葬送のプロファイラー   作:フィンチャー

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3.『N県老女及び大型犬連続惨殺事件』木下智也 後編

 

木下家の玄関先。

現場となった老女の家と同じ、古い建売住宅だ。

だが、捜査資料で見た、花壇の手入れが行き届いていた被害者の家とは対照的に、この家の外観はひどく荒んでいた。

 

庭の植え込みは無秩序に伸び放題で、郵便受けの周りには安い缶チューハイや紙パックの空き箱が詰め込まれたゴミ袋が無造作に放置されている。

 

「……荒れてますね」

 

俺の呟きに、フリーレン先輩が静かに頷く。

俺たちを背後に従え、まずは地元の顔役である山倉さんが、日に焼けて黄ばんだプラスチックのインターホンを鳴らした。

 

しばらくして、ガチャリと内側からチェーンをかけたまま、玄関の扉が細く開いた。

 

隙間から漏れ出してきたのは、壁紙に染み付いた強烈なヤニと、すえた安酒の匂い。

それにキツい安物の香水が混ざり合っている、貧困と荒んだ生活特有の息の詰まる悪臭。

そして何より俺の目を引いたのは、めくれ上がった安っぽいクッションフロアの上がり框に乱雑に脱ぎ捨てられていた靴だった。

 

踵のすり減っただらしないスニーカーと、母親のものらしきケバケバしい色の健康サンダル。

 

そこまではいい。

 

だがその横に、泥汚れがついて踵を踏み潰された、大きめの安っぽいスリッポンが、我が物顔で脱ぎ捨てられていたのだ。

 

 

「……はい」

 

重い足音とともに扉の隙間から顔を出したのは、ひどく猫背で、青白い顔をしたジャージ姿の男だった。

 

木下智也、三十六歳。

 

右手には不自然な包帯が巻かれている。

 

「警察です。木下智也さんだね。昨日の夜、事件現場の近くで少し話したのを覚えてるかな?」

 

山倉さんが警察手帳を示しながら気さくに声をかけると、木下の視線が激しく泳いだ。肩がビクッと跳ねる。

 

「えっ……あ、はい……」

「昨日の事件のことで、少し近所の人から話を聞いて回っててね。ちょっといいかな?」

 

山倉さんがそう言った直後だった。

家の奥、開け放たれたままの茶の間から、ドタドタというヒステリックな足音と怒号が響いてきた。

 

「ちょっと! 誰が来たのよ! ……って、警察!?」

 

ドカッと乱暴にチェーンが外され、扉が内側から大きく開け放たれた。

木下の母親らしき、派手な化粧をした初老の女が顔を出した。

奥の部屋からは、テレビの競馬中継の音と、見知らぬ男の舌打ちが微かに聞こえる。

母親は怯える息子を庇うどころか、警察の姿を見るなり狂ったように叫び始めた。

 

「また警察の世話になるのか! 昔からあんたはろくな事しない! いっそその子を捕まえてくれれば、私も楽に生活できるんだから! どうぞ逮捕してやってください!」

 

それは親として、いや、人間として完全に一線を越えた暴言だった。

木下は背後から浴びせられる母親の怒声に反論すらできず、ただ俯いて立ち尽くしている。

 

「……ここでは落ち着いて話せませんね。木下さん、少し外を歩きましょうか」

 

俺は山倉さんの前に進み出ると、あえて背後の母親の声を完全に無視して提案した。

木下は逃げるように何度も頷き、俺たちについて家から離れた。

 

背後の山倉さんは、「本庁のエリートが、ただの聞き込みにこんな時間をかけるのか?」と疑念と呆れの混じった目で俺たちを追ってくる。

 

家の外を歩きながら、俺は警戒心を解くための世間話をするように自然なトーンで口を開いた。

 

 

「町で事件が起きたのは知ってますよね。今、近所の方から情報を集めているんです」

 

「ええ……。物騒ですよね、本当に」

 

 

暗い夜道。俺と先輩は立ち止まり、無言でタバコを取り出した。

先輩は自分の分を口にする前に、箱から一本抜き出して、スッと木下の目の前に差し出した。

 

 

「……吸う?」

「えっ……あ、ああ。すいません」

 

 

本庁の警察から、しかも美しい少女からタバコを勧められたことに、木下は明らかに動揺しつつも、どこか嬉しそうに震える指でそれを受け取った。

 

「君も警察なのか……?」

「複雑な事情があるけどちゃんと警察だよ」

「そう、なのか」

 

カチッ、と先輩がライターで火を点ける。

 

木下が何度か躊躇った後にタバコを深く吸い込み――ゲホッ、ゴホッ! と激しく咳き込んだ。

 

「ごめん、吸いなれてなかった?」

「……いやっ、吸うよ。吸う。いつもはもう少し軽いヤツを吸ってるから……」

「そっか。この家には、お母さんと君だけ?」

 

出来るだけ自然な流れで尋ねると、木下は咳を堪えながら忌々しそうに首を振った。

 

「ちがう……」

「というと?」

「……男だよ」

 

木下が吐き捨てるように言った言葉に、俺はパズルのピースがハマる音を聞いた。

 

「あぁ、なるほど。この狭い家に三人じゃ、息が詰まるでしょう」

「まぁね……」

「そのお母さんの彼氏は、いつから住んでいるんです?」

「さぁね。二、三週間前? どこかで出会ったとかで、詳しくは知らない」

 

それが『引き金』か。

 

「知り合ったばかりの奴とうちで暮らすなんて、あり得ないね」

 

俺は同情するように語りかけた。

 

「お母さんと彼氏、あの狭い家じゃ色々聞こえて気まずいんじゃないかな?」

「……別に」

「僕なら変になるよ。君にはあんなに言いたい放題言ってるけど、彼氏にもあの調子なの?」

「おふくろは、何も考えてないんだ。あの男の前じゃ……」

 

木下はそこまで言って、口を噤んだ。

 

「そうなんだ? ちゃんとそう言いましたか? 嫌だと」

 

「なにを?」

 

「彼女のことで色々言われて、君は別れたんだろ? なのに親は好き勝手やってる。君もお母さんに言えばいいじゃないですか」

 

「…………」

 

「何も言えない?」

 

彼が押し黙るのをいいことに、俺はさらに踏み込む。

痛覚を真っ直ぐに抉るために。

 

 

「聞かされたくないでしょう。親のよがり声なんて」

 

 

木下の肩が、ビクンと大きく跳ねた。

 

 

「俺ならごめんだよ。あっちはああしろこうしろって、君の人生に口出しばかりするくせにね。よく我慢できますね」

 

 

俺はあえて、侮蔑の響きを込めて言った。

 

 

「ねえ、言われっぱなしでいいんですか? 情けなくない?」

 

「言い返すさ! 言われっぱなしなんかじゃない!」

 

 

木下はパッと顔を上げ、声を荒げた。

 

 

「でも、黙ってるだろ?」

 

 

俺は冷酷に事実を突きつける。

 

 

「さっきは殆ど言い返さなかったね。『その子を捕まえてくれれば楽になるから、逮捕してくれ』……あんな酷い暴言を吐かれても、君は黙って突っ立ってたじゃないか」

 

「俺は腰抜けじゃない……。絶対に腰抜けなんかじゃない……!」

 

 

自分自身に言い聞かせるような、ひどく脆い強がりだった。

 

「じゃあなんで黙って突っ立ってた?」

 

「知らないくせに。あんたらには、何もわかってない」

 

「親に怒鳴ることはない?」

 

「……俺なりにやってる」

 

「例えば? なにをやったの?」

 

俺が淡々と問い詰めると、木下の呼吸が荒くなった。

 

「喧嘩したことは?」

 

「…………ある、あるよ。俺だってやれる」

 

その言葉の響きには、明らかな嘘が混じっていた。

ここで、ずっと黙って俺たちのやり取りを見ていた先輩が、静かに問いかけた。

 

「それは、お母さんとじゃないね?」

 

その一言が、木下の心臓を決定的に射抜いた。

俺は一歩踏み込み、木下の視線を逃がさないように静かに目を合わせた。

 

 

「あれでも、親だからね。どんなに腹が立っても、親に手を挙げるなんてキミには無理だ。親にそれをやったら、本当にお終いだからね」

 

 

俺は相手の思考に、自身の心を完全に同調させていく。

 

 

「……暴れたことはないの?」

 

「ないよ……。母さんの前では、ない」

 

「そうだね。母親への怒りが爆発しそうになっても、その矛先は親には向けられない」

 

 

俺はゆっくりと、残酷な結論を口にする。

 

 

「だってどんなに理不尽でも、結局は、母親が君を愛してくれているのがわかっているから」

 

 

君はここから逃げられないんだ。

俺がそうだったように。

 

木下の目から、ボロボロと涙が滲み出した。

とうとう額に手を当て、地面に崩れ落ちるようにして泣き崩れた。

 

 

俺と先輩は静かに目線を合わせ、小さく頷いた。

 

 

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

 

 

数時間後。N県の地元警察署。

テレビから流れる夜のローカルニュースが、事件の解決と容疑者逮捕を報じていた。

署内に集まっていた地元の刑事たちが、一斉に歓声を上げる。

 

驚嘆と畏怖の混じった視線が、部屋の隅で缶コーヒーを飲んでいる俺たちに向けられた。

興奮冷めやらぬ中、地元警察を代表して山倉さんが歩み出てくる。

 

「皆、落ち着いて聞いてくれ。……子供の頃を思い出してほしい。初めて警官になりたいと思った時のことをだ」

 

山倉さんはひどく真剣な顔で咳払いをして、俺たちの方を見た。

 

「私の場合は、江戸川乱歩の『少年探偵団』だった。明智小五郎の神懸かった推理に憧れて、この世界に入った。……ここにいる彼女たちは、まさに現代の明智探偵とその助手だ。いや、どちらが明智先生かはわからんがな」

 

周囲の警察官たちが、どっと笑い声を上げながら冷やかし半分に拍手を送る。

 

「私は本気でそう思っている。そうじゃなきゃ、霊能者のコンビだ。……さぁ、お二人さん。何かお言葉を」

 

俺は横にいる先輩を見た。

先輩はぼーっと宙を見つめたまま、マイペースにタバコを取り出そうとしている。

完全に俺に丸投げする気だ。

俺は小さくため息をつき、山倉さんたちに向き直った。

 

「ご協力心から感謝します。ですが、俺たちのやり方は魔法でもオカルトでもありません。僕たちはこの武器をあなた達現場の刑事にも託したい。そのためには、膨大なデータが必要なんです」

 

俺は署内の刑事たちを見渡した。

 

「何よりもお互いを信頼し、データを共有して協力すれば、必ず凶悪犯を捕まえることができるはずです。いや、捕まえるだけじゃなく……事件を未然に防ぐことだって、きっとできるはずです」

 

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

 

深夜。駅前の場末のビジネスホテル。

今回は日帰りが不可能になったため、急遽宿を取ることになった。

黄ばんだ壁紙の部屋で、缶ビールと乾き物を並べてささやかな反省会を行っていた。

 

「今回の裕理の良かったところは、同調しつつ相手の逃げ道を徐々に塞いで、一番痛いところを的確に突いたことだね。……でも、悪いところもあった」

 

「悪いところ、ですか」

 

「少し感情が入りすぎてた。仕方ないことかもしれないけれど『親への怒り』というテーマに対して、君自身の過去が干渉しそうになっていた。裕理は気が付いていないようだけど一歩間違えれば、犯人に同調しすぎて、主導権を失うことになったかもしれない」

 

先輩の的確な指摘に、俺は返す言葉もなく黙り込んだ。

プロファイラーとしての弱点を、彼女は恐ろしい精度で見抜いてくる。

 

「……そういえば、先輩」

 

俺は手元の冷たくなった缶ビールを見つめながら、誤魔化すように、先ほどから彼女が弄っているライターへと目を向けた。

 

「出会った時からずっと気になってたんですけど。先輩、なんでタバコなんて吸うんですか?」

 

俺の言葉に、フリーレン先輩はライターの冷たい金属を指先でなぞりながら、少しだけ面倒くさそうに息を吐いた。

 

「……なんで? 見た目と合ってないから?」

「まぁ……はい。すみません、今は慣れましたけど気になって」

 

俺が正直に告げると、先輩は呆れたように小さく首を振った。

 

「裕理もそういうこと言うんだね。人間って、本当にすぐ『この人はこういう人だ』って勝手な枠を作って、決めつけたがる」

「え?」

「『少女の姿をしているんだから、タバコなんて吸うべきじゃない』『この人はこういう性格だから、こんなことはしないはずだ』……そういう自分たちの勝手な理想や常識を、他人に押し付ける。私はそういうの、好きじゃないんだよね」

 

彼女の静かな言葉には、他者の偏見や決めつけを冷たく切り捨てるような、確固たる意志があった。

 

「いや、理想とかじゃなくて、純粋に体に悪いでしょう」

「フェルンにもいつもそうやって怒られるよ。だからちゃんと健康対策する魔法を作ったんだけどね。元の世界にも、似たような嗜好品を楽しむための術式はあったし」

「……またそういうオカルトジョークを」

 

俺は小さくため息をついた。

相当酔っているのか、それとも何かの隠語なのだろうか。

真面目な顔でたまに口にする彼女特有の『魔法』や『元の世界』といった冗談には、どうにも返す言葉に困る。

 

「ジョークじゃないんだけどね。 ……あえていうなら、住む場所が変われば好みだって変わるってことだよ。裕理は今までそこにあったけど手につけずにいたジュースを飲んでみたらすごく美味しかった。じゃあ次からは買って飲んでみようってなるでしょ?」

 

「……まぁ、なりますね」

 

俺が素直に頷くと、先輩はカチリとライターの火を灯し、その小さな炎をガラス玉のような瞳で見つめた。

 

「可能性の話だよ。見た目はこうでも、私は自立した大人だよ。勝手に私を『こうであるべきだ』って決めつける連中の枠になんて、収まってあげる義理はないよ。私は私のペースで、この『世界』を知っていくだけだ」

 

それは、他人の評価や常識に一切縛られない、彼女の途方もない自由さを示す言葉だった。

そして彼女はふと、その炎を消して口元を緩めた。

 

「……でもね、そうやって私のペースで『人間を知る』ための長い寄り道をしていると、どうしても見過ごせないものがあるんだ。こんな、人の醜い業が煮詰まったような場所にいると特にね」

 

俺は、初めて会った時にフリーレン先輩が零した言葉を思い出し、ふと尋ねた。

 

 

「先輩は以前、『人間を知るために、警察が一番都合が良かった』と言っていましたよね。……どうしてこの仕事なんです? 人を知るためなら他の仕事でも見つけられと思うんです。気を悪くさせたならすみません、だって先輩ほどの人ならきっとなんでもなれたはずなのに」

 

「それは裕理もそうでしょ」

 

フリーレン先輩はゆっくりと体を起こし、ベッドの縁に腰掛けた。

脱ぎ散らかしたトレンチコートの上、タイトスカート姿のまま無防備に手足を伸ばす。

先輩は、天井の剥げた塗装のひび割れを見つめながら、ひどく静かに口を開いた。

 

 

「……いつか話すって言ったからね……」

 

「私は、そうだな、本当ならここにはいないはずだったんだ」

 

 

その声は、ひどく遠い場所を懐かしむような響きを帯びていた。

 

「いないはず、ですか?」

 

「でも、思わぬことの連続でね。こんな遠い場所まで、随分と長い寄り道をしてしまっているんだ」

 

そして、手元で弄んでいたライターの冷たい金属を指先でなぞりながら、ふと、口元を緩めた。

 

それは、俺が今まで一度も見たことのない表情だった。

いつも無機質で、一切の感情を排した観察者の目を持つ先輩が浮かべた、あまりにも無防備で、ひどく優しい、愛おしむような微笑み。

 

「昔、私の隣にね……すごく眩しいヤツがいたんだ。私が持っていないものを、全部持っているような。……でも、もう随分前に、手の届かないところへ行っちゃった」

 

ひどく抽象的で、輪郭のぼやけた言い回し。

だが、その声に滲む喪失感の深さは、痛いほど伝わってきた。

 

「……恋人、ですか?」

 

無粋な質問だとわかっていたが、俺はたまらず口に出していた。

この底知れない先輩に、そんな普通の人間らしい感傷が存在したことが意外だったからだ。

俺の言葉に、先輩はライターを弄る手をピタリと止め、少しだけ不思議そうに宙を見つめた。

 

「恋人……。さあ、どうだろう。そういう単純な枠に当てはまる関係じゃなかった気もするけど……」

 

先輩は少し困ったように笑い、それから、深く息を吐き出した。

 

「ただね、彼がいなくなって初めて、私は自分が彼のことを何一つ理解していなかったことに気付いたんだよ。人間はひどく短命で、瞬きする間にいなくなってしまう。だから……彼らがその短い時間の中で何を想い、何を愛していたのかを知りたくて、私は旅を始めた」

 

先輩は、少し悲しそうに目を伏せた。

 

「でも、この世界で私が出会うのは、救いようのない悪意や、凄惨な異常犯罪ばかりだ。正直、反吐が出るくらい醜いよ。……でもね、裕理。どれだけ残酷な怪物に成り果てていても、それも間違いなく『人間』の一部なんだ」

 

新緑の瞳が、俺の眼球の奥にある暗がりを静かに見透かす。

 

「……どんなサイコパスも、最初から怪物だったわけじゃない。彼らの根っこを辿っていくと、行き着く答えはいつも同じだ。幼い頃の凄惨な虐待、精神の搾取……当たり前に与えられるべきだった『普通の幸せ』を、一番必要な時に誰からも与えられなかった。その決定的な欠落が、同族を平気で壊す狂気を生み出している」

 

俺は、自分の過去の傷跡を撫でられたような錯覚に陥り、思わず視線を逸らした。

先輩は俺のその反応を責めるでもなく、ただ淡々と続ける。

 

「愛されなかったから、心が壊れた。……それは逆を言えば、彼が、ヒンメルが何よりも尊いと信じた『人間の愛情や善性』という光が、間違いなくこの世界に存在するという何よりの証明でもあるんだよ。光が当たらない本当の暗闇を知らないとその光の本当の眩しさは測れない」

「ヒンメル……」

 

初めて聞く名だった。

彼を語る先輩の言葉には、普段の様子からは信じられないほどの優しさがあふれ出ている気がした。

 

「私は今、長い寄り道の途中にいる。心許ないけれど、ここにいるのも同じ人間だ。だから、目を逸らすわけにはいかない。……こんな仄暗い闇の底に落ちている泥濘の中でこそ、見つかる光もある気がするんだ」

 

今は、そう信じている。静かにつぶやかれた言葉。

 

フリーレン先輩にとって、この凄惨な事件のプロファイリングすらも、今はもういない「彼」の面影を追い求めるための、果てしない旅の一環なのだろうか。

 

「……ま、そういうこと。あー、真面目な話したら頭使って疲れた……」

「え、ここで終わるんですかその話」

 

張り詰めていた空気を自ら断ち切るように、先輩はふぁあっと小さな欠伸をして、ベッドの上で思いっきり大の字になり猫のように伸びてはゴロンと転がって気怠げにこちらを見つめる。

 

そのまま数秒、静寂が落ちる。

 

俺は小さく息を吐き、視線を逸らして言った。

 

「……先輩」

「……なに?」

「下着見えてますよ」

 

俺が呆れて指摘すると、彼女は寝転がったまま、不思議そうに小首を傾けた。

 

「……あぁ、別にいいよ。減るものじゃないし。それに、見られているのは私だし、相手は裕理だし」

「それは……俺だって男なんですからね?」

「つまり裕理は、相手が私なら、こんな平坦な体でも下着が見えたくらいで興奮するんだ? 人間の心の機微って、よくわからないね」

「言い方......。あとあなただって人間でしょうに……」

 

言葉の裏にある俺の致命的な感情に気づいているのか、いないのか。

フリーレン先輩は体を起こすと、あえてスカートの裾をまくり上げた。

 

「ばっ!! なにをして……」

 

黒いタイツ越しに透ける純白の下着をこれ見よがしに晒しながら、慌てふためく俺の反応を純粋に面白がるような、無邪気で悪戯っぽい笑みを浮かべて見せつけてきた。

 

「先輩、酔いすぎです。悪ふざけが過ぎますよ」

 

まいった。どういう倫理観をしているんだ、この人は。

彼女の異常なペースに巻き込まれると、俺自身の理性まで融解させられそうになる。

彼女は、片手でスカートをまくったまま、こちらにゆっくりと這い寄ってきた。俺は視線を下げないよう、必死に彼女の顔だけを見つめる。

 

「……なるほど。人間の性的興奮って、単なる視覚刺激じゃないんだね」

 

酔いで距離感の壊れた彼女が、俺の身体的反応を至近距離で観察しながら、真面目に心理学的な考察を呟き始めた。

 

「さっき裕理は『相手が私だから』って言ってたもんね。つまり、『特別な好意を向けている対象』が私? 無防備に境界線を越えてくるという認知のズレが、大脳皮質の理性を麻痺させるんだ。だから……あ――――」

 

俺の決死の訴えすらも単なる心理学のデータとして処理しながら、先輩は白い頬をうっすらとアルコールで赤く染め、ひどく無防備な姿勢のまま俺の太もものすぐ横に細い手をついた。

わずかに開いた艶やかな唇から零れる、甘く熱い吐息。

それが直接首筋にかかるほどの至近距離で、彼女は俺の股間付近へと硝子玉のような瞳を向けた。

そして、未知の魔法具でも観察するかのような無垢な仕草で、こてんと小さく首を傾ける。

 

「ねぇゆうり。これは、私に性的興奮を覚えたからこうなっているの?」

 

静かに太ももに置かれる小さな熱い手の感触。

 

ゾクリとするほど平坦で、一切の羞恥心を含まない純粋な声が囁いた。

誘惑する意図など微塵もない。

ただ純粋な知的好奇心だけで男の急所に無自覚に踏み込んでくる、暴力的とも言える圧倒的なエロス。

 

俺の脳内の理性が、ついにけたたましい警報を鳴らした。

 

「……! 失礼しますっ」

 

俺は弾かれたように立ち上がり、逃げるように部屋のドアを開けて廊下へ飛び出した。

 

「え? あ、あっ、ゆうり、ごめんよぉ〜……からかいすぎたよぉ、戻ってきてよぉ~」

 

閉まったドアの向こうから、今まで聞いたこともないような情けない声が響いてきた。

 

まったく酔いすぎだ。

 

あそこまで大胆に俺の理性を弄んでおきながら、本人は自分がどれだけ危うい真似をしているのか、きっと微塵も理解していないのだ。

俺は熱くなった顔を覆いながら、自分の部屋へと重い足取りで向かった。

 

薄暗い廊下の天井。

ジーッという不快な音を立てる古びた蛍光灯の周りを、一匹の羽虫が狂ったように飛び回っている。

羽虫は、熱と光に魅入られたように何度もガラス管にぶつかり――やがて力尽きたように、そのすぐ脇に張られていた見えない蜘蛛の巣へと絡め取られた。

 

もがけばもがくほど、細く強靭な糸は羽虫の自由を奪っていく。

 

それはまるで、可憐な花に擬態して獲物を待ち伏せる花蟷螂のようでもあり、底知れない深淵へ誘い込む魔女のようでもあった。

 

「……しっかりしろよ、九条裕理」

 

自分という空っぽな器が、彼女の存在に少しずつ浸食されていくのを感じながら、俺は震える手で自室の鍵を開けた。

 

 

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

 

 

同刻。関西地方、新大阪駅。

深夜に近い時間帯にも関わらず、行き交う出張帰りのサラリーマンや旅行客で、駅の構内はひどく混雑していた。

 

その雑踏の片隅。

 

大きなトランクケースの傍らに立つ十代の少女――フェルンは、ひどく目を引く存在だった。

夜の照明を吸い込むような艶やかな紫の長髪に、陶器のように滑らかな白い肌。

どこかあどけなさを残す端正な顔立ちとは裏腹に、羽織ったコートのシルエットからでもはっきりとわかる、年齢にそぐわないほど成熟した身体の曲線。

 

周囲の喧騒からそこだけ切り取られたような静謐で浮世離れした佇まいは、その際立った美貌と相まって、すれ違う男たちの下世話で好奇に満ちた視線を否応なしに吸い寄せていた。

 

「……ちょっと鬱陶しいですね」

 

フェルンは氷のように冷たい瞳で周囲を一瞥し、短くため息をつくと、コートのポケットの中で指先をわずかに動かした。

 

ほんの少しの『認識を阻害する魔法』。

途端に、彼女に向けられていた不快な視線が、ガラスの表面を滑り落ちるようにツルリと逸れていく。

行き交う人々は皆、フェルンの存在が風景の一部にでもなったかのように、ごく自然に歩みの軌道を逸らし、誰一人として彼女に目を留めなくなった。

 

視線が消えたのを確認し、フェルンは無骨な携帯電話を耳に当てた。

 

『――だから、裕理の反応が面白かっただけだよ。今は反省しているよ……』

 

電話の向こうから聞こえるのんびりとした師匠の言い訳に、フェルンはひどく冷たい声で返した。

 

「不純です」

『ごめんて……』

 

受話器越しに縮こまるフリーレンの姿が目に浮かび、フェルンは小さくため息をついた。

 

『……コホン。そっちは着いた?』

「ええ、たった今。これから手筈通り、関西圏のデータ収集に向かいます。……しかし、この世界に来て数年になりますが、未だに慣れませんね。この世界の人々の、精神的な防壁の脆さには」

 

フェルンはもう片方の手で、一枚の真新しいカードを取り出した。

自分の顔写真と共に、『ドイツ連邦刑事庁(BKA)特別派遣プロファイラー』と印字された身分証。今回の関西での単独行動のために、新たに用意したものだ。

 

「今回作ったこの身分証だって、少し認識をずらす魔法を編み込んだだけで、警察の大人たちが私の年齢や経歴に一切の違和感を抱かなくなるんですから。何度やっても拍子抜けします」

『魔法を知らないんだから仕方ないよ。最初の頃は戸籍すらなかった私たちが、今じゃ警察組織の深部にまで潜り込めてる。……元の世界に帰る方法を探すついでだ。ヒンメルが信じたものを、この冷たい理不尽な世界に住む人間たちからも、学べるかもしれないからね』

「……わかっています」

 

そこで少しだけ言葉を切り電話越しの声は、どこか誇らしげに、そして不器用なほど優しくなった。

 

『……それに。今は裕理が現場を動いてくれているしね。彼は本当に優秀だよ。少し危ういけど、凄惨な現場や、異常者の深い闇に同調しても、心が壊れない特異な強さを持っている。あの子ほどの適任はいない。……おかげで、フェルンが直接、血生臭い凶悪犯と顔を合わせる負担も減るしね』

「……フリーレン様」

 

フェルンは、携帯電話を握る手に少しだけ力を込めた。

九条裕理を前線に立たせているのは、彼の才能に対する絶対的な信頼と同時に弟子である自分をこの世界の醜悪な犯罪から遠ざけるためだ。

 

師匠のその不器用な気遣いに気づいているからこそ、フェルンはあえて語気を強めた。

 

「私は平気です。これでもフリーレン様の一番弟子ですから。あまり子供扱いしないでください」

『……そっか。頼りにしてるよ、フェルン』

「……はい。それではまた連絡しますね」

 

電話越しに聞こえた柔らかな声に、フェルンは少しだけ表情を和らげ、静かに通話を切った。

 

駅のアナウンスと喧騒が、再び彼女を包み込む。

 

フェルンは小さく息を吐いた。

 

口では強がったものの、胸の奥には鉛のような重さが沈んでいる。

 

猟奇殺人、精神の崩壊、果てのない悪意の連鎖。

 

彼らを突き動かす絶望の形は、彼女の師匠が愛してやまない『平和でくだらない魔法』ばかりの世界とは、あまりにも真逆の現実だったからだ。

 

足元の重そうな大型トランクケースの持ち手に、指を軽く添える。

 

「……さて、行きますか」

 

持ち上げようと力む素振りなど一切見せず、彼女が歩き出した瞬間。

 

数十キロはあるはずのトランクケースは、地面からほんの数ミリだけ『ふわり』と浮き上がり、一切の摩擦音を立てることなく彼女の隣を滑るようについていった。

 

誰もその異常な物理法則に気付かないまま、少女の姿は夜の雑踏の中へと静かに紛れていった。

 

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