様に何をやったの!?」
「フェリス、落ち着け」
言葉を重ねている内に興奮してしまったフェリスを、クルシュが宥めた。
「すまないアリーゼ、気を悪くしないでくれ。フェリスは私のことを心配してくれているだけなんだ」
「大丈夫よ。分かっているから」
クルシュのフォローに、アリーゼは控えめな微笑みで応じた。
「アリーゼはなんなの……あれは魔法じゃない、治癒魔法なら私が分からないはずがない……ねえ、あれは何、何をしたの──答えてよ!」
「フェリス!」
少し雰囲気が和らいだと思ったところに、それをぶち壊すフェリス。クルシュから再度、先ほどより厳しい叱責が飛んだ。
だがそれでもフェリスは止まれなかった。
「あれだけの力があるなら、なんでもっと早く来てくれなかったの! クルシュ様が苦しんでたのに、どうして今まで助けにこなかったの!」
フェリスのそれは、言いがかりでしかないことは明白だった。
アリーゼはプリステラが魔女教に襲われたことなど知らなかった。むしろフェルトから報告を受けたその日に、『虚飾』を知られることを覚悟で飛んできたのだ。
だがそれでも、アリーゼは甘んじて──ぎりぎりのところで堪えながらも──それを受け入れていた。
けれど──
「『暴食』も『色欲』も、この都市の全部どうにかなるんでしょ! それなのに役立たず! 意気地なし! あのユリウスとかいう騎士だって、王都の『眠り姫』だって──」
「『黙れよ』」
瞬間、フェリスが声を失った。比喩ではない。物理的に発声が不可能になった。
それだけではない。目を見開いて、ぱくぱくと口を開閉させるフェリスは、それ以外の動作ができていない。
そんな彼に、アリーゼは怒気のこもった口調で言う。
「さっきっから黙って聞いてれば、うるっせんだよ」
フェリスはもちろん、クルシュすら聞いたことないほど荒く、強く、アリーゼは彼を糾弾する。
それを見て初めて、クルシュは覚った。アリーゼは荒れ狂う激情を己が裡で氷づけにすることで、無理矢理平静を保っていたのだと。
「何が『青』だ、王国最高の術師様だ。てめーはお母様も治せないヤブで、お父様に期待を持たせるだけの詐欺師だろーが。それが自分の主を治せなかっただけで、ぎゃーぎゃー騒ぐんじゃねーよ」
──彼女は今、余裕がなかった。
──彼女は今、狂気の一歩手前にいた。
『夢の城』も『虚飾』も、
けれど、決して「何でもできる」チカラではない。
『暴食』に喰われたユリウスが意識が残っているのは、未だに何故か分かっていない。レムの一件から、そうなってしまってはアリーゼでは元に戻せないことだけが分かっている。
彼を憶えていられるのも、『夢の城』による抵抗であると──目の前の事実から、そう推測するしかないのだ。
『色欲』に侵されたクルシュもそうだ。
血の呪いは祓えた。けれど、それが可能かどうかは、こうして目にしなければ分からなかった。
呪いの種類、進行度、時間経過。少しでも何かが違えば、アリーゼの不完全な『虚飾』では干渉できない可能性もあった。
もしユリウスが意識を奪われていたら、そもそも彼を忘れてしまっていたら。
もしクルシュの呪いを祓えなかったら、苦しむ彼女を見ているしかできなかったら。
そう思うだけでアリーゼは気が狂いそうだった。
何より王都の『眠り姫』。
アリーゼの母親であり、20年近く眠り続けている女性。アリーゼは彼女のことをほとんど憶えていないし、もうすぐその歳を越してしまう。
──けれどハインケルは、今なお彼女を想い続けている。
アリーゼの『虚飾』では、彼女を救えない。
剣に愛されず、けれども『剣聖』と『剣鬼』の息子であり、『剣聖』の親であろうとするハインケルを──アリーゼを愛してくれる父の痛みを、祓うことはできないのだ。
それらに触れられて、堪えていた感情の堤防が決壊した。
「お母様も救えない、殿下も救えない。それが今度は『暴食』も『色欲』も治せず、自分の主も救えなかったってだけの話だ。役立たずはてめーで、それを人に当たってんじゃねーよ」
アリーゼは不意に「ああそうだ」と呟くと、そっと、人差し指の先でフェリスの胸を突く。
「その無駄に刻まれた、自分しか守れねー治癒術式が、どこまで効果あるか試してやろーか。大瀑布に落ちて、そのチカラを証明して沈み続けるか、そのチカラが足りないと証明して溺死するか……試してみるか?」
アリーゼの指先が、胸元からゆっくりと上がり、フェリスの顔を指し示す──
「待ってくれアリーゼ、頼む」
その寸前、クルシュがその手を止めた。力は入っていない、ただ添えられた手に、アリーゼは止まった。
「……ごめんなさい、クルシュ。少し、荒れてしまったわ」
「……ああ。私の方こそ、助けてもらったのにすまない。フェリスのことも併せて謝罪する」
アリーゼは手を下ろしたものの、その先にいたフェリスは未だ動くことも、声を出すこともできない。
先の二の舞になってはいけないと、クルシュもそれを容認した。
「クルシュ」
「なんだ」
「貴女は、今日この事を、秘密にしてくれるかしら?」
「当然だ」
クルシュは即答した。打算もリスク計算もない、真摯な答えだけがそこにあった。
アリーゼはそれに微笑み、「じゃあそれを話す前に」とフェリスに視線を戻した。
「アリーゼ」
「大丈夫よ、少し眠ってもらうだけ」
クルシュのまさかという声に、アリーゼは問題ないと返す。
そして、硬直したままのフェリスの額に、細い指がそっと触れる。恐怖に瞳を揺らすフェリスに、アリーゼは邪気のない顔で微笑んだ。
「あなたの『今日の出来事は、私の存在を忘れて完結する』こと」
「──ぁ」
「空白は、そうね……貴方は力の限りクルシュの治療に尽くし、奇跡的に呪いを祓えたことで力尽き、眠ってしまった。明朝目が覚めたとき、改めてその快復を目にするでしょう」
焦点の合わない視線が世界をさまよう。そのまま倒れ込むフェリスをアリーゼが受け止め、そっと畳に横たえる。
「今のは、まさか……」
「記憶改変。事象の書き換えの最高峰、私の切り札よ」
アリーゼは穏やかに、その神の如き御業に不釣り合いなほど穏やかに、クルシュの疑問に答えた。
「記憶操作……事象の書き換え……?」
呆然と、クルシュが呟く。
彼女は、「それは何だ!?」と言いたかったに違いない。だがアリーゼは、今度の問い掛けには答えなかった。
「クルシュ、先に言っておくわね。私は今日嘘をつかないし、隠し事もしない。貴女がどんな反応をしても、その記憶を消すことはしない」
「……いいのか?」
「貴女を助けにくると決めた時点で、隠しきれないと思っていたもの。それに、貴女に許されず、糾弾されるなら、それでもいいわ」
「…………」
クルシュは無意識に、唾を飲み込んだ。
アリーゼのチカラを恐れてではなく、彼女が本心で誓っているが故に。
これまで隠し通してきたチカラを、今宵明らかにした。他の誰でもない、クルシュのために。
その重みが、クルシュの身体を拘束していた。
「それと、今日はここに泊めてもらっていいかしら?」
「構わないが……ここに来たのも、アリーゼのチカラなのだろう?」
「ええ。だけどアレを使うと、しばらくはチカラを使えなくなるのよ」
「だから切り札というわけか……朝には帰れるのか?」
「ええ。ハクチュリに戻る程度なら、フェリスが起きるまでには回復するわ」
「そうか」
クルシュは理解できないなりに、理解を示した。
「それじゃあ、説明しましょうか」
そして、理解の及ばないそれを理解するため、快復した思考を集中させる。
アリーゼもクルシュの準備が整ったことを確認して、ゆっくりと語り出した。
「私のチカラは大罪司教と同じ『権能』のチカラ──『虚飾』。事象の書き換えを可能にする、
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