──レイド・アストレア。
それは、伝説に名を残した剣士の名前だ。
魔獣を斬り、剣豪を斬り、龍を斬り、ついには魔女を斬ったとされる大剣士。『剣聖』の名を最初に賜った人物であり、世界を救った三英傑の一人でもある。
アストレア家の栄光の始まりにして、今なお剣に生きるものたちにとって至上の憧れ──。
信じ難いことではあった。それは、四百年も前に失われたはずの命だ。
だが、ここは四百年前を生きた『賢者』が作り上げた塔。その性格の悪さを思えば、最強の番人として初代『剣聖』を置き、彼を超えてみせろなどと、いかにも言い出しそうなものではないか──。
その事実を収穫に、スバルは急ぎ『緑部屋』へと舞い戻った。
相手がレイド・アストレアであると知れたなら、その対策を練らなければならない。
無論、敗戦の影響が彼に残っていることは想像がつく。しかし、相手の素性を知ればその恥も
何せ、相手は『剣聖』──ラインハルトと同じ家名を持つものであり、その家名を作り上げた始祖にあたる人物だ。
そう思えば、あの敗戦のことだってうまく消化できるはずで──、
「──あの、馬鹿野郎」
そんな慰めの言葉を抱えて、『緑部屋』へ戻ったスバルは押し殺した声を漏らした。
部屋の奥にある、負傷者を寝かせる精霊が作り上げた草のベッド──三つのベッドにはそれぞれ、レムと、アナスタシアがいて。
アナスタシアの隣にある一つ、そこが空になっていた。その草で編まれたベッドの上に、折れた騎士剣だけを残して。
「スバルさん」
そうして『緑部屋』から駆け出たスバルを呼び止めたのは、アリーゼだった。
「アリーゼさん、悪い今は──」
「ユリウスは、中にいないのですね?」
「……ああ」
いち早く話を切り上げようとしたスバルだったが、アリーゼに核心を突かれ、それを認める。
「では、私が二層に行ってきますね」
「え、いや危ないし俺が……」
「大丈夫ですよ」
二層の試験官、レイド・アストレアの危険性を考慮するスバルだったが、アリーゼが浮かべている微笑み一つで跳ね返された。
「悪い騎士様を連れ帰ってくるついでに、ご先祖様へ挨拶するだけです。危険など、ありませんよ」
彼は、ゆっくりと巨大階段を上るアリーゼを、ただ見送った。
◆
剣の頂を、目指したことがあった。
その場所ならば目指せるのではないかと、思ったことがあった。
すぐに、それは高望みだったと手放した。
赤い髪の少年──愛する人の弟に叩き伏せられ、その圧倒的な剣才に否定されて。
彼の所為では、決してない。
自らの力で頂に至り、『剣聖』の座から一人の少女に、愛しい少女に引き戻す。それを成し遂げた『剣鬼』もいた。──ユリウス・ユークリウスは、それを諦めてしまっただけ。
頂を夢見ていた少年は、あっという間に死んでしまった。
「つまンねえな、オメエ」
良い師に恵まれたと、そう思っている。
師の剣術は今の自分と比べればいくらか見劣りするものがあったが、自分の実力以上に他者の才能を伸ばすのに長けた人物だった。
戦いの中で重要になるのは剣捌きだけではなく、足運びと足捌き。最適な位置に最速で、最高の形で飛び込む、そのために必要なのだと。故に剣技の修練を始めた頃は、何より最初に足運びを叩き込まれたものだ。
剣技の実践だけでなく、その技術の発祥や継承の歴史、そんなことを話すのが好きな人で。自然と、自分もまたそれを聞くのを楽しみ、実践できることを誉れに思った。
「気持ち悪ぃンだよ、オメエ。綺麗なお面貼り付けてンのか、オメエ。他人の猿真似ばっかで満足か、オメエ。剣も、オメエも、つまンねえよ」
憧れがあった。輝く物語が溢れていた。
それらに並び立とうとするには、今の自分では足りなすぎると思った。
だから懸命になって、足掻いて、いずれあのときに手放した夢にもと、思って。
「馬鹿言えよ、オメエ。できるかよ、オメエに。できねえよ、オメエにゃ。届くまで振れねえ。届くまで振ってねえ。できるまで振れねえ。できるまで振ってねえ。やることやってねえのに、やりてえことだけ言ってンじゃねえよ、オメエ」
剣戟の中で投げられる、心の内を読んだような言葉。反論する代わりに、強く強く剣撃を叩き込んだ。
けれど、一を打ち込めば、十を超える打撃が降り注ぎ、叩き込まれた。
「誰もオメエなンざ見てねえよ。期待しちゃいねえよ。オレが遊ンでやってると思って甘えてくンな。殴っても蹴っても楽しかねえよ、オメエじゃよぉ」
眼帯に塞がれていない青い瞳が、ざんばらに伸ばされた炎の色をした髪が、かつて夢を手放す切っ掛けになった少年と、その後に抱いた数多の憧れの一つと重なる。
いつか、届きたいと願って、努力を欠かさずに、過ごしてきたつもりだった。
「足りねえよ、オメエ。全然、足りねえ。──人生、サボってンじゃねえよ」
届きたいと願った憧れに吐き捨てられ、棒切れ一つで叩きのめされる。
剣すら振るってもらえずに、振るった剣を届かせることも叶わずに、重ねてきた努力など無意味だったと、積み上げた血と汗は無為だったと、突然に崩された自分の人生の中、唯一、これだけはと信じたものさえも、踏み躙られて。
じわりと、何かが込み上げる。
それを、それ以上に湧き上がるものが掻き消した。
「かっ! 堪えンのかよ。ますますつまンねえな、オメエ」
胴を打たれる。息が詰まる。髪を掴まれ、左右へ振り回された。そのまま床へ叩きつけられ、転がった拍子に顔面を蹴り飛ばされる。そのまま円盤のようにぐるぐると回って床を滑り、果てない白い世界を延々と転がされていく。
床を叩いた。体を跳ね上げ、蹴り飛ばされた方向を見る。その顔に、飛び込んできた男の膝が直撃した。激突の瞬間、こちらから膝に額を合わせ、額を割られながらも男を弾き飛ばすことに成功する。
間隙が生まれた。体勢を立て直せる──はずなのに、体が動かない。
「ふ、く……」
全身が悲鳴を上げていた。特に頭部に受けた被害が大きい。ぐらぐらと揺れる意識は定まらず、気が抜ければ次の瞬間にも頭の中身がこぼれ落ちそうだ。
剣、剣は、どこにいったのか。確かめるように、ゆっくりと、自分の右手に力を込める。そこに、確かな剣の柄の感触があった。安堵する。
──強く在り、あなたを支えると、主君に宣言した。
──強さを覚えていると、友に言われた。
──強くなり、あなたの隣に相応しい男になると、愛する人に誓った。
名前を、家を、家族を、戦友を、友を、魂で結ばれた精霊を、失って。
何もかもなくした世界でも、自分を支えてくれる人が僅かながらに残っている。彼らに誓った『強さ』だけは、失えない。
失ってはいけないはずだった、のに。
「──迷いが剣に出たぜ、オメエ」
「────」
自問自答にどれだけ時を費やしたのか。
おそらくは一秒にも満たぬ刹那のこと。だが、その刹那の隙間があれば、それは男にとって──『剣聖』にとって、敵を無限に屠る機会を得たも同然のことだ。
甲高い音が、響いた。目を見開けば、そこには床を転がっていく剣が映る。
この手を滑り落ちて、ついには剣さえ失って。
名も、誇りも、剣もなくして、ここに立つのは、ならば何なのか。
「天剣に至る資格なし。──オメエにゃ、子分の立場もやれねえよ」
渇いた声が冷たく告げて、『剣聖』が棒切れを順手に握り、腰を落とした。
初めて、『剣聖』が構えた瞬間だ。
直後、棒切れが唸りを上げ、剣撃──それは、紛れもなく剣撃だ。絶対的な剣撃が放たれ、衝撃波に揉まれながら、吹き飛ばされる。
これは暴力ではない。これが剣の頂、剣の最高峰、真の『強さ』が放つ剣技。
ユリウスの意識は、剣により生み出された光に呑まれ、ぷつりと途切れていった。
◇◇◇
──それは、長い長い階段を上る最中のことだった。
階段の先で、白光が空間を塗り潰していく。
原理は不明だ。ただ事実として、斬撃は衝撃波を伴い、空間を一掃する。
剣を振るえば世界が割れる。まさしく『剣聖』の絶技だ。
その剣撃の射線上にいた人物もまた、光に呑まれ、為す術なく吹き飛ばされる。
アリーゼ・アストレアはそれを知っている。弟が放つそれを、何度か目にしていた。
知っていてなお、足を速めることはしなかった。
ゆっくりとした歩調で階段を上り終えると、目の前に広がっていたのは草原だ。そこには片袖を脱いだ赤毛の男の長身と、まるで躯のように転がる紫髪の剣士の姿があった。
「なンだ、またいい女が来たじゃねえか、オメエ」
アリーゼに気安く声をかけたのは赤毛の男だ。彼は直前のやり取りなど忘れた顔で、息一つ乱さずに鮫のように笑った。
それから、打ち倒されている剣士──ユリウスを指差すと、
「遅かったな、オメエ。もう片付いちまったし、邪魔臭えからとっとと持って帰れ。それともなンだ、オメエはオレに付き合ってくれンのか?」
「申し訳ありませんが、私はご先祖様と致すつもりはありませんので」
アリーゼは、男の発言にも、倒れている婚約者にも、眉一つ動かさず、微笑みのままそう言い返した。
その発言に『棒振り』は目を丸くし、そして眉を顰めた。
「なンだ、オメエ。先祖ってどういうことだ、オメエ」
「そのままの意味ですよ」
アリーゼはそう言うと、あるはずのないスカートの裾を摘む仕草をして、一礼した。
「初めまして、ご先祖様。貴方から四百年先の未来、当代のアストレア家当主代理を務めています、アリーゼ・アストレアと申します」
幼い頃から磨き上げた作法と、『夢の城』で倣った美の威圧。
アリーゼ・アストレアが披露したカーテシーに、『棒振り』は鼻を鳴らした。
「かっ! ガキのガキなンざ、もう他人だろうが。そもそもオメエ、面がいいだけで棒も振れねえだろ」
「そうですね、私に剣の才能は皆無です……ですが、今のアストレアで一番に貴方を受け継いでいるのは、私だと自負していますよ」
「あ? 意味わかンねえよ。オレとオメエ、どこが似てるってンだ」
「自分のやりたい事が最優先の、生意気でクソガキなところです」
柔らかに微笑むアリーゼは、『棒振り』にして親愛を抱かせる眼差しをしていた。
けれど、そうして言い放ったのは、あまりに馬鹿馬鹿しい類似点で。
その図々しい物言いに、『棒振り』はしばらく黙り込んだかと思うと──、
「けっ! オメエ、まともなのは面だけかよ」
不機嫌さを露わにし、吐き捨てるようにそう評価したが、
「ご先祖様も、まともなのは顔だけでしょう? 品性はなく、剣の技量で並び立つ者もいないのですから」
返す刀で切り返され、眉間の皺を深めた。
そうしてアリーゼは『棒振り』を沈黙させてから、「それに」と未だ倒れているユリウスを見て、
「私の婚約者にも、とても乱暴に、意地が悪い方法で、一皮剥かそうとしてくださっていますし」
「……オメエ、わかンのかよ」
「分かりますよ。当代のアストレア長女は、誰よりも剣の才能がなく、誰よりも剣の才能に触れ、向き合ってきた女ですから」
「ならなんでオメエは剥いてやらねえ。ソイツは騎士なんてかしこまったフリしちゃいるが、中身はそれじゃねえだろ。ソイツの中身は、オレと変わらねえ『棒振り』だ。窮屈で見てられねえよ」
未だ意識のないユリウスに箸を突き付け、『棒振り』が渋い顔をしながら吐き捨てた。
その発言を聞いてもなお、アリーゼの微笑みは揺るがなかった。
「別にいいんですよ。どちらでも」
「ああ?」
「己の本質に向き合い『棒振り』となっても、憧れた『最優』のまま突き進んでも。──自ら選んだ道であれば、ユリウスは真摯に向き合い続ける。そんな彼を、私は愛し続けたい」
虚を突かれ、無防備な表情を晒すレイドに、アリーゼは「だからどちらでもいいんです」と締め括った。
彼は眼帯に覆われたのと反対の目、そちらの瞳も閉じた。アリーゼも、ユリウスも見ない。ただ静かに太くたくましい腕を組み、何事か思案する。
だが、その思案も長続きはしない。元々、考え事に不向きな性質であるのは、ここまでの短い問答でもようと知れる。
故に──、
「ハッ!」
レイドは、一度だけ強く鼻を鳴らした。
「オレより酷だぜ、オメエ」
「まさかそんな。私は、ユリウスがユリウスであることを、受け入れているだけですよ」
「よく言うぜ、オメエ」
白々しくとぼけてみせるアリーゼに、レイドはどこか毒気を抜かれた様子で嘆息した。
自ら選んだ道であれば、真摯に向き合い続ける。
それを怠ることを、アリーゼは許さないだろう。どれだけ苦難な道であれど、自分で選んだのだからと、逃げることも、妥協することも許さない。
貞淑で物分かりがいいフリをしただけの、この上なく容赦のない女だ。レイドは
「同情すンぜ、オメエみてえな女に目ぇ付けられたソイツによ」
「残念ながら、先に惚れたのはユリウスで、私はそれに絆された側です」
「関係ねえよ、ンなもん」
「ユリウスは15年前、私に一目惚れして、そこから猛アプローチだったんですよ。お祖父様やお父様、ラインハルトにも負けず……」
「知らねえし、聞いてねえ。しゃべンな、オメエ」
レイドは雑に遮ると、ちらりと、おそらく初めて同情や憐憫を込めてユリウスを見やり、
「さっきのいい女選ンどいた方が、楽だったろうぜ」
そうぽつりと呟く。それを聞き留めたアリーゼの微笑みが微かに揺らいだが、幸か不幸かレイドは気付かなかった。
「ンで、もう終いか? ならさっさとソイツ連れて──」
「いえ、最後に一つだけ、ご先祖様にお願いがありまして」
「お願いだあ?」
「ええ。一合だけ、私の剣を受けていただけないかと」
予想外の要求に、レイドはただ、僅かに目を細めた。
「──オレは遊ばねえぞ。オメエ、やれンのか?」
ぶわ、と風が吹く。が、それは物理的な風では決してない。
箸さえも持たず、一切の武装を捨てた『棒振り』は口の端を歪めている。それは、笑みに違いなかったが、これまでのそれとは質が異なる。
獰猛でありながらも陽の雰囲気があった笑みではない。どす黒く血生臭い、陰惨な殺意を纏った凶獣の微笑だった。
「──正しく、ラインハルト級ですね」
自身の生命を容易に刈り取る獣を前に、アリーゼは淑やかな微笑みを──『美』の鎧を崩さなかった。
「かっ!」
その姿に、レイドは──初代『剣聖』は笑った。陽の色が戻った獰猛な笑みで、腰に仕舞った箸を抜いた。
「いいぜ、こいよ……ああその前に」
「なんでしょうか?」
「オメエ、なンてったっけ?」
伝説に名を問われ、アリーゼは眉を上げた。
ここまで遠慮のない会話を続けておいて今更だが、剣の腕など皆無な自分が、それを訊ねられるなど思っていなかったのだ。
「アリーゼ・アストレア。当代アストレア家の長女にして、ユリウス・ユークリウスの婚約者です」
「男の方はいい。その気になりゃまた聞く」
「ありがとうございます」
言外にユリウスを見捨てていないと告げられ、アリーゼは頬を緩めた。
「では、参ります──」
そして彼女は、未だ無手のまま伝説に挑み──
「……決まらないだろうとは思っていましたが、実際に躱されると、驚きしか出ませんね」
「オメエ、やっぱまともじゃねえな」
アリーゼの漏らした呟きに、レイドが唇を歪めた。
それは、瞬きよりも速かった。
踏み込みも、加速もない。
ただ事実として、アリーゼが短刀を手に腕を振り抜き、初代『剣聖』の首を皮一枚だけ切り裂いていた。
「オメエ、何をした?」
「何も。ただ、『私の手にナイフがあって』『それを振った先にたまたま貴方の首があった』だけです……逆にお聞きしますが、どうやって躱したんですか? 本気で首を斬りにいったのですが」
「どうやってもねえよ。勘だ、勘」
「頭がおかしいですね。レイド・アストレアは」
「オメエが言うな、アリーゼ」
アリーゼは、レイドの勘を理解できない。そもそもレイドすら理解していない。
レイドは、アリーゼが何をしたのか──その『虚飾』の権能を理解していない。ただ、何をされるかだけを理解した。
一合のみの剣戟を交わした二人は、獣でも淑女でもない、ただ悪ガキとして笑みを交わした。
「あー、仕方ねえ。オメエのクソ度胸に免じて、ソイツが心決めるまで叩いてやンよ」
「……あまり叩き過ぎて、壊さないでくださいね?」
「何言ってやがンだ、オメエ。やれるだけやンなきゃ、オレじゃねえだろうが。そンときゃオメエ、そのやわっけえ胸でも使って慰めてやれよ」
「それも吝かではないのですが、その時は別の立ち直らせ方をするでしょうね」
「ああ? なンでだよ」
「今はその立ち直り方をすべきではないというのが一番として……ただでさえ長い旅路で溜まっているのです、一度
「あたりめえだろ、オメエ。ただでさえ激マブにいい女、エロい女まで見てンのに、この身体じゃなンもできねえときた。ソイツだけいい女抱くなんてムカつくじゃねえか」
「本当にクソガキですね」
こうして、四百年を隔てた邂逅は果たされ、歴代屈指の問題児二人の家族交流は、暫し続いていった。
「ちなみにですが」
「あン?」
「先ほど『さっきのいい女を選んだほうが楽』と言っていましたが、どちらの女のことです?」
「はっ! オメエ、かわいいトコあんじゃねえか。激マブじゃねえほうだよ、胸が無えほう」
「なるほど、アナですか……。何があったか、ご先祖様から詳しく伺っても?」
「かかっ!」
そのムッとした表情からありありと伝わる嫉妬に、レイドは愉快そうに笑った。
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