「おはようございます」
朝の清々しい風が吹き抜けるゲヘナ学園の本校舎。
1年生の火宮チナツは、いつものように巨大な医療鞄を肩に掛け、風紀委員会執務室の重厚な扉を開けた。
「チナツ、おはようございます」
「おはよーっす」
すでにデスクについていた先輩たち――行政官の天雨アコと突撃隊長の銀鏡イオリが、山積みの書類をさばきながらそれぞれ片手を上げて声をかける。
「委員長、おはよ……」
チナツの足が、執務室の中央でピタリと止まった。
最奥に鎮座する巨大な大理石の机。ゲヘナの治安を一手に担う最高権力者、空崎ヒナが腰掛けているはずの革張りチェアが、ぽっかりと空席になっていたからだ。
「アコさん、委員長はお休みですか?」
「えぇ、そうですよ」
アコは手元のタブレットから視線を外すこともなく、あっさりと答えた。
しかし、チナツの直感が異変を炙り出す。
「……欠勤の連絡がありませんでしたが、お休みですか?」
「そうだよそうそう、委員長は今日いないよ」
横からイオリがペン回しをしながら、あっけらかんと言い放つ。
だが、チナツはどうしても違和感を拭い去ることができなかった。
「何の連絡も無しにですか? 委員長はどれほど突発的な暴食や急用があろうとも、必ず事前にモモトークや直通回線で連絡をされる方ですよ」
「チナツ、この前のアイス事件を忘れたのですか? あの時も電波の届かないところで勝手に作業されていたでしょう。私とイオリは今朝早くに、委員長から直々に欠勤の連絡を受けています。チナツが心配することは何もありませんよ」
「でしたら、その連絡のメッセージを見せてください」
「電話でしたから文面はありません」
「では着信履歴を見せてください。端末に残っていますよね?」
「消しました。私、端末のログは即座に完全消去してセキュリティを保つ主義ですので」
淡々と理路整然と述べるアコ。その手元は一切の淀みなく書類の決裁判子を押し続けている。
完璧すぎる受け答え。しかし、チナツは目を細めアコを見据える。
「……委員長の身に『何かあった』んですか?」
ピタッ。
アコの動いていた右手が、完全に静止した。
「普段のアコさんなら絶対にそんなことしませんよね? 委員長からの連絡の履歴を、証拠隠滅するかのように自ら消去するなんてあり得ません。正直に答えてください……委員長は一体、今どこにいらっしゃるのですか!?」
チナツが声を張り上げ、アコのデスクへ両手を叩きつけて詰め寄る。
しかしアコは、パソコンのモニターを見つめたまま顔を上げようとしない。
「雑談はおやめなさい、チナツ。定刻です、今日の業務を始めますよ」
「誤魔化さないでちゃんと答えてください!! 先輩方は、何かを知っているんですね!?」
鬼気迫る表情で食い下がるチナツ。
その肩を――背後から強靭な腕がガッチリとホールドした。
「さーて、チナツ! 今日は忙しくなるぞー!」
その腕の持ち主は満面の笑みを浮かべたイオリであった。
巨岩に挟み込まれたかのように、掴まれたチナツの両腕がmm単位たりとも動かない。
「今日はゲヘナの不良どもが活発になるだろうからね! チナツは私と一緒に前線の現場仕事! さぁ、行こっか!」
「ちょ、イオリさん!? 離してください! まだ話は――」
抵抗も虚しく、イオリの万力のような腕力でズルズルと部屋の外へと引っ張られていくチナツ。
そして、執務室の重い鉄扉が完全に閉まる直前のコンマ数秒――チナツは見逃さなかった。
静まり返った部屋の中で、アコがこちらへ向けて、音を出さずに動かした唇の形を。
い ず れ 分 か り ま す よ
「ひゃっはーーーー!!!! どけどけどけーーーー!!!! 今日はあのチビがいねぇぞォォォォッ!!!!」
ゲヘナ自治区、中央目抜き通り。
イオリの予言は見事に的中していた。普段は風紀委員長の影に怯えて地下深くや他自治区へ逃げ隠れていたゲヘナのスケバン、ヘルメット団、そして凶悪な、ならず者たちが水を得た魚のように一斉に湧き出し、街中の至る所で銃撃と略奪の限りを尽くしていた。
立ち上る黒煙、飛び交うロケット弾。
文字通りの
「突撃隊、前線を押し戻しなさい! 1歩も引くんじゃないよ!!」
イオリのスナイパーライフルが火を噴き、暴徒のリーダーを次々と薙ぎ倒していく。
その激しい銃撃戦の最前線で、負傷した一般生徒たちに次々と止血帯を巻き、救護処置を行っていたチナツの脳裏には、先ほどのアコの言葉が呪いのようにこびりついていた。
「(『いずれ分かりますよ』……思えば、委員長がいなくなるという『意味』が分かっていて、なぜ先輩方はあそこまで冷静を保てていたのですか……?)」
空崎ヒナという存在は、ゲヘナという底なしの地獄を封じ込める絶対の門番だ。
凶暴な百鬼羅刹たちも、彼女がこの地に君臨しているからこそ爪を隠して大人しくしている。
逆に言えば、彼女の不在は即座に学園の秩序崩壊を意味するのだ。
それなのに、アコもイオリも、まるでこの大暴動が起きることを『最初から知っていた』かのように平然としていた。
チナツは、ヒナがいないという事実以上に、先輩たちの底知れない態度に言いようのない『不気味さ』を感じていた。
その時であった。
「ぎゃああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!」
遥か前線の彼方から戦場の銃声を丸ごと圧殺するような絶叫が木霊した。
「『あの悪魔』が戻ってきたあああっ!!! 今日はいないんじゃねえのかよおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」
ピタリ、と。
暴れ回っていた何百人ものならず者たちの動きが、一瞬にして完全に凍結した。
「いやああああああ!!!!!」
「嘘だろ助けてええええええええ!!!!!!」
蜘蛛の子を散らすとは、まさにこのことだった。
武器を投げ捨て、先を争うように路地裏へと逃げ惑う不良たち。一体何が来たと身構えた後方のスケバンたちも、前方の光景を目にした瞬間に顔面を土気色に染め、情けない悲鳴を上げて四つん這いで逃走を開始した。
前を塞いでいた暴徒の壁が一瞬で消滅したことで、チナツの視界が完全に開けた。
「あっ……」
遠くの霞の向こうに、信じられないほどの『巨大な山』が見えた。
ズン……ズン……ズン……!
大地を揺らしながら歩みを進めてくる、高さ50mはあろうかという巨大な鉄の山。
カイザーコーポレーションの超大型重機か、あるいは秘密裏に建造された決戦兵器か。
しかし、チナツが目を凝らしてその鉄山の最下層を凝視した瞬間――彼女の息が止まった。
その50mの鉄山を、たった1人で背負って歩いている小さな人影。
白く長く波打つ『癖毛』、頭上にそびえる圧倒的な威圧感を放つ『悪魔の角』、そして背中から広がる巨大な『蝙蝠の翼』。
見間違うはずがなかった。
「委員長おおおおおおおおおおおお!!!!!!!」
チナツは抱えていた医療キットを投げ捨て、涙を拭いながら一心不乱に駆け出した。
よかった、無事だったんだ! 私たちの委員長が帰ってきたんだ!!
あっという間にその人影の前まで到達したチナツは、迷わずその細い肩を両手で掴んだ。
「委員長、心配しましたよ!! いったいどこに行かれてたのですか!?」
すると、背中の巨大な鉄山をズン!と地面に下ろしたその人物が、ゆっくりと顔を上げた。
「あらぁ〜?『ヒナちゃん』のお友達かしらぁ?」
チナツの全身の思考回路が、一瞬にしてショートした。
それは、紛うことなき空崎ヒナの顔立ちであり、声の質感であった。
しかし――その表情には普段の冷徹さや獰猛さなど微塵も存在しない。
極上にお淑やかで、柔らかな笑みを湛えた『糸目』。
そして服装は軍服ではなく、上品な手編みのパステルカラーのセーターに身を包んだ、見るからにホワホワとした空気を漂わせる少女であった。
「い、委員長……?」
チナツの知る風紀委員長は、何らかの策略で演技をすることはあれども、プライベートでこんな甘ったるい声や表情を浮かべることなど絶対にあり得ない傲慢の塊である。
チナツが完全に固まっていると、後ろから息を切らしたイオリが走ってきた。
「おーーーい!! 委員長の『お母さん』!! 遠いところから重いもの背負って来てくれてありがとねーーー!!!」
……え?
「イ、イオリさん……今、なんて……?」
チナツの口から掠れた疑問が最後まで紡がれるよりも早く、目の前の人物がふんわりと両手を頬に当てて微笑んだ。
「あらイオリちゃん、お久しぶりねぇ〜。『うちの娘』が、いつもご迷惑をお掛けしてますぅ〜」
えええええええええええええええええええええ!!!!!!!!!!
チナツはあまりの衝撃の大きさに、足腰のバネが暴走し、ビルよりも高く飛び上がった。
数十分後。風紀委員会本部、執務室。
あの後、ヒナの母を名乗る人物が街を歩いただけで、ゲヘナ中のならず者たちは『ヒナそっくりの見た目』に怯え上がって全員がゲヘナ自治区から逃げ出し、自治区は一瞬にしていつものディストピアへと逆戻りした。
そしてチナツとイオリは、彼女を案内して執務室へと帰還したのである。
「あら、お母様。お久しぶりでございます。外は大変な猛暑でしたでしょう? 今、冷たい麦茶をお淹れしますからね」
アコが淑やかに立ち上がり、給湯スペースへと向かう。
ヒナの母は、「ありがと〜アコちゃん、いつも気が利くわねぇ〜」とおっとりとした雰囲気で会釈した。
事態を完全に飲み込めず、部屋の隅でマネキンのように直立不動で固まっているチナツ。
「この人はね、委員長のお母さんの空崎ヒナコさん。チナツも腰抜かすほど驚いたでしょ? 私も去年初めて見た時は委員長のクローンかドッペルゲンガーだと思ったもん」
お茶菓子をテーブルに並べていたイオリがカラカラと笑う。
「どうもぉ〜、ヒナの母の空崎ヒナコですぅ。今年で42歳になる、ただの主婦のおばさんよぉ〜。よろしくねぇ〜チナツちゃん」
42歳……よんじゅうにさい?
どう見ても17歳のヒナと寸分違わぬ童顔と体躯のまま、優雅に微笑むヒナコ。
だが、チナツの頭脳は依然として最大の謎に囚われていた。
「……風紀委員会1年生の火宮チナツです、よろしくお願いします……イオリさん、この方が委員長のお母様なのは理解いたしました……ですが、肝心の委員長ご本人は一体『どこにいらっしゃる』のですか?」
その瞬間。
ヒナコの糸目が、ピクッと僅かに開眼した。
「……アコちゃん。今の、ほんとぉ〜?」
「えぇ、お母様。去年に引き続き……『また』です」
麦茶を盆に乗せて戻ってきたアコが、ため息を吐きながら頷く。
その言葉を聞いた瞬間、ヒナコは両手を腰に当て、頬をぷくーっと膨らませた。
「もぉ〜〜!! ヒナちゃんったら、『また逃げ出した』のぉ〜!? 皆さんにこんなにご迷惑をお掛けしてぇ〜!」
プリプリと絵に描いたように怒る仕草を見せるヒナコ。
チナツが恐る恐る尋ねる。
「に、逃げ出した……? え……どういうことですか?」
「委員長、ヒナコさんのことが死ぬほど苦手みたいでさぁ」
イオリが麦茶を喉に流し込みながら解説する。
「ヒナコさんが実家からゲヘナに遊びに来るたびに、察知して雲隠れするんだよ。去年なんか1週間も姿を見せなかったもんだから、あの時のゲヘナは治安維持が完全に崩壊して、まさしく地獄絵図だったよ〜」
アッハッハ、とおかしそうに笑うイオリ。しかしチナツは笑えなかった。
「理由は分かりましたが……では『どうやって委員長を連れ戻す』のですか? あの委員長が本気で逃走と潜伏にエネルギーを使っているのですよ? 見つけ出せる人間など、この世に存在するのですか?」
そう、それが最大の問題であった。
戦闘ではなく、ステルスに特化した空崎ヒナの隠密能力は神の領域だ。
今回も1週間行方知れずになれば、ならず者たちによりゲヘナの街は更地になってしまう。
「ふふ〜ん♪ そういうことだと思って、ちゃんと手は打ってまぁ〜す♪」
ヒナコは待ってましたとばかりに立ち上がると、ガラガラと執務室の窓を全開にし、迷うことなく外の虚空へピョンと身を投げ出した。
「あっ、ちょ……お母様!?」
チナツが悲鳴を上げて窓辺へ駆け寄るが、もう遅い。
地上5階の高さから自由落下するヒナコ。
その落下の軌道の真下――先ほど彼女が校庭の真ん中に下ろした、あの50mの鉄山の頂上へと接触する直前。
「よぉ〜いしょっと♪」
空中で猫のように身を翻したヒナコは鉄山の巨大な『金属蓋』を力任せに引っ剥がしながら、ふわりと軽やかに地面へと着地した。
その瞬間――。
「〜〜〜〜〜〜ッッッッ!!!!!!」
窓から身を乗り出していたチナツの両目からボロボロと大量の涙が吹き出した。
それだけではない。気管と鼻腔の粘膜を直接バーナーで炙られるかのような、狂暴極まりない超刺激の蒸気が爆発的に立ち昇ったのだ!
「ヒナコ特製『空崎家の実家カレー』でぇ〜す!」
地上で巨大な蓋を片手に掲げ、笑顔で手を振るヒナコ。
50mの鉄山ーーいや、超特大寸胴鍋の中から噴き出しているのは、茶色なんて生易しい色ではない。
地獄のマグマのようにドロドロと煮えたぎる、極めて命に悪い『深紅と漆黒の赤黒い濁流』であった。
いつの間にか軍用ガスマスクを装着していたアコとイオリが、窓から身を乗り出して見下ろす。
「いつ見ても溶岩にしか見えないなぁ〜。ヒナコさん、そのカレーってどんな材料使ってんの?」
「え〜? キャロライナ・リーパーと特製スパイス、そして大量の牛脂に豚の脂身と、最高級サーロイン50頭分をひたすら煮込んだ『無水カレー』よぉ〜!」
「野菜を一切使わずに油と肉汁だけで無水カレーを作るなんて、熱力学の法則がバグっていますね。……良い子の読者の皆さん、これは空崎ヒナの遺伝子の源流たるお母様だからこそ成立する狂気の調理法ですので、決してご家庭で真似しないように」
ガスマスク越しのアコの解説。みんな約束だぞ!
「さっ、みんなもお腹空いてるでしょ〜? みんなのために、普通の美味しいカレーも作ってきたから、そっちを食べましょっか!」
ヒナコは巨大寸胴鍋の外装に取り付けられていた、家庭用サイズの別鍋をカチャリと取り外した。
チナツが涙を拭いながら尋ねる。
「えっ……あのお母様。委員長を探しに行かれないのですか?」
「だぁいじょうぶよチナツちゃん! ここで待ってれば、ヒナちゃんは絶対に来るから! 子供っていうのはねぇ、お母さんのカレーの匂いには勝てないものなのよぉ〜!」
ビシッと親指を立ててウィンクするヒナコ。
何の科学的根拠もない母の勘であったが、他に手がかりがない以上、従う他はなかった。
執務室に戻り、取り分けられた普通サイズのカレー。
真っ白な艶やかなご飯の上に、トロリとかけられた艶やかな茶色のカレールー。
スタンダードでありながら、どこか心に沁み入るような優しい香りが鼻腔をくすぐる。
チナツは銀のスプーンで一口掬い、口へと運んだ。
「あっ……美味し……」
それは、舌が痺れるような超絶技巧の美味ではない。
幼い頃に誰もが一度は口にしたことのあるような、心の底から温まる絶対的な安心の味。
奇をてらった高級食材など何一つ使われていない。だが、これでいい。こういうのが一番いいのだ。
「(……今度の週末、実家に帰って、お母さんに日頃の感謝を伝えよう……)」
ガツガツと豪快に大盛りをかき込むイオリと、珍しく穏やかな笑顔を綻ばせて味わうアコの前で、チナツは心の中でホロリと温かい涙を一筋流していた。
――まさに、その時であった。
ドゴガガガガガガガガガガガガガガガ!!!!!!!!!!
校庭の真ん中から、まるで鉱山の大型油圧掘削機が岩盤を砕いているかのような、凄まじい轟音が響き渡った。
「な、何事ですか!?」
3人はスプーンを放り出し、弾かれたように窓枠へ駆け寄って眼下を見下ろした。
50mの巨大寸胴鍋。
煮えたぎる赤黒い溶岩カレーの海の中に――激しく水しぶきならぬ油しぶきを上げながら、頭から突っ込んでダイブしている見覚えのあるシルエット!
【やった! ゲヘナオオグイエラソウモップ を 捕まえたぞ!】
目の前でその光景を見ていた校庭に佇むヒナコが、目を細めてふんわりと微笑む。
「あらぁ〜? 今回は随分と早かったわねぇ……『ヒナちゃん』?」
ピタッ。
轟音を立てて激しく波打っていた寸胴鍋のルーが、一瞬にして静止した。完全なる沈黙。
ヒナコはトコトコと愛らしい足取りで寸胴鍋の縁へと近づくと、その小さな両手で50mの鍋の底面をガシッと掴んだ。
「……うわぁ」
窓の上から見ていたチナツは、もはや感嘆の声を漏らすことしかできなかった。
自分よりも小さいヒナコが、数百tに達する鉄鍋を軽々と頭上へと持ち上げ――そのまま、力任せに上下へ激しくシェイクし始めたのだ!
スポーンッ!!!!
シャンパンのコルクが抜けるような甲高い破裂音と共に、鍋の底から黒い影が勢いよく宙へと射出された。
ベシャッ……!
校庭の芝生の上に、無残に投げ出された人影。
そこにはラフな部屋着のTシャツとスカートを着崩し、全身をドロドロの激辛カレールーで真っ赤に染め上げた――空崎ヒナの姿があった。
「(……そっくりだわ)」
チナツは息を呑んだ。
服装と表情を同じにして並べられたら、毎日仕えている自分ですら絶対に見分けがつかないほど、瓜二つの母娘であった。
「マ……お母さん。恥ずかしいから学校に来ないでって、いつも言ってるよね……?」
芝生の上で正座をしたヒナが、微かに震える両手を後ろに隠しながら、掠れた声で抗議する。
「だってヒナちゃん、全然実家に帰ってこないんだものぉ〜。……それよりも。昨日、アコちゃんとイオリちゃんから、た〜っぷりお電話で『お話を聞いた』わよぉ?」
「ひっ……!?」
ヒナコの声は、相変わらずおっとりとしていた。
しかし――その周囲の大気が、触れただけで凍りつくような絶対的な「母の威圧」へと変貌を遂げた。
「今年も風紀委員会や他の学園の皆さんに、た〜〜くさん『ご迷惑』をお掛けしたみたいねぇ……。ヴァルキューレの局長さんにたかったり、100kmのナポリタンをお友達に食べさせたり、お店に無理矢理巨大なローストビーフを作らせたり……。本当は元気なお顔を見るだけのつもりだったけれど……予定変更よ。ヒナちゃん……『お尻』を出しなさい」
セーターの袖を捲り上げ、笑顔のままトコトコと歩み寄るヒナコ。
ヒナの瞳に『本物の恐怖と絶望』が浮かび上がった。
「い、嫌だ……ッ! 来ないで……っ!!」
あの最強の魔王が、腰を抜かしたまま情けなく後ずさる。
だが、
「5」
ヒナコの口から漏れ出すカウントダウン。
「4」
ヒナはもつれる足で必死に立ち上がり、ヒナコに背を向けて猛ダッシュを開始する。
「3」
音速を超えて加速するヒナ。
「2」
校庭の端へと弾き出されるように逃走距離を広げる。
「1」
あっという間に50mのセーフティリードを確保――!
「さぁ、『お尻ぺんぺん』の時間よぉ〜♪」
チナツが瞬きをした、わずかコンマ1秒の刹那であった。
眼下の空間の構図が完全に書き換わっていた。
いつの間にかヒナの背後へと回り込んでいたヒナコが、自分と全く同じ体格の娘を小脇にガッチリと抱え込み――ペロン❤︎ と、スカートごとパンツを引き下ろしたのだ!
「いやぁぁぁっ!! 離してぇぇぇ!! 離してよぉぉぉぉぉっ!!!」
キヴォトス最強の風紀委員長が、まるで3歳の駄々っ子のように手足をバタバタと激しく暴れさせ、涙目で甲高い悲鳴を上げる。
いつの間にか校庭の周りに集まってきていた風紀委員会の1年生メンバーたちは、「ゆ、夢……? 私たち、集団幻覚を見てるの……?」と全員が自分の頬をつねり合っていた。
そしてヒナコは慈愛に満ちた笑顔のまま、ゆっくりと右手を頭上高くへと振り上げた。
「せぇ〜……のぉ〜……♪」
それは『音を完全に置き去りにした』。
残像すら視認できない、神速の平手打ち。
振り下ろされた瞬間は完全な無音。だが――。
バアアアアアン!!!! バアアアアアン!!!! バアアアアアン!!!!
数秒遅れて、大気を引き裂く雷鳴のような爆発的轟音がゲヘナ学園全体に木霊した。
光の後に音が届く、仕組みが完全に落雷のそれであった。
「ぎぃやああああああああああああ!!!!! いだいいいいいいいいい!!!!! やあああああああああああああ!!!!!! ママなんてだいぎらいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!」
雷鳴を遥かに凌駕する大音量の号泣。
「まぁ…! この子ったら、ママに向かってなんて口を利くの! お仕置きとして『100発追加』だからねぇ〜♪」
ヒナと同じ顔をした母親は、歌うようなテンポで平手打ちの回転速度をさらに加速度的に上昇させていく。
「いやあああああだああああああああああああ!!!!!!! ごめんなざいいいいいいいいいいい!!!!!! 許してママァァァァァァァッ!!!!!!」
5階の執務室の窓辺。
「いやぁ〜、1年ぶりに見たねぇ、アコちゃん」
「そうですねイオリ。相変わらずお母様のビンタは素晴らしいキレと破壊力ですわ」
「あたし達があのビンタを1発でも喰らったら、存在ごと消滅するね! アッハッハ!」
冷たい麦茶を片手に、これまたいつの間にか集まってきた2年生以上の風紀委員会の古参メンバーたちと、優雅に談笑するアコとイオリ。
そして――眼下で繰り広げられる神話の如きお仕置きショーから目を離せないチナツを含む1年生メンバーたちは、全員揃ってゴクリと生唾を飲み込んだ。
「(……委員長って……家では『ママ呼び』なんだ……)」
空崎家の家庭内機密の開示とともに、風紀委員会の1年生たちは、また1つ大人の階段を登ったのであった。
美少女のママ呼びいいですよね。
他作品の短編で『ママ大好き! キーちゃんの秘密の日常』という作品にて、ママ呼び生徒が出てきますのでそちらも見ていただけると嬉しいです!
作品URL
https://syosetu.org/novel/413257/