二層『エレクトラ』試験官、レイド・アストレア。
彼により意識を失っていたユリウスとアナスタシアは、『緑部屋』の精霊やアリーゼにより、無事に回復した。
彼らが回復したことで、スバルたちは後回しにされていた問題に、改めて向き合っていた。
「──なるほど。それでバルスが、アナスタシア様をエキドナと呼んだのね」
ラムの視線の向かう先は、浅葱色の瞳をした華奢で小柄な女性。薄紫色の長い髪を波打たせ、砂丘に見合わない白い装いを纏ったアナスタシア・ホーシン───ではない。彼女の足下にいる、白い狐だ。
ずっと、襟巻きに擬態していたはずの姿、それがそこにある意味。そしてその姿から淡々と語られる事実。
自身が人工精霊であり、アナスタシアとは十年以上一緒にいること。プリステラで起きた魔女教との攻防、その最中、アナスタシアに代わり、魔女教との対決に臨み──その後、アナスタシアの精神が目覚めなかったこと。
そのことをユリウスやリカード、『鉄の牙』の面々にも隠し、戻る手段を求めてプレアデス監視塔を目指したこと。
ハクチュリで諸々があり、アナスタシアは目覚めることができたこと……諸々の部分は、隠すことでもなかったため詳らかに説明した。ラムたちもそこに関して呆れこそすれ、ツッコんだりはしなかった。
秘密を共有していたスバルやアナスタシア、アリーゼも、静かにエキドナとラムの会話を見守っていた。
「砂丘の攻略法を知っていたのも、アナスタシア様ではなく、エキドナの方だったと」
「そうだ。創造主が仕込んでいたのか、それとも偶発的に知識が写されたのか、それは定かではないが」
「どちらでも構わないわ。重要なのはその知識で砂丘を踏破できたこと。それが成されているのだから、他の事情に関してラムたちから言うことはないわ」
ラムの発言に続いて、エミリアと、そしてベアトリスも頷く。
各々で心の内は違えど、目的が果たされているのだから他陣営の事情に首を突っ込むことはしなかった。
そうして、場の視線は一人の騎士に集まる。
重い重い沈黙の末、ユリウスは押し殺した声で応じた。
「……エキドナ」
「なんだい」
「アナスタシア様のお体は、ご無事なのだね?」
真っ先に口にしたのが、主君の安否。それだけでなく、表面上は平静を保てているユリウスはさすがと言うべきだった。
あるいは境界線を飛び越え、感情的になるどころではないのかもしれない。
「無事だ。アリーゼがアナのゲートを開き、マナの補給ができたこと。二層でナツキくんがボクを止めてくれたこと。それによってぎりぎりオドに手を付けずに済んだ」
「そうか、それは何よりだ」
ユリウスは硬い声で、それでも安堵を漏らす。しかしその緩んだ心も、すぐさま憂いに移り変わってしまう。
「フェルト様は、いい。彼女はアナスタシア様と共に対策本部の長を担っていた。……だが、何故スバルにもその情報の共有を?」
「彼が大罪司教の権能の影響も受けず、最も状況の混乱の外にいた人物の一人だった。それに人工精霊であるボクと、その出自を同じくするベアトリスと契約を交わした精霊術師でもある。もっとも、ボクも打ち明けようと最初から考えていたわけじゃない。ただ……」
「──。ただ?」
「……彼には、ボクがアナを演じていると見抜かれた。だから、話したんだ」
スバルが、アナスタシアの肉体にエキドナが宿っていたことを知っていた経緯。その説明にユリウスの瞳に強い動揺が走った。
エキドナが言葉に詰まったのも、その動揺を予期していたからに他ならない。
当然だ。スバルが、エキドナの演技に気付けたということは──、
「関係の薄い、外部の人間にも気付けるはずのことを、一の騎士を自任する男が気付けずにいたということか……」
「待て、馬鹿! お前、そんな言い方はねぇだろ!」
「────」
「状況が……状況が悪かったんだよ! あんな大事件があって、お前はお前で切羽詰まってた! お前だけじゃねぇ、リカードとか、ミミたちだってそうだろ? 俺が気付いたのは……なんか、とにかく、たまたまなんだよ!」
自嘲するようなユリウスの発言に食って掛かり、スバルは何とか彼の言葉による自傷行為を止めようとした。しかし、それに相応しい言葉が、一の騎士としての務めを果たせなかったと、そう自嘲するユリウスを慰める言葉が見つからない。
だが実際、ユリウスに何ができた。責められるような立場だろうか。
忠誠を捧げた主君からも、共に主君を盛り立てようと誓った仲間たちにも、長く騎士としての時間を共に過ごした戦友たちにも、その他多くの、彼がこれまで騎士として生きて積み上げてきたものを砂山のように崩されて、なおも立てと何故言える。
毅然としていろと。優美であれと。一の騎士らしくあれと、何故言える。
騎士であることが、人間らしく傷付くことすら許されない生き方であるなら、騎士であることこそが、ユリウス・ユークリウスにとっての呪いだ。
「その、偶然を常に確かなものに昇華することが、一の騎士の務めだ」
「──ッ! 何が、一の騎士……だったらそんな面倒な肩書き……」
「捨ててしまえ、などと言わないでいてくれ。私は……今の私は、私から何か一つ、取りこぼすことさえ恐ろしい」
スバルの勢い任せの慰めなど、ユリウスの奉じる騎士道の前には容易く弾かれる。
紛糾する感情に喉が詰まり、スバルは何も言えない。
「アリーゼさんは……」
そうして、スバルはアリーゼに縋った。
「アリーゼさんからも、何か言ってやってくれよ……」
「何を言えばいいのですか?」
「え?」
だが、ユリウスの婚約者であり、かつてスバルを救ってくれた女性は、その甘えを許さなかった。
「プリステラでの一連の騒動で、ユリウスは『色欲』の放送後にもアナから人工精霊の件を打ち明けてもらえず、『暴食』に遅れを取り記憶を喰われ、入れ替わったエキドナに気付かなかった。この監視塔でも二層の試験官に敗北し、無謀にも二度目の突貫をした……その上で、スバルさんは私に何と言ってほしいのですか?」
「そんな言い方……!」
スバルは反射的に言い返そうとしたが、アリーゼに真っ直ぐ見据えられ言葉に詰まった。
「優しさでは救われないこともある。貴方はそれを、誰よりも理解していると思いますが」
「っ……」
──顔を上げなさい、ナツキ・スバル
──顔を上げ、笑ってみせなさい、ナツキ・スバル
──貴方のためじゃない。共に戦った兵のため、誰よりも胸を張ってみせなさい
──それが貴方の……英雄の義務です
かつて、目の前の彼女に言われた言葉が蘇る。優しさでは、あの時のスバルは立ち直れなかった。
アリーゼはそうしてスバルを沈黙に追い込むと、隣に座る婚約者を呼んだ。
「ユリウス」
「……ああ」
そこには先ほどまでの、騎士らしく取り繕おうとしていた痛々しい姿すらない。力なく、虚ろな目をした男がいた。
そんな彼に──
「──ぶッ」
鋭く、硬い衝撃に鼻先を穿たれる。
頭突きだ。アリーゼの額が、ユリウスの鼻先へ、激しく衝突した。
鍛えている者とそうでない者の差か、ユリウスは軽く仰け反るだけだったが、その鼻からは血が滴り落ちていく。
「何を……っ」
そんな彼の頬を、アリーゼは右手で挟むように掴み、自身の目の前に引き寄せた。
突然の暴力と、息がかかるほどの距離。ようやくユリウスの意識が、はっきりと彼女に向いた。
そして、
「ユリウス──今の貴方、物凄く格好悪いわよ」
最愛の婚約者に向けて、そう言い放ったのだった。
◆
「今の貴方、物凄く格好悪いわよ」
何故、そんな言葉をぶつけられなければならない。
痛いのだ。苦しいのだ。辛いのだ。悲しいのだ。心は今にも張り裂けそうだ。
人生で、こんなにもキツイ状況が、心の準備なしに次から次へとぶつけられることなどそうそうない。そんな苦境を、何故と嘆くことはやめたのだ。
だからせめて、可能な限り己を戒め、自制し、それを表に出さずにきた。それの何が悪いと、格好悪いというのか。
……貴女だけは、無条件に肯定してくれてもいいじゃないか。
「────」
そんな弱気な思考は、アリーゼが僅かに頭を引いたことで絶たれる。
危惧した頭突きは来なかったが、代わりに言葉が投げられる。頭突きを警戒していたユリウスは、その言葉に強制的に向き合わされることとなった。
「貴方のそれは、鋼の理性なんて高尚なものじゃない。己の不調を表に出さず、仲間も、自分さえも騙そうとしているだけ。しかも全く上手くいってない。──そんな中途半端、騎士とは言わない。ただ一人で腐ってるだけの子供よ」
鋭く、的確に、容赦なく。愛する人の言葉が、取り繕ったハリボテを剥がし、弱った心を抉り出す。
「それを念頭に置いて、はっきり言わせてもらうわね」
「──聞かせてくれ」
しかし、ユリウスはその無念を瞬きだけで追い払い、居住まいを正した。慰めてくれないなら、せめて糾弾してくれと。来たるべきそれを待った。
その真っ直ぐな視線を受け、アリーゼは続けた。
「私は、貴方を愛しているわよ。ユリウス」
「──は」
堂々と、そう言い放ったアリーゼに、思わず呆気に取られる。
「私のお祖父様は、泥臭く、汗臭く、誰より真っ直ぐに剣と向き合い、不器用にお祖母様を愛した。
お父様は、剣を願い、励み、折れて、折れて、折れて、折れて、折れて、折れて──そうして諦めて、近衛騎士団副団長の任を全うすることを選んだ。
ラインハルトは、背丈だけ大きくなったお姉ちゃんっ子だけど、一人の人間が持つには重すぎる宿命を背負って、それでも前を向いている」
「そう、だな。その通りだ。だが、私は……」
反論を口にしようとした直後、アリーゼが僅かに頭を引いた。思わず口を閉ざすと、それでいいとばかりにアリーゼが鼻を鳴らした。
その様子は、どことなく昔の……15年前、初対面の頃の面影が感じられて──
「貴方は、そんな世界一格好いい三人を見てきた私が愛し、その三人が認めた男よ。いつまでも下を向いているなんて、許さない」
──あの時のように、圧倒的に眩しく、ユリウス・ユークリウスを照らしてみせた。
「立ちなさい、ユリウス」
アリーゼは、現状の腐ったユリウスへ断固拒絶の意思を込め、力強く言葉を重ねる。
「泥臭くてもいい。諦めてもいい。背負ったままでもいい。だけど、下を向くことは許さない」
せめて、共感する素振りぐらい見せてくれ。こんなにも辛いのだから、苦しいのだから。寄り添う姿勢くらい見せてくれ。
──そんな風に思えたら、きっとユリウス・ユークリウスは、アリーゼ・アストレアに恋をしていない。
「過去を悔やむなら、抱えてないで私に吐き出しなさい。泣いて、怒って、悔しがって、弱音を吐いて──そうして、今と次のために、前を向きなさい」
正しいとか。間違っているとか。そんなことを言い出せば、キリがない。
多分、筋は通っていない。絶対に、自分勝手。アリーゼの言っている事は、そういう類いのものだ。
踏みとどまり、立ち上がる理由になんかなり得ない。
それなのに、どうして、どうしてこの胸はこんなにも熱い。
どうして、胸の奥から、込み上げてくる熱があるのだ。
「私、は……」
「──貴方はユリウス・ユークリウス。私を愛し、私が愛した男。『暴食』に喰われようと関係ない。貴方が積み重ねた修練も、成し遂げた偉業も、私にかけてくれた言葉も、時折見せた弱さすら、全て憶えている」
愛する人に名前を呼ばれて、今までの全てを認められて、心が震える。
そんな馬鹿な話があるものかと、笑いたくなるほど調子よく、心が震える。
頬を掴んでいた手が外され、ユリウスの眼前にかざされる。淡い青い、治癒魔法の光が発せられ、垂れ流されていた鼻血が止まった。
「立ちなさい、ユリウス」
望まれるままに、怯える心を噛み砕いて、立つ。
最愛の女に告白されたのだから。そんな単純な動機で立ち上がる。
あの日見た少女の背中に憧れ、あの日聞いた少女の叫びに恋焦がれ、騎士を志したあの日の高鳴りをもう一度宿し、ユリウス・ユークリウスは顔を上げた。
「……アリーゼ」
「なに、ユリウス」
呼びかけに、アリーゼは静かに応じる。
「──私は、レイド・アストレアに勝てるだろうか」
「一生かかっても無理だと思うわよ」
「そうだな」
容赦も躊躇いもない回答に、ユリウスは全てわかっていたように苦笑し、頷く。
「では改めて問おう。私は、天剣に至りし愚者に、許しを得ることはできるだろうか」
「できます」
「その根拠を教えてくれないか」
「私が口に出したことが何よりの根拠よ。私は、できないことは言わないもの」
この上なく根拠に乏しいそれに、ユリウスは呆気に取られる。アリーゼはその様子に笑みを零すと、「それに」と繋いだ。
「ユリウスは、お祖父様にも、お父様にも、ラインハルトにすら、私を娶ると認めさせたのよ。アストレアの男を突破するのは、得意分野でしょう?」
「そうだな。それだけの偉業を成したのは、世界広しと言えど私くらいなものだ」
堪えきれずに噴き出し、けれども最後には『騎士』として。
「──約束しよう、アリーゼ。アストレア家の始祖、初代『剣聖』レイド・アストレアにも、私のことを認めさせると」
ユリウス・ユークリウスは、そう宣言した。
◇◇◇
「あー、もしかしてさ」
ユリウスの宣言の後、真っ先に口を開いたのはスバルだった。
「ナツキくん、どないしたん?」
「アリーゼさんが昔は腕白だったって、マジのやつなの?」
「やから何度もそう言っとるやん」
場を動かすため、浮かんだ疑問を素直に投げたスバルに、アナスタシアが呆れた様子で答える。そこにアリーゼは「お恥ずかしい」と頬に手をやり、
「普段はああいった事はしないのですが、ユリウスを立ち直らせるにはこれしかないと思いまして。少し、フェルト様の影響が出てしまったのかもしれませんね」
「あー、そういう……」
「アリーゼ、ナツキが信じてまうから嘘はあかん。アリーゼがフェルトさんを真似したんじゃなくて、その逆やろ」
フェルトの叱咤──プリステラでのガーフィールの一件を思い出し、納得しかけたスバルだったが、アナスタシアがそれを諫めた。
「そもそも、ほんまに清楚なだけの令嬢なら、ユリウスは惚れてないし、ウチも仲良くなってない。違う?」
「貞淑なことと意志が強いことは矛盾しないと思いますが、ねえユリウス?」
「そうだな。貴女の本質は、昔から何一つ変わっていない。腕白であっても貞淑であっても、気高く真っ直ぐなままだ」
ユリウスはアリーゼからのパスを肯定しつつ、昔からお淑やかだったの部分はさり気なく否定した。
当然アリーゼもそれに気付き、むくれた素振りを見せ──それから長い息を吐く。
「さて、息抜きはこのくらいにして──あと一つの本題を片付けましょうか」
たおやかに微笑むアリーゼ。
何故か、異様な存在感を主張し出したその美貌に、スバルは震える声で問いかける。
「えっと、まだ、何かあるのか……?」
「ええ。とても大切な、これからのことが」
それを受け、アリーゼはとっておきの秘密を打ち明けるように破顔した。
その表情は純粋だった。純粋ゆえに、それを向けられた彼らは、恐怖した。
「アナ」
「な、なに?」
「アナは二層で、エキドナと入れ替わり、魔法によりユリウスを援護しようとした。それは間違いないわよね?」
「…そうやね。間違いない」
「そう……不思議ね」
「……何が不思議なん?」
「入れ替わったエキドナは、ユリウスの事を憶えていないでしょう? それなのに、アナの生命を削りかねないほどマナを枯渇させるなんて」
アリーゼは意味深に、言葉を切った。
少しの間を置いて、さぁっと、アナスタシアの顔から血の気が引いていく。
だって、それは、つまり──
「まるでユリウスのことを、とてもとても想っている誰かが、そう願ったみたいに……ね?」
◆
「予め言っておくと、別に怒ってないのよ」
スバルたちを退室させ、アリーゼ、ユリウス、アナスタシアの三人のみが残った一室。
エキドナが襟巻きに戻ったそこで、アナスタシアはアリーゼと隣り合って座っている。ユリウスは机を挟んだ向かいに移動しており、一見すると不思議な席順だった。
「……ほんまなん?」
「ええ。そもそも婚約者がいるのに、他の女の一の騎士を担いたいとか、頭の湧いたことを言い出したのはユリウスだもの」
まあクルシュかアナ、あとはモニカかイザベラ以外の女なら許さなかったし。心中でもしていたと思うけれど。
微笑みのままそう宣うアリーゼに、嘘はなかった。
クルシュ、アナスタシア、モニカ、イザベラ。今はフェルトも加わっているが、当時は四人。
自身が『夢の城』に招くほど愛しているから、ユリウスがその女性を大切にすることも許せる。
むしろ抱え込んでしまえるのだから、アリーゼとしては特段悩むことでもなかった。
「……アリーゼ、すまない」
「何がかしら? 婚約者である私が月に1,2回しか会えないのに、アナとは毎日一緒にいること? 私に会いたくなくて監視塔についていくと決めたこと? それに関して謝罪もなくなあなあに済ませていること? プリステラの一件が終わったら二人で出掛けると誘ってくれていたのに、それの代替案すら提案されていないこと? ──ねえ、貴方は何に対して謝っているの?」
「それは、その……」
「ユリウス、貴方に発言権は無いの。黙ってなさい」
──ただ、嫉妬しないことは、また別の話ではある。
アリーゼはぴしゃりと婚約者を黙らせ、アナスタシアに視線を戻した。
「ねえ、アナ」
「……なに?」
「アナは、エキドナと入れ替わって、戻れなくなっていたでしょう?」
「せやね」
「それに関して、私なりに推論があるの」
「推論?」
恐る恐るという様子のアナスタシアだったが、その一瞬は純粋な疑問が勝っていた。
「アナはきっと、ユリウスを忘れたくなかったんじゃないかしら。──意識の底から浮上し、オドの外に出れば、『暴食』のおぞましい権能、その影響を受けてしまう。──アナスタシア・ホーシンが、ユリウス・ユークリウスを忘れてしまう」
アナスタシアが、ユリウスが、その推論に息を呑んだ。
それは、つまり、彼女が自らの生命を危険に晒してまで、オドというある種の固有世界に閉じこもっていたのは、偏にユリウスを忘れたくなかったから。
「結果的には、何故か憶えていられたけれど、そう考えるのが自然だと思うの──だからねアナ、私は怒ってなんていないの。ただ、アナをユリウスにだけ渡すつもりはないというだけ」
「……つまり?」
珍しく察しの悪い──否、察しの悪いフリをしているアナスタシアに、アリーゼは微笑む。
その微笑みに、アナスタシアは震えが止まらなくなる。怖気づいたのではない、ただおぞましいほどの美しさを放つアリーゼに、彼女は魅入られてしまった。
「ユリウスが二人を選ぶんじゃない、アナが私たちのものになるの。代わりに私もユリウスも、アナのものになってあげる」
アリーゼの語るそれは、とんでもない暴論なのに。
それを紡ぐ声音一つで、何気ない一瞥で、少女が己を欲している事実だけで、心の臓が止まりかねない多幸感を与えられる。
アナスタシアは、アリーゼのことは唯一の親友だと思っていたし、大切に想っていた。王選後を見据えて、彼女が嫁いでくるユークリウス家とも利益だけでない関係を築いているつもりだった。
けれど、彼女は今、本気で、アリーゼ・アストレアを欲しいと願った。
「ええの? ウチ、強欲やし、一度手に入れたもんは絶対手放さんよ?」
欲しくて、欲しくて、堪らない。
自分の内側に膨れ上がる抗い難い衝動に、アナスタシアは形ばかりの抵抗を見せる。
「ええ。むしろアナの方こそ、覚悟を決めてちょうだいね」
アリーゼは、そんなアナスタシアの手を取り、そっと胸に抱えた。
「私は、おそらく歴代のアストレア家で、伝説に次ぐ二番目の問題児ですから」
◇◇◇
──『最優の騎士』と、そう呼ばれることには勇気がいった。
騎士とは誉れ、その名に見合った努力と研鑽、優れた実力の証に与る称号。ましてや『最優』ともなれば、途方もない奮励と精進が求められて然るべきだからだ。
ユリウスには憧れがあった。騎士への憧れを芽生えさせてくれた少女がいた。
かつての憧れは、今や最愛の女性となった。
尊敬の念から始まった主君への想いは、知らずのうちに大きく膨らみ、その本質さえも変えつつあった。
本当に無意識だったのか、それとも見て見ぬふりだったのか。つい昨日、最愛の女性により指摘されるまで気付かなかった想いは、自覚さえしてしまえば隠すことなどできなかった。
──麗しい女性に囲まれ、男冥利に尽きる。
──その花々を満足させられるのか、疑問に思えてならないがね。
以前ナツキ・スバルを茶化した言葉が、今は盛大なブーメランになっている。
どちらかを選ばなくてはならないとなれば、ユリウスは間違いなくアリーゼを選ぶだろう。だが、アリーゼはそれを認めなかった。三人で居ることを許した。
故に、ユリウスは決めたのだ。
「お待たせした、『剣聖』レイド・アストレア。──お初にお目にかかる。私は『最優の騎士』、ユリウス・ユークリウス。あなたを斬る、王国の剣だ」
この世界で最も尊ぶべき二人を手にする。自らが選んだ愛を貫く。
そんな『最優』らしからぬ行いの対価として、ユリウス・ユークリウスは、誰よりも『最優』らしく在ろうと。
◆
あわや三角関係となり得る修羅場は、円満に解決したようだった。
何故なら、アリーゼとアナスタシアの距離がこれまで以上に近付いていたからであり、
「私も、君のことを言えなくなってしまったようだ」
「お前、マジか」
さらにはユリウスがスバルに零した言葉からも、大体の事情は察せられた。三人の事情に関して、スバルがどうコメントするか迷っていると、
「私は明日、もう一度『試験』に挑む」
「……勝てんのか?」
「勝てはしないさ。なに、アリーゼの先祖に私たちの仲を認めてもらうだけだ」
「だけって、お前な……」
「以前にも私が成し遂げたことだ。それに、今回は腕を切り落とされはしないだろう。それを思えば遥かに安全と言える」
「切り落とされたことあんの?」
「ラインハルトがまだ幼い頃、アリーゼを取られまいとする彼にね。もちろん治癒魔法で治せる範囲だったが、さっさと諦めろと剣で言われ続けていたよ」
「あいつ、シスコンだったのかよ」
「──シスコン、か。不思議と馴染む呼び方だ。以後、そう呼ぼう」
ユリウスはしばらく変な部分に感心してから、「それに」と笑みを見せた。
「忘れられたことを恐れ、悔やみ、嘆く必要などどこにもなかったのだと、そう教わったのだから」
ユリウスは──『最優の騎士』はこの上なく頼もしい顔で、二度の敗北、その雪辱を誓った。
翌日、ユリウスは再び、二層『エレクトラ』の『試験』に挑んだ。
スバルやエミリアたち、そしてアリーゼとアナスタシアの二人が見守る中、レイド・アストレアと対峙していた。
だが、彼はまだ、剣を抜いていない。レイドも箸を手にしていない。
「だからこそ、私は騎士を装おう。見栄に拘り、本来の己を封じ込めよう」
「オメエ……」
「何も知らなかった無知な私は、しかし、眩い理想と出会った。──あの日見た背中が、永遠に消えない憧れを私に刻んだのだ。故に、それを貫こう」
音を立ててマントを留め、ユリウスの黄色い眼差しに力がこもる。
不機嫌な様子でいたレイド、その表情が苛立ちから怪訝へと変わっていた。それは、自分の言葉を否定され、だが、噛みつき返せないことへの驚きだ。
傍若無人を絵に描いたような男が、ユリウスの言葉に意識を奪われている。
ならばこそ、声を大にしてユリウスは続ける。
「これまですまなかった、我が蕾たちよ。失われた絆に縋り、君たちを手放そうとせず、ずっと不安な思いをさせた。その頸木から、今、君たちを解放する」
ユリウスの呼びかけに応じ、可視化されるのは鮮やかな色合いに輝く淡い光──それは、六つの属性を主張する美しき精霊、ユリウス・ユークリウスの六体の準精霊。
彼が騎士となる以前から傍にあった、離れ難き存在。彼女たちもまた、『暴食』の権能に『名前』を奪われたユリウスを忘れた。
「名前を奪われた私と、よく一緒にいてくれた。私は君たちの親愛に甘え、未練がましく温情を手放せずにいた。何事もなく、あの日々に戻れるのではないかと期待していた。──そんな、弱く、情けなく、格好悪い私を返上する」
戸惑うように、六体の準精霊がユリウスの周囲を取り巻きながら揺れる。
それらへ向け、ユリウスはそっと腕を差し出した。止まり木のように伸ばされる腕、それを見た準精霊たちが、緩やかにそこへ集まってくる。
そうして、腕に止まる淡い光へ、ユリウスは微笑みかけ、そして叫んだ。
「我が蕾たちよ! 君たちを解放しよう。長く、こぼれた絆に縋り続けてすまなかった」
その言葉と同時、ユリウスの腕を取り巻く準精霊たちが弾かれたようにユリウスから離れた。
「うそ……」
それを見たエミリアが手で口を覆い、信じられないとばかりに呟く。ベアトリスも同種の視線をユリウスに向けていた。
衝撃を伴ったようにすら見えたそれは、ユリウスと準精霊たちとだけを確かに貫いた。
確かにあった繋がり、絆。魂と魂を結び付ける契約が、断ち切られる。それは精霊術師にしかわからない、真に魂が結び付いた存在を喪失した痛みと嘆き。かつて同じ痛みにエミリアが涙し、蹲ったほどの。
それを、ユリウスは自ら、六体の精霊たちとの別れを一度に経験し、魂に傷を生む。
歪むような感覚が胸中を掻き毟り、ユリウスは魂の剥離を味わう。ユリウスだけでなく、準精霊たちも同じ痛みを味わい、後悔したはずだ。
人間と契約など結ぶべきではなかったと、魂に付けられた傷を呪ったかもしれない。
だが──、
「──その上で、今一度、君たちを呼ぼう」
『────』
「イア、クア、アロ、イク、イン、ネス──君たちを愛している。この見栄っ張りの求愛を受け入れてくれるなら、改めて結ぼう。──私と君たちとの、新しい契約を!!」
ユリウスが声高に、腕を天へ、そこに漂う精霊たちに伸ばして叫んだ。
その訴えを聞いて、弾かれたように散った準精霊たちは静かに、一秒だけ明滅した。
躊躇いと逡巡、それはたったの一秒のことだった。
『────』
温かな光が、ユリウス・ユークリウスの全身を包み込む。
それは、契約を断ち切ったことで刻まれた魂の傷へ、優しく淡く沁み込んでくる。
「お待たせした、『剣聖』レイド・アストレア。──お初にお目にかかる」
六つの、以前にも増して神秘的な光を纏い、ユリウス・ユークリウスは前を見た。
騎士剣を振り払い、ユリウスはマントを掴んで優雅に一礼した。
「──私は『最優の騎士』、ユリウス・ユークリウス。あなたを斬る、王国の剣だ」
そして、この世で最も憧れる『それ』になり切り、高らかに名乗りを上げた。
ユリウス・ユークリウス、彼が望んだ全てを乗せた剣撃が虹色を描く。
それがレイド・アストレアの、鮫のように獰猛な笑みを捉え──、
──『剣聖』の左目を塞ぐ眼帯が、騎士の一撃に貫かれ、宙を舞っていた。
「──これがクソったれな『試験』じゃなきゃ、オメエに勝ち逃げなんかさせねえんだがな」
そう言いながら、ゆっくりと『剣聖』がゾーリで床を踏みしめる。
振り向いたレイドの顔に傷はない。ユリウスの剣先が届いたのは、正しく彼の眼帯だけだった。だが、それを届かなかったと嘯くほどレイドも恥知らずではない。
何より、先の彼の発言は負け惜しみではなく、真実だ。
これはプレアデス監視塔、二層『エレクトラ』の『試験』。
一撃が届いた時点で、ユリウスは合格と上層へ挑む資格を得たのだ。
「私では届かぬ高み。その剣力、心の底から尊敬します」
「野郎の憧れなンざいらねえよ。──これから先、精々苦しめよ、ユリウス」
「────」
名前を呼ばれたことに、ユリウスは瞠目した。
だが、動揺しないと心に決めた通り、その驚きを微笑の裏に隠し、一礼する。
「レイド・アストレア──私は最後まで、騎士としての己を突き詰める。その上で、あなたが私を導こうとした道よりも、あらゆる面で優れたる私となると誓おう」
「はン、いいからさっさと帰れ。その勝ち誇った顔、いつまでも見せてくンじゃねえよ」
レイドは雑に手を振って、ユリウスたちを追い払った。
大図書館プレイアデス、第二層『エレクトラ』の試験。
制限時間『条件付無制限』。挑戦回数『条件付無制限』。挑戦者『条件付無制限』。
──達成者、エミリア、ユリウス、アリーゼ(本人すら知らない)。
──未達成者、スバル、ベアトリス、アナスタシア、メィリィ、ラム。
──『試験』、続行。
◇◇◇
エミリアとユリウスが『試験』を突破し、スバルもそれに奮起した。
けれど、現実は思いだけではどうにもならないことの方が多い。
『インビジブル・プロヴィデンス』、またの名を『見えざる手』。
スバルの切り札の一つだが、おそらく『剣聖』にはそれが見えていた。類稀なる観察眼からか、それともただの勘か、何にせよ見えていた。
さらにその緩慢な速度では『剣聖』を捕らえられなかった。
そして何より、スバルの対レイド用の切り札も、
「──E・M・M!!」
「かしら!」
吠えるような詠唱が、スバルの壊れたゲートからベアトリスへとマナを直接送り込む。その力を起動キーに、この世に二つと存在しないオリジナル術式が発動する。
スバルとベアトリスのコンビが編み出した三つの魔法が一つ、『E・M・M』だ。
不可視の魔法フィールドで体を覆い、世界から存在を半歩だけずらすことで、スバルへの干渉の一切を無効化する、完全防御術式。
さしもの『棒振り』も、異なる次元には手の出しようが──、
「──オレの剣は空間ごと斬るぜ、オメエ」
嘯く声が聞こえるより早く、放たれる箸撃がスバルを突いた。
世界の理屈ごと斬り捨てる。そんな想像を超えたありえない光景にベアトリスが目を剥く。
ただ、男だけが当然とばかりに笑い、おちょくるように──否、おちょくりながらスバルを嬲り続けた。
そうしてスバルの苦戦が続き、ユリウスの『試験』突破から三日後。ラムも『試験』を突破した。
一分以内──三つ目の枷という、彼女が出せる限界を維持できる時間──に一撃でも入れたら勝ちという条件で、彼女は正面からレイドの顔面に拳を叩き込んだ。
「オメエ、いい女すぎンだろ。全力が見られねえのが、残念でならねえぜ」
左頬のみを赤くしたレイドは、直後に放った反撃で足元に沈めたラムを見下ろして、そう嗤った。
◆
ラムが『試験』に乗り出したのは、アリーゼたち非戦闘員は突破が絶望的であり、スバルにもその兆しが見えなかったから。
エミリア、ユリウス、ラムが『試験』を突破したことで、一層『マイア』の資格を有する者が戦闘組三人になった。
「あんまり言いたないけど、食料の問題もある。ナツキくんの二層の挑戦は、あと二日で切らせてもらう。それでダメなら、あとはユリウスにエミリアさん、ラムさんの三人に任せるしかない」
アナスタシアの宣告は、至極当然のものだった。
そして、塔に到着してから五日後。
アナスタシアからの宣告から一夜明けたその日。
「異世界召喚ってヤツ──ぅ!?」
ナツキ・スバルは、菜月昴へと戻ってしまった。
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