首を傾げるエミリアとベアトリスを前に、スバルの意識は混乱を極めていた。
壁や床、天井までもが緑色の植物に覆われ、スバル自身、蔦で編まれたベッドの上で体を起こした状態でいる。背後には巨大なトカゲ、近くのベッドに眠り続ける少女。
どこをどう見ても見間違いようのない、プレアデス監視塔の『緑部屋』だ。
「だけど……あれ? 俺は、塔は、どうなったんだ?」
キョロキョロと周囲を見回すスバルに、エミリアとベアトリスから戸惑いの視線が集中する。だが、今はそれを気にする余裕もない。
「だって……さっきまで魔獣が来てた、よな?」
塔が揺れていないのだ。
それにと、スバルは首に手を当て、ペタペタと触る、触る、触る。その存在を確かめる。
「首……ちゃんと繋がってるな」
これでもかと、スバルは自身の無事を確認する。
記憶の混濁を自覚して、スバルは意識を失う寸前のことを懸命に思い出す。
魔獣の警戒をしていた最中、途端に首が落ちたはずだ。だが、実際は首は繋がっており、血の痕跡も見つからない。
──頭がおかしくなりそうだった。
だってスバルは、突然の異世界で突然の魔獣襲来に怯えていたのだ。それが気付いたらベッドの上。
もう、意味が分からない。
「ねえ、スバル、大丈夫?」
「うひゃっ! エミリアちゃん、近いって!」
ずいっと無防備にエミリアに顔を近付けられ、慌てふためくスバルがベッドの反対側から転がり落ちる。その過剰反応に、エミリアは目を丸くした。
「そんなに驚かなくても……もう、驚かされたのはこっちの方なんだから」
「お、驚かせたってのは……」
「決まっているのよ。姿が見えないと思って探していたら、倒れているところを見つけたかしら。これで心配しない方がおかしいのよ」
「え、倒れてるとこを見つけたって……」
腕を組み、呆れた顔のベアトリスの説明に、スバルを強烈過ぎる違和感が襲う。
だってスバルは、ベアトリスの目の前で倒れたはずだ。彼女の涙を拭えず、その悲壮な表情を最後まで見ていたはずだ。
「スバル、そうやってブツブツ言う前に、ベティーたちに言うことがあるはずかしら」
「言うこと……」
ベアトリスがそんな言葉を投げかけてくる。その言葉に思考を中断したスバルは、エミリアとベアトリスの様子を見て、遅れて気付いた。
「そ、っか。えっと、ごめん。心配かけて悪かった。また助かったよ」
「それでいいのよ」
「ふふっ、どういたしまして。でも、ホントに何ともない? 安心しても平気?」
「大丈夫大丈夫。ベアトリスもエミリアちゃんも、心配かけて悪かったな」
思考を棚上げし、礼儀を優先。ひとまずスバルはエミリアにたち頭を下げる。
しかし、そのスバルの返答を受け、エミリアが形のいい眉を顰めた。それから彼女は美しい紫紺の瞳を戸惑いに揺らして、
「ええっと、それでなんだけど……スバル、さっきからどうしたの?」
「どうした、ってのはわりと漠然とした疑問だね。どこにかかってくる疑問?」
「だって、さっきから私のこと、エミリアちゃんって。なんだか、スバルにそんな風に呼ばれるのってすごーく変な気持ちになるから」
言いながら、エミリアは自分の長い銀髪に指を絡め、おずおずとスバルを見る。その眼差しに胸を掻き毟るような寂寥を感じ、スバルは思わず喉を鳴らした。
無防備で親しげで、スバルの好みにドストライクすぎる外見の少女──しかし、彼女の今の態度には、そのスバルの感慨との間に深い溝があった。
だって、そんな態度はまるで──、
「スバルの悪ふざけは今に始まったことじゃないかしら。そんなことより、話すのよ。なんで、夜の間に勝手に『タイゲタ』に入って、しかも倒れていたのかしら」
「──は? 待て待て待て! え、なに、俺ってまたタイゲタで倒れてたの?」
「……また?」
桜色の頬を膨らませたベアトリス、彼女の言葉にスバルは愕然となる。
魔獣が来てる中で、ベアトリスたちと別れて単独行動、それも『タイゲタ』に行くなんて命知らずすぎる。そもそも首が離れた状態で動けるわけがない。
そんな慌ただしい思考のスバルに「待つのよ」とベアトリスが声をかけた。
「なんだか、話が食い違ってる気がするかしら。スバル、正確に話すのよ」
「うん?」
「今、自分が置かれてる状況を、ベティーたちに話してみるかしら」
噛んで含めるようなベアトリスの指示、その言葉の重みを噛みしめ、スバルは雰囲気に呑まれながら頷いた。
「まず、話してた通り……目を覚ましたら、俺には記憶がなかった。すっからかんってわけじゃなく、この世界に召喚されてからの記憶が……」
「ちょ、ちょ、ちょ、待つのよ! 記憶!? 記憶って何のことかしら!?」
「え?」
威厳たっぷりだったベアトリスの態度が、説明の出鼻でいきなり砕かれた。
思いがけない彼女の反応にスバルは驚き、慌てるベアトリスの肩を後ろからエミリアが支える。が、エミリアも落ち着いているわけではない。
彼女もまた、スバルに驚きの目を向けていた。
「記憶って、どういうこと? スバルは何を言ってるの……?」
「いや、ここでそんな引っかかる? だって、このことは二人にも……」
──話したはず、と続けようとした言葉がそこで止まった。
「今の、寝起きのやり取り……」
エミリアとベアトリス、二人の瞳には色濃い困惑がある。決して演技ではないそれに、スバルは既視感があった。
──否、何となくのものではない。確かな記憶だ。
エミリアとベアトリスとの初対面──この場合、記憶をなくしたスバルにとっての初対面という意味だが、そのときに交わした会話とそっくり同じ内容なのだ。
もっと言えば、『緑部屋』で二人に見守られながら目覚めた状況そのものが、記憶をなくしたスバルの目覚めの再現ではないか。
「────」
そのことに思い至り、スバルは音を立てて唾を呑み込んだ。
ちらとエミリアたちを見れば、彼女らの態度に変化はない。ただ、二人の困惑している瞳にあるのは、『ナツキ・スバル』へ向けられた心からの憂慮だった。
それが不信ではなく、信頼であったことがスバルの心の安定に一役買う。
正直、スバルの心は今も大波に揉まれる嵐の中にいる。だが、この状況は──、
「前にも見た状況。──つまり、予知夢」
目覚めの瞬間の状況を鑑みるに、そう考えるのが妥当ではないだろうか。
そう思えば、この予知夢こそが、異世界へ招かれたスバルへ与えられた特殊能力──、
「すげぇ使いどころが難しい、ピーキーな能力だな……」
ただし、使いこなせればかなり強力な力であることは間違いない。
予知夢とは、つまるところ未来予知だ。この的中率が高ければ高いほど、閉塞した状況を打破するための決定打となり得るだろう。
大罪司教、三大魔獣。初見殺し極まるそれらを打破したのも、この予知夢のお陰だったのかもしれない。
この推論が正しいのかは未だ疑問の余地があるが──、
「──二人とも、ちょっと落ち着いて俺の話を聞いてくれ」
そう言って、自分の能力の推測を立てたスバルは、改めて二人に向き直った。そのスバルの様子に、エミリアとベアトリスは顔を見合わせ、それから頷いてくれる。
そうして、真剣な顔をした二人に、スバルは微かな躊躇いを挟んで、続けた。
「信じてもらえるかわからないんだが、どうも、俺は記憶をなくしたらしいんだ」
◆
──その後の展開も、やはりおおよそ予知夢の通りに事が運んだ。
「えいっ!」
空気の弾ける音をさせ、白い頬を両手で叩くエミリア。
「ああ、もう、まったく! スバルは本当に仕方のない契約者なのよ!」
短い腕を組み、美幼女は丸い頬を膨らませ、ぷんすかと声を大きくするベアトリス。
「──これは、何の悪ふざけなの、バルス」
エミリアとベアトリスの拙い説明を受け、スバルの記憶喪失を疑うラム。
「しっかし、懲りないッスね、お師様。そうやって何回あーしのこと忘れるッスか?」
記憶喪失の事実を、あっけらかんとした態度で受け入れてくれるシャウラ。
「本当、お兄さんってば、すごおく困ったさんよねえ」
興味があるのかないのか、混迷する状況を楽しむように悪戯に微笑むメィリィ。
「ウチはアナスタシア・ホーシン。この塔を出るまでは、一蓮托生でよろしゅう」
狐の襟巻きをして、はんなりと微笑むカララギ弁のアナスタシア。
衝撃を受けるユリウスを気遣い、落ち着く時間を設けたいと提案するエキドナ。
「ユリウス・ユークリウスだ。君とは友人……の、ようなものだ」
そのイケメンさは変わらず、優麗に笑みを向けてくるユリウス。
「初めまして、と言いましょうか。アリーゼ・アストレアと申します」
その微笑みで、変わらぬ安心感をもたらしてくれるアリーゼ。
「……お願いだから、全部、話して」
それを受け入れ、水汲みに連れ出された廊下で、ラムの本音をぶつけられ、確信する。
ラムの静かな慟哭と、話を聞いた皆の反応で確信が持てた。
──予知夢は、憎らしいほどに正確な力だと。
スバルとて、全員の言動を一言一句覚えているわけではない。それでも、印象に強く残っている彼女らの態度は一致していた。
問題があるとすれば──、
「……何を考えてたんだ、『ナツキ・スバル』」
通路の先を行くラムを追いながら、スバルは自身の名を、もはや別人のような感覚で呼ぶ。──否、もはや別人のような感覚なんて言い方は誤りだった。
スバルにとって、『ナツキ・スバル』は知らない未知の人物だ。その考えを推し量ることはできないし、対話も交わせない。理解してやれる糸口がない。
先の、予知夢で体感した一度目の世界のことを思い出す。その世界では、誰もスバルに予知夢の能力があることを触れなかった。エミリアたちの、誰一人として。
これだけの力だ。彼女たちがスバルにそれを隠したとは考えにくい。口裏を合わせるタイミングはなかったし、それを隠そうとする理由が見当たらない。
ならば、エミリアたちは予知夢の存在を知らなかったと考えるのが自然だ。
つまり、『ナツキ・スバル』は一度も、彼女たちに自分の能力を打ち明けなかった。
何故、『ナツキ・スバル』はエミリアたちを欺き、予知夢の力を隠そうとしたのか。
そんな『ナツキ・スバル』への不信感が、沸々とスバルの中で芽生えていく。
「お前は……」
──何を考えていたんだ、『ナツキ・スバル』
◇◇◇
「ナツキくんは、こんな状況のわりにずいぶん落ち着いとるんやね」
水汲みから戻ってきたところで、アナスタシアが言った。その言葉に、スバルは口の中が渇くのを感じる。
正直、その指摘も無理はない。スバル自身、どうにも演じ切れていない。
みんなが驚き、慌てふためいて、それでもどうにか不条理な現実に抗おうと決意する姿を見ながら、そのことに心から感情移入することができなかった。
一度見た映画を、初めて見たように感じることができないのと同じだ。
気丈に振る舞う彼女たちへの同情と、それを放置する罪悪感、そしてこれを続けてきただろう『ナツキ・スバル』への嫌悪感と、負の感情の詰め合わせが募る。
結果、反応の乏しいスバルが訝しがられるのも無理はない。ただし──、
「落ち着いてるって評価は新鮮だな。俺は通信簿には必ず『落ち着きがありません』って書かれるタイプのガキだったから」
「……記憶をなくした本人の混乱が一番少ないっちゅーんもおかしな話やね。何とかせなあかんて、ウチらは焦ってばかりやのに」
「周りが慌ててると、かえって当事者は冷静になる的なやつかもしれない。俺だって、見えないかもしれないけどビビってるぞ。そこは安心してくれ」
「それって、全然ホッとできない気がするんだけど……」
平静を装って回答したスバルにエミリアが苦笑する。ただ、この状況が先ほどと比べて、どこか空気に澱みがあるのは感じてしまう。
それもこれも、おそらくスバルが予知夢で見た流れを再現し切れていないからだ。できるだけ夢の自分をトレースしようとしても、細かな記憶の抜けに違いが出る。
これ以上、自分の物真似なんて高度な要求でボロが出る前に──、
「混乱繋がりで悪いんだけど、朝食の後『緑部屋』行っててもいいか? やっぱりちょっと落ち着きたくてさ」
──急な記憶喪失で混乱しているだろうから一旦落ち着かせた方がいい
偶然か、スバルの演技力の所為か、今回はなぜかされなかったアリーゼの提案。
前回と同じ流れを辿るよう、スバルは己の言葉でそれを再現したのだった。
◆
朝食を終えて、スバルは『緑部屋』にいた。
お目付け役のアリーゼとメィリィから少し離れた距離で、ひとり思考に沈む。
シャウラには申し訳ないが、聞かれると困る推理のため、彼女はエミリアたちと共に拠点に居てもらっている。
「未来予知ができる、って事実が確かめられたことが大きい、よな」
確かに重要な情報だが、それはあくまで記憶をなくしたスバルにとっての話。記憶をなくす前のスバルは、この予知夢を使いこなしていたはずだ。
しかし、肝心の発動条件が曖昧だった。今のところ、唯一の特別な能力と言える予知夢だけに、条件は見極めたい。
「夢から覚めた理由は、俺が死んだから……それなら発動条件は、このままなら俺が死ぬ可能性があるとかか……?」
結局、それ以上の考察はできず、仕方なしに結論を出した。
「──そうならないために、夢の先を変えればいい」
この塔に、魔獣が押し寄せてくる。
そして原因不明の何かによって、スバルは死ぬ。
これらは遠くない未来に起こる。絶対に防がなくてはならない。
記憶がなくなる前の『ナツキ・スバル』は、どういうわけかエミリアたちに予知夢のことを打ち明けていないようだが、生憎、今のスバルは状況の変化に貪欲だ。
未確定の未来に怯えて、おたおたと手遅れを招くようなことはしたくない。
「決めた。予知夢のことを、みんなに話そう」
そう決断して、スバルはエミリアたちの下へ戻ろうと立ち上がる。
「お兄さん、もう平気なのお?」
「ああ。そっとしておいてくれてサンキューな、メィリィ」
「別にい、私もお兄さんの顔が変わっていくのを見て楽しんでたからあ」
「あんまり良い趣味とは言えねぇなそれ……アリーゼさんも、助かった」
「スバルさんが一番大変なのですから、お気になさらず。エミリア様たちのところへ向かうのですか?」
「ああ、ちょっと話したいことがあるんだ」
スバルは意気揚々とそう告げて、二人に見送られながら『緑部屋』をあとにした。
正直、予知夢のことをどう説明するかは出たとこ勝負な感が強い。発動条件も不明なので、その効力を証明するには彼女たちの協力が必要不可欠だろう。
だが、解明できればきっと強力な武器になる。あるいはこれが、このプレアデス監視塔を突破する鍵となり得る可能性だって。
だから、そんな思いを胸に──、
「──ナツキくんのことやけど、ウチも記憶を取り戻すことを優先するんは賛成。やけど、同行させるんは考えるべきやと思う」
「────」
同じ四層、エミリアたちのいる拠点の前に着いたところで、聞こえてきた声にスバルは息を詰めた。
漏れ聞こえたアナスタシアの理性的な声、それを聞き取った途端、スバルはとっさに壁に張り付き、声をかけることを躊躇ってしまった。
切っ掛けを失い、聞き耳を立てるスバル。それを余所に、会話は続いている。
「アナスタシア様、考えるべきというのは、どういう意味でしょうか」
「分かってないふりなんて、ウチは好きくないよユリウス」
「────」
「記憶を失ったっちゅーナツキくんの発言……それが嘘だとは思わんけど、そんな不安定な状態で何ができるん?」
「それは、バルスの身を案じてというより、バルスが足手まといになると思っての発言と考えていいのでしょうか? だとしたら、同感です」
アナスタシアの整然とした物言いに、冷たく張り詰めたラムの声が重なる。それを聞いたエミリアが、「ラム!」と声の調子を高くして、
「ラムまで、スバルのことをそんな風に言うの?」
「客観的な事実を言ったまでです。それとも、エミリア様には記憶のないバルスに、昨日までと同じ働きができるとお思いですか?」
「それは……」
「バルスが悪人でないことは、ラムも認めます。ですが、関係が白紙に戻ったバルスを信用できるかと言われれば、ラムは否定します。……信用する、根拠がない」
冷たい理論武装の最後に、ラムは苦いものを堪えるような響きを交えた。
彼女の語ったスバルへの不信──この場合、スバルの発言への信用ではなく、全てを失ったスバルを信じられないという理屈、それは当然のことだった。
「私は、スバルを信じる。ベアトリスもそう。みんなもお願い。スバルを信じてあげて」
「……エミリア様、アナスタシア様やラム女史は、彼を疑っているわけではありません。ただ、今の彼を頼るのは不確定要素が大きすぎると、そう指摘しているだけです」
「その言いぶりだと、お前はそっち側に賛成ってことかしら?」
エミリアの懇願とユリウスの理性的な返答がぶつかる。だがそれは、全面的にスバルの味方をしようとするベアトリスによって、悪い空気の後押しとなった。
途端、部屋に不穏な空気が立ち込め、立ち聞きするスバルの額を汗が伝う。いっそ、この場でスバルが空気を壊すように割り込んでいけば。
──そんな考えが頭を過るのに、スバルの足は動いてくれなかった。
「まあまあ、ピリピリしてもしょうがなくないッスか? ここであんたらがポコポコやり合っても、別にお師様は喜んだりしないッスもん」
変わらず、傍観者に徹する立場にあったらしいシャウラの声。その言葉ですら、今のスバルを救ってはくれない。
「──っ」
スバルは奥歯を噛んだ。そして、自分でも驚くほど冷静に壁を離れると、足音を立てないように慎重に部屋を離れる。
そのまま、足取りは徐々に早足に、やがて駆け足になり──、
「クソ……!」
突き当たった壁に額を押し付け、スバルは湧き上がる感情に体を震わせた。
スバルを欠いた状態での話し合い、その内容は想像以上にショックだった。
全面的な信頼を勝ち取れた、などと自惚れていたわけではない。むしろ、そんなことは考慮の外だったと言っていい。
──信頼は、前提だとスバルは思っていたのだ。
エミリアとベアトリスが、あまりにスバルに親身で、気遣ってくれるものだから。
そのことに罪悪感を覚えていながら、信じてもらえて当然だと驕っていた。記憶をなくした自分でも仲間にしてもらえると、何の疑いもなく信じ込んでいた。
そんな自分を客観視できていなかったと、ようやく思い知らされたのだ。
──『ナツキ・スバル』が勝ち取ったモノを、ナツキ・スバルが横取りしようなどと。
「あの調子じゃ、予知夢のことも信じてもらえるかどうか……」
記憶喪失を信じてもらえたのは、エミリアたちが善良であることの証。だが、それで何もかもをありのままに受け入れてくれると、そう期待するのは独りよがりだ。
「最初から、掛け違えた……」
失敗した。スバルは、失敗したのだ。
今さら予知夢のことを話したところで、それを信じさせる根拠が提出できない。素知らぬ顔をして彼らの下へ戻って、知らないふりを続ける演技力だってない。
彼らが求める『ナツキ・スバル』の代わりを、ナツキ・スバルができるだなんて。
「────」
そんな、自分の不足を自覚したスバルの正面、蔦に覆われた扉がある。
いつの間にか、ここに戻ってきていた。
その蔦だらけの扉に手を伸ばし、躊躇う。
もし中で、アリーゼとメィリィが、アナスタシアたちと同じような話をしていたら。
攻略の経緯から保護者的な立ち位置のアリーゼと、どちらかと言えば傍観者のメィリィ。彼女たちにも、同じように疑われていたら。
スバルは、扉に触れた。躊躇って、そっと、指先で。その途端、蔦の向こうにあった扉が滑るように開く。
「……いくか」
ここで『緑部屋』に戻らず行方不明にでもなれば、さらに信用を失いかねない。
『緑部屋』か拠点か、二つに一つ。スバルは前者を選んだ。
不安を蹴飛ばして前に出る。堂々と扉を抜け、室内に入り込む。
室内を縦横無尽にのたくる蔦を踏み越え、潜り抜け、緑の支配するエリアをずんずん進む。そうして、いくらか奥まった空間へ辿り着くと──、
「スバルさん、おかえりなさい」
「もう帰ってきたのお? 早かったわねえ」
緑の部屋の最奥、入口から続く雑然とした雰囲気と異なる、開けたスペース。
そこでは蔦で編まれた椅子に腰掛けるアリーゼとメィリィが、変わらぬ様子で出迎えてくれた。
◇◇◇
あれは、何回目なのだろうか。
『緑部屋』を出るスバルを見送りながら、アリーゼ・アストレアはそんな事を思った。
アリーゼは、菜月昴のことを、この世の誰より知っている自信がある。
人生を追体験する『死者の書』で、その存在と同化し、『死』を実体験した。
あんなの、耐えられるわけない。
あんな苦しみ、喪失感、耐えられるはずがない。
あんなこと、耐えられるのは人間じゃない。人間の心は、自分が死ぬことになんか耐えられない。
一度として、楽な死に方などなかった。
一度として、自ら死にたいなどと思えなかった。
アリーゼは、耐えられなかった。
正確には、耐えられないと判断して、それ以上探すのをやめた。
メィリィの前でたまたま見つけた一冊目、そこから『虚飾』で探した複数冊。それ以上は、人格が壊れてしまうと思った。未読の本を手に取りながら、開けなかった。
それをナツキ・スバルは幾度となく味わい、自らその道を選んでみせた。
──ナツキ・スバルは、人の皮を被っただけの化け物。善良なことが奇跡の、頭のおかしい異常者だ。
そこまで知ってなお、今のスバルがどういう状況なのかは、知りようがない。
彼の反応の薄さから、おそらく初見ではない。そう推測する程度だ。
「協力はしますが、それがどこまでか……」
「アリーゼ?」
「何でもありませんよ、メィリィ。少し考え事をしていただけです」
「そーお?」
思わず口から漏れてしまったそれを、適当に誤魔化す。
足をパタつかせるメィリィと、スバルの記憶喪失やこれからの事を話しながら、アリーゼは別の思考に沈む。
ナツキ・スバルが死んだ。『死に戻り』をした。
この塔で、死ぬような何かが起こったのだ。
スバルが死んだ場合、時を遡るのか、別の並行世界に飛ぶのかは分からない。
どちらだとしても、アリーゼはまだ死にたくないし、己を第一に考えることは譲らない。
故に、自分たちの保護は外さない。自身とユリウス、アナスタシアの三人の誰かが死ねば、自動的に塔から脱出する。
もちろん、自身の安全を確保し、能力を明かさない範囲で協力するつもりではいる。
だが、取り返しの付かないところまで行ってしまった場合、さっさと逃げることも考えている。スバルを殺し、強制的にやり直させることすら、選択肢に入れるだろう。
──ごめんなさい、スバルさん
──余裕があれば、痛みを残さないようにしますから
一言、心の中で謝り。一言、免罪符を付け足した。
「あら、戻ってきましたね」
話し合いをしてきたには早すぎる帰還。
拠点に入る直前、会話を盗み聞きでもしてしまったのだろうか。
そんな想定をしながら、慣れ親しんだ『美』を纏い直し、
「スバルさん、おかえりなさい」
アリーゼ・アストレアは、穏やかに菜月・昴を迎えた。
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