夜廻三 夜のむこうの帰り道 作:とーすと
個人的な所感ですが、夜廻シリーズって、進むごとに「失うもの」がどんどん重くなっていく印象があります。
この容赦がなくなっていく感じは印象に残っている方も多いんじゃないでしょうか。
私は夜廻シリーズの動画を見て、深夜廻が一番衝撃的でした。
次の日も、朝は来た。
けれどユズには、それが昨日と同じ朝なのか、少しだけ違う朝なのか、よく分からなかった。
布団から起きる。
顔を洗う。
朝ごはんを食べる。
学校へ行く。
誰とも目を合わせないようにして、席に座る。
机の端に残った薄い文字を、袖で隠す。
そうやって一日を過ごしている間も、ユズの耳の奥には、昨日の夜に聞いた音が残っていた。
ちりん。
もうないはずの鈴の音。
返したはずの音。
お姉ちゃんのところへ続いているかもしれない音。
家へ帰るころには、空の端が薄く赤くなっていた。昨日と同じ道。昨日と同じ電柱。昨日と同じ自販機。カーブミラーも、側溝の黒いすきまも、昼間の顔をしてそこにあった。
けれどユズは、そこに夜が重なっていることを知っている。
夜になれば、電柱の影は細く伸びる。
側溝のすきまは、もっと深くなる。
カーブミラーには、映ってはいけないものが映る。
そして、廃ビルの方角だけが、ほかの道より暗くなる。
ユズは家に帰ると、まっすぐ自分の部屋へ行った。
机の上には、音楽プレーヤーがあった。
充電器につながったまま、小さな画面は暗く沈んでいる。昨日の夜、白い砂嵐のような点が浮かび、鈴に似た形を作った画面。ユズはそっと手を伸ばして、電源ボタンを押した。
画面がつく。
そこには、普通に曲名が表示されていた。
何もおかしくない。
昨日のことは、夢だったのかもしれない。
疲れていたから、変なものを見ただけかもしれない。
鈴の音だって、本当は外の音を聞き間違えただけかもしれない。
ユズはそう思おうとした。
けれど、指は再生ボタンの上で止まったままだった。
聴けば、また何かが分かるかもしれない。
聴けば、もう一度あの音が聞こえるかもしれない。
でも、もし聞こえなかったら。
昨日の鈴の音が本当に気のせいだったら。
その方が、怖かった。
ユズは音楽プレーヤーを机の上に戻した。
外では、夕方が少しずつ夜に変わっていく。窓の向こうの空は青を失い、建物の輪郭が黒く固まりはじめていた。遠くでカラスが鳴く。その声が途切れたあと、町は急に静かになった。
ユズは引き出しを開けた。
小さな懐中電灯。
ハンカチ。
使いかけの絆創膏。
拾ったまま残していた、丸い石。
どれも心もとなかった。
夜の町を歩くには、あまりにも小さすぎるものばかりだった。
それでも、ユズは懐中電灯を手に取った。
次に、音楽プレーヤーをハンカチで包む。ポケットに入れると、布越しに硬い角が触れた。
鈴はない。
どこを探しても、もうない。
だからこそ、行かなければならない気がした。
昨日、ドアの向こうで聞こえた音。
廃ビルの方から届いたように思えた、あの細い音。
あれが本当にお姉ちゃんに関係しているのなら。
あの場所に、まだ何かが残っているのなら。
ユズは確かめたかった。
夜が降りてきた。
部屋の電気をつけたままでも、窓の外の暗さは消えなかった。ガラスに映った自分の顔が、少し知らない子みたいに見える。
ユズはランドセルを机の横に置き、懐中電灯を握った。
廊下に出る。
家の中は明るかった。台所の方から、食器が触れ合う小さな音がする。テレビの低い声も聞こえる。ここはまだ、人のいる場所だった。
けれど玄関の方だけは、少し暗かった。
ユズは階段を下りた。
とん。
とん。
とん。
足音が、昨日より大きく聞こえた。
玄関の前に立つ。靴を履く。紐を結ぶ。指が震えて、一度ほどけた。もう一度、ゆっくり結び直す。
ドアの向こうは夜だった。
昨日、開けられなかった場所。
昨日、鈴の音がした場所。
ユズは、少しだけドアを閉めかけた。
やっぱり、だめだ。
そう思った。
外へ出てはいけない。
夜にひとりで歩いてはいけない。
あの場所へ、もう一度行ってはいけない。
分かっていることばかりだった。
台所の方から、水の流れる音が聞こえた。食器が触れ合う小さな音。家の中には、まだ人の暮らす音がある。
ここにいれば、朝は来る。
布団に入って、目を閉じて、何も聞こえなかったふりをすればいい。
けれど、ユズは靴を履いていた。
懐中電灯を握っていた。
ポケットには、ハンカチに包んだ音楽プレーヤーが入っていた。
昨日、ドアの向こうで聞こえた音。
ちりん。
あれを、なかったことにはできなかった。
「……行かなきゃ」
ユズは、小さく言った。
声は玄関の壁にぶつかって、すぐに消えた。
ドアノブを握る手に、少しだけ力を入れる。
金属は、家の中にあるものなのに、外の夜みたいに冷たかった。
開ければ、もう戻れない気がした。
でも、開けなければ、ずっとここで止まったままになる気もした。
ユズは息を吸った。
そして、ドアを開けた。
夜の空気が、家の中へ入ってきた。
冷たくて、湿っていて、どこか土の匂いがした。玄関の明かりはついているのに、ドアの向こうだけが別の場所みたいに暗かった。
外に出ると、家の明かりが背中に当たった。あたたかい光だった。振り返れば、そこには玄関があって、明るい廊下があって、いつもの家がある。
けれど、ユズは前を向いた。
ドアが閉まる。
ぱたん。
その音は、思ったより軽かった。
でも、家の中と外を分けるには十分だった。
住宅街は、静かだった。
街灯はついている。けれど、明るいというより、暗さの中に白い穴が空いているように見えた。電柱の影は細く長く伸びて、道路の上で曲がっている。側溝のふたのすきまからは、昼間には感じなかった湿った匂いが上がっていた。
ユズは懐中電灯をつけた。
白い光が、足元を丸く照らす。
その丸い光の外側では、何かがじっと待っている気がした。
「……大丈夫」
ユズは小さく言った。
けれど、誰に向けた言葉なのか分からなかった。
歩き出す。
こつ。
こつ。
自分の足音が、夜の中でやけに大きい。昼間なら車の音や人の声に混じって消えるはずの音が、今はひとつずつ道路に落ちていく。
角を曲がると、自販機が見えた。
白い明かりを出している。
けれど、その明かりはあたたかくなかった。中に並んだ缶の色だけが妙にはっきりしていて、まるで誰かの目が縦に並んでいるみたいだった。
ユズは自販機の前を通りすぎようとした。
そのとき、機械の中から低い音がした。
ぶうん。
いつもの動作音のはずだった。
でも、その奥に、別の音が混じった。
ざり。
ユズは立ち止まった。
ポケットの中で、音楽プレーヤーがかすかに震えている。
「……なに?」
取り出すと、ハンカチ越しに画面が光っていた。電源を入れていないのに、白い砂嵐のような点が浮かんでいる。
ざり。
ざざ。
小さなスピーカーから、音が漏れていた。
音楽ではない。
言葉でもない。
壊れたラジオみたいなノイズの奥で、細い音がした。
ちりん。
ユズは顔を上げた。
音は、廃ビルの方角から聞こえた気がした。
「……おねえちゃん?」
返事はなかった。
かわりに、道の先で街灯が一つ、ちかちかと点滅した。
一度。
二度。
三度。
それから、ふっと消える。
道が少し暗くなった。
ユズは音楽プレーヤーを握りしめた。画面の白い点は、いつの間にか消えている。何度ボタンを押しても反応しない。ただの冷たい機械に戻っていた。
それでも、ユズはもう戻れなかった。
廃ビルの方へ進む。
道は、少しずつ細くなっていった。
両側には古い塀が続いている。ブロックのすきまには黒い苔があり、雨が降っていないのに湿っていた。電柱の明かりはところどころ切れかけていて、光の届かない場所が、道の上に黒い水たまりみたいに残っている。
ユズは、懐中電灯の光を足元だけに向けた。
遠くを照らしたくなかった。
照らしたら、そこに何かが立っている気がしたから。
電柱の下に、細長い影があった。
人の形に似ていた。
でも、人よりもずっと首が長い。腕はだらりと下がっていて、指先が道路に届きそうだった。
ユズは息を止めた。
影は動かない。
街灯のせいで、そう見えているだけかもしれない。電線の影かもしれない。塀の汚れかもしれない。
そう思おうとした。
けれど、ユズが一歩進むと、その影の首だけが、少しだけこちらへ傾いた。
「……見てない」
ユズは小さく言った。
自分に言い聞かせるように。
「見てないから」
懐中電灯の光を地面へ落とし、影の横を通りすぎる。
背中が冷たかった。
追いかけてくる足音はしない。
でも、振り返ったら、さっきより近い場所にいる気がした。
道の端で、側溝のふたが少しだけずれていた。
すきまの奥は真っ黒だった。昼間なら水の音が聞こえるだけの場所なのに、今はそこだけ深い穴みたいに見える。
ユズが通りすぎようとしたとき、すきまの奥で白いものが動いた。
指だった。
細い指が、一本だけ、側溝の中から出ている。濡れていて、爪の先が黒い。指は道路の上を探るように、ゆっくり動いた。
かり。
爪がコンクリートをひっかく音がした。
ユズは足を止めなかった。
止まったら、つかまれる。
そんな気がした。
かり。
かり。
音は、ユズの足音に合わせるようについてくる。
こつ。
かり。
こつ。
かり。
ユズは唇を噛み、早足になった。
曲がり角に、カーブミラーがあった。
丸い鏡の中に、ユズの姿が映っている。
懐中電灯を握って、少し背中を丸めて歩く自分。
その後ろには、誰もいない。
いないはずだった。
けれど、鏡の中の道だけに、黒いものが立っていた。
背の低い、子どもみたいな影だった。顔は見えない。頭のあたりがぐずぐずと崩れていて、黒い水が垂れているように揺れていた。
ユズは鏡から目をそらした。
その瞬間、鏡の中の黒い子どもが、少しだけ近づいた気がした。
「……やだ」
声がこぼれた。
足がすくむ。けれど、止まらなかった。
止まってはいけない。
夜の町では、見たものより、見続けたものの方が近づいてくる。
ユズはそれを知っていた。
廃ビルは、もう見えていた。
住宅街の奥に、黒く沈むように立っている。周りの家にはいくつか明かりがついているのに、その建物だけはどの窓も真っ暗だった。割れた窓の穴が、いくつもこちらを向いている。
建物の前の道に、何かが集まっていた。
小さな影。
細い影。
丸い影。
どれも人の形に少しだけ似ている。けれど、どれも人ではない。電柱の根元、塀の影、側溝のふたの上。あちこちに、夜のお化けたちがじっと立っていた。
ユズを見るもの。
見ないふりをするもの。
体をゆらゆら揺らすもの。
地面に顔を近づけて、何かを探しているもの。
その中のひとつが、ユズの方へ首を向けた。
顔はなかった。
顔があるはずの場所に、暗い穴だけが開いていた。
ユズは懐中電灯を握りしめた。
「……通して」
小さな声だった。
お化けたちは答えない。
ただ、少しだけ道の端へずれた。
偶然なのかもしれないけど、通れと言っているようにも見えた。
息を吸って道を急いで通り抜けた。
そうして、ようやく廃ビルの入口の前まで来れた。
ポケットの中で、音楽プレーヤーが一度だけ震えた。
ちりん。
音は、廃ビルの奥から聞こえた。
ユズは入口を見上げた。
中は真っ暗だった。
昼間の暗さではない。
そこだけ、夜が建物の形をして立っているみたいだった。
ユズは小さく息を吸った。
そして、入口の影の中へ足を踏み入れた。
廃ビルの中は、外よりも暗かった。
入口を一歩越えただけで、背中の方にはまだ町があるはずなのに、振り返っても、もうそこには戻れない気がした。
ユズは懐中電灯を前に向けた。
白い光が、床を細く照らす。
砂。
割れたガラス。
古い紙。
黒く汚れた壁。
足元で、何かが砕けた。
ぱき。
ユズはびくっと肩を震わせた。
光を下げると、割れたガラスの破片が靴の下で小さく割れていた。
「……ごめんなさい」
誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。
廊下の奥は、懐中電灯の光を吸い込むみたいに暗かった。壁には古い染みがいくつもあり、その中のいくつかは、人の顔のようにも見えた。見ないようにして歩くと、今度は背中の方が気になった。
ざり。
自分の足音。
ざり。
少し遅れて、同じ音。
ユズは立ち止まった。
後ろの音も止まった。
「……だれか、いるの?」
返事はない。
ユズは振り返らなかった。
振り返れば、いる。
見てしまえば、そこにいることになってしまう。
そう思った。
ポケットの中の音楽プレーヤーは、もう光っていなかった。さっきまで鈴の音を聞かせていたそれは、ただの冷たい四角い機械に戻っている。
ここから先は、ひとりで行かなければならない。
ユズは懐中電灯を握り直し、奥へ進んだ。
廊下の先に、階段が見えた。
屋上へ続く階段。
祠のある場所へ続く階段。
お姉ちゃんを返してほしいと、願うための場所へ続く階段。
その一段目に、湿った土が落ちていた。
外は晴れていたはずだった。
ユズは息を止めた。
土は、まるで地面の下から染み出してきたみたいに、階段の端に黒く広がっていた。
近づくと、かすかに匂いがした。
雨のあとの土の匂いではない。
もっと深いところの匂い。
光の届かない場所に、ずっと閉じ込められていたものの匂い。
ユズは、階段を見上げた。
上は暗い。
懐中電灯の光は、途中の踊り場までしか届かなかった。
それでも、行かなければならない。
「……おねえちゃん」
名前を呼ぶと、階段の上の暗がりが、少しだけ濃くなった気がした。
返事はない。
けれど、どこか遠くで。
ちりん。
鈴の音がした。
ユズは、階段に足をかけた。
一段目。
靴の裏が、湿った土を踏んだ。
ぐに、とやわらかい感触がした。コンクリートの階段のはずなのに、そこだけ田んぼの端を踏んだみたいだった。ユズは思わず足を引きかけたけれど、すぐに止めた。
戻ったら、もう上れない気がした。
「……だいじょうぶ」
また同じ言葉を口にする。
でも、さっきより少し小さかった。
懐中電灯の光を階段の上へ向ける。白い丸い光が、壁をなぞった。壁には古いひびが入っている。そのひびの中から、黒い線のようなものが伸びていた。
根っこみたいだった。
細くて、湿っていて、壁の奥から外へ出ようとしているみたいに見える。ユズが光を当てると、黒い線は動かなかった。けれど、目を離したら少しずつ伸びてくる気がした。
ユズは、見ないようにして階段を上った。
二段。
三段。
四段。
こつ。
こつ。
こつ。
自分の足音が響く。
少し遅れて、下からもう一つ足音がした。
こつ。
ユズは止まった。
足音も止まった。
背中が冷たくなる。首の後ろに、誰かの息がかかったような気がした。振り返ってはいけない。そう思うのに、足が動かない。
下には、誰もいないはずだった。
入口からここまで、ユズはひとりで歩いてきた。電柱の下に立っていた長い影も、カーブミラーの中にいた黒い子どもも、側溝のすきまから出ていた指も、みんな外に置いてきたはずだった。
でも、廃ビルの中に入ったときから、何かがついてきている。
「……来ないで」
声は震えていた。
返事はない。
ただ、階段の下の暗がりで、何かが床をこすった。
ざり。
ユズは息をのみ、走らないように階段を上った。走ったら、後ろのものも走り出す気がした。だから、できるだけ普通に、できるだけ静かに、でもさっきより少しだけ速く足を動かす。
踊り場に着いた。
懐中電灯の光が、壁に貼られた古い紙を照らした。何かのお知らせだったのかもしれない。けれど文字は水に濡れたみたいににじんでいて、読めなかった。
紙の下に、手形があった。
小さな手形。
泥で押したような、黒い手形だった。
ユズの手より、少しだけ小さい。子どもの手みたいだった。壁に一つ。床に一つ。階段の端に、また一つ。
それは屋上へ向かって続いていた。
「……こっち、なの?」
聞いてから、ユズは自分で首を振った。
誰も答えない。
答えてくれるものなんて、ここにはいない。
神様も、きっと喋らない。
お姉ちゃんも、まだ返事をしてくれない。
それでも、手形は上へ続いている。
ユズはそれを追った。
階段を上るたび、空気が重くなっていった。息を吸うと、胸の中に湿ったものが入ってくる。土の匂いが濃くなる。廃ビルの匂いではない。雨漏りやカビの匂いでもない。
もっと下。
もっと深いところ。
地面の中にある、暗くて、冷たい場所の匂い。
ポケットの中の音楽プレーヤーに触れる。
何も反応しない。
さっきまでユズを導いていたみたいな白い砂嵐も、ノイズも、鈴の音もない。
ハンカチ越しの硬い感触だけがある。
「……ここからは、ひとりで行けってこと?」
そう言うと、階段の上で、水滴が落ちる音がした。
ぴちゃん。
ユズは光を向ける。
天井から水が落ちているわけではなかった。壁のひびから、黒い土が少しずつ滲み出している。その土が固まり、重くなり、ぽたりと床へ落ちていた。
土は、廊下の方ではなく、階段の上へ向かって点々と続いている。
ユズは唇を結んだ。
屋上までは、あと少し。
階段の先に、鉄の扉が見えた。
前にも見た扉。
けれど、こんなに遠かっただろうか。こんなに重く、黒く見えただろうか。扉のすきまから、外の夜が細い線になって漏れている。
ユズは最後の段を上った。
後ろで、また足音がした。
こつ。
さっきより近い。
ユズは振り返らず、扉に手をかけた。
冷たい。
金属の冷たさではなかった。ずっと地面の下に埋まっていた石を触ったような冷たさだった。
「……開いて」
小さく言って、力を込める。
扉は、ぎい、と音を立てて開いた。
屋上に出る。
風はなかった。
空は黒く、雲の形も分からない。町の明かりは遠くに見えたけれど、どれも薄く、ぼやけていた。さっきまで歩いていた住宅街が、ここからは知らない町みたいに見える。
屋上の床には、ところどころに土が落ちていた。
それは階段から続いて、祠の前まで伸びていた。
祠。
ユズは足を止めた。
そこにあった。
小さくて、古くて、暗い祠。前に来たときと同じように見えるのに、近づくほど胸が苦しくなる。あのとき、ここで全部が終わったのだと思った。
鈴を返した。
お姉ちゃんを失った。
夜から戻ってきた。
でも、本当は何も終わっていなかった。
ユズは祠の前に立った。
懐中電灯を下ろす。光が床に落ちる。祠の奥は暗く、何も見えない。そこに何かがいるのか、何もいないのか、ユズには分からなかった。
分からないのに、見られている気がした。
目ではないものに。
耳ではないものに。
言葉を持たない、とても大きなものに。
ユズは音楽プレーヤーを取り出した。
ハンカチを開く。小さな画面は暗いままだった。
「……これ、お姉ちゃんのです」
声がかすれた。
神様に言っているのか。
祠に言っているのか。
それとも、ここにいないお姉ちゃんに言っているのか。
ユズにも分からなかった。
「鈴は、返しました」
唇が震える。
「ちゃんと、返したから……」
そこで、言葉がつまった。
ちゃんと返した。
だから、もう何も願ってはいけないのかもしれない。
もう一度ほしいなんて、言ってはいけないのかもしれない。
でも。
でも、それでも。
ユズは両手を握った。
「おねえちゃんを」
声が小さくなる。
言ってしまったら、もう戻れない。
そう思った。
それでも、言わなければ何も始まらない気がした。
ユズは祠の奥を見つめた。
「おねえちゃんを、返してください」
屋上は静かだった。
返事はない。
風も吹かない。
祠も動かない。
空も変わらない。
ただ、沈黙だけが降りてくる。
ユズはしばらく待った。
一秒。
二秒。
もっと長く。
何も起きなかった。
「……だめ、なの?」
声にした瞬間、胸の奥が冷たくなった。
やっぱり、だめなのかもしれない。
返したものは戻らない。
失くしたものは見つからない。
終わった夜は、もう巡ってこない。
ユズは音楽プレーヤーを握りしめ、ゆっくり立ち上がろうとした。
そのとき。
足元で、ぬるり、と湿った音がした。
ユズは動きを止めた。
祠の前のコンクリートに、細いひびが入っていた。そのひびから、湿った土が滲み出している。黒くて、重そうな土。さっき階段で見たものと同じだった。
土はゆっくり広がった。
まるで、地面の下にいる何かが、息を吐いているみたいだった。
ユズは後ずさりしかけた。けれど、足が動かなかった。
土は祠の前に集まっていく。
少しずつ盛り上がる。
小さな山になる。
その山の表面が、内側から押されるように形を変えた。
丸く。
くぼんで。
下の方が少しすぼまって。
見覚えのある形に見えた。
そう思った瞬間、息が止まってしまった。
鈴の形だった。
泥でできた、小さな鈴。
赤い紐はない。金属の光もない。乾いてもいない。表面には細かなひびがあり、ところどころに小さな石が混じっている。
それでも、形だけは、確かに鈴だった。
ユズはおそるおそる手を伸ばした。
指先が触れる。
冷たい。
想像していたより、ずっと重い。土でできているのに、ただの土ではないみたいだった。手のひらにのせると、湿った感触が皮膚に残る。
ユズはそっと振った。
音はしなかった。
もう一度、振る。
鳴らない。
「……鈴、なのに」
ユズはつぶやいた。
鳴らない鈴。
あの夜に返して、ないはずの鈴のかわりに現れた、音の鳴らない鈴。
それを見ていると、胸の奥が少し痛くなった。お姉ちゃんの鈴とは違う。あの鈴ではない。あの音もしない。
でも、何かが始まってしまったことだけは分かった。
泥の鈴の表面に、細い線が浮かんだ。
最初は、ひびだと思った。
けれど違った。
線はゆっくり増えていく。丸い形。小さな四角。斜めに走る短い線。それらが集まり、浅い傷のように表面へ刻まれていく。
ユズはそれを見つめた。
「これ……」
見覚えがあった。
学校の校章に似ていた。
胸が、きゅっと縮む。
昼間の教室。
机の落書き。
床に落ちた紙。
給食のトレー。
笑い声。
昼の学校は、夜より明るい。
でも、ユズは学校のほうが苦手だった。
夜の怖さは、逃げれば消える。
けれど学校の怖さは、教室の中でずっと息をしている。
聞こえるように笑われること。
机に落書きをされること。
近づくと、話が止まること。
それは、夜とは違う怖さだった。
泥の鈴は、そこへ行けと言っているみたいだった。
神様は喋らない。
何も教えてくれない。
何をすればいいのか、どうすればお姉ちゃんに会えるのか、ひとつも言ってくれない。
それでも、ユズには分かった。
次は、学校へ行かなければならない。
そのとき、屋上の端で何かが動いた。
ユズは顔を上げた。
フェンスの向こう。
夜の暗闇の中に、誰かが立っていた。
後ろ姿だった。
背の高さ。
髪の長さ。
少しだけ傾いた肩。
ユズの喉が震えた。
「おねえちゃん……?」
その人影は答えなかった。
でも、ほんの少しだけ、こちらを振り向こうとした。
ユズは一歩踏み出した。
「待って!」
声が屋上に響いた。
次の瞬間、人影はほどけた。
服も、髪も、体も、黒い羽のようなものにばらばらになって、夜の中へ散っていく。鳥の群れみたいだった。けれど羽ばたきの音はしない。ただ黒い欠片だけが、音もなく空へ溶けていく。
ユズはフェンスの前で立ち止まった。
そこには、もう誰もいなかった。
下を見てはいけない。
そう思った。
ユズはフェンスから離れ、手の中の泥の鈴を見た。
鳴らない鈴。
でも、その内側で、ほんの少しだけ何かが震えた。
音ではなかった。
声でもなかった。
手のひらにだけ伝わる、小さな震え。
ユズは鈴を胸に抱いた。
「……行くよ」
誰に向けた言葉かは分からなかった。
お姉ちゃんに。
自分に。
それとも、何も喋らない神様に。
屋上の祠は、ただ黙っていた。
夜も黙っていた。
町の明かりは遠く、ユズの手の中だけが、ひどく冷たかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
不定期ですが、更新していきますので、よろしくお願いします。