夜のむこうの帰り道 作:とーすと
森から帰ったあの日、ユズは夜を越えた。けれど、お姉ちゃんは帰ってこなかった。
これは、原作本編のその後、手を離したあの夜へ、ユズがもう一度向かうお話です。
原作の静けさや怖さ、切なさを大切にしながら描いていきます。夜のむこうへ続く帰り道を、一緒に歩いていただければ嬉しいです。
朝は、何事もなかったみたいに来る。
カーテンのすきまから、薄い光が部屋に差し込んでいた。夜のあいだ黒く沈んでいた机も、椅子も、床に置いたままのランドセルも、朝の光に触れると、ただそこにあるだけのものに戻ってしまう。
窓の外では、どこかの家の雨戸が開く音がした。遠くで車が通りすぎ、少し遅れて、鳥の声が聞こえた。
ユズは布団の中で目を開けたまま、しばらく天井を見ていた。
白い天井。
細い影。
部屋のすみで止まっている空気。
起きなきゃ、と思った。
けれど、そう思っただけで、体は動かなかった。
台所の方から、お皿の触れ合う音がした。お父さんが朝ごはんの支度をしているのだと思う。前よりも少しだけ、物音が小さくなった気がする。コップを置く音も、引き出しを閉める音も、まるで家のどこかで眠っているものを起こさないように、そっとしていた。
家の中には、ちゃんと音がある。
蛇口から水が落ちる音。
食器が重なる音。
廊下を歩く足音。
外を走る車の音。
けれど、ひとつだけ、もう聞こえない音があった。
ちりん、と鳴るはずの音。
ユズは、枕元へ手を伸ばした。
指先が布団の上を探る。
何もなかった。
分かっていた。
そこに鈴はない。
小さくて、冷たくて、赤い紐がついた鈴。握ると手のひらに硬い感触が残って、少し振ると、細い音がした。あの音を聞くと、怖い夜の中でも、自分がひとりではないような気がした。
でも、もうない。
返したから。
返さなければ、いけなかったから。
ユズは空っぽの場所を、指先でそっとなぞった。そこに何かの形が残っている気がした。鈴の丸み。紐のざらつき。手の中で揺れる、あの小さな重さ。
ないものなのに、手だけが覚えていた。
ちりん。
鳴った気がして、ユズは息を止めた。
でも、部屋は静かだった。
窓の外で、もう一度、鳥が鳴いた。台所からは、お父さんが小さく咳払いをする音がした。朝はちゃんと続いている。ユズが動かなくても、世界は勝手に進んでいく。
ユズだけが、置いていかれているみたいだった。
布団から出ると、足の裏に床の冷たさが伝わった。夜の地面よりは、ずっとやさしい冷たさだった。それでも、少しだけ身がすくむ。
足元の下に、何かがいる。
そう思ってしまう感覚。
ユズは首を振って、机の方を見た。
そこには、小さな音楽プレーヤーが置いてあった。
お姉ちゃんのものだった。
角には細かな傷があり、画面の端には薄いひびが入っている。イヤホンのコードは、きれいに巻いたはずなのに、いつも同じところで絡まってしまう。ユズはそれを手に取って、親指で画面をなぞった。
鈴とは違う。
これは、まだここにある。
返さなかったもの。
返せなかったもの。
電源ボタンを押すと、小さな画面が少し遅れて光った。ぼんやりとした白い明かりの中に、最後に止まっていた曲の題名が浮かぶ。
ユズは再生ボタンに指を置いた。
押せば、音が流れる。
お姉ちゃんが聴いていた音。
お姉ちゃんが、この家にいて、この町を歩いて、この世界にいたときの音。
でも、ユズは押せなかった。
音楽が流れたら、思い出してしまう。
隣にいたこと。
少し前を歩く背中。
振り返って、名前を呼んでくれた声。
もう、どこにもいないこと。
ユズは音楽プレーヤーを両手で包んだ。硬くて、冷たくて、少しだけ重かった。中にはたくさんの音が入っているはずなのに、今は何も流れていない。
鈴の音は、もうない。
でも、お姉ちゃんが残した音だけは、まだここにある。
それがうれしいのか、つらいのか、ユズには分からなかった。
部屋の外から、お父さんの声がした。
「ユズ、起きてるか」
ユズは音楽プレーヤーを机に戻し、少しだけ間を置いてから返事をした。
「……うん」
自分の声は、思ったより小さかった。
廊下に出ると、朝の匂いがした。焼いたパンの匂い。味噌汁の湯気。洗面所の石けんの匂い。どれも昨日と同じで、前と同じで、何も変わっていないように思える。
それなのに、階段の途中で、ユズは足を止めた。
前なら、ここで足音がもうひとつ聞こえた気がした。
先に降りていく音。
後ろから追い越していく音。
急いでいるときに、少しだけ大きくなる音。
今は、ユズの足音だけだった。
とん。
とん。
とん。
一段ずつ降りるたびに、その音が家の中で小さく響いた。
台所では、お父さんが食卓に皿を並べていた。ユズを見ると、少しだけ笑った。その笑い方は、前よりも下手になっていた。
「おはよう」
「……おはよう」
テーブルには、二人分の朝ごはんが置かれていた。
二人分。
それを見た瞬間、ユズは胸の奥がきゅっと痛くなるのを感じた。けれど、何も言わなかった。お父さんも、何も言わなかった。
焼いたパンと、少し冷めかけた目玉焼き。湯気の立つ味噌汁。小さな皿にのった漬物。
お父さんは向かいの席に座って、新聞を広げようとして、すぐにやめた。紙のこすれる音が、今の家には大きすぎると思ったのかもしれない。
「学校、行けそうか」
お父さんが聞いた。
声はいつもと同じにしようとしていた。でも、少しだけ低かった。朝の光が食卓に落ちて、湯気の向こうでお父さんの顔をぼやけさせている。
ユズはパンの端を見つめたまま、うなずいた。
「うん」
「無理はしなくていいからな」
「うん」
それ以上、会話は続かなかった。
お父さんは何か言いたそうにしていた。
ユズも、何か言わなければいけない気がしていた。
けれど、二人の間には、三人分だったはずの空白がひとつ置かれていた。そこにはもう皿も箸もない。椅子も引かれていない。それでも、何もないその場所を見ないようにするだけで、朝ごはんは少しだけ難しくなった。
ユズは味噌汁を飲んだ。
温かい。
温かいものが喉を通っていくのに、胸の奥は冷たいままだった。
学校へ行く準備をしている間、ユズは何度も机の上を見た。
音楽プレーヤーは、そこにあった。
小さくて、傷だらけで、もう誰かの手の中に戻ることのないもの。
ランドセルに入れようとして、やめた。学校に持っていくものではないと思った。けれど置いていくのも怖かった。置いていった間に、なくなってしまう気がした。
鈴のように。
ユズはしばらく迷ってから、音楽プレーヤーをハンカチで包んだ。そして、ランドセルの奥ではなく、上着のポケットに入れた。
ポケットの中に、硬い四角が触れる。
それだけで、少しだけ息がしやすくなった。
「いってきます」
玄関でそう言うと、お父さんが台所から顔を出した。
「いってらっしゃい。気をつけてな」
気をつけて。
その言葉に、ユズは一瞬だけ固まった。
何に気をつければいいのか。
車。知らない人。転ばないこと。忘れ物。
昼の町なら、それでよかった。
でもユズは、夜の町を知っている。
曲がり角の向こうに立っているもの。
側溝のすきまから覗くもの。
電柱の影に混じるもの。
見えてはいけないのに、見えてしまうもの。
それらは朝にはいない。
少なくとも、いないふりをしている。
ユズは小さくうなずいた。
「うん」
ドアを開けると、朝の空気が入ってきた。
夜の空気とは違った。土の匂いもしない。濡れた影の匂いもしない。太陽の光を含んだ、少し乾いた匂いだった。
外に出る。
通学路は、いつもと同じ顔をしていた。
電柱が並んでいる。カーブミラーが朝の光を受けて白く光っている。自販機の前には、空き缶がひとつ転がっていた。側溝のふたのすきまには、小さな草が生えている。
何も怖くない。
そう思おうとして、ユズは足元を見た。
側溝の暗がりは、昼でも少し黒かった。
そこだけ、夜が取り残されているみたいだった。
ユズは視線を外し、少し早足で歩いた。
登校中の子どもたちが前を歩いている。誰かが笑った。ランドセルにつけたキーホルダーが揺れて、かちゃかちゃと音を立てている。道路の向こうでは、おばあさんが犬の散歩をしていた。犬はユズの方を一度見て、すぐにそっぽを向いた。
昼間の町は、やさしいふりをする。
けれどユズには、その下にもう一枚、薄い皮のような夜が張りついているのが分かった。明るい道の下に、暗い道が重なっている。電柱の影の下に、別の影が眠っている。自販機の光の奥に、赤い目のようなものがまだ閉じている。
学校に着くと、チャイムが鳴った。
大きな音だった。
ユズは肩を少し震わせた。
教室の中は、もうざわざわしていた。ランドセルを机にかける音。椅子を引く音。誰かが笑う声。黒板の前でふざけている子の声。
ユズが教室に入ると、そのざわめきが少しだけ変わった。
ほんの少しだけ、音が低くなる。
誰かがユズを見た。
すぐに目をそらした。
別の誰かが、隣の子に何かを耳打ちした。
くす、と小さな笑い声がした。
ユズは聞こえないふりをして、自分の席へ向かった。
机の上には、昨日はなかった落書きがあった。
鉛筆で薄く、けれど消しきれないように、机の端に文字が書かれている。
――うそつき。
ユズは、しばらくそれを見つめた。
手を伸ばして、指でこすった。黒い線は少し薄くなったけれど、完全には消えなかった。爪の先が机に当たり、かり、と小さな音がした。
その音が、なぜかとても大きく聞こえた。
「先生来るよ」
誰かが言った。
それはユズに向けた言葉ではなかった。
ユズの横を通りすぎて、別の誰かへ向かった言葉だった。
ユズは何も言わず、椅子に座った。
椅子の脚が床をこする。
ぎい。
その音に、近くの席の子がわざとらしく振り返った。
「うるさ」
小さな声だった。
でも、ユズには聞こえた。
ユズは唇を結び、ランドセルから教科書を出した。
授業が始まった。
チョークが黒板をこする音。教科書をめくる音。鉛筆が紙の上を走る音。誰かが小さく咳をする音。校庭から、体育の笛の音が聞こえる。
音がたくさんある。
そのどれもが、ユズの周りを通りすぎていく。
でも、ユズの中には入ってこなかった。
先生が黒板に問題を書いている間、後ろの席から小さく丸めた紙が飛んできた。
紙はユズの背中に当たって、床に落ちた。
ユズは振り返らなかった。
拾わなかった。
拾えば、笑われる。
振り返れば、もっと笑われる。
だから、見なかったことにした。
でも、床に落ちた紙の白さだけが、視界の端にずっと残っていた。
先生が出席を取り始めた。
名前がひとつずつ呼ばれていく。
呼ばれれば、返事をする。
ここにいる、と伝える。
「ユズさん」
ユズは少し遅れて顔を上げた。
「……はい」
先生は一瞬だけユズを見た。何かに気づいたような顔をしたが、すぐに次の名前を呼んだ。
紙は、まだ床に落ちていた。
休み時間になっても、ユズは席を立たなかった。
教室の後ろでは、何人かが消しゴムを投げ合って遊んでいた。廊下では走る足音がして、先生に注意される声が聞こえた。
ユズはポケットの上から、音楽プレーヤーを押さえた。
教室の中には、音がたくさんある。
でも、ユズのための音はひとつもなかった。
誰かが名前を呼ばれる。
誰かが返事をする。
誰かが笑う。
ユズの名前は、呼ばれない。
呼ばれるときは、たいてい嫌なときだけだった。
だからユズは、音楽プレーヤーの中に残っている音を思い出した。
お姉ちゃんが聴いていた音。
お姉ちゃんだけが知っていた音。
ユズを笑わない音。
再生ボタンを押せば、そこにはまだ、お姉ちゃんの時間が残っているかもしれない。
でも、ここでは押せなかった。
この教室で音を流したら、お姉ちゃんが残してくれたものまで、みんなの笑い声に混じってしまう気がした。
だからユズは、ポケットの中の硬い感触だけを確かめた。
中に音が残っている。
まだ消えていない。
それだけでよかった。
四時間目が終わると、給食の時間になった。
教室の中が急に騒がしくなる。机を動かす音。椅子を引く音。給食当番が白い帽子をかぶって、廊下へ出ていく足音。誰かが「今日カレー?」と聞いて、別の誰かが「ちがうよ」と笑う。
ユズは、自分の机に手を置いたまま、少しだけ待った。
みんなが机を動かして、班の形にしていく。
がたがた。
ぎい。
どん。
その音が、教室の床を震わせる。
ユズの机だけが、少し遅れて残った。
前の席の子が机を引いた。隣の子も動かした。けれど、ユズの机には誰も触れなかった。班の形はできているのに、そこにユズの机を入れる場所だけが、少し狭くなっている。
ユズは自分で机を押した。
ぎぎ、と脚が床をこすった。
近くの子が、嫌そうに椅子を引いた。
「せまい」
小さな声だった。
ユズは何も言わず、机を少しだけ戻した。
すると今度は、班の輪からほんの少し外れた形になった。
給食のトレーが配られる。
パン。
スープ。
小さなおかず。
牛乳。
いつもと同じ給食だった。
けれど、ユズのトレーが机に置かれたとき、牛乳のパックだけが少しへこんでいた。誰かがわざとそうしたのか、たまたまなのかは分からない。
分からないことにしておいた方が、楽だった。
「いただきます」
教室中の声がそろった。
ユズも、少し遅れて口を動かした。
「……いただきます」
スプーンが食器に当たる音がする。
牛乳のストローをさす音がする。
誰かが笑う。
先生が「こぼさないように」と言う。
音がたくさんある。
でも、ユズのところだけ、少し空いていた。
誰かが楽しそうに話している。
休み時間の遊びのこと。
昨日見たテレビのこと。
先生に見つからないように消しゴムを飛ばしたこと。
ユズはスープをすくった。
湯気が上がる。
口に入れると、温かかった。
朝の味噌汁と同じで、温かいのに、胸の奥は冷たいままだった。
ふいに、向かいの子がユズの机の端を見た。
朝、消しきれなかった落書きの跡。
――うそつき。
その子は何も言わなかった。
ただ、隣の子の袖を引いて、机の端を指さした。
二人は顔を近づけて、小さく笑った。
ユズはスプーンを握ったまま、目を伏せた。
食べなきゃ。
そう思うのに、喉が動かなかった。
給食のにおいが、急に遠くなる。教室のざわめきも、誰かの笑い声も、食器の音も、全部が薄い膜の向こうにあるみたいだった。
ユズはスプーンを置いた。
かちゃん。
小さな音だったのに、近くの子がちらりとこちらを見る。
ユズはあわてて、もう一度スプーンを持った。
食べているふりをした。
それでも、スープは少しも減らなかった。
夕方、学校が終わった。
帰り道は、朝と同じ道だった。
でも、朝とは違う顔をしていた。
太陽が低くなり、電柱の影が長く伸びている。カーブミラーには、赤くなった空と、曲がり角の向こうの細い道が映っていた。公園のブランコが、誰も乗っていないのに少しだけ揺れている。
風かもしれない。
ユズはそう思った。
そう思いたかった。
自販機の前を通ると、機械の低い音が聞こえた。ぶうん、という小さな震え。昼間には気にならなかったその音が、夕方には妙に大きく聞こえる。
ポケットの中の音楽プレーヤーが、指に当たった。
ユズは立ち止まり、取り出しかけて、やめた。
ここで聴いてはいけない気がした。
夕方の道でお姉ちゃんの音を聴いたら、そのまま夜へ連れていかれる気がした。
家に帰ると、お父さんはまだ帰っていなかった。
玄関は静かだった。靴を脱ぐ音だけが、たたきに小さく響く。ユズは廊下を歩き、部屋へ入った。
部屋は朝と同じだった。
机。椅子。ランドセル。カーテン。布団。
でも、窓の外の色だけが違った。
夕方の光が、部屋の中を薄い橙色に染めている。机の上に音楽プレーヤーを置くと、その画面にも夕焼けが小さく映った。
ユズはしばらく、それを見ていた。
そして、ゆっくりと電源を入れた。
画面が光る。
最後に止まっていた曲名。
お姉ちゃんが最後に聴いていたかもしれない曲。
ユズは再生ボタンに指を置いた。
押せない。
朝と同じだった。
でも、朝とは少し違った。
家の中は静かで、外は夕方で、もうすぐ夜が来る。
このまま何も聞かずに夜を迎えたら、また何かを失ってしまう気がした。
ユズは目を閉じた。
お姉ちゃん。
声には出さなかった。
そして、ボタンを押した。
小さな音が流れた。
最初は、思っていたより普通だった。
軽いリズム。やわらかいメロディ。少し古い音質。イヤホンをつけていないから、音は小さなスピーカーから頼りなくこぼれてくる。
お姉ちゃんが、これを聴いていた。
そう思った瞬間、ユズの目に涙がにじんだ。
音楽は、部屋の中をゆっくり満たしていった。空っぽだった場所に、誰かの気配が戻ってくるようだった。けれど、それはお姉ちゃんそのものではない。お姉ちゃんがいた跡だった。
ユズは唇を噛んだ。
曲が半分ほど進んだところで、音が乱れた。
ざり。
ユズは顔を上げた。
画面を見る。曲は再生されたままだった。
ざざ。
ノイズが混じる。
古いからかもしれない。
壊れているのかもしれない。
そう思おうとした。
けれど、そのノイズの奥で、細い音がした。
ちりん。
ユズの指が止まった。
音楽の向こう。
雑音の奥。
遠い場所で、小さな鈴が鳴ったような音。
ありえない。
鈴はもうない。
返した。
返したはずだった。
ユズは音量を上げた。
ざり、ざざ、というノイズが大きくなる。メロディは歪み、遠くなり、別の場所から聞こえているようになる。
その奥で、もう一度。
ちりん。
今度は、はっきり聞こえた。
「……おねえちゃん?」
声に出してしまってから、ユズは息を止めた。
音楽が止まった。
画面には何も触れていない。
それなのに、再生マークが消えていた。
部屋の中が静かになる。
夕方の光は、いつの間にか薄くなっていた。窓の外で、空の色が青から灰色へ変わりかけている。遠くでカラスが鳴いた。その声が、思ったより低く聞こえた。
ユズは音楽プレーヤーを握った。
もう一度再生しようとした。
けれど、画面は暗いままだった。電源ボタンを押しても、反応しない。
充電が切れたのかもしれない。
でも、ユズは知っていた。
さっきまで、たしかに聞こえていた。
鈴の音が。
夜は、少しずつ家の外に降りてきた。
窓ガラスに映る部屋が濃くなる。カーテンの向こうで、電柱の影が伸びる。隣の家の明かりがついて、道路の端に細い光が落ちる。
ユズは夕飯を食べ、お父さんと少しだけ話をした。
「学校はどうだった」
「普通だった」
「そうか」
それだけだった。
お父さんはそれ以上聞かなかった。
ユズも、机の落書きのことは言わなかった。
紙くずのことも、笑い声のことも、鈴の音のことも言わなかった。
言ったら、心配される。
言ったら、止められる。
言ったら、自分でも気のせいだと思わなければならなくなる。
夜、自分の部屋に戻ったユズは、音楽プレーヤーを机の上に置いた。
充電器につないでも、画面はすぐには光らなかった。しばらく待つと、小さく電池のマークだけが浮かび、また消えた。
ユズはベッドに座った。
部屋の電気はついている。
廊下にも明かりがある。
お父さんは下の部屋にいる。
怖いことなんて、何もないはずだった。
それでも、ユズは玄関の方が気になって仕方なかった。
廃ビルの方角。
そこに何があるのか、ユズは知っている。
行ってはいけない場所だとも分かっている。
もう終わったはずの場所。
もう戻らなくていいはずの場所。
けれど、音楽の奥で聞こえた鈴の音は、そこから届いた気がした。
ユズは立ち上がった。
階段を下りる。
一段ずつ、足音が鳴る。
とん。
とん。
とん。
朝と同じ音。
でも、夜の階段では違って聞こえた。
玄関まで来ると、家の中の明かりが背中にあった。ドアの向こうは暗い。すりガラスの向こうに、外灯のぼやけた光がにじんでいる。
ユズは靴を履かなかった。
ただ、ドアの前に立った。
ドアノブに手をかける。
金属は冷たかった。
開けない。
今日は、まだ開けない。
そう思っているのに、手は離れなかった。
家の中の音が遠くなる。
冷蔵庫の低い音。時計の針。お父さんがページをめくる音。
ぜんぶが、少しずつ薄くなっていく。
その奥で。
ちりん。
鈴の音がした。
ドアの向こうでは、夜が黙って立っていた。
ユズは小さく、ほんとうに小さくつぶやいた。
「……おねえちゃん」
返事はなかった。
ただ、玄関のすりガラスの下の方に、黒い影が一瞬だけ通った。
人の足より細く、犬より低く、虫より大きい何か。
ユズは息を止めた。
影はすぐに消えた。
それきり、何も起こらなかった。
鈴も聞こえなかった。
ドアも揺れなかった。
家の中の音が、少しずつ戻ってくる。冷蔵庫の音。時計の針。遠くの車。お父さんの咳払い。
ユズはゆっくりとドアノブから手を離した。
今日は、まだ行かない。
でも、明日は分からない。
階段を上がり、自分の部屋へ戻ると、机の上の音楽プレーヤーが小さく光っていた。
画面には曲名ではなく、白い砂嵐のような点が浮かんでいた。細かな点は、ゆっくり集まり、丸い形を作りかける。
鈴に似ていた。
ユズが一歩近づくと、画面はふっと暗くなった。
部屋には、もう何の音もなかった。
ユズは音楽プレーヤーを両手で包み、胸に抱いた。
硬くて、冷たい。
でも、たしかにここにある。
窓の外では、夜が町を覆っていた。
昼間は普通だった道も、学校も、公園も、自販機も、今は別の顔をしている。黒い顔。静かな顔。何も言わず、ただ待っている顔。
ユズは布団に入った。
目を閉じても、鈴の音が耳の奥に残っていた。
ちりん。
もうないはずの音。
返したはずの音。
それでも、どこかで聞こえている音。
お姉ちゃんがいない日常は、今日も終わった。
けれど夜は、終わっていなかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
本作は初投稿作品となりますので、拙い部分もあるかと思いますが、少しでも楽しんでいただけていれば嬉しいです。
本編後のユズがもう一度夜へ向かう姿を、できるだけ静かに、そして切なく描いていければと思っています。
手を離したあの夜は終わったはずなのに、ユズの中ではまだ続いている。
そんな想いを大切にしながら、これから少しずつ、あの夜の続きを描いていきます。
次回も、ユズが向かう夜の先を、一緒に辿っていただければ嬉しいです。