スバルが倒れていた場所であり、『死者の書』を蔵する三層『タイゲタ』。
小一時間の捜索を経たにもかかわらず、スバルの記憶を取り戻すヒントは見つからなかった。
「難易度無意味に爆上げしすぎだろ……世界優しくねぇ」
全く、欠片も、見通しの立たない未来。思わずそんな弱音が漏れ出す。
「不安ですか、スバルさん?」
「……ああ、正直めちゃくちゃ不安だ」
優しく投げられたそれに、スバルは抵抗なく本音を吐き出す。
『タイゲタ』捜索を一区切りさせ、エミリアたちは塔全体の捜索に移っていた。
スバルは四層の『緑部屋』でお留守番。本来ならスバル本人が率先して捜索に参加したいところだが、記憶をなくした前歴があるのでやむを得ない対応だった。
そんな落ち着きのないスバルのお目付けが、蔦の椅子に腰掛けるアリーゼだった。
アリーゼ・アストレア。金髪碧眼清楚系美女という、コッテコテのテンプレお姫様。
普通なら美少女慣れしていないスバルは、見つめられるだけで思わず顔を赤くして目をそらしてしまうだろうし、こうして二人きりの空間なんて耐えられず、無駄に空回りしていただろう。
だが、彼女の纏う空気感が、スバルに自然体を与えていた。
例えるならそう、クラスでは目立たない、けれども密かに人気のある図書委員のような。
エミリアたちを前にしたときとは違う。シャウラを前にしたときとも違う。『ナツキ・スバル』をなぞらなくていいと、そんな安心感を与えてくれていた。
「俺自身の記憶のこともそうだけど、塔の攻略を遅らせてるってのもな」
「前者は気休めしか言えませんが、後者に関しては気にする必要はないかと」
「どうしてだ?」
「竜車に積んできた食料にも限りがありますから。今、塔の攻略を遅らせるのが許されているのも、スバルさんが三層の『試験』を即座に突破したお陰です」
「つまり、記憶をなくす前の俺の貯金ってことか……ま、記憶を落っことすなんてドジ踏んだ対価として、有り難く受け取るとしますか」
「それがいいかと」
アリーゼはそう頷くと、「他に聞きたいことはありますか?」と訊ねてきた。
「他にっつっても、何が分かんないのかが分からねぇし」
「では重複もあると思いますが、イチから説明しましょうか」
と、アリーゼからの分かりやすい説明が始まった。
このルグニカ王国が置かれた現状。
王族の尽くが亡くなり、龍の徽章に選ばれたエミリアやアナスタシアたち、五人の王選候補たちが玉座を競っていること。
スバルはそのエミリア陣営の人間で、エミリアの一の騎士であったらしい。
このプレアデス監視塔──大図書館プレイアデスに来た経緯。
プリステラを襲った魔女教の被害者──ハエなどに姿を変えられた『色欲』、記憶と名前を奪われた『暴食』。その二つの解決策を求めるため。
その魔女教とは、400年前に封印されたとされる大災厄、『嫉妬の魔女』サテラを信仰する謎の集団。目的のためには手段を選ばず、各地で神出鬼没に犯罪行為を繰り返し、各国から危険視されている。
どれくらい危険視されているかというと、魔女教徒を見つけたら即座に殺せというのが常識になっているほど。
「俺の記憶も、その『暴食』に喰われたって線はないのか?」
「可能性としてなくはないでしょう。ですが、そうなるとこの塔に『暴食』が潜んでいることになります。何よりこれまで『暴食』の被害者は周囲から忘れられるというものでしたので」
「わざわざその逆をする意味もないってことか」
「ええ。ただ、大罪司教は権能だけでなく、性格も悪辣極まりないとのことでしたので、可能性はあるかと」
大罪司教の権能。
曰く、他者からは見えず、万力の力を持つ腕を数十本顕現させる。
曰く、時間停止により物量・魔法一切の干渉を拒否し、無敵の肉体を成す。
曰く、他者の名前と記憶を喰らい、その経験を自身の糧とする。
曰く、人々の感情を共鳴させ、増幅させる。果てには受けた傷すらも共有させてしまう。
曰く、人間の存在そのものを作り変え、それは如何なる治癒魔法も効果がない。
「そんなこの世の終わりみたいな奴らがいんのかよ」
「ええ、プリステラも彼らによって甚大な被害を負ったそうです。ですが、そのうちの一人『憤怒』は捕縛、王都に幽閉されていますし、『怠惰』と『強欲』は既に討伐されています」
「『怠惰』と『強欲』……見えざる手と無敵か。そんなのを倒せるなんて、味方にもやべー奴はいるんだな」
スバルの中で、異世界皆人外説が再浮上していると、アリーゼが可笑しそうに笑った。
「えっと、どしたの?」
「いえ、その『怠惰』と『強欲』を討伐したのは、他ならぬスバルさんですよ」
「えっ」
「正確には、『怠惰』はユリウスを含む討伐隊をスバルさんが主導したことで、『強欲』は私の弟である『剣聖』と共に、ですね。それでも貴方の功績は、戦場を共にした誰もが認めていましたよ」
「……マジで?」
『ナツキ・スバル』がそんなスーパーマンのような活躍をしていたなど、
だが、アリーゼが嘘をついている気配はない。
「それだけではありませんよ。400年世界を脅かし続けた三大魔獣、白鯨と大兎を討伐したのも、スバルさんの功績が大きいと聞いています」
「白鯨と、大兎」
「──『霧の魔獣』白鯨。50メートルを超える巨躯に、人を狂わす霧を撒き散らす。何より神出鬼没で何処に現れるか分からず、空を飛びます」
「魔法があるなら空くらい飛べるんじゃ?」
「空を飛ぶのは複合魔法の一種で、極めて困難とされています。飛竜という竜種はいますが、魔法で空を飛ぶとなると、私の知る限り世界で一人しかいないはずです」
「まじか……それで、大兎ってのは?」
「単体の脅威度で言えば大したことはありません。握りこぶし程度の大きさで、噛み千切られさえしなければ、私が蹴飛ばすだけで討伐できるでしょう」
「でも、何かのクソギミックがあるんだろ?」
「ええ。大兎の最大の脅威は、際限なく増殖すること。その数は記録に残る最大のもので、十万とも言われています。しかも、白鯨と同じく出現の予測はできず、『大兎』が通った後は生物・作物が悉く食い尽くされ、無人の野が広がってしまうと」
「本当にクソだな、その魔獣」
魔女教に大罪司教、三大魔獣。そしてこの塔における原因不明の記憶喪失。
この世界、生きるのにハードモード過ぎる。
それに、そんな歴史を動かす大偉業を、『ナツキ・スバル』が成し遂げたというのなら。
今ここにいる菜月・昴は──
「──念のため断っておきますが」
と、それまでの説明口調から変えたセリフに、スバルの意識がアリーゼに向く。
「先ほども言いましたが、スバルさんは強くはありません。賢くもないでしょう。スバルさんより優れた者など、掃いて捨てるほどいます」
「────」
「ただ皆が好きだから、諦めない。出しゃばり、醜態を晒し、迷惑もかけるけれど。それでも諦めず、正面から向き合い、痛みを堪え、正解を探す……そこに少しの運が合わさって偉業を成し遂げることができたのだと、そう聞いていますよ」
「……そこまで言うなら、自信持って言い切ってくれよ」
「残念ながら、スバルさんとはあまり交流がありませんでしたから。今回塔の攻略で協力するまでは、三度しか会っていません」
「あ、そんなに」
想像以上に関わりがなかった。
ただ、それはそれでありがたいと思った。
記憶を失い、一緒にいたはずの人たちに心配をかけ、積み上げてきたものもなくして役立たずになった挙句、体に刻まれた傷という歴史だけ残し、『ナツキ・スバル』というガワだけ整えてある。
そんなハリボテの自分が、アリーゼの前では取り繕わなくていいと。そう言い訳をすることができたから。
「は」
短く息を吐いて、スバルは顔を上げた。
「あー、やめだやめ! アホらしい。そうやって逃げ道ばっか作ってどうするよ……」
自分の頬に拳骨を当てて、その拳を開く。掌に残ったマメは、異世界でスバルが苦心し、努力した証だろう。
「悪い、アリーゼさん。続き、聞かせてくれ」
「ええ」
居心地の良い場所で腐ることの表面上の楽さと、底に巣食う辛さは、菜月・昴が──父に、母に、優しい両親に迷惑をかけ続けた自分が一番よく知っている。
──この世界なら、俺だって
今度こそ。
もう二度と、後悔しないように。
こんな自分を愛してくれる人たちに、胸を張れるように。
菜月・昴は、改めてそう決意した。
◇◇◇
それは、アリーゼからこの世界について説明されていたとき、突然に起こった。
「──? 尻の下から、妙な地響きが……」
「これは……」
蔦の椅子を確認する、呑気なスバルとは対照的に、アリーゼは緊張と警戒を瞳に宿して立ち上がる。
「アリーゼさん、何が……?」
「分かりませんが、良い変化ではないでしょう。──スバルさん、少し待っていてくださいね」
「え、どこに」
「少し辺りを見てきます。スバルさんは、レムさんを見ていてくださいね」
アリーゼは穏やかながら返事を求めない口調でそう言うと、スバルの肩をぽんぽんと叩く。
「……子ども扱いかよ」
「私はアナやユリウスと同い年ですので、スバルさんより年上のお姉さんですよ」
咄嗟に出た反論未満にも、アリーゼは律儀に答えてから歩き出す。蔦だらけの扉が滑るように開き、彼女はその向こうに消えた。
レムの傍で警戒することほんの数分、アリーゼが戻ってきた。
「アリーゼさんっ、よかった無事で」
「ただいま戻りました。ですが、状況は分かりませんね。塔の禁則に触れたのか、それとは無関係の何かが起こったのか」
「禁則ってーと、シャウラがキリングマシンになる4つ、いや5つのやつか」
「ええ。誰かが4つの禁則を冒したのか、もしくはシャウラが隠し、私たちが知らない5つ目の禁則に触れたのかもしれません。ただ、その『きりんぐましん』なるシャウラが見当たらないため、塔の禁則とは無関係の可能性が高いかと」
「なるほど……」
その推論にスバルが納得していると、
「スバル!」「アリーゼ!」
ベアトリスとアナスタシアが『緑部屋』にやってきた。
「アナ、何があったの?」
「火急の報告、それも悪い報告や」
「それは、この地響きと関係が?」
アリーゼの問いかけに、アナスタシアは息を整えながら「せや」と顎を引くと、
「先ほどから聞こえるこの地響きは、足音や」
「足音?」
「足音……」
と、思いがけない説明にスバルは首をひねり、アリーゼが眉を顰めた。
「まさか──」
「そのまさかや」
アリーゼの推測に、アナスタシアは塔の外を手で示し、
「──アウグリア砂丘の各所に存在した魔獣が、一挙にこの塔へ押し寄せとる」
──監視塔への魔獣到来。
アウグリア砂丘中の魔獣が一挙に押し寄せていると。アナスタシアの報告を受けたスバルたちの表情が強張り、深刻な色が瞳を
靴裏に感じるのは、塔の床を微かに揺るがす地鳴りや鳴動──それらが誇張なく、塔全体に響き渡る魔獣の足音や嘶きだと聞かされて、動揺しないのも無理な話だ。
「俺は、この砂漠のでかさがぼんやりとしかわからないんだが……」
「元々、アウグリア砂丘は魔獣の群生地でもあります。ウルガルムや花魁熊など、通常の魔獣が凶暴化した種であったり。砂蚯蚓のように、全長二十メートル近く──在来種の数十倍の大きさの魔獣も生息しています。数もアウグリア砂丘全体となると、十万で足りるかどうか」
こんな状況下でも、アリーゼはスバルの疑問に対して、真摯に答えてくれる。
その彼女の言葉が正しいとすれば、この地響きは張子の虎で、敵の数がせいぜい動物園くらいと考えたいスバルの期待は大外れ。正確にはサバンナ級に魔獣がいると、そういうことらしい。
なるほど、状況を絶望視もしたくなるものだ。
「アナとベアトリス様、二人がここに来たということは」
「戦えんウチらは、ここで待ついうことや」
「魔獣にはシャウラを筆頭に、エミリアに双子の姉、ユリウス、それにメィリィが応戦してるのよ。ここは入り口の五層のずっと上、一先ずは安全かしら」
アナスタシアの結論に、ベアトリスが補足を入れる。それは希望的観測と容易に分かるものだったが、同時に朗報とも言えた。
シャウラが味方サイドにいるということは、少なくとも塔の禁則に触れたわけではないことの証左だからだ。
とはいえ、状況は最悪。
スバルは彼らがどれだけ強いのか知らないが、いくら強かろうと多勢に無勢。中に押し込まれるのも時間の問題だろう。
「そうですか」
無論、アリーゼもそれは分かっているはずだ。それでも彼女は頷いた。
「ユリウスたちなら螺旋階段を上手く使い、魔獣相手にも上層の防衛は成し遂げてくれるでしょう。あとはシャウラの狙撃魔法の次第ですが、信じて待ちましょう」
アリーゼの結論に、ベアトリスもアナスタシアも否やはなく、スバルも従うしかなかった。
突然の異世界で、未知の魔獣襲来。その恐怖に怯えていると、不意に空いた手が誰かに握られる感触があって。
「ベア、トリス」
「スバル、安心するのよ。何かあれば、ベティーが代わりに対処するかしら」
「な……ば、馬鹿言え! 俺は大丈夫だ! 確かに、ちょっと怖じ気づいてたけど……」
「スバル、足りない部分はベティーたちが埋めるかしら。それに元々、戦うならスバルはベティーのおまけかしら。抱っこ係なのよ」
「抱っこ係って。言い方……」
ずいぶんと情けない評価だが、言葉の奥には親愛が隠れている。
「……分かった、頼む」
「それでいいのよ。何もかも一人でやろうとしない、それがナツキ・スバル流かしら」
愕然と、目を見張るスバルに笑みを残し、ベアトリスがアナスタシアを見やる。
「エキドナと、そう呼ばせてもらうのよ。万が一の場合はベティーが合わせるから、好きに乱発するかしら」
「──分かったよ。創造主を同じくする者同士、共闘といこうか」
はっきりわかるほど、アナスタシアの口調が一変する。
ひどく親しげで馴れ馴れしい口調、それは肝心な部分を空洞としている。声音、声色はアナスタシアのものと同じでも、根本の部分がズレて聞こえる。
そのわかりやすい変化に、そしてベアトリスが呼んだ『エキドナ』という知らない名前に、スバルは脳がパンクしそうになる。
「アナは戦闘能力はありませんが、その襟巻きに擬態した人工精霊に身体を譲ることで、一時的に魔法が使えるようになるんです」
と、そんな説明をしてくれたのは、またしてもアリーゼだ。
「一時的に身体をって、それ大丈夫なやつなのか?」
「元の身体には戻れるが、アナの身体に負担を掛けていることには変わりない。それだけの緊急事態ということだ」
アナスタシアが──否、人工精霊エキドナが、そのリスクを告げることで事態の深刻さを教えてくる。
繋いだベアトリスの小さな手をぎゅっと握りながら、スバルはただひたすらに恐怖に耐えていた。
そうして足元に振動を感じながら、四人で待つことしばらく、
──突如、視界が落ちた。
「スバル?」
視界が真横に傾いでいる。手を繋いだベアトリス、その小さな身体を見上げている。
その事実に強烈な違和感を覚えた。
「──スバル!」
ベアトリスがスバルの名前を叫んだ。見れば、少女の表情が悲痛なものになっている。
その、ベアトリスの青い瞳の意図を知りたくて、スバルは視線を巡らせた。
──ナツキ・スバルの身体が、倒れていく。首と胴体が綺麗さっぱり別れ、下部だけで立っていたそれが、力なく地面と衝突した。
「ぁ、ふ……」
途端、込み上げる血塊が喉から溢れてきた。
痛みはない。その所為か、どこか他人事で、非現実のようにすら感じられる。
「スバル! スバル! ダメかしら! 死んじゃ……死な、死なないで……一人に、しないでぇ……っ! やめてぇ……っ」
頬に手を添えられる。涙声がして、どうにか手を伸ばしてやりたいけれど、動けない。動かす手が、残っていない。
愛らしい顔、でも泣いていて、泣き顔はさせちゃダメだろうと、思って。
「ベティーを、置いていかないでぇ……っ」
泣きじゃくり、少女が必死にスバルの生首を抱き寄せる。
小さい体にしても、今のスバルは軽く、小さすぎる。
頬を涙が伝っていく。せめて、その涙ぐらい、拭ってやりたくて。
体の中で動く場所を探す。探して、探して、探して、どうにか動くモノを引っ張り出して。
「ぁ……す」
「……スバル?」
「ベぁ……ィス」
少女がこちらを見る。それを安心させようと微笑む、力もない。
「すば──」
一瞬、少女が何か言いかけた。
その端整な顔をぐしゃぐしゃに歪めて、口を開きかけたのを、スバルは見た。
──スバルに見えていたのは、そこまでだ。
「────」
痛みはない。ただ己を失う喪失感だけがあった。
何が起きたのかわからないまま、スバルの意識は消えていった。
◇◇◇
「──スバル! ねえ、スバルってば、大丈夫なの?」
目覚めて、最初に聞こえたのは銀鈴の声音だった。
腕に触れる細い指の感触と、間近に感じる息遣い。その感覚を頼りにスバルの意識はゆっくりと浮上し、重たい瞼が開かれる。
──すぐ目の前に、恐ろしく美しい月の妖精の顔があった。
「じゃなくて、エミリアちゃん……?」
「ああ、スバル、よかった。目が覚めたのね。すごーく心配したんだから」
スバルの呼びかけに、月の妖精──エミリアが安心したように胸を撫で下ろす。その様子に目を丸くしながら、スバルはぐるりと辺りを見回した。
緑色の蔦に覆われた部屋、その蔦で編まれたベッドの上に横たわる自分。安堵の表情をしたエミリアと、その隣に佇む縦ロールの美幼女。
「エミリア、そんな優しい態度だとスバルは反省しないかしら。もっときつく言ってやらないと、ベティーたちの心配が伝わらないのよ」
「そうよね。ほら、ベアトリスもこう言ってるでしょ? スバルが見当たらないって大慌てで、倒れてるところを見つけて泣きそうだったんだから……」
「言わなくていいことまで言わなくてもいいかしら!」
ベアトリスが顔を赤くして、悪気のないエミリアの発言にぷんすかと怒る。
そのやり取りを見ながら、スバルはただ、大いに首をひねった。
「え? なに、夢?」
「──?」
そのスバルの発言に、エミリアとベアトリスも揃って首を傾けたのだった。