濛々たる硝煙が立ち込めるゲヘナの路地裏。
粉々に砕け散ったアスファルトの擂り鉢状クレーターの底で、白目を剥いて前のめりに倒れ伏していた志真コノカ。
ガシッ!
純白のハイヒールを履いた生塩ノアが音もなく歩み寄ると、倒れるコノカのアロハシャツの襟首を左手一本で無造作に鷲掴み、力任せに上方へと引き抜いた。
グンッ! ガクンッ!!
「……ッが!? ……あー、クソッ……倒れてたか、あたし」
強引に立たされたコノカは、ぐらりと揺れる頭を手で押さえ、ポリポリと乱暴に後頭部を掻き毟った。
口の端から垂れた血を手の甲でぬぐい去り、地面に溜まった粉塵をペッと吐き捨てる。
「コ、コノカさんっ!! 大丈夫ですか!? 意識ありますか!? 息してますかぁぁぁ!?」
瓦礫の陰から涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔の阿慈谷ヒフミが、転がるように駆け寄ってきた。
コノカは鋭い眼光を路地の奥――先ほどヒナが消え去っていった方向へと向け、忌々しそうに唇を歪めた。
「……ヒフミン、覚悟しときな」
「え……?」
「……さっきのヒナっちはよぉ…現代のヒナっちよりも億万倍つえーぞ」
「お、億万倍……!?」
ヒフミの背筋を凍てつくような悪寒が駆け抜けた。
現代のヒナですら、素手でビルを粉砕し、戦車を丸かじりするような理不尽の化身だというのに、それより億万倍強いなどという怪物が存在していいはずがない。
「でしょうね」
ノアは手帳を開き、万年筆のペン先をトントンと紙面に弾きながら、涼しい顔で頷いた。
「交戦開始からわずか十数秒の間に、指数関数的に跳ね上がっていく筋力出力。そして自らの心臓の鼓動を物理的に掴み、強制的に増幅させることで、人間の……いえ、キヴォトス人の限界値を遥かに超越した超神速の運動能力へと強制向上。通常であれば、全身の血管破裂や筋肉断裂といった深刻なリスク、あるいは甚大な反動デメリットが生じるはずですが……先ほどの彼女には、そうした生体エラーの兆候がまったく見受けられませんでした」
「ノアさん、それって……」
「ええ。現代のヒナちゃんをベースに試算すれば、あの『心臓エンジン』の一撃は体内に蓄積された貯蔵カロリーの8割以上を瞬時に気化・消費させ、即座に極度の飢餓性ショックに陥るはずです。ですが2年前の彼女は、あの一撃を放った直後でも息ひとつ乱していませんでした。……ふふ、ますます興味が湧いてきましたね」
瞳の奥に狂気を滲ませながら、万年筆を指先で器用にクルクルと回すノア。
すると彼女は、くるりと優雅に踵を返し、壁にもたれかかるコノカへと向き直った。
「あぁ、そうそう、コノカちゃん」
「あぁん?」
「ヴァルキューレ警察学校の裏の支配者であり、かつて七囚人を素手で制圧したという伝説の『志真王国の国王様』が……たかがゲヘナの1年生の女の子に、ガードの上からワンパンで沈められたわけですが。……みっともなく尻尾を巻いて帰られますか? お望みなら、あなただけ今すぐ現代へ送り返して差し上げますが?」
フフッ、と悪魔の如き嘲笑を浮かべ、ツラツラと煽り文句を並べ立てるノア。
その瞬間、コノカの全身からボッと紅い闘気の炎が噴き上がった。
額に太い青筋がビキビキと十文字に跳ね上がる。
「あんだとテメェェェエエエエッ!? 誰が帰るかボケナスがぁぁぁッッ!! あのクソガキのドタマを力任せにへし折って、王への不敬罪で地面に正座させるまで帰るわきゃねえだろオラアアアアッッ!!」
「ふふ、そう来なくては」
ノアは満足そうに微笑むと、視線を路肩へと滑らせた。
そこには、先ほどのヒナの恐怖に怯え、腰を抜かしたまま瓦礫の影でガタガタと震えているゲヘナ生徒の生き残りが3人、転がっていた。
「ひっ……! な、なんだよお前ら……!」
「助けてくれ、情報部の化け物はもう行っちまったぞ……!」
後ずさるゲヘナ生徒たちを見下ろし、生塩ノアは底知れぬ漆黒の笑みを深々と浮かべた。
「それでは……情報収集のための『準備』をしていきましょうか。少々、痛い思いをしていただくかもしれませんが」
ノアの口元に浮かんだ純度100%の拷問官の笑みに、ヒフミは「(ひ、ヒエェェェ……! 被害者のはずなのに、この2人の方がよっぽど悪魔ですよぉぉ……!)」と、声にならない悲鳴を飲み込んだ。
ところ変わって、ゲヘナ学園本校舎最上階、万魔殿本部。
重厚な大理石の柱が立ち並ぶ生徒会長室の巨大な両開き扉の前。
情報部の先輩が立ち止まり、後ろを気だるげについてくる少女ヒナへと真剣な眼差しを向けた。
「いい、空崎。くれぐれも雷帝閣下に粗相がないようにね。閣下はゲヘナの最高権力者なんだから、言葉遣いにも気をつけるのよ」
情報部の先輩が、後ろに立つヒナの乱れた軍服の襟元を直す。
「はいはい、分かりましたよ。さっさと終わらせて肉食いに行きましょうね」
「もう……態度に出さないの」
先輩がため息をつきながらノブを回す。
ギィィ……と重い音を立てて扉が開き、ヒナは一人でその広大すぎる執務室の中へと足を踏み入れた。
バタン。
背後で扉が固く閉ざされる。
高い吹き抜けの天井からは豪奢なクリスタルシャンデリアが眩い光を放ち、大理石の床の上には、数千枚の反乱計画書や兵器の設計図が無造作に散らばっていた。
ズカズカ、ズカズカ。
床に落ちた重要機密文書を軍靴で平然と踏み躙りながら、ヒナは傲慢極まりない足取りで部屋の最奥へと進んでいく。
その先、壇上に据えられた禍々しい装飾の玉座。
そこに深く腰掛けていたのは、金髪の柔らかなサイドテールを肩に垂らし、どこか儚げで優しげな顔立ちをした少女であった。
キヴォトス全土に恐怖の名を轟かせるゲヘナの支配者――『雷帝』。
雷帝は手元に置かれた万魔殿の刻印が押された扇子を優雅に広げ、歩み寄るヒナを見下ろして静かに口を開いた。
「よく来ましたね、空崎ヒナ。お前を呼んだのは、これまでお前が街中で起こしてきた――」
「飯は?」
「……は?」
「飯はどこにあんのかって聞いてんだよ」
「い、いや、私は今、学園の最高統率者としてお前の規律違反について――ぐえっ!!」
ドッ!!
音速を置き去りにしたヒナの踏み込みが、玉座の壇上を一瞬で粉砕した。
瞬きひとつの間に玉座の前へと肉薄したヒナの左手が、雷帝の華奢な胸ぐらを躊躇なく鷲掴みにし、そのまま天井近くまで思い切り引きずり上げたのだ。
「昼飯前に呼びつけといて飯のひとつもねえのはどういう了見だオラアアアアアアアアアアァァァァ!!!!!!」
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」
ガタガタガタッ! ブンブンブンッ!!
宙吊りにされた生徒会長の巨躯が、粗大ゴミ処理場の壊れた破砕ミキサーのように、ヒナの両腕によってグワングワングワンと猛烈な回転速度で振り回される。
遠心力で雷帝の綺麗な金髪が逆立ち、高級な制服のボタンがパパパパァン! と弾け飛んだ。
「おえっ……! げほっ……! た、助け……て……!」
「飯を出せ飯をぉぉぉ!! 肉だ肉!! 脂身の滴る霜降り肉を今すぐ出さねえと、その首根っこをねじ切って排水溝に流すぞボケがあああッ!!」
ドシャアッ!!
数分間に及ぶ猛烈なシェイクの末、絨毯の上にボロ雑巾のように放り捨てられた雷帝。
彼女は玉座の足元に四つん這いになり、口元を両手で押さえながら、胃液が逆流する寸前の状態で必死に荒い息を吐き出した。
「お、おぇぇ……っ! そ、そこに……用意……して……あるから……好きに……しなさ……い……っ」
雷帝が痙攣する指先で、部屋の隅の巨大な温熱テーブルを指差す。
「最初から言えタコが」
ヒナは唾を吐き捨てると、雷帝を一瞥もすることなくテーブルへとズカズカと歩み寄った。
そこには、牛一頭、豚二頭を丸ごとローストした、総重量数百キロの肉の丸焼きが湯気を立てて山積みにされていた。
ガブリュッ! バキボキッ! ジュワァァァッ!!
ゴクン、ガツガツ、モグモグ!!
肉を噛み砕く獣の咆哮。
ナイフもフォークも使わず、素手で骨ごと引きちぎり、猛烈な速度で肉塊を胃袋へと丸呑みにしていくヒナ。
わずか30秒。
テーブルの上には、真っ白に舐め尽くされた巨大な骨の山だけが残されていた。
「ぷはぁーっ。……チッ、味が薄いし脂も足りない。次来る時は、この50倍用意しとけ」
ヒナは袖口で口元の脂を拭うと、振り返りもせずに踵を返した。
バッゴォォォンッ!!
部屋の出口の重厚な大理石の扉を、開ける手間すら惜しんで右足のハイキックで蹴り破り、吹き飛ばしながらヒナは悠然と去っていった。
静まり返る生徒会長室。
粉々に砕けた扉の瓦礫の前に、1人取り残された雷帝。
「うぐっ……ぐうぅぅ……ううぅぅぅぅぅ……!!!!」
四つん這いのまま、雷帝の瞳からボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。
床の絨毯を、爪が割れるほどの力で何度も何度も叩きつける。
悔しい。情けない。恐ろしい。
だが、どれだけ床を叩いたところで、込み上げてくる虚しさと屈辱が消えることはなかった。
なぜ、こんなことになってしまったのか?
すべての始まりは、今年――数ヶ月前の4月に行われた、ゲヘナ学園の入学式であった。
新入生の中に、歴代の記録をすべて塗り替える規格外の戦闘力を持った怪物がいると聞き及んだ雷帝。
自らの覇道を盤石なものとするため、直属の情報部へとスカウトし、自らの手元へと連れてこさせたのだ。
そして会長室へと呼び出された、まだ入学したばかりのあどけなさが残る小柄な少女・空崎ヒナ。
雷帝は玉座から慈愛の笑みを浮かべ、甘美な言葉を投げかけた。
『私の配下になりなさい。そうすれば、お前が望むもの、富も名声も力も、すべてを与えてあげましょう。欲望を解き放ち、力によって奪い取ることこそが、我がゲヘナ学園の真髄なのですから』
――その結果。
ドゴバキグシャアアッ!!
言葉を終えたコンマ0秒後、雷帝はヒナの容赦ない鉄拳制裁によって顔面を粉砕され、床を転がされ、全身を滅多打ちにリンチされた挙句、制服の内ポケットから財布を力づくで強奪された。
床に転がり、血反吐を吐いて震える雷帝の頭を軍靴で踏みにじりながら、15歳の空崎ヒナは冷酷な目で言い放ったのだ。
『あ? 年上のババアが調子に乗ってイキってんじゃねえぞ。殺されてえのか………よし、殺す』
本気だった。あの時のヒナの瞳には、一切の躊躇なく目の前の生徒会長の首をへし折る殺意が宿っていた。
悲鳴を聞いて部屋へ飛び込んできた雷帝直属の親衛隊数十名が、慌ててヒナを止めようと銃火器を乱射したが――ヒナの回し蹴りと掌底の一撃一撃によって、全員が空気の抜けた風船のように天井や壁へと激突し、次々と血の海へと沈められた。
そう、この獣を人の下に置くなど、ハナから不可能な話だったのだ。
当時の空崎ヒナには、他者を敬うという情緒や倫理の概念など1ミリも存在しなかった。
彼女の世界において、自分以外の生物はすべて等しく踏み潰すべきゴミ屑。
しかもタイミングが最悪だった。
中学3年生当時、絶賛反抗期真っ盛りだったヒナは、事あるごとに実母である空崎ヒナコへと反抗を繰り返していた。
数えるほどの善戦は演じたものの、結局は母ヒナコの圧倒的暴力によって全戦全敗でお仕置きを食らい、中学卒業と同時に『素行不良の矯正』という名目で、荒くれ者の巣窟たるゲヘナ学園へと無理やり入学させられたばかりだったのだ。
親への反抗心、強制入学への不満。
あらゆる怒りで常に頭の血管を沸騰させていた狂犬の目の前で、偉そうに上から目線で勧誘を行った雷帝は、自ら地雷の信管をフルスイングで踏み抜いたに過ぎなかった。
その後、雷帝は自らの命を繋ぎ止めるため、莫大な自治区の予算を裏工作で横領し、毎日数トンに及ぶ食料をヒナへ貢ぎ続けることで、辛うじて情報部に籍を置かせることには成功した。
だが、悪夢はそれで終わりではなかった。
毎日のようにヒナが自治区内や他校の自治区で暴れ回り、気に入らない飲食店を片っ端から更地へと変えるたび、万魔殿には店舗のオーナーや自治区の有力者たちからクレームの電話が嵐のように殺到。
『うちの店が瓦礫になりました!』
『借金して買った最新の厨房機器が、空崎ヒナの空手チョップで真っ二つです!』
『どうしてくれるんですか!! どうしてくれるんですかあああああああ!!!!』
大人たちからの怒りと、悲しみと、絶望に満ちた非難轟々。
いつしか、キヴォトスを恐怖で支配するはずの生徒会長・雷帝の日課は、連日の『被害店舗への土下座謝罪巡り』と『天文学的な損害賠償金の工面』へと成り下がっていた。
当然、雷帝もただやられっぱなしでいたわけではない。
自らが心血を注いで開発した超科学の発明品――精神支配電波発生器を用いて、ヒナの脳を洗脳しようと試みた。
だが、電波を浴びたヒナは理性を失い、より凶暴な野生の魔獣へと変貌し、雷帝は全身の骨を折られて返り討ちにあった。
ならばと、自慢の戦略級決戦兵器『超高圧プラズマ自走砲』を配備し、力で排除しようとした。
――3分後、執務室の前にはスクラップに変えられた自走砲の残骸が山積みにされていた。
精神の限界を迎えた雷帝が万魔殿の全権限を使い、ゲヘナからの永久追放処分を下した。
――その1時間後、除籍通知書を丸めて口に詰め込まれた配下が吹き飛んできて、ヒナ本人が報復のために生徒会長室の壁を突き破って戻ってきた。
「……………ふうぅ〜〜〜………」
雷帝は乱れた髪を手で梳き、深く、長く深呼吸をした。
ダメだ。過去の屈辱を思い出してはいけない。思考が負のスパイラルへと落ちてしまう。
前向きに、ポジティブに考えよう。
「ゲヘナ学園の恐怖を、キヴォトス中に知らしめるためには……あの暴力は必要不可欠ですから」
自らに言い聞かせるように、雷帝は立ち上がった。
そう、利用してやるのだ。
実際、空崎ヒナという怪物の存在は、周囲の自治区や敵対組織に対して、何物にも代え難い絶対的な恐怖の抑止力として機能している。
あの怪物さえ手元に置いておけば、ゲヘナの覇権は揺るがない。
だが――問題は、もう1つの壁。
「アビドス高等学校の……『小鳥遊ホシノ』……」
雷帝の眉間が、険しく引き絞られる。
空崎ヒナと同じ1年生にして、このキヴォトスに存在するもう1人の真性の災害。
『体重100トン』という、物理法則を根底からあざ笑う規格外の質量兵器。
そんな怪物を懐に抱き込み、手懐けているアビドス高校3年生の生徒会長――梔子ユメ。
どうやってあの怪物を手懐けたのかは定かではないが、かつて雷帝がアビドス侵略のために投入した自慢の最新兵器群は、小鳥遊ホシノの『ただ歩くだけ』という地盤沈下の前にことごとく無力化され、赤子の手をひねるように粉微塵に踏み潰された。
小鳥遊ホシノという100トンの怪物が砂漠に居座り続ける限り、誰もキヴォトスを統一し、支配することなど叶わない。
だが――逆を言えば。
空崎ヒナという狂犬の牙を極限まで研ぎ澄ませ、小鳥遊ホシノと真正面から激突させて相討ちに持ち込むか、あるいは討ち滅ぼすことができたなら。
その時こそ、キヴォトス全土は雷帝の軍門に降るのだ。
「そのためなら……この程度の苦渋、いくらでも飲んでやりますよ」
雷帝は軍服の埃を払い、スッと顔を上げた。
その瞳の奥に、かつてキヴォトスを震撼させた冷徹な野心の炎がギラリと宿る。
「来たるべき決戦の日まで……着実に育ちなさい。我が最強の駒よ」
雷帝の口元に、不敵な笑みが浮かんだ。
まさに、その瞬間――。
バァァァンッ!!
蹴破られたままの扉の残骸を乗り越え、息を切らした配下の万魔殿生徒が血相を変えて執務室へと飛び込んできた。
「ら、雷帝閣下ァァッ!! 大変です!! 先ほど空崎ヒナによって全壊・粉砕された46軒の飲食店から、一斉に怒号のクレームと天文学的な損害賠償請求の電話が鳴り止みませんッ!! それに――」
「それに……何ですか……!?」
「またあの『羽沼マコト』率いる反体制グループが校庭で拡声器を持って大規模な抗議デモを起こしていますッ!!」
「んあああああああああああああああああいいいいいいいいいいいッッッ!!!!!!!!」
雷帝の絶叫が、吹き飛んだ会長室の窓の外へと木霊した。
ポケットから大量の胃薬、偏頭痛薬、強力鎮痛剤、精神安定剤などetc……の錠剤の数々を鷲掴みにし、水も飲まずにバリバリと奥歯で噛み砕きながら、哀れなゲヘナの帝王は涙目で頭を抱えてのたうち回ったのであった。
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