葬送のプロファイラー   作:フィンチャー

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幕間:深淵

 

東京拘置所の面会室を支配しているのは、静寂ではなく、耳の奥にこびりつくような機械的なノイズだ。

 

俺は、アクリル板の前に置いたソニー製のカセットレコーダーが「シャー」と低く、しかし執拗にヒスノイズを吐き出し続けているのを、静かに観察していた。

リールはゆっくりと回転し、磁気テープが透明なケースの中で、誰にも言えない秘密を淡々と飲み込んでいく。

 

 

 

「……九条警部。私が言いたいのはね、現実は決して思い通りにはいかないってことですよ」

 

 

 

アクリル板の向こう側で、堂本健作は巨大な体を丸椅子に窮屈そうに預け、ひどく穏やかな口調で言った。

彼の首元からは、入浴日が限られている男特有の、数日分の汗が染み付いた脂ぎった匂いが漂ってくる。

それは拘置所の安っぽい消毒液の匂いと混ざり合い、俺の鼻腔を不快に刺激した。

 

 

 

「映画なんかで人が刺されると、奴らは簡単に倒れて死ぬだろう? 『ううっ』なんて言いながら。……お笑いぐさだ。現実の肉体はもっと頑丈で、もっと……しぶとい。血が流れるにつれて血圧が下がり、時間をかけてジワジワと死んでいく。ゆっくりと。……だから、私はそういう映画は楽しめなかったんですよ」

 

 

 

堂本は一度言葉を切り、レコーダーの回転を愛おしそうに見つめて続けた。

 

 

 

「全ての原因は、私のコミュニケーション能力が乏しかったことにあります。特に女性に対してね。恋愛に失敗するのが死ぬほど怖くて、若い女に声をかけることさえできなかった。……ただ、話したかっただけなのに」

 

「……それで、車で女を拾うようになったんだな?」

 

 

 

俺の声は、湿った空気の中に無機質に落ちた。

堂本は、自身の記憶を掘り起こすように目を細める。

 

 

 

「ええ。思い切って近づくことにした。適当な女の子を拾っては、毎回、少しずつ大胆な行動をとるようになっていった。最初は……刃物も持っていなかった。人目のない場所に差しかかっても、自分で自分に『ダメだ』と言い聞かせていたんです」

 

「女性を拾うだけで、殺さなかった?」

 

「ええ。ですが、やがて刃物を車に積むようになってから、私の中にどうしようもないほどの欲望が渦巻き始めたんです。強姦だけで済めばよかったのかもしれない。でも、私にはそういう経験が全くなかったから、異様なまでの情熱に……とめどなく(むしば)まれていった」

 

「『異様なまでの情熱?』」

 

「いい表現だろう?」

 

「……で、どうなったの?」

 

 

 

隣で黙って聞いていた先輩が、退屈そうに口を開いた。

彼女はトレンチコートのポケットから青いボトルを取り出し、ラムネの粒を口に放り込む。

ガリッ、と乾いた咀嚼音が、磁気テープのノイズと重なる。

 

 

 

「実は、私も本を書こうと思っているんだけれど……タイプライターを調達してもらえないかな? 頼んでみてもいいだろう、九条警部」

 

 

 

唐突な要求。堂本の視線が、再び先輩に向けられた。

一九〇センチの巨漢の瞳が、獲物を解体する獣の冷たい光を宿す。

彼は身を乗り出し、アクリル板に自身の脂ぎった額を押し当てるようにして声を潜めた。

 

 

 

「いいですか。人の喉を切り裂くときはね。気管と頸静脈(けいじょうみゃく)を狙って、耳から耳へ、ざっくりと切るんです」

 

 

 

堂本は自身の太い指を首筋に当て、ゆっくりと真横に引いて見せた。

 

 

 

「そうすれば、大量出血と窒息で死ぬ。無駄に苦しませなくて済む。文字通り、耳から耳まで切るんだ。大袈裟な表現じゃない。それが『正しい殺し方』なんだ。やりたくなくても、やるべきことだ」

 

「……そこに、快感はないの?」

 

 

 

俺は、レコーダーのカウンターが「042」を指しているのを確認してから尋ねた。

 

 

 

「もちろん、ありますよ。行為そのものじゃない。勝利の高揚感だ。女が死んで、私は生き残る。私がハンターで、彼女たちは獲物。それが最高なんだ」

 

「……最初の殺しの気分はどうだった?」

 

「サヨコは好きだった。チグサは……まずまず、ですね。特に理由はないけれど、サヨコはとにかく魅力的で、私は彼女に崇拝の念さえ抱いていた。あの後も彼女のそばにいたくて、何度もあの場所に立ち寄ったよ」

 

「犯行現場に、か」

 

「ハンサムじゃない男でも綺麗な女性を好きになるくらい、いいでしょう? 私は昔から、いつも綺麗な子が好きだった」

 

 

 

堂本はチラリと俺を見、そして再び、先輩の端正な顔立ちを、執拗(しつよう)に舐めるように見つめた。

 

 

 

「なぁ、九条警部もそうだろう?」

 

 

 

俺はただ「……そうかもね」と短く返した。

すると堂本は満足げに笑い、再び自身の過去へ沈み込んでいく。

 

 

 

「君たちには想像もつかないだろうが、私はずっとあの家に縛られていた。学校にいるときでさえ、自由などなかった。帰ればあの暗い地下室に閉じ込められるからだ」

 

 

 

堂本が一瞬で顔に張り付けていた穏やかな笑みを消し去り言う。

 

 

 

「自首したとき、パトカーが喫茶店の前を通った。そこには綺麗な女の子たちがいて……。その瞬間、私は吐いた。パトカーの中、ゲロまみれだ。ただ女を見ただけで、どうしようもなく吐き気が込み上げてきた。仕方なかったんだ。私は、女が……死ぬほど怖かった」

 

「……ひとつ教えて」

 

 

 

先輩がラムネを飲み込み、静かに言った。

 

 

 

「誰かにこの話をした? あなたの際限のない欲望、好み、そして……お母さんのこと。誰にも話せなかったんじゃないの?」

 

 

 

堂本は一瞬、息を止めた。

 

 

 

「……今ほどは、話していないですね」

 

 

 

彼は力なく笑い、うつむいた。

 

 

 

「もし、母に言い返すことができていたら、何もかも違っていたはずだ。あいつは朝起きてから寝るまで、私を罵り続けた。私を操り人形にしていた……」

 

 

再び穏やかな笑顔が堂本の顔に張り付けられる。

 

 

「あのナイフで、首を切り落とされるまではね」

 

 

 

堂本の太い指が、机の上で見えない柄を握り込むように微かに震え、その目に昏い快楽の色が浮かぶのを、俺は見逃さなかった。

 

 

 

「死んでいるのに、なぜ徹底的に破壊した?」

 

「あいつは言葉で私を打ちのめしてきた。だから、永遠に黙らせたんです。声帯を破壊した。そうすればあの世でも全員が理解すると思ってね。……あれは息子にあれだけの事をした、当然報いだと」

 

 

 

俺はあえてレコーダーの停止ボタンを押し、「ガチャン」という重い金属音を部屋に響かせた。

ここからはオフレコだというサイン。

警察と被疑者という壁を取り払い、個人的な共犯関係を演出して懐に潜り込むための手順だ。

俺が意図的に敬語を外し、波長を合わせたことで、堂本の口調も徐々にフランクなものへと変わってきていた。

 

時間は奇妙なほど緩やかに過ぎ、インタビューは核心へと触れていく。

 

 

 

「じゃあ、あなたはそこで車から降りて……」

 

「普通にアパートに入っていったよ」

 

 

 

堂本は淡々と、まるで買い物袋を運んだ時の記憶を辿るように語る。

 

 

 

「人はいた?」

 

「すれ違ったよ。血まみれの生首が入ったボストンバッグを運ぶ途中でね」

 

「……持ち運んだのか、バッグで」

 

 

 

俺は、背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。

 

 

 

「オシャレで幸せそうな若いカップルが、上から下りてきてすれ違った」

 

「まるで別世界だね」

 

「私の世界とは正反対だよ。綺麗な子でね。たしかヒロコだったかな、彼氏とデートに出かけるところだった」

「バッグの中に、彼女の首を入れることもできた?」

 

 

 

俺が呟くように言うと、先輩が静かに重ねた。

 

 

 

「……簡単だね」

 

「そう。簡単だよ。でもその時にね、気が付いたんだ。俺は、一度もデートの経験がないんだって。家に帰った時に母に言ったよ。『僕はデートしたことがない』って」

 

「返事は?」

 

「『よかった』。……あいつはそう言ったんだ」

 

 

 

俺はたまらず、深くため息を吐いた。

 

 

 

「……酷いな」

 

「嫌な親だね」

 

 

 

フリーレン先輩の無機質な言葉に、堂本は満足げに頷く。

 

 

 

「それで頭を裏庭に埋め始めたんだ。母の部屋の窓を女たちの顔が見上げるようにね」

 

「それはどうして?」

 

 

 

先輩が尋ねる。

 

 

 

「母は人を見下すのが好きだったからね」

 

 

あの家で私を支配していたのは母じゃない、お前は何も知らない。

真の支配者は、人を殺せる強い私の方だ。

そう言って堂本は嬉しそうい目を細め笑った。

 

 

 

「……なるほど」

 

 

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

 

 

 

雨の新宿。場末の居酒屋。

先輩は、自分のトレンチコートの袖口の匂いを、少し顔をしかめて確認していた。

 

 

 

「……まだ、あいつの匂いがする。刑務所の、あの独特な匂いが」

 

「なんだか更衣室みたいに、()えた匂いでしたね」

 

 

 

俺は、差し出された生ビールのジョッキを受け取りながら同意した。

 

 

 

「食欲がなくなるよ」

 

 

 

俺たちは無言でグラスを合わせ、冷えたアルコールを胃に流し込んだ。

手元の冷え切った枝豆を見つめながら、俺は不意に問いかけた。

 

 

 

「先輩は、母親のことは好きですか?」

 

 

 

口に出してから、俺は微かに後悔した。

堂本の凄惨な親殺しの話を聞いた直後に、振るべき話題ではなかったかもしれない。

 

 

 

「先輩は、母親のことは好きですか?」

 

 

 

口に出してから、俺は微かに後悔した。

堂本の凄惨な親殺しの話を聞いた直後に、振るべき話題ではなかったかもしれない。

 

 

 

「……すみません、笑えない質問でしたね」

 

「いいよ別に。……たぶん好きだったよ。遠い昔の話すぎて、顔もよく覚えていないけれど。もういないしね」

 

「……本当にすみません。配慮が足りませんでした」

 

 

 

俺が素直に頭を下げると、先輩は気にした風もなく、枝豆を器用に口に放り込んだ。

 

 

 

「じゃあヒンメルさんのことも?」

 

「……それは前にも話した気がするけれど。仲間として好きだったよ。それ以上はまだ、今の私にはわからない」

 

 

 

店内の安っぽいオレンジ色の照明が、彼女の新緑の瞳に静かな光を落とす。

どこか遠い過去を透かし見るような、ひどく澄んだ眼差しが俺を真っ直ぐに捉えた。

 

 

 

「裕理はどうなの? お母さんのことは好き?」

 

「……どうでしょうか。怯えてばかりで、庇ってもらった記憶すら曖昧(あいまい)です」

 

 

「……そっか」

 

 

 

先輩は静かにジョッキを置く。

短い沈黙。すると不意に、彼女の白くて小さな手が、俺の頭にそっと置かれた。

 

 

 

「……先輩?」

 

 

 

驚いて顔を上げると、先輩は慣れない手つきで、けれど慈しむように俺の髪を撫でた。

その小さな手はひどく不器用で、ひだまりのように温かかった。

 

 

 

「君の傍には私がいるよ」

 

 

店内に響く酔客の喧騒(けんそう)が、なぜか遠く聞こえた。

鼻の奥が微かにツンとするのを誤魔化すように、俺は小さく息を吐いた。

 

 

「……お姉さんみたいですね」

 

「お姉さんだからね」

 

 

先輩は当然のようにそう言って、少しだけ得意げに目を細めた。

 

新緑の瞳が、安っぽいオレンジ色の照明を弾いて柔らかく光る。

 

俺は頭上の心地よい重みを感じながら、残った冷たいビールをゆっくりと飲み干した。

 

 

 

 

 

◆◇◆

 

N県の古びたビジネスホテル。

シャワーの栓を捻ると水音が止み、ユニットバスには換気扇の低い唸り声だけが残された。

 

開け放たれたドアのすぐ外。

鏡の曇った狭い脱衣スペースの洗面台に、フリーレン先輩が行儀悪く腰掛けているのが見える。

彼女は備え付けの、少し大きめの白いナイトシャツ姿で、シャッ、シャッ、と一定のリズムで爪ヤスリを動かしていた。

 

「……木下も、続けていたでしょうね。堂本みたいに」

 

俺は濡れた髪をかき上げながら、風呂場のドアを開ける。

 

「元凶である、母親を殺すまで」

 

「なぜ、いつも母親だと思う?」

 

先輩はヤスリから目を離さずに応じる。

やがて、腰にバスタオルを一枚巻いただけの姿で、俺は湯気を纏ってバスルームから出た。

肌からは、先ほどまでこびりついていた拘置所の饐えた匂いは消え、安っぽいホテルの石鹸の匂いがしている。

 

「確かに母親だけど、堂本のケースとは違いますね」

 

俺は洗面台の鏡の前に立ち、歯ブラシを手に取りながら答えた。

 

「あれは……愛、ですよね。かなり異質で、ひどく歪んだ愛です」

「堂本の母親は、良い女だと思う?」

「まさか。万が一もあり得ないです」

 

即答する俺の横顔を、先輩はくつろいだ様子のまま静かに見つめた。

 

「ある知り合いの話だけれど」

 

先輩は、ヤスリを滑らせる手を止めずにぽつりと言う。

 

「その子の母親はすごく美人だと、学生時代にずいぶん他の男子たちから騒がれていたんだって。それが、その子としては複雑で嫌だったらしい」

「……」

「でも、その母親が抗がん剤治療を始めて、すっかりやつれてしまったら……誰も何も言わなくなって、それがひどく悲しかったって」

 

歯を磨く手を止め、俺は洗面台に座る彼女を見上げた。

その話にいったい何の意図があったのか。

先輩はただ、淡々とした表情で俺を見つめ返している。

 

「……あいつらは、何だと思ってるんですかね。セックスのことを。……捉え方が異常です」

 

俺は短く吐き捨てると、コップの水で口をゆすぎ、タオルで乱暴に口元を拭った。

 

「女に対しても、だね」

 

先輩は洗面台からぶら下げていた細く白い両足をゆっくりと開き、俺の腰を挟み込むようにそっと絡みつけてくる。

はだけたナイトシャツの裾から無防備な太ももを覗かせ、流し目で俺を見上げるその新緑の瞳には、ひどく甘く、退廃的な熱が宿っていた。

 

洗面台に座る彼女と、その前に立つ俺。ほんの少し顔を上げるだけで、二人の視線は完璧に同じ高さで絡み合った。

 

俺が顔を近づけると、先輩は俺の濡れた顎に片手で優しく触れ、迎え入れるように僅かに上を向かせた。

 

ひんやりとした唇が重なる。それは恋人同士が交わすような情熱的で甘いものではない。互いの生温かい体温を確かめ合うような、静かで慣れた口付けだった。

 

ゆっくりと唇が離れる。

 

異常な事件に追われる日々の中で、俺たちはたまに、こういうことをするようになった。

 

始まりは、酷く酒を飲んだ夜の、先輩の他愛ない悪ふざけだった。

いつものように俺をからかってきた彼女を、精神が摩耗していた俺は、その夜に限って逃げずに本気で押し倒してしまったのだ。

まさか俺が力づくで踏み込んでくるとは思わなかったのだろう。

普段は超然としている彼女が、あの時ほんの一瞬だけ見せた無防備な困惑を、俺は今でも鮮明に覚えている。

 

それきりになるかと思いきや、このいびつな関係はその後も静かに続いた。

そこに甘い恋情がないことくらい、俺にはわかっている。

彼女にとってこの行為は、未知の快感や俺という生き物の反応に対する、純粋で無邪気な好奇心に過ぎない。

興味津々で俺の熱を観察してくる彼女と、そんな彼女への憧れから、どうしようもなく溺れていく俺。

 

それでも、この静かで底知れぬ新緑の瞳に見つめられると、俺の熱が冷めることは決してなかった。

 

「……先輩」

 

「ん。いいよ」

 

先輩は俺の首に腕を回し、目を細めた。

 

「シャワーも浴びたし、お互い嫌な匂いも消えたしね」

 

その言葉を合図にするように、俺はゆっくりと腰を下ろし、洗面台からぶら下がっている先輩の白い足の間にしゃがみ込んだ。

 

「……爪を磨いてる女にそんなことしたいなんて、裕理は変態だね」

「そうですよ」

「……」

「俺は、変態です」

 

そう答えると、先輩はふわりと蠱惑的な笑みを浮かべた。

 

「裕理は、いけない子だね」

 

その甘い声の直後、俺の首筋にひやりとした鋭い感触が走る。

先輩が手にしていたヤスリが、俺の頸動脈にそっと当てられていた。

 

「このヤスリで刺せば、私のことも研究対象になるね」

「そうですね……その時はぜひ、じっくり研究させてください」

 

俺は動じることなく答え、ナイトシャツの裾から覗く純白の下着に指をかけた。先輩は器用に腰を少しだけ浮かせ、それが脱がされるのを無言で促す。

柔らかな肌が露わになる。

俺の手が白く滑らかな太ももを掴み、さらに足が開くように優しく、しかし有無を言わさぬ力で押し広げた。

 

 

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

 

 

 

翌日。帰路の新幹線。

窓の外を流れる景色は、雨が上がったばかりの澄んだ空気を映していた。

 

 

 

「いい気分ですね。映画みたいに、悪党を捕まえて家に帰る」

 

「木下を捕まえたのは良かったけど、堂本のせいで台無しだね」

 

 

 

先輩が幕の内弁当の卵焼きを頬張りながら答える。

 

 

 

「あいつといると、本当に気分が悪くなります。目の奥がブラックホールみたいで、覗き込んでも何も見えない」

 

「彼、私たちのことを友達だと思っているね。特に、裕理のことを気に入っているみたい」

 

 

 

俺は、その言葉に思わず口を(つぐ)んだ。

 

 

 

「……勘弁してください」

 

「それだけ、裕理が優秀だってことだよ」

 

 

 

先輩は満足そうに微笑むと、車窓の向こうに視線を投げた。

 

 

 

「……そろそろだね」

 

「何がですか?」

 

「もうすぐ、本庁に戻る。仲良くしてあげてね裕理」

 

 

 

俺は怪訝に眉をひそめたが、それ以上は何も聞かなかった。

 

 

 

 

 

数時間後。警視庁本庁舎の地下。

特例班の重いドアを開けた俺の鼻を突いたのは、いつものカビ臭い空気ではなく、淹れたてのコーヒーの香りだった。

 

 

 

「……」

 

 

 

俺は言葉を失い、その場に立ち尽くした。

 

誰よりも早く執務室に陣取り、山積みの資料を凄まじい速度で仕分けしている後ろ姿があった。

 

艶やかな紫の長髪。どう見ても十代半ばにしか見えない、小柄な少女。

 

フリーレン先輩の『一番弟子』であり、海外の捜査機関で異常なデータ処理能力を見せているという噂は聞いていた。

 

だが、いくらなんでも冗談だろう。

こんな子供が、血と猟奇(りょうき)に塗れた事件資料を捌くというのか。

 

呆然(ぼうぜん)とする俺の視線に気づき、その少女がゆっくりと振り返る。

 

年齢にそぐわない冷徹な理知を宿した瞳と、真っ向から視線がぶつかった。

 

 

 

だが、少女の視線はすぐに俺を通り越し、背後にいる先輩へと向かう。

 

その瞬間――氷のように張り詰めていた彼女の表情が、隠しきれない安堵と喜びにふわりと緩んだのを、俺は見逃さなかった。

 

しかし、少女はすぐに誤魔化すようにコホンと小さく咳払いをして、わざとらしく不機嫌そうにプイッと顔を背ける。

 

 

 

「遅いですよ、フリーレン様。……はじめまして、九条警部。机にあったあなたの調書ですが、なんだか子供が書いた感想文みたいだったので、勝手ながら書き直させていただきました」

 

 

俺は引きつった顔のまま、隣に立つ先輩へと視線を向けた。

 

『この子、いつもこんなに怖いんですか?』

 

そんな無言の悲鳴を込めて見つめる俺に対し、先輩も何とも言えない見たこともないふにゃっとした表情を浮かべて、申し訳なさそうに小さく頷いてみせた。

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