夜のむこうの帰り道   作:とーすと

1 / 4
本作は、ゲーム『夜廻三』本編終了後を描いた二次創作小説です。
森から帰ったあの日、ユズは夜を越えた。けれど、お姉ちゃんは帰ってこなかった。
これは、原作本編のその後、手を離したあの夜へ、ユズがもう一度向かうお話です。
原作の静けさや怖さ、切なさを大切にしながら描いていきます。夜のむこうへ続く帰り道を、一緒に歩いていただければ嬉しいです。



第1話「音のない朝」

 朝は、何事もなかったみたいに来る。

 カーテンのすきまから、薄い光が部屋に差し込んでいた。夜のあいだ黒く沈んでいた机も、椅子も、床に置いたままのランドセルも、朝の光に触れると、ただそこにあるだけのものに戻ってしまう。

 

 窓の外では、どこかの家の雨戸が開く音がした。遠くで車が通りすぎ、少し遅れて、鳥の声が聞こえた。

 

 ユズは布団の中で目を開けたまま、しばらく天井を見ていた。

 

 白い天井。

 細い影。

 部屋のすみで止まっている空気。

 

 起きなきゃ、と思った。

 

 けれど、そう思っただけで、体は動かなかった。

 

 台所の方から、お皿の触れ合う音がした。お父さんが朝ごはんの支度をしているのだと思う。前よりも少しだけ、物音が小さくなった気がする。コップを置く音も、引き出しを閉める音も、まるで家のどこかで眠っているものを起こさないように、そっとしていた。

 

 家の中には、ちゃんと音がある。

 

 蛇口から水が落ちる音。

 食器が重なる音。

 廊下を歩く足音。

 外を走る車の音。

 

 けれど、ひとつだけ、もう聞こえない音があった。

 

 ちりん、と鳴るはずの音。

 

 ユズは、枕元へ手を伸ばした。

 

 指先が布団の上を探る。

 何もなかった。

 

 分かっていた。

 そこに鈴はない。

 

 小さくて、冷たくて、赤い紐がついた鈴。握ると手のひらに硬い感触が残って、少し振ると、細い音がした。あの音を聞くと、怖い夜の中でも、自分がひとりではないような気がした。

 

 でも、もうない。

 

 返したから。

 

 返さなければ、いけなかったから。

 

 ユズは空っぽの場所を、指先でそっとなぞった。そこに何かの形が残っている気がした。鈴の丸み。紐のざらつき。手の中で揺れる、あの小さな重さ。

 

 ないものなのに、手だけが覚えていた。

 

 ちりん。

 

 鳴った気がして、ユズは息を止めた。

 

 でも、部屋は静かだった。

 

 窓の外で、もう一度、鳥が鳴いた。台所からは、お父さんが小さく咳払いをする音がした。朝はちゃんと続いている。ユズが動かなくても、世界は勝手に進んでいく。

 

 ユズだけが、置いていかれているみたいだった。

 

 布団から出ると、足の裏に床の冷たさが伝わった。夜の地面よりは、ずっとやさしい冷たさだった。それでも、少しだけ身がすくむ。

 

 足元の下に、何かがいる。

 

 そう思ってしまう感覚。

 

 ユズは首を振って、机の方を見た。

 

 そこには、小さな音楽プレーヤーが置いてあった。

 

 お姉ちゃんのものだった。

 

 角には細かな傷があり、画面の端には薄いひびが入っている。イヤホンのコードは、きれいに巻いたはずなのに、いつも同じところで絡まってしまう。ユズはそれを手に取って、親指で画面をなぞった。

 

 鈴とは違う。

 

 これは、まだここにある。

 

 返さなかったもの。

 返せなかったもの。

 

 電源ボタンを押すと、小さな画面が少し遅れて光った。ぼんやりとした白い明かりの中に、最後に止まっていた曲の題名が浮かぶ。

 

 ユズは再生ボタンに指を置いた。

 

 押せば、音が流れる。

 

 お姉ちゃんが聴いていた音。

 お姉ちゃんが、この家にいて、この町を歩いて、この世界にいたときの音。

 

 でも、ユズは押せなかった。

 

 音楽が流れたら、思い出してしまう。

 

 隣にいたこと。

 少し前を歩く背中。

 振り返って、名前を呼んでくれた声。

 もう、どこにもいないこと。

 

 ユズは音楽プレーヤーを両手で包んだ。硬くて、冷たくて、少しだけ重かった。中にはたくさんの音が入っているはずなのに、今は何も流れていない。

 

 鈴の音は、もうない。

 でも、お姉ちゃんが残した音だけは、まだここにある。

 

 それがうれしいのか、つらいのか、ユズには分からなかった。

 

 部屋の外から、お父さんの声がした。

 

「ユズ、起きてるか」

 

 ユズは音楽プレーヤーを机に戻し、少しだけ間を置いてから返事をした。

 

「……うん」

 

 自分の声は、思ったより小さかった。

 

 廊下に出ると、朝の匂いがした。焼いたパンの匂い。味噌汁の湯気。洗面所の石けんの匂い。どれも昨日と同じで、前と同じで、何も変わっていないように思える。

 

 それなのに、階段の途中で、ユズは足を止めた。

 

 前なら、ここで足音がもうひとつ聞こえた気がした。

 

 先に降りていく音。

 後ろから追い越していく音。

 急いでいるときに、少しだけ大きくなる音。

 

 今は、ユズの足音だけだった。

 

 とん。

 とん。

 とん。

 

 一段ずつ降りるたびに、その音が家の中で小さく響いた。

 

 台所では、お父さんが食卓に皿を並べていた。ユズを見ると、少しだけ笑った。その笑い方は、前よりも下手になっていた。

 

「おはよう」

 

「……おはよう」

 

 テーブルには、二人分の朝ごはんが置かれていた。

 

 二人分。

 

 それを見た瞬間、ユズは胸の奥がきゅっと痛くなるのを感じた。けれど、何も言わなかった。お父さんも、何も言わなかった。

 

 焼いたパンと、少し冷めかけた目玉焼き。湯気の立つ味噌汁。小さな皿にのった漬物。

 

 お父さんは向かいの席に座って、新聞を広げようとして、すぐにやめた。紙のこすれる音が、今の家には大きすぎると思ったのかもしれない。

 

「学校、行けそうか」

 

 お父さんが聞いた。

 

 声はいつもと同じにしようとしていた。でも、少しだけ低かった。朝の光が食卓に落ちて、湯気の向こうでお父さんの顔をぼやけさせている。

 

 ユズはパンの端を見つめたまま、うなずいた。

 

「うん」

 

「無理はしなくていいからな」

 

「うん」

 

 それ以上、会話は続かなかった。

 

 お父さんは何か言いたそうにしていた。

 ユズも、何か言わなければいけない気がしていた。

 

 けれど、二人の間には、三人分だったはずの空白がひとつ置かれていた。そこにはもう皿も箸もない。椅子も引かれていない。それでも、何もないその場所を見ないようにするだけで、朝ごはんは少しだけ難しくなった。

 

 ユズは味噌汁を飲んだ。

 

 温かい。

 

 温かいものが喉を通っていくのに、胸の奥は冷たいままだった。

 

 学校へ行く準備をしている間、ユズは何度も机の上を見た。

 

 音楽プレーヤーは、そこにあった。

 小さくて、傷だらけで、もう誰かの手の中に戻ることのないもの。

 

 ランドセルに入れようとして、やめた。学校に持っていくものではないと思った。けれど置いていくのも怖かった。置いていった間に、なくなってしまう気がした。

 

 鈴のように。

 

 ユズはしばらく迷ってから、音楽プレーヤーをハンカチで包んだ。そして、ランドセルの奥ではなく、上着のポケットに入れた。

 

 ポケットの中に、硬い四角が触れる。

 

 それだけで、少しだけ息がしやすくなった。

 

「いってきます」

 

 玄関でそう言うと、お父さんが台所から顔を出した。

 

「いってらっしゃい。気をつけてな」

 

 気をつけて。

 

 その言葉に、ユズは一瞬だけ固まった。

 

 何に気をつければいいのか。

 車。知らない人。転ばないこと。忘れ物。

 

 昼の町なら、それでよかった。

 

 でもユズは、夜の町を知っている。

 

 曲がり角の向こうに立っているもの。

 側溝のすきまから覗くもの。

 電柱の影に混じるもの。

 見えてはいけないのに、見えてしまうもの。

 

 それらは朝にはいない。

 少なくとも、いないふりをしている。

 

 ユズは小さくうなずいた。

 

「うん」

 

 ドアを開けると、朝の空気が入ってきた。

 

 夜の空気とは違った。土の匂いもしない。濡れた影の匂いもしない。太陽の光を含んだ、少し乾いた匂いだった。

 

 外に出る。

 

 通学路は、いつもと同じ顔をしていた。

 

 電柱が並んでいる。カーブミラーが朝の光を受けて白く光っている。自販機の前には、空き缶がひとつ転がっていた。側溝のふたのすきまには、小さな草が生えている。

 

 何も怖くない。

 

 そう思おうとして、ユズは足元を見た。

 

 側溝の暗がりは、昼でも少し黒かった。

 そこだけ、夜が取り残されているみたいだった。

 

 ユズは視線を外し、少し早足で歩いた。

 

 登校中の子どもたちが前を歩いている。誰かが笑った。ランドセルにつけたキーホルダーが揺れて、かちゃかちゃと音を立てている。道路の向こうでは、おばあさんが犬の散歩をしていた。犬はユズの方を一度見て、すぐにそっぽを向いた。

 

 昼間の町は、やさしいふりをする。

 

 けれどユズには、その下にもう一枚、薄い皮のような夜が張りついているのが分かった。明るい道の下に、暗い道が重なっている。電柱の影の下に、別の影が眠っている。自販機の光の奥に、赤い目のようなものがまだ閉じている。

 

 学校に着くと、チャイムが鳴った。

 

 大きな音だった。

 

 ユズは肩を少し震わせた。

 

 教室の中は、もうざわざわしていた。ランドセルを机にかける音。椅子を引く音。誰かが笑う声。黒板の前でふざけている子の声。

 

 ユズが教室に入ると、そのざわめきが少しだけ変わった。

 

 ほんの少しだけ、音が低くなる。

 

 誰かがユズを見た。

 すぐに目をそらした。

 別の誰かが、隣の子に何かを耳打ちした。

 

 くす、と小さな笑い声がした。

 

 ユズは聞こえないふりをして、自分の席へ向かった。

 

 机の上には、昨日はなかった落書きがあった。

 

 鉛筆で薄く、けれど消しきれないように、机の端に文字が書かれている。

 

 ――うそつき。

 

 ユズは、しばらくそれを見つめた。

 

 手を伸ばして、指でこすった。黒い線は少し薄くなったけれど、完全には消えなかった。爪の先が机に当たり、かり、と小さな音がした。

 

 その音が、なぜかとても大きく聞こえた。

 

「先生来るよ」

 

 誰かが言った。

 

 それはユズに向けた言葉ではなかった。

 ユズの横を通りすぎて、別の誰かへ向かった言葉だった。

 

 ユズは何も言わず、椅子に座った。

 

 椅子の脚が床をこする。

 

 ぎい。

 

 その音に、近くの席の子がわざとらしく振り返った。

 

「うるさ」

 

 小さな声だった。

 でも、ユズには聞こえた。

 

 ユズは唇を結び、ランドセルから教科書を出した。

 

 授業が始まった。

 

 チョークが黒板をこする音。教科書をめくる音。鉛筆が紙の上を走る音。誰かが小さく咳をする音。校庭から、体育の笛の音が聞こえる。

 

 音がたくさんある。

 

 そのどれもが、ユズの周りを通りすぎていく。

 でも、ユズの中には入ってこなかった。

 

 先生が黒板に問題を書いている間、後ろの席から小さく丸めた紙が飛んできた。

 

 紙はユズの背中に当たって、床に落ちた。

 

 ユズは振り返らなかった。

 

 拾わなかった。

 

 拾えば、笑われる。

 振り返れば、もっと笑われる。

 

 だから、見なかったことにした。

 

 でも、床に落ちた紙の白さだけが、視界の端にずっと残っていた。

 

 先生が出席を取り始めた。

 

 名前がひとつずつ呼ばれていく。

 

 呼ばれれば、返事をする。

 ここにいる、と伝える。

 

「ユズさん」

 

 ユズは少し遅れて顔を上げた。

 

「……はい」

 

 先生は一瞬だけユズを見た。何かに気づいたような顔をしたが、すぐに次の名前を呼んだ。

 

 紙は、まだ床に落ちていた。

 

 休み時間になっても、ユズは席を立たなかった。

 

 教室の後ろでは、何人かが消しゴムを投げ合って遊んでいた。廊下では走る足音がして、先生に注意される声が聞こえた。

 

 ユズはポケットの上から、音楽プレーヤーを押さえた。

 

 教室の中には、音がたくさんある。

 でも、ユズのための音はひとつもなかった。

 

 誰かが名前を呼ばれる。

 誰かが返事をする。

 誰かが笑う。

 

 ユズの名前は、呼ばれない。

 

 呼ばれるときは、たいてい嫌なときだけだった。

 

 だからユズは、音楽プレーヤーの中に残っている音を思い出した。

 

 お姉ちゃんが聴いていた音。

 お姉ちゃんだけが知っていた音。

 ユズを笑わない音。

 

 再生ボタンを押せば、そこにはまだ、お姉ちゃんの時間が残っているかもしれない。

 

 でも、ここでは押せなかった。

 

 この教室で音を流したら、お姉ちゃんが残してくれたものまで、みんなの笑い声に混じってしまう気がした。

 

 だからユズは、ポケットの中の硬い感触だけを確かめた。

 

 中に音が残っている。

 まだ消えていない。

 

 それだけでよかった。

 

 四時間目が終わると、給食の時間になった。

 

 教室の中が急に騒がしくなる。机を動かす音。椅子を引く音。給食当番が白い帽子をかぶって、廊下へ出ていく足音。誰かが「今日カレー?」と聞いて、別の誰かが「ちがうよ」と笑う。

 

 ユズは、自分の机に手を置いたまま、少しだけ待った。

 

 みんなが机を動かして、班の形にしていく。

 

 がたがた。

 ぎい。

 どん。

 

 その音が、教室の床を震わせる。

 

 ユズの机だけが、少し遅れて残った。

 

 前の席の子が机を引いた。隣の子も動かした。けれど、ユズの机には誰も触れなかった。班の形はできているのに、そこにユズの机を入れる場所だけが、少し狭くなっている。

 

 ユズは自分で机を押した。

 

 ぎぎ、と脚が床をこすった。

 

 近くの子が、嫌そうに椅子を引いた。

 

「せまい」

 

 小さな声だった。

 

 ユズは何も言わず、机を少しだけ戻した。

 すると今度は、班の輪からほんの少し外れた形になった。

 

 給食のトレーが配られる。

 

 パン。

 スープ。

 小さなおかず。

 牛乳。

 

 いつもと同じ給食だった。

 

 けれど、ユズのトレーが机に置かれたとき、牛乳のパックだけが少しへこんでいた。誰かがわざとそうしたのか、たまたまなのかは分からない。

 

 分からないことにしておいた方が、楽だった。

 

「いただきます」

 

 教室中の声がそろった。

 

 ユズも、少し遅れて口を動かした。

 

「……いただきます」

 

 スプーンが食器に当たる音がする。

 牛乳のストローをさす音がする。

 誰かが笑う。

 先生が「こぼさないように」と言う。

 

 音がたくさんある。

 

 でも、ユズのところだけ、少し空いていた。

 

 誰かが楽しそうに話している。

 休み時間の遊びのこと。

 昨日見たテレビのこと。

 先生に見つからないように消しゴムを飛ばしたこと。

 

 ユズはスープをすくった。

 

 湯気が上がる。

 口に入れると、温かかった。

 

 朝の味噌汁と同じで、温かいのに、胸の奥は冷たいままだった。

 

 ふいに、向かいの子がユズの机の端を見た。

 

 朝、消しきれなかった落書きの跡。

 

 ――うそつき。

 

 その子は何も言わなかった。

 ただ、隣の子の袖を引いて、机の端を指さした。

 

 二人は顔を近づけて、小さく笑った。

 

 ユズはスプーンを握ったまま、目を伏せた。

 

 食べなきゃ。

 そう思うのに、喉が動かなかった。

 

 給食のにおいが、急に遠くなる。教室のざわめきも、誰かの笑い声も、食器の音も、全部が薄い膜の向こうにあるみたいだった。

 

 ユズはスプーンを置いた。

 

 かちゃん。

 

 小さな音だったのに、近くの子がちらりとこちらを見る。

 

 ユズはあわてて、もう一度スプーンを持った。

 

 食べているふりをした。

 

 それでも、スープは少しも減らなかった。

 

 夕方、学校が終わった。

 

 帰り道は、朝と同じ道だった。

 でも、朝とは違う顔をしていた。

 

 太陽が低くなり、電柱の影が長く伸びている。カーブミラーには、赤くなった空と、曲がり角の向こうの細い道が映っていた。公園のブランコが、誰も乗っていないのに少しだけ揺れている。

 

 風かもしれない。

 

 ユズはそう思った。

 

 そう思いたかった。

 

 自販機の前を通ると、機械の低い音が聞こえた。ぶうん、という小さな震え。昼間には気にならなかったその音が、夕方には妙に大きく聞こえる。

 

 ポケットの中の音楽プレーヤーが、指に当たった。

 

 ユズは立ち止まり、取り出しかけて、やめた。

 

 ここで聴いてはいけない気がした。

 

 夕方の道でお姉ちゃんの音を聴いたら、そのまま夜へ連れていかれる気がした。

 

 家に帰ると、お父さんはまだ帰っていなかった。

 

 玄関は静かだった。靴を脱ぐ音だけが、たたきに小さく響く。ユズは廊下を歩き、部屋へ入った。

 

 部屋は朝と同じだった。

 

 机。椅子。ランドセル。カーテン。布団。

 でも、窓の外の色だけが違った。

 

 夕方の光が、部屋の中を薄い橙色に染めている。机の上に音楽プレーヤーを置くと、その画面にも夕焼けが小さく映った。

 

 ユズはしばらく、それを見ていた。

 

 そして、ゆっくりと電源を入れた。

 

 画面が光る。

 

 最後に止まっていた曲名。

 お姉ちゃんが最後に聴いていたかもしれない曲。

 

 ユズは再生ボタンに指を置いた。

 

 押せない。

 

 朝と同じだった。

 

 でも、朝とは少し違った。

 

 家の中は静かで、外は夕方で、もうすぐ夜が来る。

 このまま何も聞かずに夜を迎えたら、また何かを失ってしまう気がした。

 

 ユズは目を閉じた。

 

 お姉ちゃん。

 

 声には出さなかった。

 

 そして、ボタンを押した。

 

 小さな音が流れた。

 

 最初は、思っていたより普通だった。

 

 軽いリズム。やわらかいメロディ。少し古い音質。イヤホンをつけていないから、音は小さなスピーカーから頼りなくこぼれてくる。

 

 お姉ちゃんが、これを聴いていた。

 

 そう思った瞬間、ユズの目に涙がにじんだ。

 

 音楽は、部屋の中をゆっくり満たしていった。空っぽだった場所に、誰かの気配が戻ってくるようだった。けれど、それはお姉ちゃんそのものではない。お姉ちゃんがいた跡だった。

 

 ユズは唇を噛んだ。

 

 曲が半分ほど進んだところで、音が乱れた。

 

 ざり。

 

 ユズは顔を上げた。

 

 画面を見る。曲は再生されたままだった。

 

 ざざ。

 

 ノイズが混じる。

 

 古いからかもしれない。

 壊れているのかもしれない。

 そう思おうとした。

 

 けれど、そのノイズの奥で、細い音がした。

 

 ちりん。

 

 ユズの指が止まった。

 

 音楽の向こう。

 雑音の奥。

 遠い場所で、小さな鈴が鳴ったような音。

 

 ありえない。

 

 鈴はもうない。

 返した。

 返したはずだった。

 

 ユズは音量を上げた。

 

 ざり、ざざ、というノイズが大きくなる。メロディは歪み、遠くなり、別の場所から聞こえているようになる。

 

 その奥で、もう一度。

 

 ちりん。

 

 今度は、はっきり聞こえた。

 

「……おねえちゃん?」

 

 声に出してしまってから、ユズは息を止めた。

 

 音楽が止まった。

 

 画面には何も触れていない。

 それなのに、再生マークが消えていた。

 

 部屋の中が静かになる。

 

 夕方の光は、いつの間にか薄くなっていた。窓の外で、空の色が青から灰色へ変わりかけている。遠くでカラスが鳴いた。その声が、思ったより低く聞こえた。

 

 ユズは音楽プレーヤーを握った。

 

 もう一度再生しようとした。

 けれど、画面は暗いままだった。電源ボタンを押しても、反応しない。

 

 充電が切れたのかもしれない。

 

 でも、ユズは知っていた。

 さっきまで、たしかに聞こえていた。

 

 鈴の音が。

 

 夜は、少しずつ家の外に降りてきた。

 

 窓ガラスに映る部屋が濃くなる。カーテンの向こうで、電柱の影が伸びる。隣の家の明かりがついて、道路の端に細い光が落ちる。

 

 ユズは夕飯を食べ、お父さんと少しだけ話をした。

 

「学校はどうだった」

 

「普通だった」

 

「そうか」

 

 それだけだった。

 

 お父さんはそれ以上聞かなかった。

 ユズも、机の落書きのことは言わなかった。

 紙くずのことも、笑い声のことも、鈴の音のことも言わなかった。

 

 言ったら、心配される。

 言ったら、止められる。

 言ったら、自分でも気のせいだと思わなければならなくなる。

 

 夜、自分の部屋に戻ったユズは、音楽プレーヤーを机の上に置いた。

 

 充電器につないでも、画面はすぐには光らなかった。しばらく待つと、小さく電池のマークだけが浮かび、また消えた。

 

 ユズはベッドに座った。

 

 部屋の電気はついている。

 廊下にも明かりがある。

 お父さんは下の部屋にいる。

 

 怖いことなんて、何もないはずだった。

 

 それでも、ユズは玄関の方が気になって仕方なかった。

 

 廃ビルの方角。

 

 そこに何があるのか、ユズは知っている。

 行ってはいけない場所だとも分かっている。

 もう終わったはずの場所。

 もう戻らなくていいはずの場所。

 

 けれど、音楽の奥で聞こえた鈴の音は、そこから届いた気がした。

 

 ユズは立ち上がった。

 

 階段を下りる。

 一段ずつ、足音が鳴る。

 

 とん。

 とん。

 とん。

 

 朝と同じ音。

 でも、夜の階段では違って聞こえた。

 

 玄関まで来ると、家の中の明かりが背中にあった。ドアの向こうは暗い。すりガラスの向こうに、外灯のぼやけた光がにじんでいる。

 

 ユズは靴を履かなかった。

 

 ただ、ドアの前に立った。

 

 ドアノブに手をかける。

 金属は冷たかった。

 

 開けない。

 

 今日は、まだ開けない。

 

 そう思っているのに、手は離れなかった。

 

 家の中の音が遠くなる。

 

 冷蔵庫の低い音。時計の針。お父さんがページをめくる音。

 ぜんぶが、少しずつ薄くなっていく。

 

 その奥で。

 

 ちりん。

 

 鈴の音がした。

 

 ドアの向こうでは、夜が黙って立っていた。

 

 ユズは小さく、ほんとうに小さくつぶやいた。

 

「……おねえちゃん」

 

 返事はなかった。

 

 ただ、玄関のすりガラスの下の方に、黒い影が一瞬だけ通った。

 

 人の足より細く、犬より低く、虫より大きい何か。

 

 ユズは息を止めた。

 

 影はすぐに消えた。

 

 それきり、何も起こらなかった。

 鈴も聞こえなかった。

 ドアも揺れなかった。

 

 家の中の音が、少しずつ戻ってくる。冷蔵庫の音。時計の針。遠くの車。お父さんの咳払い。

 

 ユズはゆっくりとドアノブから手を離した。

 

 今日は、まだ行かない。

 

 でも、明日は分からない。

 

 階段を上がり、自分の部屋へ戻ると、机の上の音楽プレーヤーが小さく光っていた。

 

 画面には曲名ではなく、白い砂嵐のような点が浮かんでいた。細かな点は、ゆっくり集まり、丸い形を作りかける。

 

 鈴に似ていた。

 

 ユズが一歩近づくと、画面はふっと暗くなった。

 

 部屋には、もう何の音もなかった。

 

 ユズは音楽プレーヤーを両手で包み、胸に抱いた。

 硬くて、冷たい。

 でも、たしかにここにある。

 

 窓の外では、夜が町を覆っていた。

 

 昼間は普通だった道も、学校も、公園も、自販機も、今は別の顔をしている。黒い顔。静かな顔。何も言わず、ただ待っている顔。

 

 ユズは布団に入った。

 

 目を閉じても、鈴の音が耳の奥に残っていた。

 

 ちりん。

 

 もうないはずの音。

 返したはずの音。

 それでも、どこかで聞こえている音。

 

 お姉ちゃんがいない日常は、今日も終わった。

 

 けれど夜は、終わっていなかった。





ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
本作は初投稿作品となりますので、拙い部分もあるかと思いますが、少しでも楽しんでいただけていれば嬉しいです。
本編後のユズがもう一度夜へ向かう姿を、できるだけ静かに、そして切なく描いていければと思っています。
手を離したあの夜は終わったはずなのに、ユズの中ではまだ続いている。
そんな想いを大切にしながら、これから少しずつ、あの夜の続きを描いていきます。
次回も、ユズが向かう夜の先を、一緒に辿っていただければ嬉しいです。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。