葬送のプロファイラー 作:フィンチャー
―― アガサ・クリスティ
4.『連続女性監禁惨殺並びに実子殺害遺棄事件』佐原啓介・美津子
ステージの上の少年は、真っ直ぐに前を見据え、優雅に弓を引いている。
客席に座るフリーレンは、その一音一音を慈しむように、満足げな微笑みを浮かべて静かに目を閉じた。
◆◇◆
ガタン、とタイヤが窪みに落ちる鈍い振動が響いた。
その揺れで、助手席に座っていたフリーレン先輩がゆっくりと目を開ける。
窓ガラスには冷たい雨粒が絶え間なく打ち付けられ、一定のリズムで動くワイパーがそれを弾き飛ばしていた。
「……起きましたか、フリーレン様。到着まであと十分ほどです」
後部座席から、抑揚のない冷ややかな声がした。
ルームミラー越しにチラリと見ると、フェルンが鈍器のように分厚く重たいノート型PCを膝に乗せ、薄暗い液晶画面を睨みながら凄まじい速度でキーボードを叩いている。
こんな代物を持ち歩き、移動中の車内からでも強引にデータベースを構築しようとする人間など、特例班のこの新人くらいのものだろう。
「うん。……ごめんね、裕理も運転お疲れ様」
「いえ」
俺は短く応え、覆面パトカーのハンドルを握り直した。
窓の外は、冷たい雨に煙っている。車は現在、東京拘置所へと向かっていた。
「それにしても、死刑執行の直前というタイミングで、ギリギリのお役目だね」
フリーレンが、窓ガラスを流れる水滴をぼんやりと見つめながら呟く。
「三日前に隣県の山中で、十三人目の白骨遺体が見つかったからです。手口は完全に佐原の犯行と一致した。……上層部は慌てています。もしこのまま法務大臣が執行命令を下せば、まだどこかに埋まっているかもしれない余罪の真相が、永遠に闇に葬られてしまう」
十二年前、若い女性を次々と誘い込み、自宅敷地内に建てた防音仕様の
俺たちの今回の任務は、死刑台へ送られる寸前の佐原
「夫の啓介は、典型的な性的サディスト(秩序型)だね。被害者を完全に支配し、恐怖を与えることで快楽を得るタイプ。……妻の美津子もまた、彼の所有物として完全に支配されていたはずだ」
フリーレンが、過去のカルテを読み上げるように静かに言う。
それに呼応するように、俺は昨夜読み込んだ調書の違和感を口にした。
「ええ。ですが俺が気になったのは、共犯として同じく死刑判決を受けた妻の供述です。逮捕直前、警察が踏み込むまでの空白の数時間に『自分たちの息子も殺して裏庭に埋めた』と自白している。……しかし、当時の捜査本部がどれだけ重機で掘り返しても、息子の遺体だけは出なかった」
「私もそこに引っかかっていたよ。絶対的な支配を好む啓介が、自分の手を汚さずに妻に息子を殺させたというのも、彼のプロファイルから少しズレる。妻の自白は、まるで他人の出来事を語っているように客観的すぎるんだ」
俺とフリーレンの推論を裏付けるように、後部座席のフェルンがPCの画面から顔を上げた。
「お二人のプロファイリング通りです。美津子の供述調書をテキスト解析にかけた結果、息子の殺害を語る部分だけ、感情の起伏を示す単語が極端に欠落しています。統計上、これは『事実を隠し、自分以外の誰かを庇っている時』の典型的な兆候です」
フェルンは連続帳票の分厚い紙の束を、座席の隙間から俺たちの間へと突き出した。
「彼女は、何か致命的な嘘をついています。……拘置所の別室で電話回線を借ります。私はそこから、当時の捜査記録にある『空白』をもう一度洗い直してみます。……お二人は、直接話を聞き出して、彼女の嘘の正体を掴んでください」
頼もしい新人の提案に、俺は小さく息を吐き、口角を少しだけ上げてアクセルを踏み込んだ。
◆◇◆
東京拘置所の面会室エリアは、独特の冷たい匂いがした。
古いコンクリートと安い消毒液、それに微かな絶望が混ざり合ったような、息の詰まる匂い。
「では、私は事務室の電話回線を拝借します。合流して進捗を共有しましょう」
フェルンは案内役の刑務官に分厚いノート型PCとモデムケーブルを掲げてみせると、振り返りもせずにさっさと別室へと消えていった。
あの調子なら、必ず有益なデータを引きずり出してくるだろう。
残された俺と先輩は、重い鉄扉が並ぶ廊下で立ち止まる。
右の部屋には、妻の美津子が。
左の部屋には、夫の佐原啓介が待っている。
「それじゃあ、裕理。また後でね」
フリーレンはいつも通り、まるで近所に散歩へ行くような軽い足取りで、右のドアノブを回した。
彼女の背中を見送ってから、俺は大きく息を吸い込み、左のドアを開けた。
分厚いアクリル板の向こう側に座っていたのは、ひどく平凡な男だった。
佐原啓介。防音の離れで女たちを惨殺したシリアルキラー。
白髪交じりの短髪に、薄いフレームの眼鏡をかけたその男は、一見するとどこにでもいる温和な中学校教師のように見える。
だが、彼がゆっくりと顔を上げ、アクリル板越しに俺と目を合わせた瞬間、その印象は音を立てて崩れ去った。
「はじめましてだなァ、九条警部さんよ。……特例班様が直々に面会とはなァ。いよいよ俺のお迎えが近いってことだろ?」
薄く笑いながら発せられた声には、知性など微塵もない、ねっとりとした純粋な暴力性がへばりついていた。
先日対峙した堂本健作のような、過去のトラウマに怯える惨めな子供っぽさや、感情の脆さは微塵もない。
プロファイラーとしての直感が、けたたましい警鐘を鳴らしていた。
こいつは、純粋な悪だ。
他人を力でねじ伏せ、恐怖と苦痛で肉体が壊れていく様を間近で味わうためだけに殺しを楽しんでいた「怪物」。
表向きの温和な仮面のすぐ裏側で、血に飢えた狂犬が今も舌を舐めずりながらこちらを見ている。
「君の事件の最終評価に来た。……君の遺した『偉大な功績』について、いくつか確認したいことがあってね」
俺があえて相手の猟奇的な自尊心をくすぐるような言い回しをすると、啓介はひどく嬉しそうに、ニチャリと口の端を吊り上げた。
ガラス玉のような無機質な瞳の奥で、爬虫類が獲物を見つけた時のような鈍い光が点滅したのを、俺は見逃さなかった。
「……最高だねぇ。警察にも、俺のやった『遊び』を分かってくれる奴がいたとはな」
啓介は身を乗り出し、アクリル板に爪を立てて、ギリギリと嫌な音を立てて引っ掻いた。
「何でも聞いてくれよ。あの雌豚どもを離れでどうやって泣かせて、どうやって肉の塊に変えてやったか……俺はあの最高の夜のことを、一つ残らず覚えてるからなァ」
◆◇◆
九条が、アクリル板越しに血の匂いがする「怪物」と対峙しているその頃。
廊下を挟んで右側にあるもう一つの面会室では、フリーレンが静寂と向き合っていた。
目の前に座る佐原美津子は、夫とは対照的に、まるで魂の抜けた殻のような女性だった。
白髪が混じり始めた髪を一つに束ね、深く刻まれた目尻の皺が、彼女がこれまでに耐え忍んできた暴力と絶望の深さを物語っている。
アクリル板越しにフリーレンを見つめる彼女の瞳には、死への恐怖も、罪を悔いる者の焦燥もなかった。ただ、深い夜の海のような静寂だけがある。
「はじめまして。佐原美津子さん」
「……はい。フリーレンさん、とおっしゃいましたね」
彼女は、面会票に書かれたフリーレンの名前をなぞるように、穏やかに微笑んだ。
「単刀直入に聞くよ。……十二年前、本当にあなたが息子さんを殺したの?」
フリーレンの問いかけに、美津子は少しも動揺することなく、静かに頷いた。
「……はい。私の罪は、あの人が離れで何をしていたか知っていながら、恐怖で止めることができなかったこと。……そして、あの子の泣き声がうるさいとあの人に言われ、私自身の手で息子の首を絞め、裏庭に埋めたことです」
淀みなく語られる自白。
警察に提出された供述書と、一字一句違わない完璧な言葉だった。
だが、フリーレンは持参したクリアファイルから一枚の紙を取り出し、アクリル板に押し当てた。
それは、美津子が獄中で描いていた水彩画のコピーだった。
花瓶に生けられた、深紅のバラの花束。
「……それは、プライベートなものです! どうしてあなたが」
完璧な静寂を保っていた美津子の顔色が変わった。
その動揺を無視して、フリーレンは淡々と事実を告げる。
「綺麗な絵だね。……十二本のバラ。夫に殺された十二人の少女たちへの、あなたなりの贖罪と鎮魂の祈りだ」
フリーレンはアクリル板にそっと手をつき、美津子の目を真っ直ぐに見据えた。
「でも、おかしいね。もしあなたが自白通りに、自分の手で愛する息子を殺したのなら……どうしてこの花束に、十三本目のバラがないの?」
「……ッ」
美津子は息を呑み、重ねた両手をギュッと強く握りしめた。
「死刑を前にした罪人は、恐怖に怯えるか、あるいは自らの罪の重さに押し潰されて泣き崩れる。……でも、あなたの目は違う。あなたの目は、罪の意識に苛まれる者の目じゃない。何かを成し遂げ、大切なものを守り抜いた人間の目だ」
フリーレンの静かで、逃げ場のない問いが面会室に響く。
「夫の啓介は、他人を完全に支配することに悦びを感じる男だ。そんな男が、わざわざ自分の手を汚さずに、あなたに息子を殺させるだろうか。……あなたは、嘘をついているね」
「いいえ……私は人殺しです。あの子は、私が……!」
「何を庇っているの? あなたが命を懸けて隠し通そうとしている『真実』は何?」
フリーレンが静かに問いかけると、美津子は俯き、頑なに口を閉ざしてしまった。
その横顔は、死刑台へ向かう罪人のものではない。
嵐から我が子を守るため、自ら盾となってすべてを耐え忍ぶ、母親の顔だった。
彼女は、無実だ。
そして、自分が死ぬことでしか守れない「何か」のために、十二年間もその事実を隠し続けている。
フリーレンは静かに息を吐き、彼女が守ろうとしているものの正体を証明するため、面会室を後にした。
◆◇◆
「……トランプ?」
アクリル板の向こう側で、啓介が薄いフレームの眼鏡をギラつかせた。
「特例班にのみ許可された、認知機能のテストだ」
俺は看守に向けて形式上の言い訳を口にし、新品のトランプをカウンターに置いた。
「ポーカーのルールは知っているか? 五枚引きのドロー・ポーカーだ。俺が勝ったら、十二年前に裏庭に埋めたと言う『息子の遺体』の本当の場所を教えろ。あれは嘘だろう」
啓介はニチャリと下卑た笑みを浮かべ、身を乗り出した。
「ヒヒッ……面白ぇ。もうすぐ死ぬ俺と博打か。いいぜ、やりましょう。だが俺が勝ったら……さっき覗き窓から見えた、あの紫の髪の小娘をここに連れてこい。あいつの手足を一本ずつへし折る手順を、ガラス越しにたっぷり聞かせてやるからよォ」
俺は表情一つ変えず、カードを配った。
啓介は自分にだけ見えるようにカードを並べ、勝利を確信したようにアクリル板を爪で鳴らす。
「三枚チェンジだ、警部さん」
俺は指示通りに交換した。
啓介は交換したカードを見て、勝利を確信したようにアクリル板を爪でカリカリと引っ掻き始めた。その隙間から、凶悪な本性がどす黒く漏れ出し始める。
「九条警部。あんたの目は……俺が離れで解体した雌豚どもにそっくりだ」
啓介が熱を帯びた声で囁く。
「恐怖と、焦燥感。自分が切り刻まれるのを待つしかない、あの惨めな目だ。顔は平静を装っていても、配る指先が微かに震えてるぜ。……俺の勝ちだ」
啓介が下劣な笑みを浮かべたその時。俺は静かに、伏せられた彼の手札の数字を言い当てた。
「『8、9、10、J、Q』……ストレートだな」
「な……どうして」
「あぁ、言い忘れていたことがある」
啓介の笑い声がピタリと止まる。俺は表情一つ変えず、自分の手札を一枚ずつアクリル板の前に並べていった。
「悪いが俺は天才でね。昔から、こういう勝負事で負けたことはない」
『K』の三枚と、『8』のペア。
俺が並べたのは、ストレートを完全に叩き潰す『フルハウス』。
啓介の顔から、邪悪な余裕が音を立てて剥がれ落ちていく。
「お前の負けだ。場所を吐け」
啓介はアクリル板を拳で叩き、獣のように吠えた。
「ふざけんな! イカサマだろ! 殺すぞこのクソ犬がァ!!」
俺は椅子に深く腰掛け、氷のように冷たい嘘を重ねた。
「啓介。……残念だが、お前だけが死ぬことになりそうだ。美津子さんの死刑執行は延期が検討されている。彼女の無実を信じる声が、上層部でも無視できなくなっていてね」
その瞬間、啓介の眼球が限界まで見開かれた。彼にとって最大の屈辱は、自分の所有物であるはずの妻が、自分のコントロールを離れて生き残ることだ。
「……あの女だけ助かる? 嘘だ……そんなの許さねぇ! あの女も人殺しなんだよ! 息子を殺したのはあいつだ!」
激昂した啓介は、唾を飛ばしながら叫んだ。
「N県の旧第三林道だ! 廃ロッジの裏を掘れ! そこにガキが埋まってんだよ! あの女が泣きながら首を絞めて埋めたんだ、俺がこの目で見てたんだよ!!」
俺は黙って席を立ち、面会室を後にした。
◆◇◆
数時間後。夕闇が迫る頃、拘置所の薄暗いロビーに設置された公衆電話の受話器を置き、俺は苦い息を吐いた。
「……出たのは、少女の骨だった。十四人目の被害者だ」
廊下で待っていたフリーレン先輩とフェルンに、俺は平坦な声で告げた。
啓介は、あそこには息子が埋まっていると本気で信じていた。
妻が嘘を吐くはずがないと、あの大罪人は十二年間思い込んでいたのだ。
「やはり、啓介は美津子さんに騙されていたんだね」
フリーレン先輩が、手に持っていた古い額縁の裏側から、一枚の小さな紙片を取り出した。
それは、美津子が肌身離さず持っていた荷物の中から見つけた、古い地方紙の切り抜きだった。
「フェルン。これ、裏を取れる?」
フェルンは切り抜きを受け取ると、印字された文字を素早く目で追った。
「……『若きヴァイオリニスト、長野のコンクールで優勝』。少年の名前は、佐藤(仮名)幸也。……幸也」
フェルンは壁際のグレーのISDN公衆電話の前に陣取り、分厚いラップトップを開いた。警察庁が試作した移動用のデータ端末だ。
「データ通信端子、借ります」
彼女はグレー電話の側面に備え付けられたモジュラージャックに素早くケーブルを差し込むと、コマンドを打ち込んだ。
内蔵スピーカーの奥から「ピー……ヒョロヒョロ……ガガガ」という、耳障りな変調音が響く。
特例班の特権で許可された、警察庁メインフレームへのダイアルアップ接続だ。
「この『佐藤幸也』という少年の現在の住民基本台帳から、過去の戸籍履歴を逆探知します。……通常の手順とこの細い回線じゃ日が暮れますが、私が組んだ検索スクリプトなら数分で履歴の矛盾を掘り起こせるはずです」
フェルンは、液晶画面を流れる無機質な文字列を凝視しながら、猛烈な勢いでキーボードを叩き続ける。
黒い画面に緑色のコマンドラインが滝のように流れていく。
「……見つけました。十二年前、美津子が逮捕された直後、この少年の戸籍に不自然な改ざんの痕跡があります。当時の担当官が独断で戸籍を偽造して、別人として長野の老夫婦に引き渡していました。……間違いありません。佐原幸也君は、生きています」
液晶の青白い光に照らされたフェルンの顔が、驚愕と、どこか悲痛な色に染まる。
「特定しました。……でも……」
◆◇◆
激しい雨が、覆面パトカーのフロントガラスを容赦なく叩いていた。
長野県郊外、閑静な住宅街の一角。
フェルンが弾き出した住所にある平屋の家の前で、俺たちは息を潜めて「その時」を待っていた。
やがて、雨の向こうから一台のセダンが近づき、カースペースに静かに滑り込んだ。
エンジンが止まり、後部座席のドアが開く。
初老の養父が差し出した傘の下へ飛び出してきたのは、大切そうにヴァイオリンのハードケースを抱えた一人の少年――佐原幸也だった。
少年は笑いながら軒下へ駆け込み、家の中へ入っていく。
だが、傘を持った養父は、ゆっくりと振り返り、雨の中に停まる不自然な覆面パトカーと、車から降り立った俺の姿を真っ直ぐに見つめた。
逃げも隠れもせず、ただ静かに俺の警察手帳を一瞥する。
彼はすべてを悟っていた。あの子が背負う過去も、いつか追手がやってくるかもしれないという恐怖も、すべて飲み込んだ上で、今日まで彼を愛し、育ててきたのだ。
俺は一度車に戻り、分厚い車載電話の受話器を取った。
『……裕理。着いたんだね』
ノイズ混じりの回線の向こうから、東京拘置所にいるフリーレン先輩の静かな声が聞こえた。
「ええ。……間違いありません。あの子です」
俺は、窓越しに目の前に立つ養父の悲痛な、祈るような瞳を見つめ返しながら、堪えきれずに語気を強めた。
「先輩、今すぐ本部に連絡します! そうすれば美津子さんの執行は確実に止められる。俺たちが真実を証明すれば、あの子は両親を失わずに済むし、無実の人間を見殺しにする必要もない!」
俺の熱を帯びた声に、電話の向こうで僅かな沈黙が落ちた。
『……裕理。真実を暴くことが、必ずしも人を救うとは限らないんだよ』
「どういう意味ですか!? 無実の女が死刑になるのを黙って見過ごすのが、俺たちの正義なんですか!」
◆◇◆
同じ頃。
東京拘置所の特別面会室では、フリーレンがアクリル板にそっと手をつき、涙で濡れた顔を上げる美津子を見つめていた。
「美津子さん。私は、あなたを助けたいんだ。……あなたは生きられるんだよ」
「フリーレンさん……」
美津子は、ひどく穏やかで、優しい微笑みを浮かべた。
「息子さんは、それを望むかな?」
フリーレンの問いに、美津子は静かに首を振る。
「自分が事実を知ったら、あの子はどれだけ傷つくでしょうか。『希代の殺人鬼の血を引く息子』だと世間に知られ、これまで築いてきた幸せな日々が、すべて嘘にまみれてしまう」
「あなたが自分のために死刑になったと知ったら? 彼が負う十字架は、もっと重くなる」
「だから、絶対に知られてはいけないんです」
美津子は、自分の命などとうの昔に捨て去った人間の、底知れぬ強さでフリーレンを見つめ返した。
「お願いです、フリーレンさん。このまま、私が人殺しだという嘘を貫かせてください。……どうか、私たちを自由にしてください」
フリーレンは、美津子の目をただ静かに見つめ返した。
長い年月を生きるエルフの彼女にとって、人間の命はひどく短く、儚い。
けれど、この母親が息子に遺そうとしている愛の深さは、永遠にも等しいものだとわかっていた。
「裕理。……聞いたね」
フリーレンは受話器に向かって、はっきりと告げた。
「佐原幸也君は、十二年前に死んだ。行方不明だよで見つけられなかった。それが、私たちの導き出した真実だよ」
「ありがとう……本当に、ありがとうございます……!」
電話越しに響く美津子の嗚咽を聞きながら、フリーレンは静かに目を伏せた。
◆◇◆
『フェルンに伝えて。……あの子の記録を、すべて消去するようにって』
「……了解しました」
俺は受話器を置き、深く、苦い息を吐き出した。
俺はドアを開け、冷たい雨の中へと踏み出した。
「……済みません。我々の手違いでした」
驚いて顔を上げた養父に、俺は感情を殺した声で告げる。
「本庁のデータベースに重大な入力ミスがありましてね。先ほど確認が取れました。お騒がせした。……我々がここへ来ることは、二度とありません。お騒がせして大変申し訳ありません」
雨の中に立つ養父は、すべてを読み取ったのだろう。
傘を持った手が震え、男は雨が打ち付けるアスファルトに膝をつきそうになるほど、深く、深く頭を下げた。
「……本当に、ありがとうございますっ」
俺は何も答えることができなかった。ただ一度だけ短く頷き、逃げるようにパトカーの運転席に戻る。
「フェルン。……聞いたな。消してくれ」
助手席のフェルンは何も言わず、ただ静かに頷いた。
そして、ためらいがちにキーボードへ指を乗せると、『佐藤幸也』という少年に繋がるすべての検索履歴と照合データを、闇の中へ葬り去った。
これで、過去への道は完全に断たれた。
「……東京へ戻ろう」
バックミラーの中で深く頭を下げる養父の姿が、激しい雨の中に遠ざかっていく。
俺は奥歯を強く噛み締め、前も見えないほどの土砂降りの中へ、アクセルを踏み込んだ。
◆◇◆
翌朝。午前九時。
東京拘置所の周囲を囲む巨大で無機質なコンクリートの壁を、昨夜から降り続く冷たい雨が打ち付けていた。
日本の死刑は、絞首によって行われる。
合図もなく床が落ちる、その無慈悲で静寂に包まれた「終わりの瞬間」が、今まさに壁の向こう側で執り行われている。
徹夜で長野から車を走らせてきた俺は、拘置所の外に停めたパトカーの運転席で、ハンドルに額を押し当て、深く項垂れていた。
無力だった。
今まさに不条理な死刑台へ登ろうとしている一人の無実の女性を前に、何もできずにいる。
真実を知りながら、それを闇に葬るしかなかった自分の手が、ひどくちっぽけで汚れたものに思えた。
悔しさで、奥歯から血の味がした。
視線を上げると、窓の向こうでフリーレン先輩が、傘も差さずに拘置所の外壁の前に立っていた。
彼女の白い頬を、雨水とは違う、一筋の熱い涙が静かに伝い落ちた、そんな気がした。
啓介は地獄へ堕ちた。
そして美津子は今、愛という名の嘘を抱いて、聖母としてこの世を去ったのだ。
「……フリーレン様」
助手席から降りてきたフェルンが、自分が冷たい雨に濡れるのも構わず、涙ぐんだ瞳でフリーレンの隣に寄り添い、彼女の頭上にそっと傘を差し出した。
「……帰ろうか、裕理、フェルン」
二人が車に戻ってくる。俺はフロントガラスについた雨粒を乱暴に手で拭い、静かにエンジンをかけた。
◆◇◆
――それから、一か月後。
提琴《ヴァイオリン》の、ひどく澄んだ旋律が響いていた。
ステージの上の少年は、真っ直ぐに前を見据え、優雅に弓を引いている。
満席のコンサートホール。
俺は最後列の壁際に立ち、その美しく力強い音色に耳を傾けていた。
客席の中央には、フェルンと並んで座るフリーレン先輩の姿があった。
彼女は、少年が奏でる一音一音を慈しむように、満足げな微笑みを浮かべて静かに目を閉じている。
そこに、かつての血の匂いや、殺人鬼の呪縛は一切ない。
一人の母親が、命と引き換えに守りぬいた「幸福」が、ただ清らかにそこにあった。
演奏が終わる。
静寂の後、割れんばかりの拍手がホールを包み込んだ。
少年は誇らしげに、観客に向かって深くお辞儀をする。
フリーレンはゆっくりと目を開け、惜しみない拍手を送りながら、その瞳から一筋の涙をこぼした。
隣に座るフェルンもまた、静かに涙を拭いながら、力強く手を叩き続けている。
(……人間は不条理で、愚かで。愛のために、こんなにも哀しく美しい嘘をつく)
「……ヒンメル、私は人間を知ろうとして、よかったよ」
拍手の波に紛れてこぼれ落ちたフリーレンの呟きは、誰の耳にも届くことはない。
彼女はそっと視線を巡らせた。隣で不器用に目を腫らすフェルンと、最後列の壁際で、静かにステージを見つめる裕理の姿がある。
かつての勇者が導いてくれた「人間を知る旅」は、まだ終わらない。
どうしようもなく短く儚い命たちが残す愛の重さを抱えながら、彼女はこれからも、この不器用で優しい新しい仲間たちと共に、明日へと歩いていくのだ。
彼女が命を懸けて守り抜いた幸福な音色は、今日もどこまでも澄み渡り、特例班の三人の胸の奥で、永遠に鳴り響いていた。
「愛するということは、誰かのために自分の命を喜んで無駄にすることだ」
―― ヴィクトル・ユーゴー