ロズワール邸からアウグリア砂丘までの道のりは、本来なら約20日の長丁場だった。
そこにアストレア領ハクチュリに寄るため、プラスで3日ほど掛かることになったが、誤差のようなものである。
長旅の道中は、野盗や魔獣など、これといったアクシデントとも遭遇せず、街道を一路、東へ向かって進みながら時間は過ぎてゆく。
だが、一行の雰囲気は悪いなんてものじゃなかった。
「…………」
「……ええと、ユリウス? お茶でもどう……?」
「ありがとうございます、エミリア様。ですが、気持ちだけ受け取らせていただきます」
静かで、柔らかな口調だった。
だが、その実、声にも表情にも中身がない。鎧のように纏った『騎士』と相対しているように。
「あ、うん、そうよね。もう夜で、そんなに暑くないものね」
エミリアは慌てて相槌を打った。
ユリウスは、苛立ちを露わにしているわけでも、威圧的な態度を取っているわけでもない。申し分なく丁寧な振る舞いでありながら、そこには営業スマイル的な空々しさしかなかった。
慇懃無礼、とまでは行かないまでも、慇懃な虚礼、の感は否めない。
漂いかけた気まずい空気の解消に動いたのは、スバルだった。
「エミリアたん、そのお茶ちょうだい」
「あ、うん、どうぞ」
持て余していたカップをスバルに手渡し、エミリアはようやく一息つく。
「そんで、明日にはハクチュリに着くわけだけど──」
野営の焚火を囲み、スバルは膝の上に座るベアトリスの髪を梳かしながら、明日の予定をメンバーに確認する。
人工精霊であるベアトリスの体は、常に清潔で最適な状態が保たれる特性を持つ。が、それはそれとして、この寝る前の髪の手入れは大事なスキンシップタイムだった。
本来なら大切なパートナーとの絆を深めるため、心穏やかに今日の出来事などを語らいたいところだが、この雰囲気ではそれも難しい。ベアトリスも文句を垂れたりはしなかった。
「──さて、俺はもうちょいベア子との触れ合いタイムを続けるけど、エミリアたんはどうする?」
「ん……そうね、先に竜車に戻って寝ちゃおうかしら」
「それがいい。夜更かしは体に毒だからな」
「スバルもほどほどにね、ベアトリスもそろそろ寝る時間だから」
「おう」
エミリアはスバルに念押しする。その膝の上には、脱力して身を任せ、眠たげに目をこするベアトリスの姿がある。
「んじゃ、おやすみエミリアたん」
「ええ。おやすみなさい」
二人の就寝の挨拶を機に、アナスタシアとメイリィも立ち上がる。そうして竜車へ戻っていく三人の背中を見送ると、残るのは男二人に精霊が一人だ。
「スバル、そうジッと見られると落ち着かない。話があるなら話したらどうだろうか」
「お前がそれを言うかよ……」
小さく嘆息して、スバルはユリウスから一度視線を逸らした。
「……気負うなとは言わねえし、言えねえ。別にお前は俺たちに当たり散らしてるわけじゃねぇし、文句の付け所はねえ」
そう、文句の付け所はない。けれど、文句はある。
スバルの心情は、その一言に尽きた。
「だから俺から言うことがあるとすれば──ふざけるな、浸ってんじゃねぇ。って話だ」
「……スバル?」
──否、文句よりも強い、怒りとも言える激情が、スバルの中にはあった。
「お前、アリーゼさんに忘れられてるって前提でいやがるだろ、後ろ向きかお前? 世界で一番不幸だみたいな顔しやがって。俺とこれまでの不幸比べしてみるか? どうせ俺が勝つぞ!?」
内なる衝動が、言葉を重ねているうちに表に出てしまったスバルの剣幕に、ユリウスは絶句した。
瞠目する彼は、何も言えない。そうして押し黙るユリウスを睨みつけながら、スバルは激情に息を荒くし、奥歯に力を込めた。
「弱気な面、してんじゃねぇ。お前が辛いのも、忘れられて居場所がねぇってのもわかってる。けど……でも、お前に弱い面されるのは御免だ」
激情を孕んだ瞳で、スバルは己の胸に手を当て、断言する。
「忘れたのか、ユリウス。──いや、忘れるな、ユリウス」
かつてそうしたのと同じように、今も、断言する。
「お前の強さは俺の目が知ってる、俺の恥が知ってる、誰が忘れたとしてもだ」
「────」
息が切れる。頭に血が上った感覚が消えない。
本当に、これだけ激怒したのはいつ以来だ。レグルス以来だ。まだひと月も経っていないことに愕然とした。どれだけあの都市での出来事がスバルの心肺に負担をかけたのか。
と、そんな益体もない思考が浮かんで──、
「ふ、はは……」
「ああ?」
「はは……いや、君は本当にとんでもない男だ。それを改めて実感して……」
驚愕が薄れ、代わりに笑いの衝動に押し負けるユリウス。その反応に憮然となるスバルの前で彼は笑い続ける。そして、最後に長く長く息を吐いて、
「そうか、そうだな。──何もかもに置き去りにされたわけでは、なかったのだったね」
そうやって、少しだけ憑き物が落ちたように笑った。
元の調子を取り戻したユリウスに、スバルが軽口で付け加える。
「それにだ、身を守るためとはいえ、あんまりアリーゼさん貶めるような考えしてんな。俺がムカつく」
「……アリーゼと君は、それほど面識はなかったと思うが」
「どうせ知ってんだろ。王都で泣き喚いてたときに背中ぶっ叩かれたんだよ」
スバルがこの世界で深く尊敬し、敬意を払っている人物の一人がアリーゼ・アストレアだ。
同じく尊敬している人物で言えば、白鯨戦で共闘したクルシュも挙がるが、アリーゼとはまた別枠だ。
「あれが無かったら、今の俺はいないかもしれねぇ。お前もそんな顔してたら、あの人に会った時ぶん殴られるぞ」
むしろ出会い頭に一発殴って、この旅路で心労を掛けられた分スカッとさせてほしい。と、そんな事を付け加えると、
「スバル、ベティーを膝に乗せながら、あんまり余所の女を褒めるんじゃないかしら。あと手が止まっているのよ」
ベアトリスが膝の上で存在を主張する。
「その騎士に構ってばかりいないで、ベティーとのスキンシップに集中するかしら。でないと、ベティーの可愛さが台無しになってしまうのよ」
「おいおい、何言って……本当だ! ちょっと目を離した隙にベア子がブチャイクに!」
「なってないかしら! ベティーはラブリーなままなのよ! 失礼かしら!」
スバルの軽口に頬を膨らませ、膝の上から飛びのくベアトリス。「冗談、冗談」と笑いかけるが、ベアトリスの機嫌は直らず、
「ベティーももう寝るかしら。スバルとそこの騎士もさっさと寝るといいのよ……特にそこの騎士は、寝不足で婚約者に会うんじゃないのよ」
「お気遣いありがとうございます。大精霊様」
ベアトリスはそう言うと、欠伸を堪えながら竜車へ歩き出した。
スバルとユリウスは苦笑し、それを見送るしかない。
「だとよ、いつまでも悩んでられねぇぞ」
「そうだな。どうあろうと、明日には答えが出る」
旅の最初のチェックポイントを目前に気を引き締める。『賢者』の監視塔を目指す旅路、一行は明日ハクチュリに立ち寄る。
ユリウスが、スバルが、各々の理由を持って、アリーゼ・アストレアに会いにゆくのだ。
◇◇◇
アストレア家は代々『剣聖』を輩出してきた剣の名家であり、現在は養成所の運営により剣を育む聖地とまで言われている。
それを創設し、仕組みを確立させたのは、他ならぬアリーゼ・アストレアだ。
万事に慎重な彼女は、10年以上担っていた領地経営について、嫁入り予定の前に家族へと引き継ぎを済ませていた。また、何かの弾みでアリーゼが死亡し、『夢の城』により関係者が消え去ったとしても、当面の間は何とか回し、後任に引き継げるようにも取り計らっていた。
つまり、何が言いたいのかというと、今の彼女にはすべき事がさほどなく、暇なのだ。
その日も祖母であるテレシアと、庭いじりに興じていた。
「あら?」
「アリーゼ、どうかしたの……竜車ね」
アリーゼが気付き、テレシアも続いて気づいた。竜車の音だ。
アストレア領ハクチュリは、ドが付くほどの田舎である。わざわざ用がないのに来る者はいないし、アストレア邸が来客を迎えるのはもっと稀だ。
「フラムとグラシスが出迎えるでしょうけど、私たちも着替えましょうか……アリーゼ?」
今の二人は汚れることが前提のラフな格好であり、実際にあちこち土も付いている。誰が来るのかは知らないが、対応するにも着替える必要がある。
そう考え、提案したテレシアだが、隣の孫娘のただならぬ様子に首を傾げた。
「ユリウス……」
「えっ」
テレシアは驚いた。アリーゼが、未だ見えぬ竜車に婚約者がいることを言い当てたことにではなく、おそらくアリーゼに会うことを避けていた彼が会いにきたことにだ。
竜車が到着し、屋敷の門前に停まった。テレシアは立ち上がり、その様子を見つめる。
大型の竜車を引っ張る二頭の地竜、その手綱を握るのは黒髪黒目の男性。その特徴的な容姿から、噂のナツキ・スバルであると理解する。
屋敷から出てきたフラム・グラシス姉妹が彼に対応し、門が開かれる。
竜車は門前に停まったまま、そこから数人が降りてくる。その中には、テレシアが知る人物もいた。
銀髪のハーフエルフ、アナスタシア、桃色髪のメイド、──そして、近衛騎士団の白制服に身を包んだ、長身に艶やかな紫色の髪を持つ男性。
青年はどこか緊張した面差しのままで、視線をあたりを見渡すように向けて。
「──あぁ」
アリーゼが声を漏らした。
彼女の内心は、きっとテレシアが一番よく分かってあげられる。
亜人戦争終戦の記念式典で、結婚式で。あの日、ヴィルヘルムが来てくれたこと以上に嬉しいことなんて、後にも先にも無かったのだから。
「アリーゼ、迎えてあげなさい」
「え、でも……」
アリーゼは視線を落とす。その全身は土埃で薄汚れている。『暴食』に喰われ、本来なら叶うはずのなかった再会でしていいような風体では決してない。
実際、それを理由に一旦屋敷に引っ込み、装いを整えてから、応接室に通されたユリウスたちと対面することだって十分に可能だ。
だが、テレシアは孫娘の後ろに回ると、その背をそっと押した。
アリーゼは一度テレシアを振り返って、視線を迷わせ、そうして頷いた。
手袋を外して、ちょっとだけ前髪をいじって、小さく深呼吸をしてから歩き出した。姉妹メイドに続き、屋敷へと足を進める一行に向けて。
「────」
彼も、視界にアリーゼを入れた。
少女達もアリーゼに気付いて足を止めてしまった。
彼は言葉もなく、ただ立ち尽くしていた。まるで目の前の現実を認識していないようで、端正な顔立ちなのに間抜け面としか表現できなかった。
一歩、二歩、最後の、一歩。十分声が届く距離まで、アリーゼはたどり着いた。
そして──、
「──急に来られても困るのよ?」
将来の花婿の来訪を、そんな言葉と笑顔で労った。
◆
「──急に来られても困るのよ?」
目の前の少女が微笑んだのを見て、ユリウスは息を呑んだ。
「こんな格好で、アナやエミリア様を迎えることになっちゃったじゃない」
彼女は直前まで庭いじりをしていたであろう風体で、日常の延長線上のように、ユリウスの急な来訪を咎めた。
つまり、それは──
「ぁ──」
希望が芽生え、それでも恐怖で名前を呼ぶのを躊躇った彼に、少女は苦笑する。
そして、やれやれと、そう言いたげに。
「おかえりなさい、ユリウス」
そうやって伝えられた言葉に、視界が滲む。
瞬きを一つすると、熱い何かが頬を伝う。鮮明になった視界で、愛しい少女を捉えながら、
「……アリーゼ」
「なぁに」
掠れた、今にも消えてしまいそうな程の声で名前を呼べば、返事が返ってくる。
「アリーゼ」
先程よりも強く名前を呼べば、
「なに、ユリウス」
先ほどよりは甘さが減った、けれども微笑みが深まった返事がきて──それが契機だった。
言葉はなかった。もう彼女の顔は見えない。力の限り彼女を抱き締める。
嗚咽が聞こえる。アリーゼではない、ユリウス自身の嗚咽。分かっていても、止められない。よしよし、と背中を撫でられ、さらに悪化する。
「アリー、ゼ」
「ええ」
「貴女は、私を憶えて……」
「憶えているわ」
「本当に……」
「ええ。歳をとっても、『暴食』に喰われても、それこそどちらかが死んだとしても、私は貴方を忘れない」
「死ぬなんて、そんな」
「ものの例えよ、馬鹿ね」
呆れるように言われた。愛おしむように言われた。
たったそれだけのことで、たったその一言だけで、ユリウスの中の、最後の──本当に最後の堤防が決壊する。
ボロボロのそれが壊れ、破れ、溜め込んでいたものが一気に外へと流れ出す。
それは封じ込めたつもりで、しかし欠片も消すことのできずにいた激情の吹き溜まりで。
感情が制御できない。
一度爆発したそれは堰を切ったように溢れ出し、『騎士』の仮面をかぶった臆病者の顔を涙で盛大に汚していく。
涙が止まらない。鼻水が垂れてくる。口の中がわけのわからない液体で溢れ返り、泣く声をさらに聞き苦しいものへと変える。
みっともない。情けない。
大の男が、『最優の騎士』が、大勢の前で、大泣きだ。
みっともない。情けない。
それなのに、どうしようもないくらい、温かく満たされている。
「アリーゼ……!」
──そうして彼は叶うはずのない再会を果たし、最愛の女性の名を呼んだ。
「お疲れ様、ユリウス。頑張ったね」
──彼女もその奇跡を心の底から喜び、ずっと届けたいと願っていた言葉を紡いだ。
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