「メィリィはいつも笑顔ですが、ふとした時に暗くなりますね」
「……そお見える?」
「ええ」
それが彼女との、本当の意味での初めての会話。
あのとき、そんな事ないと強がっていたら、多分彼女は踏み込んでこなかった。傍にいてくれなかった。
だから私は、あのとき強がれなかったことを、不意の弱さを見せてしまったことを、褒めてやりたい。
◇◇◇
──自分の始まりを意識したとき、私は何も持っていなかった。
周りには誰もいなかった。
男も、女も、大人も、子どもも、老人も、赤子も、誰もいなかった。
暗い暗い、黒い黒い、森で一人、私はただ、一人でいた。
「────」
──言葉を知らなければ、嘆き方も知らない。
──歩き方を知らなければ、抗い方も知らない。
──生き方を知らなければ、死に逝く理由も知りようがない。
本来なら、私は何も得ないまま、獣の牙にかかって命を終えるはずだった。その額にねじくれた角を持つ殺戮の獣が、私を巣へと連れ帰らなければ。
──言葉を知らないから、嘆き方など知らない。
──歩き方を知らないから、抗い方など知らない。
──ただ、生きる方法を覚えたから、死のうなどとは思わない。
黒い獣たちの気紛れに救われ、野性の流儀を命で学び、私は獣たちの女王となった。そうして獣の一頭として、いずれは野で死ぬのが宿命と、そう思っていたのに。
「──連れ帰れと言われているの。だから、一緒にきてもらうわ」
黒い少女だった。
少女は獣の群れを殲滅し、女王の玉座から私を引きずり下ろした。微笑みを浮かべたまま、少女は全てを奪われた私を担ぎ、森から連れ出していく。
──言葉を知らないから、嘆き方も知らない。
──歩き方を知らないから、抗い方も知らない。
──ここ以外の生きる場所を知らないから、死ぬ理由さえも見つからない。
『母』との初めての対面があって、そこで初めての『躾』を受けた。
「嘆き方も、抗い方も、生き方もなくしやがった? そんなそんな、つまんねー言い訳並べられても知ったこっちゃねーんですよ」
──それは、嘆き方を知らないことを後悔させた。
「嘆け、アタクシのために。抗え、アタクシのために。生きろ、アタクシを愛するために」
──それは、抗い方を知らないことを後悔させた。
「何もかも、なくした忘れた失ったなんて言いやがるんなら、アタクシが躾けてやろーじゃねーですか。──それが、『母親』の務めってもんですからね」
──それは、生き方を忘れ、死に方を考えなかったことを、後悔させた。
自分が消えてなくなり、二度と取り戻せなくなる恐怖が、魂に刻み込まれた。
『母』に逆らおうなどと、二度と思えなくなった。二度と、あの『躾』を味わいたくないという絶対的服従が心を支配した。
そんな、私の下へ──、
「あの人の言いなりになるのはやめなさい。私以外、きっと、命がいくつあっても足りなくなってしまうでしょうから」
無理やり森から連れ出したくせに、黒髪の少女はそう忠告してきた。
「震えているの? 寒いのかしら」
ガタガタと体を震わせ、消えない恐怖に全身を支配された私の隣に寄り添い、黒髪の少女はその肩を抱いて、特に何も言わずに傍にいた。
『母』の下で、言葉を、歩き方を、生き方を学ばされる最中、黒い少女は、頻繁に私のところに顔を出した。気付くといつしか、黒い少女と一緒に過ごし、行動を共にすることが多くなっていた。
黒い少女は、異常に強かった。殺す手管に優れていた。生き方以上に、殺し方を知っていた。そして同時に、それ以外のあらゆるものが雑で、適当だった。
「メィリィがいるもの。だったら、あなたに任せた方がちゃんとしてくれるわ」
一事が万事、そんな調子だ。
だらしがなかった。しっかりしていなかった。手がかかる相手だった。目が離せない相手だった。『母』に忠実ではなかった。殺し方だけでなく、生き方も自由だった。
そんな黒い少女と一緒にいる間は、だらしない彼女を手伝ってやっている間は、自分もまた自由なのではないかと、そう勘違いすることができた。
だから──、
「──エルザが、死んだ」
──死んだ。死んだ。灰になって、死んだ。
殺しても死なない黒い少女──否、少女だった頃は終わり、彼女はエルザだった。
──死んだ。死んだ。灰になって、死んだ。
腹に槍が刺さり、両腕を肩から失い、首が刎ねられたところだって見たことがあった。
それでもエルザは死ななかった。死なないと、そう思っていた。
──死んだ。死んだ。灰になって、死んだ。
エルザを殺したものたちが、私を捕らえ、冷たい牢の中へ押し込めた。
一人、暗い部屋の中、虚空を見つめながら、私は考える。
──嘆き方は知らない。抗い方も知らない。命の価値など、自分にはない。
私は、欠陥品だった。森で、獣に拾われる前から、実の親に捨てられる前から、私は欠陥品だった。不揃いだった。欠け落ちていた。
だから、同じように欠け落ちたエルザと、奇跡的にぴったり嵌まったのだ。
──憎い、憎い、憎いのか。憎しみとはいったい、なんなのだ。
──悲しい、悲しい、悲しいのか。悲しみとはいったい、なんなのだ。
ただ流され、何かを模倣する人形として生きてきた私には、本物の感情がわからない。
喋れるようになった。──喋り方は、エルザを参考にした。
服も、ちゃんと着ている。──服のセンスは、エルザを参考にした。
仕事も、しっかりこなしていた。──やり方は、エルザを参考にした。
こんなにも、大きくなってから消えないでほしかった。
とんでもなく、憎たらしいぐらい、おぞましいほどに、彼女は私の人生の一部で。一部というには、あまりに大きすぎるぐらいの存在で。
エルザを失った今、私は誰を模倣し、何を規範に生きればいいのか。
わからないまま、時間が過ぎた。
その間も上辺を取り繕い、周囲が望むメィリィ・ポートルートとして振る舞い続ける。あるいは誰かが、私の死を望んでくれたなら、その通りにするのもよかった。
躾と称して『母』が、私に死ねと命じてくれたりすれば、その通りに──。
その、通りに。──。────。────────。
「……それは、嫌よお」
そこで、終わるのは嫌だった。ここで、終わるのは嫌だった。
焦燥感が心を灼く。望まれるままに生きてきた魂が、自らの願いを訴える。
せめて、答えが知りたいのだ。
──エルザを殺された自分がどうしたらいいのか、その答えが。
◇◇◇
暗く冷たい牢から、一時的に出ることになった。何やら重要な使命を果たすのに、私の加護が役に立つらしい。
その女が旅に同行することになったのも──私が彼女と出会えたのも、それと同じ理由だ。
夜だった。
砂丘に入った初日、深夜帯の『砂時間』。睡眠を取るため、女性陣が竜車で寛いでいた時のことだ。
そこでは砂丘の感想やら明日への展望やらを話していたはず。私はそれを、私らしく、笑みを作り、仕草を媚び、普段通りを装って、そうやって聞いていただけなのに。
唐突に、そして自然に、それは告げられた。
「メィリィはいつも笑顔ですが、ふとした時に暗くなりますね」
唐突なだけなら、恐怖が脳を支配したかもしれない。
──何を思っているのか見られた。知られた。気付かれた。
──見られたくなかった。知られたくなかった。気付かれてはならなかった。
答えられず、誤魔化せず。ならばいっそ、竜車の周りの仕込んだ魔獣を全て動かして、本気で何もかもご破算に──。
なんて衝動に支配されていたかもしれない。
けれど、それは唐突なだけでなく、意識に滑り込んでくるよう自然に、そうやって告げられた。
「……そお見える?」
だから、誤魔化せずに、答えてしまったのだ。
◆
「子守唄代わりに、少し昔話をしましょうか」
次の日から、彼女はそんな事をし始めた。
「私の弟は、私のことが大好きな、寂しがり屋なんですよ」
当代『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレア。世界最強の男の過去は、そうやって語られた。
『剣聖の加護』を授かったのは、彼がまだ五歳の頃。
けれどそれは、祖母の意志を受け継いでいくために、ルグニカ王国の繁栄のために。そんな大層な理由ではなかった。
「ちょうどその頃、私が領地にかかり切りでして、王都に残っていたラインハルトとは三ヶ月ほど会えていなかったんです……そこでラインハルトは、『剣聖の加護』を授かれば私が来てくれるのではないか。そんな可愛らしい思いで取得したそうですよ」
「それに、褒めてほしかったのでしょうね。お祖父様は口下手で、お父様は色々と複雑だったでしょうから。だから私が王都に着いて、ラインハルトは張り切ってしまったんです──剣の一振りで屋敷の庭園を吹き飛ばしてしまうくらいに」
「怒られると思ったんでしょうね。お姉ちゃんお姉ちゃんと得意げだった顔が、一瞬で真っ青になってしまって。だからまずは『凄いね』『カッコいいよ』ってぎゅっと抱き締めてあげて……まあその後には、きちんと本気で叱りましたが」
「ハクチュリで初めてユリウスと会ったときも、私が盗られると思ったんでしょう。木剣での立ち会いで、初手に腕を斬り落としたんですよ」
「さすがに大騒ぎになりましたし、何してるんだと怒りましたが、ラインハルトは私にくっ付いて顔を埋めるばかりで……」
「何とか謝らせたのも、『申し訳ありません、弱すぎて手加減が足りなかったようです』なんて、煽っているとしか言いようがないものでしたから」
「ユリウスとの婚約が決まったのが、私が十三の頃でして。その時のラインハルトは、それはもうユリウスを滅多打ちにして。そこからは邪魔者がいなくなったとばかりにずーっと私にくっついていて」
「『どこにも行かない』『ずっと大好きだから』と、そうやって言い聞かせて、ようやく納得してくれて。でも納得しきれなかったのか、『いつでもぎゅってしていいですか?』なんて聞いてきて、『姉上もしていいですから』って言うんですよ」
「ラインハルトは律儀ですから。今でも『おいでおいでー』ってすると、ものすごく恥ずかしがりながら来てくれるんですよ」
そんなヤバすぎるエピソードを、彼女は微笑みながら、懐かしそうに、なんて事ないように語った。
──『剣』しか知らない男は、何をするにも『剣』を頼った。
「それで、その弟さんはどうなったのかしらあ?」
そうやって、何となく、仲間意識を覚えた。
世界最強としがない元殺し屋、比べるのも烏滸がましい。それでも伝聞でしか知らない『剣聖』が、少しだけ身近に感じられた。
◆
「砂丘から帰ったら何がしたいですか?」
それは、雑談のようなものだったと思う。就寝前の女子会とやらで、彼女が何気なしに発した話題だった。
干し肉以外が食べたい。身体を洗いたい。目覚めた妹と語らいたい。そんな回答が飛び交っていて、
「メィリィはどうですか? 何かしたいことはありますか?」
その流れで、私にも問いかけられた。
したいことなんて、ない。というより、分からない。そもそも、どうせ屋敷に戻れば、またあの冷たく暗い地下牢に逆戻りだ。
したいことなんて、ない。
それでも答えないのは、この場でしてはいけない振る舞いだから──、
「……温かいお風呂に入りたいわあ」
理由はなかった。何となく、だんまりにならないよう、そう答えただけだった。
「メィリィ、おいで」
手招きをされて、意味が分からなかった。けれど、求められるまま動いた。桃色髪のメイドが空けてくれたスペースに座る。
柔らかいソファに並んだ。手が届くくらいに空いていた距離が、そっと詰められた。
肩に頭を預けるように、抱き寄せられた。
「どおしたの、お姉さん?」
「私、体温は高い方なんですよ。ユリウスや、小さい頃はラインハルトにも、抱きまくらにされていたんです」
「ふうん」
その長い金髪を解いた彼女は、呑気な性格に見えた。油断丸出しな態度が、何とも癪に障る気がした。
温かいというのは確かで、触れている部分から体温が移ってくる。
ふと、『母』と初めて会わされる前、熱い湯の中に投げ込まれたことを思い出した。血と泥と垢と、落ちない汚れに塗れた私を、エルザは容赦なく、雑に洗い流した。
あるいはあれが、最初──最後に私が感じた喜び、だったかもしれない。だから私は、温かいお風呂などと答えた、のかもしれない。
視界に映るのは、黒ではなく鮮やかな金。この女は、エルザではない。
けれど、警戒心を忘れないメイドや騎士、襟巻きの商人、幼女姿の精霊。優しいふりをして、この一年気にもかけてくれなかった銀髪の半魔。人形を作ってくれていたけれど、エルザを殺したあの場のリーダーであったナツキ・スバル。
彼らよりは、マシかと思い、振り払うまでもないため、そのままにさせてあげた。
◆
特別な何かを、してくれたわけじゃない。
騎士と商人、それ以外。彼女は明確に対応を分けていた。
「メィリィ、今日もお願いしますね」
「ラムさんもそうですけど、メィリィもお疲れ様です」
「『砂時間』攻略のためとはいえ、深夜にずっと起きているせいか、少し眠いですね」
時折、気にかけて、声をかけてくれた。
騎士や商人に向けたものとは違い、一言二言ではあるけれど。その目が、その声が、瘴気のプロテクトをかけるための接触すら、私を見てくれている。そんな勘違いを与えてくれた。
「おいで」
その日も、手招きと共に呼ばれた。
「お姉さんって、いつも温かいわねえ」
「それは何よりです」
疲れていたのか、絆されていたのか、あるいは気の迷いか。されるがままではなく、薄く目を閉じて、少しだけ身を預けてしまった。
「干し肉じゃない料理が食べたいわあ」
「そうですね」
「身体も砂だらけで、洗い流したいし」
「ええ」
「ソファもいいけど、もっと広々と寝たいわあ」
「そうですね」
多分、こんな問答をあと数回繰り返して、
「エルザの、こと……忘れたく、ないわあ」
こんな事まで、零してしまった。
目を瞑っていても、竜車の中の空気が張り詰めたのを感じた。
「ええ」
彼女は、抱き寄せた腕に僅かな強張りもなく、それまでと変わらない相槌を打った。
「少なくとも」
「なあに?」
「この旅路が終わるまでは、無茶をして傷付いても、帰る場所と休む場所は無くなりません。やりたい事に正直になっても、いいと思いますよ」
「どおいうこと?」
「そのままの意味ですよ。今のメィリィは、命令ではなく、自分のために動けるでしょう? 自分で考えて、動いて……それで間違ったとしても、この旅が終わるまでは、帰る場所は無くなりません」
「────」
「大きなことはできずとも。難しいこと、分からないこと、見たくないことは横に置いて。小さな興味を試してみてはどうですか?」
大きなことはできずとも。
難しいこと、分からないこと、見たくないことは横に置いて。
「エルザの、こと……忘れたく、ないわあ」
「それならそれで、いいんですよ。正面から向き合って乗り越えるべき問題もあれば、逃げや軽さでしか救われないこともあります。──まずはこの旅路で、目の前の人たちと。そんな時間を試してみてはどうですか?」
「この旅路で、この人たちと……」
殺しのためではない。『母』でもエルザ・グランヒルテでもない。
メイド、騎士、商人、精霊、半魔。ナツキ・スバル。そして──、
「……アリーゼ」
「はい」
名前を呼んで、隣り合って寄り添っていた体勢から、身体の向きを変え、腕の中に倒れこんだ。
肩に添えられていた手が、背中に腕が回されたのを感じて。さらにその柔らかさに顔を埋め、温かさに身を任せる。
体勢はそのままに、会話ができるよう顔だけ上げる。でも目を合わせるのはできなくて、胸に頬を当てるようにして顔を逸らす。
「明日、髪型変えてみようかしらあ」
「いいですね。メィリィは長くて綺麗な髪ですから、きっと似合いますよ」
「そーお?」
「ええ。ずっと大切に手入れしてきたのが分かります」
「……そんな事ないけどお」
優しい手付きで髪を梳かれ、温かな何かが湧き出てきた。誤魔化すように、否定を返す。
エルザは、何もしなくても綺麗な髪だった。彼女の髪型を模倣するために、そうせざるを得なかっただけだ。
「どんな髪型にしたいですか?」
「分からないわあ」
「ではその時に、また考えましょうか」
「それがいいわあ」
緩んでいく表情を見られたくなくて、顔を埋め直す。けれど、撫でる手は止まらない。
手付き、体温、柔らかさ。全てが心地よくて、身を委ね、このまま寝てしまおうかと思っていると、
「そうだ、メィリィ」
「なあに」
「先ほど、やりたい事をしてもいいと言いましたが……やってはいけない事は、守ってくださいね」
髪を撫でていた手が、そっと、頬から首筋を撫でた。
「例えば、竜車の地下にいる魔獣をけしかけるなんてことは、ね」
「──っ」
瞬間、心臓が跳ねる。恐怖が脳を支配した。
何故、バレたのか。殺意も、魔獣の気配も、垂れ流すほど馬鹿じゃない。──否、今はそんなことはいい。笑みを作り、仕草を媚び、普段通りを装って、そんな事はしていないと誤魔化さなくては──
──顔が上げられなかった。強く抱えられて、物理的に、押し付けられていた。少し抵抗して、諦めて身体の力を抜くと、押さえていた手が髪を撫でるのを再開した。
「幸い、犯行は未然です。何も起きていません。明日から、気を付けてくださいね」
温かく、優しく、告げられた言葉。
『母』の『躾』による絶対的服従とは違うけれど、この女との約束を破ってはいけないと、そう直感した。
包まれる温かさ、背筋に走った寒気。相反する二つを感じながら、私は固く決心した。
◇◇◇
救われたとは、言えないかもしれない。そもそも救いが必要だったのかすら、分からない。
でも、どんな私でも、どんな選択でも、受け入れてくれるんじゃないか……いや、明確に約束を破れば、許してはくれないだろう。
でも、それでも、また一人にならなくてもいいんじゃないかって、そう期待した。
続く『砂時間』の攻略や、監視塔に入ってからでも、気にかけてくれた、褒めてくれた。
騎士や商人よりは簡素に、けれどちゃんと私を見てくれて。温かさを感じて、同時に僅かな苛立ちや恐怖も覚えた。
そして──、
「メィリィ、死者の書を一人で探しては駄目ですよ。危ないですから」
砂の塔で、『死者の書』を収めた書庫が開かれた。
ただそれだけで、むしろ旅の面々はその捜索を後回しに、二層より先の攻略へ意識が向いていたのに。私が『死者の書』を求めて、密かに三層へ足を運ぶつもりだったと。
見抜かれたことに、心臓が掴まれた。仕事柄──元仕事柄、思考を読まれるのは許容できない。殺し屋としての習性が、怖気を訴えてきた。
でも、それと同じか、それ以上に、見抜かれたことが──気にかけてくれることが、嬉しかった。
◆
『死者の書』の捜索は、アリーゼも一緒にやることになった。
他の人員が二層の試験官を突破するために、話し合いや挑戦をしている昼間。二人で広い広い書庫に入り浸った。
「何度も言いますが、目的の本を見つけても、一人で開いたら駄目ですよ」
アリーゼはそう言って、書架に並べられた本を指差しながら、視線を巡らせた。
そのことに、納得と拍子抜けを同時に覚えた。
死者の想いを追体験できると聞いて、メィリィは己の中の好奇心に負けた。ずっと燻っていた、エルザ・グランヒルテへの想いを開封するしかなくなり、それをアリーゼに見抜かれた。
でも、それだけだ。この女は、それ以上何も──見つけるべき、見つけないほうがいい。忘れずにいろ、忘れるべき。何も言わなかった。
昨日のナツキ・スバルのように、私の過去を聞いたりもしない。
まるで、私に興味がないかのような態度。まるでというより、事実なのだろう。
この旅が終わるまでと、本人も言っていた。アリーゼにとって、今のメィリィ・ポートルートは、その程度の人間なのだ。
この短期間で、エルザと『母』に次ぐ大きさを私の中で占めておきながら、実に忌々しい。
「なんだかわたし、らしくない気がするわあ」
そもそも、スバルたちのアウグリア砂丘攻略へ同行を申し出た時点で、らしくない行動は始まっていたのだと思う。
流されるままに、求められるままに。それがメィリィ・ポートルートの処世術であったから、ここでも同じことをするつもりだった。
それなのに、目を逸らすことができないくらい、アリーゼに寄りかかって。今もこうして、二人で書庫を探索している。
「エルザには呆れられて、ママには怒られちゃうかしらねえ」
言いながら、人差し指で背表紙をなぞり、そこにある名前を──エルザ・グランヒルテの名を探した。
それは、一つ、二つ、そして三つ目の書架を探している途中、声が飛び込んできた。
その声は、当然アリーゼのもの。別の書架を調べていた彼女は、閉じた本を片手に、もう片方の手で額を押さえていた。
「アリーゼ、大丈夫!? わたしの声、聞こえる?」
「ええ、大丈夫です……少し、混ざりかけましたが、『今落ち着きます』」
「ほんとおに? ゆっくりね、深呼吸してえ」
昨日の捜索において、スバルと騎士が、『死者の書』を引き当てた。おそらくアリーゼも同じく本を引き当て、魂が混ざり合う前に引き剥がしたのだろう。
けれど、アリーゼはわたしの言葉通り何度か深呼吸を繰り返すうちに、我を取り戻した。昨日の二人よりも控えめな反応に、わたしは安堵を隠せなかった。
「もお平気?」
「ええ。ありがとうございます、メィリィ」
アリーゼの無事が確認されて、主眼はその腕の中の本へ。
彼女が内容に目を通して、おそらく人生を追体験したモノだ。背表紙に目を向けると、記されたタイトルは──。
「──ベルトール・アストレア?」
「ええ。私の曾祖父、先々代のアストレア家当主にして、お祖母様の父親ですね」
「そんなに前の、長生きなのねえ」
『死者の書』は、読んだ人間が『見知った相手』の過去を追体験する本。その前提の上で感想を漏らすと、
「いえ、彼はお父様が生まれるより早く、四十年ほど前に死亡しています。『死者の書』の内容からも、それは確かかと」
「それ、おかしくなあい? アリーゼは、その人と知り合いじゃないんでしょお?」
「そうですね……もしかしたら、私たちアストレア家が受け継ぐ『剣聖の加護』により、何らかの繋がりがあると判断されたのかもしれません」
「そおいうことねえ」
受け継がれる加護という、この世に一つだけの、祝福であり呪いを有するのがアストレア家だ。その血縁者が『死者の書』の閲覧権利を得られたとしても、不思議ではない。
興味は、すぐに別の事柄に移った。
「それで、やっぱり嫌な体験だったかしら?」
「そうですね。得られたものは大きいですが、それと同じくらい味わいたくないとも思います」
「……何が得られたのお?」
「お祖父様は、尊敬に値する剣士の名を聞かれたとき、迷わずベルトール・アストレアの名を口にしています。ただ、曾祖父の剣士としての記録は全く残っておらず、お祖母様も何も仰らなかったのですが……その理由がようやく分かりました」
「ふうん」
アリーゼはそれ以上話すつもりはないとの口調で、私も記憶の中身に興味があるわけではなかった。
少しの休息を経て、私たちは本の捜索を再開した。
──危険だからやめるかとは、お互いに訊ねなかった。
アリーゼは、元々私の付き添いでここにいる。もし彼女を慮って、やめると言われてしまえば、それは自分にも返ってくる。
アリーゼも、私の選択を尊重して、何も言ってこない。ただ付き合ってくれる。優しくも冷たくもある距離感が、今はありがたかった。
それは、二日後のこと。
「──っ」
二度目のそれは、前回とは次元が違った。
「う、ぶ……っ」
「アリーゼ!」
口元を押さえ、『タイゲタ』の書庫に膝をつく。体を支えておけず前のめりに倒れ、書架に頭をぶつけた。
息は荒く、全身を濡らすのはおびただしい脂汗。
「はぁ、はぁ……」
「アリーゼ、深呼吸、深呼吸よお」
「『何も見てない』……『私は何も知らない』……『だから来ないで』……」
未だぶつぶつと独言を垂れ流す彼女から、元凶である本を奪おうとすると、
「触っちゃダメ!」
アリーゼが叫び、私の手を払い除けた。その本を投げ捨てようとして、直前で思い留まり、私の目の届かないように隠した。
直後、彼女は上着を脱ぎ、それで口元を覆った。
少しして、落ち着いたアリーゼは、口元を覆っていた部分を包み込むように服を縛った。
「ごめんなさい、メィリィ。今落ち着きました」
「平気なの?」
「ええ。もう落ち着きました」
「ほんとお?」
「ええ、本当です。この服はもう駄目ですし、口の中も少し気持ち悪いですが」
「それはねえ」
吐いたのだから、とは言わない。そのくらいの配慮はできる。
「一旦休憩にしましょお。着替えて口をゆすいで、また始めるの」
「いいのですね?」
アリーゼの問いかけは、多分二つの意味を含んでいた。
一つが、捜索を休止していいのか。
そしてもう一つが、選んだ本、読んだ先で、何が起こるか分からないこと。アリーゼのように、もしかすればもっと悲惨な思いをする可能性。それを踏まえてもまだ捜索を諦めないのかということ。
「……ええ。少し休んでから、また始めましょお」
怖い。それは怖い。怖いけれど、怖いからこそ。私はエルザ・グランヒルテを知りたいのだ。
◇◇◇
決意が実ったのか、それは訪れた。
「行くわね」
「ええ。──メィリィ、貴女が何を見ても、帰ってくる場所はここですからね」
「分かっているわあ」
恐怖と興味を抱えて、少しの我儘でアリーゼの膝の上に抱えてもらって。私はそれを開いた。
──意識が、暗転する。
◆
──女、一人の女がいた。
痩せた体に粗末な服。
北方のグステコ聖王国は、貧富の差が激しい国であり、貧困層では捨て子も珍しくない。女も例に漏れず、そんな捨て子の一人。物心つく頃には親もなかった。
女は盗み、傷付け、泥水を啜り、そうやって日々を重ねていた。
何のために生きるのか、幸せって何のことなのか。そんなこと、考える暇もない。
ただ死なないため、生存するために生きていた。
──その日は、特に寒い日だった。
霊峰から吹く風は冷たく、街中が凍り付いていた。吐いた息も凍りそうな極寒の吹雪の中、盗みを働いた女は捕まり、店の店主に取り押さえられてしまった。
即座に殺されてもおかしくなかった。だが女は痩せ細っているにも拘らず、一目で女と分かる肢体をしていた。
店主は、最低限吹雪を凌げる手近な屋内へ女を引き摺り込み、その身を辛うじて守っていたボロを、破り去った。
酒でつぶれた声をガラガラと震わせ、煙草で黄色がかった歯と奥の歯茎を剥き出しにして、下卑た笑いを漏らす。
女は既に、吹雪の中で凍えそうだった。建物も隙間風だらけで、体温を守ってはくれない。
上着を剝がされて、下着も奪われて……何をされるのかより、凍えて死ぬ方が先だ。そう、どこか他人事のように思えた。
そのとき、女は、掌に鋭い感触を感じた。考えてそうしたわけじゃない。ただ、それを、男の腹に、突き刺して──
男の悲鳴も、誰かの命を奪ったことの戸惑いも、何も感じなかった。
だけど、冷たい風の中で、女は思った
──血と臓物は、なんて温かいんだろう
──この世に幸せがあるとしたら、寒さを忘れさせてくれる温もりがそうだ
生まれ落ちて何も得られなかった女が得た、初めての幸福。
己を犯そうとした男。既にその臓物からは、温かさが失われかけていた。
女は生きるために、幸せを求めて歩き出す。
──『腸狩り』は、殺し屋となった。
求められるままに人を殺し、その腹を捌き続けた。
◆
己の規範となった女。その生涯を見届け、意識が痛みとともに回帰する。
「う、あぁぁぁぁ──ッ!?」
瞬間、弾かれたように意識が浮上し、■■■■は悲鳴を上げる。
手に持っていたものを取り落とした。息苦しさに喉を喘がせ、呼吸困難に陥った肺がパニックを起こして痙攣する。
「メィリィ!」
狂い暴れる■■■■を、金髪の女が抱き留める。
「わ、わたしは……あ、え? 今、今、いまいまいま、どう、な、え?」
「深呼吸、深呼吸よ。無理に喋らなくていい。ゆっくり、ゆっくり、私を、アリーゼ・アストレアを感じて」
ぐるぐると目が回り、口の端から泡を吹く■■■■に女が──否、アリーゼが力尽くで抑えたまま、必死に呼びかけている。
「メィリィ、思い出して。大丈夫。貴女はメィリィ・ポートルート。魔獣と仲良しで、ぬいぐるみが好きで、髪型が大事。温かいお風呂に入りたい、かわいい女の子よ」
アリーゼが、言葉を並べ始める。
その、単純で、短い言葉を聞きながら、■■■■は、■ィ■■は、メィ■ィは──、
「わ、たし……あ、わたし、よ、ね……エルザじゃ、なく、わたしで……」
「そうよ。そのまま、落ち着いて、メィリィ。平気だから……ゆっくり、ゆっくりね」
アリーゼが、メィリィに──メィリィだ。メィリィに、語りかけてくれる。
その言葉に従いながら、自分の頭の中、突き刺さった記憶という棘を丁寧に抜き取る。それこそ、最後の最期、命が途絶える瞬間──メィリィの叫びに気を取られたことが契機となった瞬間までの、記憶を、何とかして。
「大丈夫、大丈夫よ。『ゆっくり、戻っておいで』」
震えるメィリィを抱きしめて、アリーゼが優しく、温かく、言葉をかけてくれる。それに身を委ねながら、メィリィはゆっくりと、自分と『他人』を分離していった。
◆
「温かいわあ」
私は、アリーゼの体温を隙間なく感じながら、呑気に呟いた。
「メィリィ」
「なあに、アリーゼ」
「長いです」
「そーお?」
「これではご飯も食べられないでしょう?」
「……そおねえ」
仕方なく離れて、椅子ごと元の位置に戻る。
「また随分と懐き度が上がったなぁ」
と、スバルがそれを見ていた面々の内心を代弁する。
「ダジャレ? お兄さん、あんまり面白くないわよお?」
「違ぇよ! 俺も今自分で言ってて思ったけど!」
そうこうしているうちに、ラムが皿をそれぞれの前に並べ終えた。食前の挨拶をして、皆が手を進める。
「ごめんなさい、ラム。今日は手伝えなくて」
「いいのよ。その娘も『死者の書』を読んで大変だったようだし」
「メイドのお姉さんと、襟巻きのお姉さんには、恥ずかしいとこ見られちゃったわねえ」
恥ずかしさを誤魔化すため、あっけらかんを装うけれど、アリーゼを含む三人には見抜かれている気がする。
「『死者の書』って、エルザのだよな?」
「そーよお」
だから、意識が半分くらい別のこと──二層の攻略に向いていそうなスバルの問いかけに、快く応じる。
「どうだったんだ?」
「べつにい、お兄さんと騎士様と同じだと思うわよお。ただ少し、深く潜り過ぎたみたいって言われたけどお」
「身近な人だからってことか」
「ええ。エルザはお兄さんのお腹捌きたいって思ってたみたいで、わたしもお兄さんのお腹見るとゾクゾクしちゃうわあ」
「そうか! 悪いけどそれはお前のためにやられてはやれねぇわ!」
「ざあんねん」
不貞腐れた素振りで話を区切り、干し肉を噛み千切る。塩辛いそれに、ふと思う。
「そお言えば、グランヒルテってお酒飲んだことある人いるう?」
「グランヒルテですか。私はありませんが、アナスタシア様は何度か飲んでいらしたと記憶しています」
「せやね。たぁだ、ウチもお酒に強い方やけど、それでも結構キツイよ?」
「火酒ですし、酒精はかなり強いですからね」
騎士、商人、アリーゼがそれぞれ感想を述べると、半魔が訊ねてきた。
「そのグランヒルテって、エルザさんの名前よね? 何か、意味があったの?」
「そーよお。言われてみれば、エルザは大事な仕事が終わったら、いつもグランヒルテを飲んでいたわあ」
初めての、温かさ。
それを成したガラス片が、グランヒルテの空き瓶が割れたものだった。
エルザ・グランヒルテの、『腸狩り』の根幹とも言えるそれを、私も味わってみたくなった。
「メィリィはあと一年もすれば飲酒できるようになりますが、最初は酒精の弱いものから徐々に試していきましょうね」
「はあい」
アリーゼに釘を刺され、私は分かっていますと間延びした返事をした。
そんな、和やかな談笑を、この場に居合わせる一人が静かに眺める。
「────」
──黒瞳を僅かに伏せ、ただ静かに、ナツキ・スバルはとある思考に沈んでいた。
そして、その翌日。
「異世界召喚ってヤツ──ぅ!?」
ナツキ・スバルは、記憶を失った。
六章最大の困難、スバルの記憶喪失まで、ようやく書くことができました。
メィリィの名前回的なイメージでお送りした今回。
メィリィ視点なので、さり気なく散りばめられたアリーゼの『虚飾』もスルーされています。
次回からは、記憶喪失スバル、通称残骸くんのお話が始まります。
メィリィ問題がなく、アリーゼもおり、ユリウス・ラムも試験を突破しているため、少しずつ原作とは異なる展開になっていく予定です。
章が終わるまでの大枠を決めてから書き始めるため少し遅くなりますが、楽しんでいただけるよう、これからも頑張って書いていきたいと思います。
感想・お気に入り登録・評価、お待ちしてます。
それではまた。