水門都市プリステラからロズワール邸への旅程は、おおよそ十日の道のりだった。
行きと帰りとで同じ日数を費やし、スバルたちが屋敷へ戻ったのは約一ヶ月ぶりとなる。あまり長く屋敷を空ける用事もなかったため、実に感慨深い。
「やーぁや、お帰りなさーぁい。無事のお戻りで何よりだったねーぇ」
そう言って、応接間のソファに腰掛けたロズワールが帰還した一行を歓迎する。
「それにしても、面白い顔ぶれだーぁね」
彼は傍らの一人掛けのソファへ腰を落ち着けると、左手側に並ぶスバル、エミリア、ベアトリスを見やり。
続いてその反対、右手側のソファに腰掛けるアナスタシアとユリウスへと目を移した。
「遠方よりはるばるようこそ。こうして話すのは論功式以来ですねーぇ」
「ホントやね。あのときも、言うほどちゃぁんとお話ししたわけやなかったし、実質、これが初めましてってことになるんやないかな」
社交辞令的なロズワールの挨拶に、唇を緩めたアナスタシアが社交辞令で返す。
二人が話題にした論功式とは、王城で開かれた『白鯨討伐』の功績を評したもので、エミリア、クルシュ、アナスタシア、フェルトとそれぞれの陣営を招いた式典だった。
ロズワールとアナスタシアの顔合わせはそれ以来であり、互いの挨拶はそこそこに腹の探り合いの様相を呈していた。
そして、話し合いは本題である都市プリステラでのことの報告になり──、
「──手紙で報告は受けています。オットーくんとガーフィールの二人が負傷の療養中なのはともかく、魔女教を相手に被害は最小限だったとか」
「ああ、だけど犠牲も大勢出た。特に『暴食』と『色欲』については解決の糸口すら分からねぇ……それを何とかする必要があるんだ」
「そのために目指すのが『賢者』の塔と。──危険な旅路だ。勝算はあるのか?」
『賢者』がいるとされるプレアデス監視塔。その前に立ち塞がるのが、難攻不落のアウグリア砂丘。
王国の重鎮の一人であるロズワールだ。当然、ラインハルトがアウグリア砂丘の踏破に失敗した事実は耳に入っているだろう。
瘴気による幻惑と、多数の危険な魔獣。その障害をどう越えるのか、疑問は必然だ。
だが、その問題に対する隠し玉を同行したと、スバルはアナスタシアに目配せした。
「そこで、うちの出番なんよ。幸い、うちはその『賢者』の監視塔に到着する抜け道を知ってる。それが勝算。どない?」
「言葉で信じろ、と言われましてもねーぇ。そも、砂丘の抜け道なんて情報、大枚をはたいても買いたがる輩は大勢いる。何故、あなただけがそれをお持ちなので?」
「うちは商人で、もちろんお金は大事やね。──やけど、お金に代えられんもんもあるんよ。これは、そんな中の一個やって話。納得いかん?」
堂々と、ロズワールを相手に言葉を尽くすアナスタシア──襟ドナが嘯く。
アナスタシアを装っている偽物にも拘らず、その一言には不思議と力がある。彼女が今、本来の彼女でないことを知るスバルですら、気圧されるような力が。
そのアナスタシアの注視を受け、ロズワールは片目をつむる。そして、
「その若さで大商会の主人を張るだけのことはある。酸いも甘いも噛み分けた人間を言葉で弄するのは大変だ。それに、エミリア様もすでにご納得済みなんでしょう?」
「勝手に決めて、ごめんなさいとは思ってるからね?」
「でも、勝手に決めることをやめようとまでは思わない。それでよろしい。あなたは茨の道をあえて選んで行かれる御方だ。そこにこそ、彼も覚悟してついていく」
エミリアが困難な道を選べば、スバルが乗り越えるべきハードルは高くなる。ロズワールにとって、それが今や『叡智の書』に代わる希望なのだ。
「そんなわけで、アナスタシアさんの案内でなんちゃら砂漠を越える。それが結論だ」
「なんちゃら砂漠ではなく、アウグリア砂丘だ。いい加減に覚えてはどうだろうか」
と、うろ覚えで結論するスバルに、嘆息するユリウスが言葉を差し込んだ。
アナスタシアの隣に座り、ここまでの話し合いを黙って見守っていた彼は、その理知的な眼差しをロズワールへ向けると、
「メイザース辺境伯におかれましては、大変ご憂慮されるかと思います。ですが、都市プリステラでは今も、魔女教の悪事に心身共に傷付いた人々が大勢いるのです。我々の行動が彼らを救う一助となるなら、どうかこの場はお許し願いたい」
「なかなか優美な言い回しだ。私の記憶にない君は、つまりそういう立場だーぁね?」
「────」
記憶の中にいないユリウス、それだけでロズワールは事情を理解する。微かにユリウスが目を伏せると、ロズワールは肘掛けに腕を置いて頬杖をついた。
「『暴食』の権能で人々から忘れられ、世界に取り残される焦燥感。君は君自身のためにか細い希望を求める。それを、誰かのためだなんて装飾する必要はないんだーぁよ?」
「──っ。決して、そのような私利のために動くようなことは」
「責めてるわけじゃーぁない。自然なことだよ。人は何事も、他人のためより自分のための方が必死になるものだ。結果的に他者が救われるにせよ、その過程に救われ、満足感や達成感、優越感を得る心を否定する必要はない」
頬を強張らせるユリウスに、ロズワールはつらつらと道化の笑みを深める。
「ましてや、君が救われれば他者も同じように救われる可能性が高いんだ。大義名分を背負い、行動するのにいささかの呵責もいらないだーぁろう?」
「私は……」
「──メイザース辺境伯、その辺にしといてもらってええ?」
言葉に詰まるユリウスを手で制し、アナスタシアが代わりにロズワールと向かい合う。彼女ははんなりと微笑むと、愛らしく小首を傾げた。
「正直、うちも覚えてへんのよ。それでも、この子はうちの騎士様らしいんよ。それがどうしようもないことでイジメられるんは、見ててええ気持ちやないなぁ」
「記憶から失われても、主従の絆は生きている……と?」
「どうやろね。その辺りのことはうちもよぅわかってへんよ。せやけど、ここまでの道のりでユリウスと過ごした時間は悪ぅなかったし……それに、や」
アナスタシアはそっと、持ち上げた指で対面のソファを指差して、
「いつまでもいらんことして、そっちの陣営が割れるんは防いだつもりやよ?」
「──これはこれは」
ロズワールがアナスタシアの指摘──すなわち、噴火寸前のスバルに肩をすくめる。スバルが怒鳴る寸前ということは、当然、エミリアとベアトリスも同じだ。
その様子にロズワールは降参、とでも言いたげに手を挙げた。
「はいはい、わーぁたしが悪かったよ。そういう側面もあると指摘しただーぁけ」
「ただの余計な嫌がらせだろうが。お前、本当にふざけんなよ」
「その態度、君の方こそ、ほんの数日一緒に過ごした間柄って感じじゃーぁないが」
目つきを鋭くするスバルに、片目をつむったロズワールが黄色い方の視線を向ける。そして、スバルの胸中を見透かすように唇を舐めて、
「また、君だけが覚えているわけだねーぇ。──レムと同じように」
「何の因果か、だけどな」
「それは君が特別な証だよ。大事に、大事にするといーぃ。──欲しくても、得られないものが大勢いるのだから」
後半の述懐はロズワールの口の中だけで呟かれ、スバルの耳には届かなかった。ただ、反論がないわけではなかった。
「ユリウスのことは、俺だけが憶えてるわけじゃねぇ。ラインハルトにフェルト、それにクルシュさんもだ」
「それはそれは、何とも不思議なことだーぁね」
ロズワールはチラリと、視線をスバルの対面──先ほどユリウスの主を名乗ったアナスタシアに送った。
その含みのある視線に、スバルは再び場が荒れる気配を感じて、すぐさま話題を移した。
「とにかく、これまでとこれからのことは、手紙で話した通りだ。座敷牢と……」
「──レムの身柄、だったね。思い切ったことをするものだ。あれだけ、君はあの子に触れられるのを嫌がっていたはずなーぁのに」
「──。起こす方法がわかるかもしれないんだ。試すさ。当然だろ?」
「その、救える手段の最初に彼女を選ぶのが意外なのさ。君は利己主義者を気取るけど、その実、ひどく自罰的だ。心のどこかで、頭の片隅で、自分が最初に救われるべきではないと、そう思ってやしないかい?」
「────」
図星を突かれて、スバルは思わず黙り込んだ。
今回の旅で、スバルは最後の最後までレムを同行させるか悩み続けていた。
それはレムを目覚めさせることへの忌避ではない。当然、レムが目覚める可能性があるのなら、一日でも一秒でも、早く起きてほしいと願っている。
──だが、そのことと、ナツキ・スバルが救われることとはまた別なのだ。
プリステラでは、スバル以外にも大勢の人が同じ苦しみを味わっている。その人たちを差し置いて、どうして最初にスバルが救われるのだ。
そんな罪悪感が、最後の最後までスバルを躊躇わせていたが──、
「そのことなら、ちゃんと私がスバルを説得したの。だから、問題ないわ」
「……ますます、意外ですね」
黙り込んだスバルに代わり、ロズワールに言い放ったのはエミリアだ。
訝しむロズワールは、そう言って胸を張るエミリアに片目をつむると、
「こう言ってはなんですが、レムの目覚めはエミリア様にとってあまり都合がよろしくないのでは? どう考えても、スバルくんはあの子に強い情がありますよ? 場合によっては、それはエミリア様への想いにも匹敵する……」
「そうね、そうだと思う。レムが目覚めたら、スバルはしばらくあの子にかかりきりになっちゃうだろうし、私のこともどうでもよくなっちゃうかも」
「いや、それはいくら何でも……」
ない、と言い切れる。エミリアへの想いが揺らぐことは、絶対にありえない。
ただ、レムを強く想っている気持ちも嘘ではなかった。そしてエミリアの言う通り、レムが目覚めれば、失われた一年の分、彼女にかかりきりになるのは間違いない。
しかし、エミリアはそんなスバルに「いいの」と言って、
「それでスバルにそっぽ向かれるなら、今度は私がこっちを向いてもらえるように頑張るだけだから。今さら、スバルがいないなんて困るもん。だからどんなにレムが可愛くて、大事に想われてても、私の方にもきてもらいます」
「エ、エミリアたん!?」
「それが私の覚悟と、私の決めたこと。それに、誰もスバルが救われたって文句なんて言わないわ。──だからいいの。レムを、起こしてあげましょう」
強い言葉で、エミリアがスバルの決断を後押しする。
その、ある種、告白のような響きに、スバルの方が息を呑み、膝が震えた。
これまでにも何度か、エミリアから好意のようなものを告げられたことはある。あるが、それはどれも彼女の、親愛の域から出ていなくて──、
「私に、レムに、ベアトリスに、ペトラにパトラッシュに、フレデリカとラムと、オットーくんとガーフィール! スバルはすごーくすごーく、幸せ者でいいの」
「後半に地竜と男が混じってたんですがそれは」
照れ臭さや色んな感情がない交ぜで、思わずスバルが口を挟む。
と、それを受けて、スバルの隣に座っていたベアトリスに脇をつつかれた。スバルが「うひっ」と横を見ると、ベアトリスが憮然とした顔つきで、
「別に、今さらスバルの気が多いところに文句を言ったりしないのよ。……でも、片手はいつも空けておくかしら。それは、ベティーだけの特権なのよ」
「……お前、アホほど可愛いな」
「当然かしら。ベティーの可愛さは天地神明に響き渡るのよ」
天地の神々がどう思うかまでは知らないが、スバルの心には響き渡った。
エミリアとベアトリスに後押しされ、スバルはレムの目覚めに尽力する。迷いはない。
「愛されすぎてて悪いな、ロズワール。レムは連れてくぜ」
「君たちには驚かされるよ。……好きにしたまえ。元々、止めるつもりもないしねーぇ」
「じゃあ、さっきまでの問答の意味は!?」
「行いの意味を解しているか、老婆心ながら確かめただけさ。そちらの名無しの騎士殿にも、悪いことをしたねーぇ」
最後の最後まで、揶揄するような物言いをやめないロズワール。
それに対して、ユリウスは「いえ」と首を振り、
「私はユリウス・ユークリウス。今は彼を含め数名の記憶にしか残らぬ身ですが、ルグニカ王国の近衛騎士の一人です。この程度のことで、心を乱すほど未熟ではありません」
そう言い切り、邪悪な魔法使いの邪悪な嫌がらせを見事に撥ね退けたのだった。
「……そのわりには、ぐらぐらだったけどな」
「君はどちらの味方なのだろうか? 今、背中から刺された気分なのだが」
と、最後にそんなやり取りがあったことだけ、こっそりと付け加えておく。
◇◇◇
プレアデス監視塔を目指す『ドキドキ賢者ツアー』は、ロズワール邸に戻ってきたスバルたち5人に、『魔獣使い』のメイリィ、ラムレム姉妹が揃って加わり、想定以上の大所帯となっていた。
それぞれに役割があり、必要不可欠な人員なのだが、合計8名の大所帯で長旅となると、困難な旅路が予想される。
当然、元引きこもり学生のスバルには、未知の領域である。
ロズワール邸に滞在すること数日。
澄み渡る早朝の青空、スバルたちはロズワール邸の前庭に竜車を止め、出発のため最終チェックの最中だ。
今回、長旅のために用意された大型竜車は、十名前後が乗り込んでも十分なスペースのある代物だ。イメージで言えばキャンピングカーに近い。
「さて、今回の旅なんだが、かなりの旅程と困難が予想されるわーぁけだ。その間、一つだけ頼んでおきたいことがあってねーぇ。──ラムのことだ」
「──。メイザース辺境伯、その話は私が同席していてよろしいのですか?」
ロズワールの話に、スバルとエミリアは沈黙し、ユリウスが細い眉を顰める。同行者ではあるが、陣営的には部外者、その自分に何故その話を聞かせるのかと。
「私も
「命……それは、ラム女史の体質に関係のあることなのですか?」
「おーぉや、気付いていたとは……これはこれは、思った以上に優秀だーぁね」
説明に先駆けて、問題の概要を掴んでいたユリウスにロズワールが感心する。
そのままロズワールは頷くと、宙に指で絵のようなものを描きながら、
「気付いていたなら話は早い。──ラムの肉体は、彼女の溢れんばかりの才気を受け止め切れていない。そのため、肉体は常に悲鳴を上げ続けている。倦怠と苦痛は絶え間なく彼女を苛む。……もっとも、気丈な彼女はそんな姿は見せないけーぇどね」
「嘘、そんなことになってるなんて……」
「エミリア様が驚かれるのも無理はありません。あの子は、強すぎる子ですからね」
喉を詰まらせるエミリアに、ロズワールがゆるゆると首を横に振る。
エミリアの抱いた驚きはスバルも共有していた。以前、ラムが角を失い、かつての力をなくしたとは聞いていた。レムも、ラムの力は鬼族の中でも突出していたと。
しかし、なくした角が今もなお、彼女を苦しめ続けているとは知らなかった。
「──なるほど。メイザース辺境伯のお考えはわかりました」
と、そこまで話を聞いたところで、考えがまとまった顔でユリウスが頷いた。その反応にロズワールが「ほう」と眉を上げ、スバルとエミリアも顔を見合わせる。
今の、ただラムの体質を確認しただけの流れで、何がわかったのかと。
「肉体の不調、ゲートの欠陥などが彼女の肉体を蝕むなら、何かがその代わりをする必要がある。おそらく、メイザース辺境伯、これまではあなたがそれをしていた」
「ご名答だ、ユリウスくん。君を覚えていなかったことが本気で悔やまれるねーぇ」
「……そっか! そういうことなんだ」
ユリウスの発言にロズワールが感嘆し、続いてエミリアも理解に手を打った。
その三者の反応に、基礎知識で出遅れるスバルはついていけず、焦れた顔になる。
「おいおい、勝手にわかった感じにならないでくれ。つまり、どういうことだ?」
「簡単な話だよ。ラム女史の肉体は、君と似たような不調を抱えている。ベアトリス様が君にするように、誰かが彼女の肉体の調整をする必要があるんだ」
「いつもは夜、こっそりと私が調整してあげているんだーぁけどね」
「へえ、夜に……あ!?」
ユリウスとロズワールの説明に、スバルの中でとある記憶の歯車が噛み合った。
それは毎晩、ロズワールの下へいそいそと通い詰めるラムの姿だ。正直、最初の頃は主人とメイドのいかがわしい関係だと、生々しさに目を背けていたものだが。
今になって思えば、あれはラムのための一種の治療行為だったわけだ。
「申し訳ありません、メイザース辺境伯。その申し出、私では力不足かと」
一年越しの勘違いが発覚し、顔を熱くするスバルを余所に、ユリウスが言った。その思いがけない言葉に、ロズワールは左右色違いの瞳を細める。
「謙遜や、他陣営に肩入れしたくない、といった様子ではないね。ラムのオドの調整には複数の属性を操る適性が求められる。その点、君は適任だと思ったのだが……」
「辺境伯のご期待は、おそらく私の周りにいる彼女たちのことでしょう」
そう、どこか弱々しく唇を緩めるユリウス。
瞬間、彼の周囲にぼんやりと浮かぶのは、淡く瞬く複数の光だった。ゆらゆらと揺らめく、六色の光。それはユリウスと契約する準精霊、だった存在だ。
「私の蕾たちですが……今、彼女たちと私との間にあった繋がりは消えています。元の肩書きが名乗れる私であれば、その申し出を受けるのに何の躊躇いもありませんが」
「名を奪われたことで、精霊との契約も断たれた、か。しかし、契約が失われた今も、その精霊たちは君の傍から離れたがらないようだーぁけど?」
「消えた繋がりの残滓か、あるいは見えなくなっただけで繋がりは残っているのか。いずれにせよ、これはあくまで蕾たちの慈悲。私の微力では、お力になれません」
準精霊たちの様子を眺めて、ユリウスは力なく吐息する。
「──今はただ、一介の騎士として尽くすだけの身です。申し訳ありません」
「そーぉうかい。それは残念だ。当てが外れて、痛手ではあるが……仕方ないねーぇ」
「……他に当てがあるけど、頼りたくないみたいな言い方だな」
気乗りしない態度のロズワールに、スバルは思わずそう訊ねる。
そのスバルの軽口に乗ってこないで、真剣な声色でロズワールが言った。
「──アリーゼ・アストレア」
「え……?」
「彼女はラムの折れた角、その治療を可能としているらしい」
アリーゼ・アストレア。
それはスバルにとって、忘れられない人物。
かつてスバルに英雄の心構えを説き、背中を叩き、鼓舞してくれた女性。スバルは彼女に、感謝や敬意、憧れすら抱いていた。
プリステラでは邂逅が叶わずにいた彼女と会えるのなら、スバルにとっては僥倖である。
しかし、この場において、その名がもたらす影響は、それだけに留まらない。
何故なら、ここには『暴食』に名前を喰われ、スバルを含めた数人を除き、世界に忘れ去られているユリウス・ユークリウスがおり、
そして──、
「アリーゼが……?」
彼は、アリーゼ・アストレアの婚約者なのだから。
◇◇◇
「アリーゼが……?」
それは、いつもの彼らしからぬ、言葉にならない声だった。
その様子にエミリアは困惑を浮かべた。ロズワールですらその唐突な変化に、悪意のない純粋な疑問を投げかけた。
「ユリウスくんは、彼女と面識があるようだーぁね」
「え、ええ……」
ユリウスは何とか頷くも、その動揺は隠しようがない。ロズワールがそれを訊ねる前に、スバルが一歩前に出て口を開いた。
「コイツは……ユリウスはアリーゼさんの婚約者だ」
「それは、そうか……」
ロズワールはいつもの口調すら出せず、憐憫を込めてユリウスを見つめる。エミリアも同種の視線を彼に向けていた。
『暴食』に喰われたユリウスは、世界に忘れられた記憶の迷い人だ。例外はいるが、それにアリーゼも当てはまっていると考えるのは、あまりに楽観が過ぎる。
その停滞しかけた空気を打破したのは、他ならぬユリウスだった。
「辺境伯。アリーゼがラム女史の不調を緩和できるというのは事実なのですか?」
「……以前、ラムがエミリア様と王都に向かい、私の調整が受けられない時があった。その際、彼女によってゲートの欠陥が部分的に回復したらしい。その効果は一時的なれど、私が直接マナを注入するよりも体調は緩和したとのことだ」
直前までの動揺は消え去り、論理的に問うてくるユリウスに、ロズワールもラムから伝えられた事実を並べる。
「なるほど。ではラム女史のためにも、彼女には同行してもらう必要があるでしょう」
「……そうだね。それが最善だ」
そして、その必要性を明示したユリウスに、ロズワールも頷いた。
戸惑いから抜け出せないのは、スバルだった。
「お、おいユリウス、大丈夫なのかよ?」
「大丈夫、とは? ラム女史の不調を治療できる人員は、この旅路に必要不可欠だ。」
「そうだけど、そうじゃねぇだろ」
ユリウスの『名前』は世界から失われた。関係者全員の記憶から、ユリウスの存在が失われているのだ。
その、世界に取り残される絶望感はスバルにも覚えがあった。『死に戻り』で時間を遡るスバルには、誰も覚えていない世界の記憶が確かにある。一度は築いた関係、それが失われたことだって、一度や二度ではない。
例えばロズワール邸の仲間たちにだって、スバルは忘れられたことがあるのだから。
その状況に陥ったとき、スバルは一人では立てなかった。今のユリウスは、さらにその上を行く。
もし仮に、出会ったばかりではなく、今のエミリアやベアトリスに忘れられたとしたら……スバルは立ち直れる自信がなかった。
そこに凡人も『最優』も関係ない。
スバルはプリステラにて、ユリウスの吐いた弱音を聞いていた。弟を忘れ、自身も忘れられ……そして愛する人にまで忘れられていたらと。
ユリウスがスバルたちに同行しているのは、その重要性と、アナスタシアの騎士である責務と、──そしてアリーゼに会いたくないからだと、スバルは理解していた。
「お前はそれでいいのかよっ、もしあの人が……」
「問題ない。仮に彼女が私を忘れていたとしても、私は騎士の務めを果たそう」
「いや、だってお前、プリステラじゃ……」
「──問題ないと言っているだろう!」
──激発は、突然のことだった。
張り詰めた声が耳朶を打った直後、スバルの視界が一瞬揺らいだ。
原因は、ユリウスに胸倉を掴まれ、引き寄せられていたこと。その端正な顔立ちが、泣きそうに歪んだ表情が、スバルの眼前にある。
「お前……」
スバルはようやく覚った。ユリウスは荒れ狂う激情を隠して仮面を纏うことで、無理矢理平静を保っていたのだと。
「問題、ないんだ。アリーゼは私を忘れてなどいない。忘れるはずがない」
その言葉は、震えていた。
誰よりユリウスが、それを信じきれていない。
それでも微かな希望に縋らなくては、立つことすらできないのだ。
ユリウスは乱暴にスバルから手を離すと、ロズワールとエミリアに向き直った。
「……大変、失礼をいたしました。無礼を重ねて申し訳ありませんが、竜車と地竜の準備がありますのでそちらに向かわせていただきます」
ユリウスは表情を変えずに謝罪すると、返事も待たずに歩み去った。
スバルも、エミリアも、ロズワールさえも、ただ見送るしかできなかった。
「……スバルくん。アリーゼ・アストレアの同行は、ラムのために必要なことだ」
「……そうだな」
その沈黙を破ったロズワールは、ユリウスの態度には触れず、監視塔到達のため話を進めることを選んだ。
「だが、此度のプリステラの一件で、アストレア家──フェルト陣営は『憤怒』の移送を担当するのみ。監視塔への旅路は、我々が為すべきものだ」
「つまり、本来なら必要ない、うちの事情で必要になった人員を借りるってことだろ」
「その通り。そしてその交渉は、アナスタシア様にも、そしてユリウスくんにも任せることはできない……わかるかい?」
「……ああ」
他陣営であるアナスタシアには頼れない。ユリウスに頼ることなどできない。
通常なら交渉事を任せるはずのオットーはいない。エミリアも交渉は不向きなため、必然スバルがそれを担うことになる。
──スバルさんは、ひどく酷なことを仰るのですね
──及第点、ということにしましょうか
白鯨討伐に際して、ラインハルトの力を借りるため、スバルはアリーゼと交渉の席に座った。
だが、あれは元々既定路線だったことに加え、お情けで拙い屁理屈を認められたのだと理解している。
今回は、既定路線ではない。
アウグリア砂丘という危険極まりない場所に、非戦闘員である彼女を連れ出すのだ。情けなど期待できるはずもない。
ユリウスの心情。
記憶の有無。
アリーゼとの交渉。
雲ひとつない真っさらな朝の青とは裏腹に、並べられた要素に不安は尽きない。
それでもスバルたちは『暴食』と『色欲』の被害者を救うため──レムを、ユリウスを救うため、ロズワール邸を出発するのだった。
原作に直接関わる機会はなく、プリステラ編でも出禁だったアリーゼさん。六章にてようやく解禁です。
ラインハルトがいると難易度が爆上がりし、オットーがいれば難易度が下がるプレアデス監視塔。オリ主がいることでどうなるのか。
お楽しみに。
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