葬送のプロファイラー   作:フィンチャー

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日刊ルーキー8位ありがとうございます。


2.『N県老女及び大型犬連続惨殺事件』木下智也 前編

「――興味深い『音声データ』ですね。シュタイナー顧問」

 

警視庁本庁、刑事局の無機質な会議室。

 

香坂(こうさか)参事官は、机の上のカセットレコーダーをカチャリと止め、向かいに座るフリーレン先輩に対して、慇懃無礼(いんぎんぶれい)な笑みを浮かべた。

東大卒のキャリア組であり、警察組織の規律を何よりも重んじる彼は、この『特例科学捜査班』の設立に最後まで反対していた人物だ。

 

「堂本健作の異常心理(アブノーマル・サイコロジー)はよくわかりました。

ですが……我々警察が求めているのは、学者の論文発表ではありません。誰が殺したのかという『事実』と、法廷で勝てる『物的証拠』です。犯罪事象(プロファイリング)の分析などという『統計と確率』で容疑者を絞り込む手法は、予断を生み、冤罪のリスクを高めます。現場の刑事たちが足で稼いだ地道な裏付けこそが、我が国の司法を支えている。……あなた方のオカルトじみた『魔法』は、その緻密なプロセスを破壊しかねない」

 

 

香坂参事官の言葉は静かだが、そこには確固たる信念と冷徹な拒絶が透けていた。

 

 

「第一、あなた方がどれだけ見事に『犯人の生い立ちや性格』をプロファイルしたところで、裁判所はそんなポエムで逮捕状など出しません。警察の実務は、占いではないのです」

 

「文句なら長官に言ってよ」

 

 

張り詰めた空気などお構いなしに、先輩は口の中でラムネをガリッと噛み砕きながら淡々と返す。

 

 

「私たちは『次に事件を防ぐための法則』を作ってるんだから。……動機の見えない殺人が増える時代がすぐそこまで来てる。これまでのやり方じゃ、いずれ警察は後手後手に回るようになるよ」

 

「未来の妄想のために、現在の捜査費を浪費するわけにはいきません。……九条警部」

 

 

香坂の冷たい視線が、先輩の隣に座る俺に向けられた。

 

 

「現場の叩き上げの管理官に目を付けられ、あんな地下へ追いやられたからと言って、完全に拗ねてしまったのですか? 腐ってもあなたは国家公務員I種をトップ通過した、我が局の将来を背負うべきキャリアだ。なぜ、本流へ這い上がる努力もせずに、こんな窓際部署でお遊戯に甘んじているのか理解に苦しむ。これ以上あそこにいれば、あなたの前途は本当に終わりますよ」

 

「……お気遣いありがとうございます、参事官。ですが、これも上からの命ですので」

 

 

俺が一切の感情を殺し、ただの鏡のように無難な声で同調すると、香坂はつまらなそうに薄く鼻で笑った。

 

 

「相変わらず波風を立てない男だ。……ええ、ならば、その『魔法』を予防ではなく、現在の『解決』の糸口にしていただけませんか?」

 

 

香坂はそう言うと、数枚の凄惨な現場写真を机の中央へ滑らせた。

 

昨夜、N県で起きた一人暮らしの女性の惨殺事件。手がかりは皆無。

 

それは、統計学など実戦では役に立たないと証明するために、彼が用意した事実上の最後通牒だった。

 

 

「裕理。出張の準備をして。今度は新幹線だよ」

 

 

 

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

東京駅を出発した新幹線の車内。

座席で吸われるタバコの煙と、特有の重いモーター音で満ちていた。

 

俺は肘掛けのスライド式灰皿を引き出し、セブンスターに火をつける。

 

立ち上る煙越しに凄惨な現場写真を眺めていると、横に座るフリーレン先輩が、駅で買った幕の内弁当を頬張りながら、小さな手で器用に俺のタバコの箱から一本を抜き取った。

 

「……また俺のタバコですか。自分で買わないんですか」

俺が呆れ半分に指摘すると、先輩は口に含んだ卵焼きを飲み込み、当然のように俺のタバコの箱を指先で弄んだ。

「んー……。自分ひとりの時に吸いたいとは、あまり思わないからかな。裕理が吸い始めると、つい、つられて手が伸びちゃうんだよね」

 

俺がライターを差し出すと、先輩は少し身を乗り出し、俺の持つ火をじっと見つめながらゆっくりと煙を吸い込んだ。

 

新緑の瞳が火の粉を反射して、一瞬だけ怪しく光る。吐き出された煙が、俺の吸う紫煙と混ざり合って窓の外へ流れていった。

 

 

「よくその血まみれの写真を見ながら、平然とタバコを吸って卵焼きなんて食べられますね」

 

「脳みそを動かすにはカロリーとニコチンが必要なんだよ」

 

「……はい、裕理も食べる? ウインナーあげる。あーん」

 

 

先輩は、死体の喉が切り裂かれた接写写真の上に腕を伸ばし、その箸先を俺の口元へと突き出してきた。

 

 

「……結構です」

 

「そう? 美味しいのに」

 

 

断られることを気にする様子もなく、先輩は差し出したウインナーを自分の口へと放り込んだ。

リスのように小さく頬を膨らませ、もぐもぐと口を動かして咀嚼する。

その無邪気な横顔だけを見れば、どこにでもいる年相応の少女にしか見えない。

 

俺は灰皿でタバコを揉み消し、座席の背もたれに深く体を預けた。

閉じたまぶたの裏に、本庁を出る際に浴びせられた香坂参事官の冷徹な眼差しがこびりついている。

エリート特有の、理解できない異物を汚物のように排除しようとする、あの特有の光。

目を開けると窓の外では、まだ開発途中の武蔵小杉の街並みが、重厚なモーター音と共に背後へと消えていく。

 

「香坂参事官の危惧も理解できますよ。日本の警察組織は、現場の刑事が足と汗で積み上げた『経験則』に絶対の誇りを持っている。海外から輸入された心理学なんていう見えない武器は、彼らの誇りを否定する異物でしかない」

 

「人間は短い時間しか生きられないからね。自分の経験したルールが壊されるのを怖がるのは、仕方のないことだよ」

 

先輩はタバコを指に挟んだまま、窓の外の流れる景色に向けて、ひどく達観した声で呟いた。

 

 

「組織なんて、いつか変わるか壊れるかのどっちかだよ。……それに、こういう面倒な人間関係の調整は、本当ならあの子の得意分野なんだけどね」

 

「あの子……?」

 

「私の一番弟子。フェルンっていうんだ。今は一時的に別行動をして、関西の方で少年犯罪のデータ収集をしてもらってる」

 

 

俺は怪訝な顔を作った。

フェルン……たしか特例班の内部資料にあった、顔写真すら添付されていない奇妙なプロフィールの持ち主。

 

 

「……ああ、『ドイツ連邦刑事庁(BKA)の行動分析室から特例で派遣された十代の少女』ですね。まだ十代で、日本の警察実務の経験も皆無。そんな子が、なぜ国内の凶悪犯罪の生データにアクセスできる特権を持っているんです?」

 

「裕理は、このプロジェクトがなぜ強引に始まったか知ってる?」

 

 

先輩は視線を窓から俺へと移し、いたずらっぽく微笑んだ。

 

 

「この国の上層部は、君たちがこれから直面する『新しい時代の怪物』に怯えてる。これまでの足を使った捜査じゃ絶対に追いつけない、動機の見えない殺人が増えることを知っている。だから、手段を選んでいられないんだよ」

 

「その手段の一つが、十代の少女だと?」

 

「あの子の武器はね、圧倒的なデータ処理速度にあるんだ。彼女、過去数十年分の猟奇殺人犯の行動記録や調書をすべて頭に叩き込まれてる。……君が怪物に『同調(ミラーリング)』して中身を写し覗き込む鏡なら、彼女は現場の痕跡から怪物の正体を一瞬で分類するいわゆる『コンピューター』だね」

 

日本の警察のデータベースは、まだ紙と手書きの調書がメインだ。

それを一目見ただけで類似事件や犯人の生活習慣を統計的に弾き出すという異常なスペックを想像し、俺は思わず息を呑んだ。

 

「あの子も、好きでこんな血生臭い事件のデータを見ているわけじゃないんだけどね。フェルンは私と違って、真っ当で人間らしい感性を持っているから。……でも、放っておくと私が生活能力ゼロで野垂れ死ぬと思ってるから、いつも怒りながら私の世話を焼きについてきてくれるんだよ」

 

「……まるでいいお母さんとだらしない娘ですね」

 

「お母さんじゃないよ」

 

否定するのはそこなのか。

先輩はむっとした顔で言い返した後、お弁当の空き箱を片付けながら、何気ない口調で話を切り替えた。

 

「……それはそうと。裕理の身上書、読ませてもらったよ。国家公務員I種試験をトップ通過。警察大学校での成績も異常だね。座学はすべて満点、射撃訓練での命中率は歴代最高記録。二十六歳にして次期警視の最有力候補……まさに完璧なエリート。でもね、出会ってから今まで、君の振る舞いには少し『違和感』がある」

 

「違和感、ですか」

 

「君は私に対して、一度も『自分の意見』を主張していない。そして他人の感情の波風を立てないことに、異常なほど特化している」

 

新緑の瞳が、俺の眼球の奥まで真っ直ぐに見透かしてくる。

 

「……日常的に、理不尽な暴力を振るう人間が家にいた? 父親とかね」

 

俺はライターを弄る手をピタリと止めた。

背筋に冷たいものが走る。

完璧に隠し通してきたはずの過去を、いとも簡単に剥がされた。

 

先輩の声音には、哀れみも遠慮も一切ない。

 

ただ『分析結果』を述べるだけの、無機質でストレートな物言い。

 

それが、俺にとっては奇妙なほど心地よかった。

同情の目を向けられず、腫れ物扱いされないことが、これほど楽だとは知らなかった。

 

 

 

「……ええ、ご名答です。親父がそうでした」

 

 

九条は小さく息を吐き、自嘲気味に笑って手元の冷たくなったお茶を見つめた。

 

 

「身上書にある通りですよ。最低の貧困と、毎晩のように飛んでくる親父からの理不尽な暴力。……でも、親父の暴力には一貫したルールなんてありませんでした。『痛いと泣けば殴られ、じっと耐えれば馬鹿にしていると殴られる』。どんな行動を選んでも、必ず地雷を踏むんです」

 

 

窓の外のけしが目まぐるしく変わっていくのをじっと見つめる。

 

 

「そこで生き延びる方法は、一つしかなかった。ドアノブが回る音、足音の重さ、酒の匂い……そんな微細なサインから『今日、親父が俺に求めている役』を瞬時に読み取ること。そして、親父の狂った言い分を、『肯定』してやること。……俺の最初のプロファイリングの相手は、実の父親だったんですよ」

 

狂気の底にいる怪物を前にして、自分自身の自我を完全に消し去り、相手の望む「鏡」になる。

それは、逃げ場のない密室で生き残るため、一人の子供が編み出した究極の防衛本能だった。

 

 

「そうやって他人に同調し続けているうちに、自分自身の本当の感情が何なのか、まったく分からなくなってしまった。一年前の取り調べで、みんな気づいたんでしょうね。俺が人間として、明らかな欠陥品であることに。……俺は今、連中の異常な心理を分析していますが、一歩間違えれば、俺自身が彼らと同じ『怪物』になっていたはずなんです」

 

 

いや、本当はもう――――

 

 

「人間の心の壊れ方って、パターンが少ないからね」

 

 

先輩のひどく静かな声が、独白を遮った。

彼女は残っていたタバコを灰皿に押し付け、窓の外を眺めながら言った。

 

 

「そういう環境で育った生き物は、だいたい二つの道に分かれる。一つは、自分が受けた理不尽を他人に返す『犯罪者』になる道。……そしてもう一つは」

 

 

彼女はそこで言葉を区切り、九条の方を向いて、少しだけ口角を上げた。

 

 

「その構造を誰よりも理解できるからこそ、『犯人を捕まえる側』になる道だよ」

 

 

九条の目が、わずかに見開かれた。

長年抱えていた冷たい恐れと呪いが、そのひと言でほんの少しだけ溶け落ちていくような感覚があった。

 

 

「自分自身の我を殺して透明になることでしか、生き残れなかったんだね」

 

 

フリーレンの声には、同情も哀れみもなかった。

ただ長年人間を観察してきた事実を事実として受け止める、静かな響きがあった。

 

 

「俺はただの、空っぽな欠陥品ですよ」

 

「……欠陥品なんかじゃないよ」

 

フリーレンは少しだけ目元を緩め、どこか優しい声で言った。

 

「普通の人間なら、怪物の深淵を覗けば自分の心まで壊れてしまう。でも君だけは、どんな狂気に波長を合わせても決して濁らない。……世間から見れば少し不器用かもしれないけど、私のバディとしては、これ以上ない最高傑作だよ」

 

「……最高の褒め言葉として、受け取っておきます」

 

九条が小さく頭を下げると、フリーレンは満足そうに頷いた。

 

 

「だからこそ、あの子が必要なんだ」

 

「フェルンさん、ですか」

 

「うん。君が深淵を覗き込む鏡なら、あの子は怪物を分類するコンピューター。……そして何より、あの子は私と違って、真っ当で優しい人間らしい人間だからね」

 

 

フリーレン先輩はひどく穏やかで、絶対的な信頼を込めた声で言った。

 

 

「私や君みたいな『普通じゃない人間』が道を踏み外さないように、ちゃんと怒って、引き戻してくれる。私一人じゃ、生活面でも倫理面でも野垂れ死ぬから。……そういう意味では、あの子がこのチームで一番の適任者かもしれない」

 

「なるほど」

 

「もう少しで関西のデータ収集が終わって、こっちに合流するよ。きっと、裕理ともすぐに仲良くなれると思う」

 

 

先輩はにっこりと笑ったが、俺の背筋にはなぜか冷たいものが走った。

 

 

(先輩の世話を焼き、容赦なく怒り、コンピューターのように狂気を処理する十代の少女……)

 

『仲良くなれる』という温かい言葉の響きとは裏腹に、とんでもない劇薬が投下される予感しかしない。

 

 

「……お手柔らかにお願いしたいですね」

「あの子、私と仕事に関しては本当に容赦がないからね」

 

 

ふふっと笑うと、ふぁあ、と小さく欠伸をした。

 

 

「じゃあ私は寝るね。着いたら起こして」

 

 

コトン、九条の左肩に小さな重みがかかる。

見下ろすと、フリーレンは彼の肩に頭を乗せたまま、すでにスースーと規則正しい寝息を立てていた。

 

微かに残るタバコの香りと、彼女の髪から漂う冬の朝のような澄んだ匂い。

 

 

(……この人は、本当に底が知れないな)

 

 

九条は苦笑しながら自分のトレンチコートを脱ぎ、彼女の小さな肩にそっと掛けた。

 

 

 

 

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

N県にある地元警察署の会議室。

ホワイトボードには、凄惨な現場写真が何枚も貼り出されていた。

地元のベテラン刑事である山倉(やまくら)は、俺たち特例班を露骨に値踏みするような視線で出迎えた。

 

 

「わざわざ本庁からご苦労なこってす」

 

 

山倉さんは現場の血痕写真を指差した。

 

 

「昨夜、一人暮らしの老女が襲われた。殺しだ。飼っていた大型犬も喉を裂かれている。……実は一ヶ月前にも隣町で同じような事件があったんだ。手口はどちらもほぼ同じ。犯行時刻は夜の十時半から十一時の間と見ている」

 

「犬はどうかな? 大型犬がいたなら、犯人を噛んだかもしれない」

 

先輩が現場写真を覗き込みながら尋ねる。

 

「可哀想に、犬はズタズタだ。抵抗したのかもしれない。……近所の十八歳のガキに目をつけていたんだが、アリバイがあってな。犯行時刻に店の厨房にいたことを店長が証言した」

 

「裕理。この写真を見て」

 

 

先輩は、遺体の写真を指差した。

 

「犯人は被害者を力で押さえつけて、喉を切り裂いている。今回の被害者は女性だけど、かなり大柄な方だね。前回の被害者も女性?」

 

「ああ、そうだが……」

 

「写真は?」

 

「これだ」

 

 

山倉さんが差し出した一枚目の事件の写真を見て、俺は眉をひそめた。

 

 

「……小柄な女性ですね。殺害のプロセスを見ると、二人目の大柄な女性を押さえつけるには、かなりの腕力が要る。大人ですかね」

 

「うん。意志も強そうだ」

 

「それにしても……なぜ犯人は遺体を執拗にいじくり回すだけで、レイプしていないんだ?」

 

 

山倉さんの疑問に、俺はプロファイラーとしての見解を口にした。

 

 

「性的な目的がないからです。犯人はただ、被害者を暴力で支配して『辱めたかった』だけだ」

 

「いかれた野郎だ……」

 

山倉さんが忌々しそうに吐き捨てる。

俺の推論を聞いた先輩は、ホワイトボードに貼られた無残な遺体写真からスッと視線を外し、小さく頷いた。

 

「35歳か40歳? 被害者が母親の年なら……」

 

「母親か。ありえるね」

 

「待ってくれ。三十五から四十歳?」

 

俺たちの間で交わされる異次元の会話に、たまらず山倉さんが割って入った。

彼の顔には、長年培ってきた刑事としての常識が根底から揺さぶられるような、深い困惑のシワが刻まれていた。

 

 

「子供の犯行じゃないのか? 十代の不良グループとか……。最近はこの辺りも若い奴が暴れて、治安が良くないんだ」

 

「十代の子供には無理です」

 

 

山倉さんのすがるような反論を、俺は冷徹な事実だけで叩き斬った。

 

 

「現場の痕跡を見てください。これは衝動的な暴走ではなく、内に秘めた猟奇的な欲求を満たすための『連続犯』の手口です。体は大人でも感情は未熟で、極端に社交性がない。社会との繋がりを断たれた、実家暮らしの男だ」

 

 

ホワイトボードの写真を指で叩きながら、俺はあえて、もう一つの極端な思考のルートを提示してみせた。

 

 

「あるいは、重度のヤク中の可能性もあるかもしれません。薬物で脳が興奮状態にあったから、やめ時がわからずに死ぬまで殴り続けた……」

 

「裕理。本当にそう思ってる?」

 

 

俺の言葉を、静謐な声が遮った。

見下ろすと、フリーレン先輩がラムネ菓子をポンッと口に放り込み、硝子玉のような新緑の瞳で俺を真っ直ぐに見透かす。

 

 

「……いえ。もし薬物中毒なら、親元での実家暮らしではなく、結婚しているかもしれませんね。妻がいるかも」

 

「じゃあ別居かな」

 

「ええ。別居中か、あるいは奥さんと極端に不仲で、家庭内で鬱積したストレスや抑圧の怒りを、全く関係のない他の女性にぶつける奴も少なくないですからね。……まあ、自分で仮説を立てておいてなんですが、この線はかなり薄いでしょう」

 

 

その分析を聞いていた山倉さんは、心底理解できないとばかりに、脂汗の滲む顔を横に振った。

 

 

「到底理解できないよ。私は、長年連れ添った妻を愛しているからね」

 

 

先輩は山倉さんのその感情の揺れなど欠片も気にする様子はなく、ただ口の中で「ガリッ」とラムネを噛み砕いた。

 

 

「それは結構」

 

 

重苦しい会議室の空気を全く意に介さない、あまりにもあっさりとした一言だった。

 

 

「……待てよ。大人で、実家暮らしで、異常なストレスを抱えていそうな男か……。怪しい奴もいないわけじゃない」

 

気を取り直した山倉さんは、資料写真の一覧を持ち出してきて机の上に広げた。

そして、ある一枚の男の写真を指差す。

 

木下智也(きのした・ともや)、三十六歳。

 

 

「こいつだ。昨日の夜、何事かと捜査中の現場に近づいてきて『何があったんですか』と質問してきた。だいぶ酒に酔っていたな。やたらと警察の動きを気にしていたようだ」

 

 

俺と先輩は、静かに視線を合わせた。

犯人は現場に戻る、という古典的なセオリー。

 

 

 

 

「……山倉さん。その男と、直接会って話したい」

 

 




後編は今夜出す予定です。
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