「困るんだよなァ。お前の所為で、ナツキ・スバルが絶望しないじゃないカ」
顔を上げ、前に進もうとしていたナツキ・スバルの様子が、急変する。
見たこともないほど、凶悪な顔で嗤っていた。
「──あァ、
ひどく倒錯的な快楽を宿した黒瞳で、アリーゼを見つめている。
己に向けられていないのに。メィリィは、その黒い瞳から目を離せない。心が、搦め捕られていく。
「メィリィ」
名前を呼ばれた。ナツキ・スバルではなく、アリーゼに。
そちらを見て、メィリィは己の弱さを恥じた。
だって、目の前の『美』に比べればノミ以下な相手に、一瞬でも心を奪われてしまったのだから。
優しく微笑みかけてくれるアリーゼ。彼女が隣にいながら、あんな醜悪な存在に気を取られてしまったのだから。
「落ち着きましたか?」
「ええ、もう大丈夫よお」
いつもの穏やかな彼女とは違う。見るもの全てを惹き込む美しさ。
紡ぐ声音一つで、何気ない一瞥で、彼女が己の時間を割いた事実だけで、心の臓が止まりかねない多幸感を与えられる。
──これが、アリーゼ・アストレア。メィリィが取り繕ってきたなんちゃって可愛らしさとは次元が違う、『美』そのものだ。
「あァ、すごい、すごいね、すごいよ、すごいわ、すごいじゃない、すごいんだってば、すごいからこそ、すごいって憧れるからこそッ……あたしたちは兄様が憎かったんだ」
スバルが興奮した顔で熱い息を吐く。上気した頬、うっとりとした瞳で、アリーゼに向けて手を伸ばした。
「覚えているかな、聞いたことがあるかなァ!? 病気がちな私たちが調子を崩して、兄様に庭の木に生ったリンガをねだったときのことをッ!」
意味のわからない妄言、だが、それは涙声だった。
メィリィはそのおぞましい態度に眉を顰めた。何の目的で、何の狙いがあって、そんな作り話でこちらの意識を掻き混ぜるのか。
こう考えさせること自体、ナツキ・スバルの狙いであるのか。
「まだあたしたちも兄様も小さかったし、兄様も最初は無理だって言ったんだよッ! 覚えてる? 覚えてないかなァ? でも、私たちは兄様が拒否したら拒否した分だけもっとリンガが欲しくなったッ! なんでかわかる? わからないかなァ?」
「…………」
「何かそのあとのことがあったから、私たちはッ! あたしたちはッ! 兄様はッ!」
「…………」
「ずっとずっと思ってたよッ! ずっとずっと感じてたよッ! 違うってことを! お荷物なんだってことをッ! 欲しいものは何一つ手に入らない! 丈夫な身体も、剣の腕も、魔法の腕も、義姉様すらも! 全部、全部、全部全部ッ、兄様が持っていくんだ!」
聞くに値しない、耳障りな妄言。横で聞くメィリィですら眉を顰めてしまうそれを、アリーゼは冷めた目で聞いていた。
「言いたいことは終わりましたか? なら、次は私からお聞きしたいことがあるのですが」
「……少しくらい、何か見せてくれてもいいのに。生き別れた弟の話かもしれないんだよ?」
「残念ですが、私の弟はラインハルトだけです。大方、喰われたヨシュアとやらの話をしていたのでしょう?」
「────」
「半分ずつの組み合わせ、でしょうか? 私は、当て過ぎてしまったみたいですね」
「あはは、冗談でしょ? たった、たったこれだけの情報で本質掴むとか反則じゃんねえ」
スバルが戦慄とも感心ともつかない吐息をこぼした。
メィリィには何のことだかさっぱりだが、今のアリーゼの言葉が、奴の精神にもたらした影響は大きそうだ。
「確認ですが、スバルさんの記憶を
「そうだよ?」
スバルは──否、ナツキ・スバルの中にいるナニカは、呆気なくアリーゼの問いかけに答えた。
「すごいね。素敵だね。そこまで分かってるのに、なんであたしたちの言葉を無視できるの?」
「…………」
「ねえ、答えてよ、義姉様。私たちは答えてあげたじゃん。──義姉様は、誰のことか分かってるのに、どうしてそんなに冷静なの? 愛した男の弟の言葉を、どうしてそんな顔で聞いていられるの?」
ぞわりと、メィリィの背筋を悪寒が駆け上がった。
質問の意味は分からない。分からないが、そこに込められた悪意が、怖気を掻き立ててくる。
「愛する男とその弟を同列に語るほうが、むしろ白状でしょう?」
けれどもアリーゼは、何の揺らぎも見せずにさらりと答えた。
「……は?」
「ユリウスと、ヨシュアとやらは全くの別人です。それに私が憶えていないのですから、認識としても他人だったのでしょう」
「ほんとは大事で大切で、忘れちゃってるだけかもしれないのに?」
「本当に大切ならば、決して忘れませんよ。事実として、私はユリウスを憶えていますから」
これは、アリーゼの本心だった。
彼女には、『夢の城』という理外の力がある。
アリーゼがヨシュアを忘れている。ならば、その男は『夢の城』にいない。ならば、記憶を失う前も本当の意味で大切ではなかった。
アリーゼ・アストレアが愛するのは、彼女自身が選んだ相手のみ。そうでない、『夢の城』に招待しない者など、どうでもいい。
スバルの発言を──その中に潜む『暴食』の揺さぶりを、意にかける必要がない。
『暴食』は、アリーゼの『夢の城』を知らない。
その三段論法で割り切れる精神性であることも、読み取れない。
ただ、スバルの精神安定剤であったアリーゼに、意趣返しも兼ねた挑発を仕掛け、あっさりと受け流された。逆に情報だけを抜き取られた。
その事実だけが、残った。
「──あァ、あァ、あァ、チクショウ! 欠片も揺らがないで、なんて女だッ!」
「愛が深いと言ってもらえますか?」
「うるさいなァ、人でなしクソ女!」
メィリィが思わず笑ってしまいそうになるほど、立場が逆転していた。
「もういいッ、お前は知り過ぎた、ルール違反だ! 前回も今回もッ、あたしたちの邪魔をするなァ!」
意味が、わからない。けれど、マズイことだけは分かる。
メィリィはもちろん、アリーゼも肉体的には非力。戦闘能力はない。今、『ナツキ・スバル』に襲われれば、二人とも──
「これはこれで、面白い話になる。──ナツキ・スバルの、殺人事件だァ!」
叫びながら突っ込んでくる少年に、メィリィは咄嗟に逃げようとする。
「野蛮で正しい選択ですね」
「────」
「──ですが、私はか弱い乙女ですから」
嘲るというより、慈しむようなアリーゼの言葉が、合図だった。
刹那、突風が空間を激しく揺らす。少年が吹き飛ばされ、数メートル先の石塊に叩きつけられる。
「何も手立てがない状況で、敵を煽る真似はしませんよ」
アリーゼは変わらぬ微笑みを湛えて、入り組んだ蔦が僅かに開いた場所──『緑部屋』の入り口へと繋がる通路に視線を向けた。
「ありがとう、ラム」
そこにいたのは、桃色髪のメイド。
時間制限はあれど、今回のパーティーで最高戦力を誇るラムが、悠然と立っていた。
「いつから気付いていたの?」
「気付いてはいなかったわよ。ただ何となく、ラムがいる気がした。それだけ」
「そう」
ラムが来たのは、アリーゼの反問「なら、次は私からお聞きしたいことがあるのですが」の辺り。ちょうどアリーゼが『暴食』を煽り出した頃である。
彼女が本当に勘だけで煽り出したのか、それとも気配を消したラムの接近を確信していたのか。ラムには判別できなかった。
「ラムこそ、どうしてここに来られたの?」
「ラムも何となくよ。レムとの共感覚が、ラムを呼んでいた。そんな気がしただけ」
「『眠っていても、スバルさんの異変を感じ取ったのかもしれないわね』」
「……本当に、バルスには勿体ないくらい、可愛い妹だわ」
ラムはそう言うと、先ほど吹き飛ばした少年を見やる。アリーゼとメィリィも、釣られて彼を見る。
そこには──、
「いってぇ……なんだいきなり」
後頭部に手をやり、顔をしかめている少年が。
狂的な笑みは消え去り、どこか抜けた雰囲気を纏う少年が。
「え、ラム? なんでここに?」
──ナツキ・スバルが、そこにはいた。
◇◇◇
レイドの『死者の書』を探すべく、まずはエミリアたちのいる拠点へ戻ろうとしたスバル。
そんな折に急に意識が途絶え、気づけば原因不明の頭痛がしており、部屋にはラムがいた。
混乱するスバルが事の重大さを理解したのは、改めて全員で拠点に着いてからのことだ。
まさか、まさかの、衝撃的な物語だった。
「俺が身体を乗っ取られてた……?」
「本当に何も覚えてないのお? あのときのお兄さん、すごおく元気だったわよお」
「えーと、その、すいません。そのようです……」
意地の悪い流し目を送ってくるメィリィに、スバルは小さくなる。
記憶もない、何なら責任もないはず。強烈な罪悪感だけが、そこにはあった。
「メィリィ」
「はあい。お兄さん、ごめんなさいねえ」
アリーゼに窘められ、メィリィは軽く謝罪を口にした。
「アリーゼ、スバルの身体を乗っ取っていた者の正体は分かるのだろうか」
「想像でしかないけれど、一応は」
「アリーゼの煽りを受けたバルス擬きの反応からしても、合っているでしょうね」
ユリウスの問いに、アリーゼとラムが続いて応じた。
二人は目線を交わし、どちらが言うか相談する。結果、口を開いたのはアリーゼだった。
「スバルさんの記憶喪失の原因は、レイド・アストレアの『死者の書』。そして、そこに潜んでいた『暴食』の大罪司教の仕業かと」
その響きを聞いた途端、エミリアたちの表情が驚きに強張った。
レムやユリウスの置かれた状況、この塔に来た経緯を思えば、それも頷ける。
アリーゼは、順を追って説明を始めた。
まずスバルに四つの仮説を並べ、それを話し終えた瞬間にスバルが意識を奪われ、『ナツキ・スバルが絶望しない』と発言したこと。
ユリウスの弟ヨシュアを思わせる発言を繰り返し、アリーゼを揺さぶろうとしたこと。それが効かなかったことで逆ギレし、アリーゼたちを害そうとしたこと。
最後にラムが無力化したところで、スバルの意識が戻ってきたこと。
「おそらく敵は、スバルさんが前を向き続け、私の仮説が半分ずつ正しかったことで、想定が狂い、出てきたのでしょう」
「想定って……」
「それは分かりませんが、記憶を失ったスバルさんを絶望させて、何かを為したいのでしょう。そして仮説の半分ずつというのも──」
「──レイドの『死者の書』が原因で、そこに潜む『暴食』に記憶を喰われたこと、か」
アリーゼは、スバルやエミリアの質問に答えながら説明を続け、最後にはユリウスが結論を引き取った。
「アリーゼとメィリィ嬢、ラム女史を前にその発言をしていたのなら、スバルの中に『暴食』がいるのは確かなのだろう。だがどうやって記憶を喰らい、スバルの中に入り込んだのだろうか?」
ユリウスは、卓についた全員の顔を見回しながらこう訊ねた。しかしその質問が彼女へ向けられたものであることは、目を向ける時間の長さからも明らかだった。
それを後押しするように、他の皆の視線も、アリーゼに集まっていた。
「……仮説に仮説を重ねたものですが、思い付く可能性は二つでしょうか」
アリーゼはスバルにしたのと同じように、まず人差し指を立てた。
「一つ目が、ルイ・アルネブは生まれ損なった精神体であり、オド・ラグナ近傍から出られずにいる。そこに空の『死者の書』を通ってスバルさんが来たことで、その記憶を喰らい、生じた空白に入り込んだ。絶望させるのは、肉体の主導権を完全に奪うための誘因なのかもしれません」
聞けば、ルイ・アルネブという三人目の『暴食』は、瀕死のライ・バテンカイトスが急に姿を変えたことで出現したらしい。
精神体という仮説も、
「次に二つ目、これは先ほどのと似ていますが……既に死んでいる四人目か、前任がいるのかは知りませんが、死に損なった『暴食』がオド・ラグナの近傍におり、同様にスバルさんを乗っ取ることで擬似的な死者蘇生を成そうとしている」
二本の指を立てたアリーゼは、「他には何かありますか」と全員を見渡す。誰もそれ以上の説は出せなかった。
「アリーゼの仮説、ウチも賛成するわ。細かい部分は間違っとるとしても、一時的にナツキくんの身体を乗っ取ったんは事実。プリステラんときみたく、これ以上
「そうですね。それに、『賢者』の知識を借りる見込みが薄い以上、『暴食』の手掛かりはむしろ好都合。記憶を吐かせて、その後に殺します」
アナスタシアの冷静なまとめと、ラムの過激な宣言が続く。
言い方はともあれ、ユリウスやエミリア、そしてスバルも、それを共有していた。
「そんで問題は、どうやってその『暴食』と相対するかやけど……」
「一番はスバルさんが自力でオドと向き合い、『暴食』とぶつかることですが、難しいでしょうね」
「……すみません」
「そんならレイドの『死者の書』からアクセスするんが確実やね」
「スバルさんには、そこで頑張ってもらいましょうか」
「……ぅす」
役立たずが露呈すると同時に、ボスとの決戦はスバル一人に委ねられてしまう。
しかも、引きこもりの高校生未満のスバルが、聞くに狂人の大罪司教と、精神世界で戦わなくてはいけないのだ。
何とも理不尽な攻略である。
「さすがの『暴食』も条件なしで身体を乗っ取れるわけやないと思うけど……」
「何かしらの制限はあるでしょうね。それを有効活用するために、時機を選んでくるはずよ」
その後も、スバルの中に潜む『暴食』の対応も含めて、アリーゼとアナスタシアが指揮を執り、話を進めていった。
予知夢では保護者や傍観者的な立ち位置だったアリーゼだが、今回は大罪司教の介入が判明したことで、精力的に動いている。
『暴食』の存在も含め、予知夢にはなかった展開。
──これはまさしく、スバルの行動が世界に変化をもたらしたことを意味しているのだ。
希望を見出したスバルが見守る中、出された結論が、
スバルはまた『暴食』に身体を奪われた場合に備え、『緑部屋』で待機。ラムとエミリア、ベアトリスらが交代でお目付け役を担う。
その他の全員で、三層『タイゲタ』でレイドの『死者の書』を探す。
──四百年分の死者の中から、たった一冊の本を探すという無茶振り
──その先に待つのは、スバルと大罪司教の精神世界でのタイマン
「異世界えっぐ……」
希望が見えたのは、いい。
けれど、そのあまりの難易度の高さに、そしてそんな場所に何故か『ナツキ・スバル』がいる事実に。
スバルは乾いた笑いしか出なかった。
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