夜廻三 夜のむこうの帰り道   作:とーすと

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夜廻シリーズを見ていると、ちょっと夜の町に出てみたくなる時があります。
でも実際に行くとなると、普通に怖くないですか?
自分はかなりビビリなので、深夜に外に出たいと思っても、夜の怖さと人間の怖さを想像してしまって、たぶん玄関を出た時点で引き返してしまいそうです。



第3話「夜の校門」

 

 朝になっても、泥の鈴は消えていなかった。

 ユズは布団の中から、机の上をじっと見ていた。

 

 昨日の夜、廃ビルの屋上で見つけたもの。

 祠の前のひびから滲み出した土が、ゆっくり形を変えてできたもの。

 赤い紐もなく、金属でもなく、振っても鳴らなかった鈴。

 

 それが、机の上にあった。

 

 夢ではなかった。

 

 昨日、泥の鈴を手にしたあと、ユズはしばらく屋上から動けなかった。

 

 祠は何も言わなかった。

 夜も何も言わなかった。

 フェンスの向こうでほどけて消えた人影も、もう戻ってこなかった。

 

 ただ、手の中の泥の鈴だけが冷たかった。

 

 帰らなきゃ、と思った。

 

 けれど、すぐには足が動かなかった。廃ビルの階段を下りれば、また暗い廊下を通らなければならない。入口の外には、さっき見た夜のお化けたちがまだいるかもしれない。電柱の下の長い影も、側溝の中の白い指も、カーブミラーの中だけにいた黒い子どもも、まだユズを待っているかもしれない。

 

 それでも、屋上にずっといることはできなかった。

 

「……帰らなきゃ」

 

 ユズは小さくつぶやいて、泥の鈴をハンカチに包んだ。

 

 階段を下りるとき、足音は一つだけだった。

 けれどユズは、最後まで振り返らなかった。

 

 廃ビルの外へ出たとき、夜の町はまだそこにあった。街灯は白く光り、自販機は低くうなり、塀の影や電柱の根元には、形になりきらない黒いものがじっとしていた。来るときよりも道は静かで、その静けさがかえって怖かった。

 

 ユズは泥の鈴をポケットの中で握りしめた。

 

 鳴らない。

 でも、冷たい。

 

 それだけが、さっき起きたことが本当だったと教えていた。

 

 家に戻ると、玄関は暗かった。

 

 音を立てないように靴を脱ぎ、階段を上がり、自分の部屋へ入った。部屋の明かりをつけると、夜の町の暗さが少しだけ遠くなった。けれど、ポケットから出した泥の鈴は、明るい部屋の中でも暗く見えた。

 

 ユズは机の上にハンカチを広げ、その上へ泥の鈴を置いた。

 

 黒っぽい湿った跡が、布にじわりと広がった。

 

 音楽プレーヤーを横に置いてみても、何も起きなかった。画面は暗いまま。ノイズもない。鈴の音もしない。

 

 けれど泥の鈴の表面には、浅い傷があった。

 

 丸い線。

 短い線。

 小さな四角。

 

 学校の校章に似ていた。

 

 昨日の夜、屋上で見たときにも、そう思った。

 暗くて、手も震えていて、はっきり見えたわけではない。けれど、見間違いだと思えるほど曖昧でもなかった。

 

 次は学校。

 

 そう分かっているのに、ユズはそれ以上考えたくなかった。

 

 昼間でも行きたくない場所。

 明るくても息がしづらい場所。

 机の端に、消しても残る文字がある場所。

 

 そこへ、夜に行かなければならない。

 

 そう思うと、体が重くなった。頭の奥がぼんやりして、布団に入っても、すぐには眠れなかった。

 

 いつ眠ったのかは、分からない。

 

 そして、朝になった。

 

 ユズは起き上がり、そっと手を伸ばした。

 

 泥の鈴は、小さなハンカチの上に置いてある。昨夜、汚れないようにと思って包んだはずなのに、ハンカチには黒っぽい湿った跡が広がっていた。

 

 乾いていない。

 

 朝の光を浴びているのに、まだ冷たそうだった。

 

 ユズは指先で触れた。

 

 ひやり、とした。

 

 土の冷たさだった。

 でも、ただの土ではなかった。

 

 手のひらにのせると、見た目よりもずっと重い。中に何かが詰まっているみたいだった。ユズは鈴を少しだけ振ってみた。

 

 音はしない。

 

 もう一度、振る。

 

 やっぱり鳴らない。

 

「……鳴らない」

 

 小さくつぶやいてから、ユズは少しだけ唇を噛んだ。

 

 鈴なのに、鳴らない。

 

 けれど、何でもないものではない。

 それだけは分かっていた。

 

 ユズは机の上に置いてあった音楽プレーヤーを見た。

 

 お姉ちゃんのものだった。

 

 角に細かな傷があり、画面には薄いひびがある。ボタンを押せば音が流れる。お姉ちゃんが聴いていた音が、まだ中に残っている。

 

 泥の鈴とは違う。

 

 音楽プレーヤーは、お姉ちゃんがこの家にいたことを教えてくれる。

 泥の鈴は、夜がまだ終わっていないことを教えてくる。

 

 ユズは泥の鈴をハンカチで包んだ。少し迷ってから、音楽プレーヤーも別のハンカチで包む。二つを同じポケットに入れようとして、やめた。

 

 一緒に入れたら、何かが混ざってしまう気がした。

 

 泥の鈴は右のポケットへ。

 音楽プレーヤーは左のポケットへ。

 

 それだけで、体の左右に違う重さが生まれた。

 

 階下から、食器の音がした。

 

 朝ごはんの時間だった。

 

 家の中は、いつもの朝だった。台所には朝の匂いがあって、廊下には柔らかい光が落ちている。昨日の夜、玄関の外へ出たことが嘘みたいだった。廃ビルの暗さも、屋上の祠も、手の中に残った泥の冷たさも、朝の家には似合わなかった。

 

 でも、ポケットにはちゃんと重さがある。

 

 なくなっていない。

 

 ユズは朝ごはんを食べながら、右のポケットを気にしていた。

 

 泥の鈴は、そこにある。

 鳴らないまま、冷たいまま、ただそこにある。

 

 学校へ行く時間になると、ユズは玄関で靴を履いた。

 

 外は明るかった。

 

 夜の空気はもうない。湿った土の匂いもしない。道路には朝の光が広がり、電柱の影も短かった。側溝のすきまはただのすきまで、カーブミラーには普通に道が映っている。

 

 それでも、ユズはまっすぐ前だけを見て歩いた。

 

 昨日の夜、そこに何がいたかを覚えていた。

 

 今は何もいない。

 

 けれど、いなくなったわけではない気がした。

 

 ただ、昼の顔をして隠れているだけ。

 

 ユズは右のポケットを押さえた。

 

 泥の鈴は冷たい。

 

 学校が近づくにつれて、その冷たさが少しずつ強くなる気がした。

 

 校門が見えてきた。

 

 昼の学校は、明るかった。

 校庭には白い線が引かれていて、校舎の窓には朝の空が映っている。下駄箱へ向かう子どもたちの足音が、あちこちで重なっていた。

 

 ユズは校門の前で足を止めた。

 

 校門の横に、学校の名前と校章がついている。

 

 丸い線。

 短い線。

 小さな四角。

 

 ユズは息を止めた。

 

 ポケットから泥の鈴を取り出しかけて、すぐにやめた。ここで出してはいけない。誰かに見られたら困る。汚いと思われるかもしれない。取り上げられるかもしれない。

 

 でも、見なくても分かった。

 

 泥の鈴に刻まれていた傷は、この校章と同じだった。

 

 昨日、屋上の祠の前で現れた鈴。

 その鈴が示していた場所。

 

 学校。

 

 昼の学校ではなく、きっと夜の学校に。

 

 ユズは喉の奥がきゅっと狭くなるのを感じた。

 

 学校は、明るい場所だった。

 先生がいて、チャイムが鳴って、教科書を開いて、給食を食べる場所だった。

 

 でも、ユズにとって、そこは安全な場所ではなかった。

 

 校門の内側へ入ると、足が少し重くなった。

 

 下駄箱で靴を脱ぐ。上履きに履き替える。ランドセルの肩紐を直す。どれもいつもと同じ動きなのに、右のポケットだけが妙に気になった。

 

 泥の鈴を見られないようにしなきゃ。

 

 そればかり考えていた。

 

 教室に近づくにつれて、ざわざわした音が大きくなる。

 

 机を動かす音。

 椅子を引く音。

 笑い声。

 黒板の前を走る足音。

 

 どれも普通の音だった。

 

 普通なのに、ユズの足は教室の前で止まった。

 

 入りたくない。

 

 そう思った。

 

 夜の廃ビルへ入ったときとも違う怖さだった。

 暗いから怖いのではない。

 何かが出るから怖いのでもない。

 

 ここでは、みんながいる。

 

 みんながいるから、怖かった。

 

 ユズは右のポケットを押さえたまま、教室へ入った。

 

 教室の空気が、ほんの少しだけ変わった。

 

 声が止まったわけではない。

 誰かがはっきり何かを言ったわけでもない。

 

 それでも分かった。

 

 見られている。

 

 ユズは顔を上げなかった。机と机の間を通り、自分の席へ向かう。視界の端で、誰かが体を寄せる気配がした。椅子の脚が床をこする音がする。小さな笑い声が、すぐに別の話し声の中へ紛れた。

 

 机の端には、まだ薄く文字が残っていた。

 

 ――うそつき。

 

 昨日よりは薄くなっている。

 でも、消えてはいなかった。

 

 ユズは袖でその文字を隠すように、机の上に腕を置いた。

 

 右のポケットの泥の鈴が、体に当たる。

 

 ここでは出せない。

 

 見せてはいけない。

 

 泥の鈴まで、汚いものみたいに見られたくなかった。

 

 授業が始まっても、ユズは右のポケットが気になって仕方なかった。

 

 先生の声。

 チョークの音。

 鉛筆がノートをこする音。

 

 いつもの音が、いつも通りに流れていく。

 

 でも、ユズの手は何度もポケットへ伸びかけた。泥の鈴がそこにあるか、確かめたくなる。なくなっていたらどうしよう。誰かに取られていたらどうしよう。そんなはずはないのに、不安が消えなかった。

 

 ユズはポケットの上から、そっと押さえた。

 

 冷たい。

 

 そこにある。

 

 それだけで少しだけ息ができた。

 

 給食の時間になっても、ユズはほとんど話さなかった。

 

 机を動かす音がして、教室が班の形に変わっていく。ユズの机は、今日も少しだけ輪から外れた。誰かが直接押しのけたわけではない。けれど、気づけばそうなっていた。

 

 トレーの上には、パンとスープと牛乳がのっていた。

 

 ユズはスプーンを持つ。

 食べる。

 飲み込む。

 

 ただ、それだけを考えた。

 

 右のポケットに泥の鈴があるせいで、座っている姿勢が少しだけぎこちない。けれど、取り出すことはできない。机の下で、膝の上に手を置く。指先が少し震えていた。

 

 昼の学校は、何もおかしくない。

 

 廊下も、教室も、校庭も、ぜんぶ普通だった。

 

 怪異なんていない。

 夜のお化けもいない。

 壁から土が滲むこともない。

 

 それなのに、ユズはずっと息がしにくかった。

 

 放課後になった。

 

 ランドセルを背負い、教室を出る。廊下には夕方の光が差し込んでいた。窓の外では、校庭に残った子どもたちが動いている。靴箱の方から、上履きの音がいくつも響いていた。

 

 ユズは校門へ向かいかけて、ふと足を止めた。

 

 校舎を振り返る。

 

 屋上が見えた。

 

 昼の終わりの光の中に、フェンスが細く並んでいる。そこには何もいない。ただの学校の屋上だった。昨日の廃ビルの屋上とは違う。祠もない。土もない。黒い鳥みたいにほどける人影もいない。

 

 それでも、ユズは目を離せなかった。

 

 泥の鈴の傷。

 校門の校章。

 そして、屋上。

 

 全部が、同じ場所を指している気がした。

 

 ユズは右のポケットを握った。

 

「……夜に、来なきゃ」

 

 声はとても小さかった。

 

 誰にも聞こえなかったと思う。

 

 でも、自分には聞こえた。

 

 それだけで、もう逃げられない気がした。

 

 放課後、ユズは校門を出ても、すぐには足を速められなかった。

 学校を出たはずなのに、まだ背中に校舎の気配が残っている。

 ランドセルの肩紐を握る手に、少しだけ力が入った。

 

 右のポケットには、泥の鈴がある。

 

 鳴らない鈴。

 昨日の夜、廃ビルの祠の前で現れた鈴。

 その表面に刻まれていた傷は、校門の横にあった校章と同じ形をしていた。

 

 次は学校。

 

 それはもう、分かっていた。

 

 分かっているのに、認めたくなかった。

 

 昼間の学校でさえ、ユズには息がしづらい場所だった。

 

 教室に入ったときに変わる空気。

 机の端に残った文字。

 給食の時間に、少しだけ離れた自分の机。

 誰も何も言わなくても、そこにいてはいけないように感じる時間。

 

 それだけでも、胸の奥がきゅっとなる。

 

 なのに、夜に行かなければならない。

 

 ユズは夜の学校を知らないわけではなかった。

 

 暗い廊下。

 誰もいない教室。

 昼間とは違う音のする階段。

 自分の足音だけが、広い校舎の中で大きく聞こえる感じ。

 

 知らないから怖いのではない。

 

 知っているから怖かった。

 

 もう行かなくていいと思っていた。

 もうあの夜は終わったと思っていた。

 鈴を返して、お姉ちゃんを失って、それでも朝が来たのだから、全部終わったのだと思おうとしていた。

 

 でも、終わっていなかった。

 

 帰り道を歩いている間も、右のポケットだけが冷たかった。夕方の道にはまだ人の気配がある。遠くで車が走り、どこかの家から夕飯の匂いがする。電柱の影は長く伸びているけれど、まだ夜のものではない。

 

 それでも、ユズには分かった。

 

 少しずつ、夜が近づいている。

 

 家に帰って、自分の部屋に入っても、泥の鈴の冷たさは消えなかった。

 

 ユズは机の上にハンカチを広げ、その上に泥の鈴を置いた。黒っぽい湿った跡が、布にじわりと広がっていく。朝より少し大きくなっているように見えた。

 

 乾かない。

 壊れない。

 鳴らない。

 

 ただ、そこにある。

 

 それが怖かった。

 

 ユズは音楽プレーヤーをその横に置いた。

 

 お姉ちゃんの音楽プレーヤー。

 泥の鈴。

 

 二つ並べると、まるで昼と夜を机の上に置いているみたいだった。

 

 お姉ちゃんが残してくれたものは、ちゃんと形がある。傷も、ひびも、ボタンの感触もある。

 けれど泥の鈴は、廃ビルの屋上で、祠の前の土から現れたものだった。

 

 ユズは、それを見た。

 自分の手で拾った。

 今も、その冷たさを覚えている。

 

 でも、どうして現れたのかは分からない。

 

 願いを聞いてくれたのか。

 試されているのか。

 それとも、もっと別のものに引き寄せられているだけなのか。

 

 何も分からない。

 

 分からないものを持っていることが怖い。

 でも、手放すことはもっと怖い。

 

 これを捨てたら、もうお姉ちゃんに近づく道まで消えてしまう気がした。

 

「……学校」

 

 声に出すと、胸の奥がぎゅっと縮んだ。

 

 夜の学校に行くのが怖いのか。

 学校そのものが怖いのか。

 

 ユズには、少し分からなかった。

 

 廃ビルは怖かった。暗くて、冷たくて、お化けがいて、入ってはいけない場所だと分かる怖さだった。

 

 でも学校は違う。

 

 朝になれば普通の顔をする。

 先生がいて、チャイムが鳴って、給食が出て、みんながいる。

 だから、怖いと思ってはいけない場所みたいに見える。

 

 でも、ユズは怖かった。

 

 明るくても。

 人がたくさんいても。

 昼間でも。

 

 ユズは泥の鈴を手に取った。

 

 冷たい。

 

 その冷たさが、手のひらから胸の奥までゆっくり入ってくる。いやだと思った。けれど同時に、その冷たさがあるから、自分がまだ逃げていないと分かる気もした。

 

 怖い。

 行きたくない。

 でも、行かなきゃ。

 

 その三つが、胸の中でぐちゃぐちゃに混ざっていた。

 

 窓の外で、夕方が終わろうとしている。

 

 建物の輪郭が黒くなり、電線が細い線になって空に残る。遠くの家に明かりがつく。町は少しずつ、人のものから夜のものへ変わっていく。

 

 ユズは懐中電灯を机に置いた。

 

 それから、泥の鈴を右のポケットへ入れた。

 音楽プレーヤーを左のポケットへ入れた。

 

 右には、夜から来たもの。

 左には、お姉ちゃんが残したもの。

 

 その真ん中に、自分がいる。

 

 ユズはそう思って、少しだけ息を吸った。

 

「行かないと」

 

 小さく言った。

 

 声は震えていた。

 

 でも、言わなければ立てなかった。

 言葉にしなければ、また布団の中に逃げてしまいそうだった。

 

 階段を下りると、家の中には夜の生活音があった。

 

 台所の方で水が流れる音。食器が触れ合う音。遠くのテレビの低い声。ここにいれば安全だと、家そのものが言っているみたいだった。

 

 ユズは玄関の前で止まった。

 

 靴を履く。

 懐中電灯を握る。

 ドアノブに手をかける。

 

 学校へ行くだけ。

 

 そう思おうとした。

 

 でも、夜に学校へ行くことは、昼に学校へ行くこととは全然違う。

 同じ道を歩いて、同じ校門をくぐって、同じ校舎を見るだけなのに、きっと中にあるものは違う。

 

 いや。

 

 本当は、違わないのかもしれない。

 

 昼に見えなかったものが、夜には見えるだけなのかもしれない。

 

 ユズは唇を結んだ。

 

 その考えが、一番怖かった。

 

 ドアを開ける。

 

 夜の空気が、足元から家の中へ入ってきた。

 ユズは振り返らなかった。

 

 家の明かりを背中に受けたまま、外へ出る。

 

 ドアが閉まる音がした。

 

 ぱたん。

 

 その瞬間、ユズはまた、夜の中にひとりになった。

 

 通学路は、昼間よりも細く見えた。

 

 電柱の明かりはついている。けれど、その下にある影は、光に押しつぶされるみたいに黒く濃かった。道路の白線はかすれていて、懐中電灯の光を当てると、古い傷みたいに浮かび上がる。

 

 ユズは一歩ずつ歩いた。

 

 こつ。

 こつ。

 

 足音が、いつもより遅れて耳に届く。

 

 学校へ向かう道は、毎日歩いているはずだった。角を曲がれば何があるかも、どこに自販機があるかも、どの家の塀が少し欠けているかも知っている。

 

 知っている道なのに、今は知らない場所みたいだった。

 

 道端に、上履きが落ちていた。

 

 片方だけ。

 

 白い布は土で汚れていて、つま先が学校の方を向いている。ユズは足を止めた。誰かの忘れ物かもしれない。昼間なら、そう思えた。

 

 でも夜の道に、上履きが片方だけ落ちているのは変だった。

 

 ユズが見ていると、上履きの向きがほんの少し変わった。

 

 ぎし。

 

 布ではなく、何か骨のようなものがきしむ音がした。

 

 ユズは息を止めた。

 

「……見てない」

 

 小さく言って、目をそらした。

 

 歩き出すと、背中の方で、ずる、と何かを引きずる音がした。上履きがついてきているのかもしれない。そう思ったけれど、振り返らなかった。

 

 振り返ったら、片方だけではなくなっている気がした。

 

 次の角に、電柱があった。

 

 その上に、黒い塊が乗っていた。

 

 最初はカラスかと思った。けれど違った。四角い。角が丸く、二本の細い紐のようなものが垂れている。

 

 ランドセルに似ていた。

 

 その下に、細い足が二本ぶら下がっている。

 

 ユズは驚いて、咄嗟に懐中電灯を上へ向けそうになって、すぐに下ろした。

 

 照らしたら、顔まで見えてしまう。

 

 見たくない。

 でも、見ないまま通るのも怖い。

 

 その下を通るとき、上から小さな音がした。

 

 かた。

 かた。

 

 ランドセルのふたが、ゆっくり開いたり閉じたりしているような音。

 

 ユズは早足になった。

 

 逃げたい。

 

 でも、走ったら追いかけてくる。

 夜のお化けは、気づいたことに気づくと近づいてくる。

 

 ユズはそれを知っていた。

 

 横断歩道に出た。

 

 信号は赤だった。

 

 車は来ていない。道の向こうには、学校へ続く坂が見える。昼間なら、同じ学校の子の誰かが走り出して、誰かが怒られて、信号が変わるのを待つ。

 

 今は、ひとりだけ。

 

 白線の上に、小さな足跡があった。

 

 濡れた足跡。

 

 子どもの足より、もっと小さい。裸足の形だった。足跡は一つ、二つ、三つと、横断歩道の白線の上に並んでいる。

 

 ユズが見ている前で、もう一つ増えた。

 

 ぺた。

 

 音がした。

 

 誰もいないところに、濡れた足跡だけがつく。

 

 ぺた。

 

 また一つ。

 

 足跡は、学校の方へ続いていた。

 

 ユズは唇を噛んだ。

 

「……そっち、行くの?」

 

 答えはない。

 

 信号が青に変わった。

 

 その音が、やけに大きく響いた。

 

 ユズは白線を踏まないように歩いた。足跡を踏んだら、何かを連れていってしまう気がしたからだった。

 

 坂を上るころには、息が少し苦しくなっていた。

 

 右のポケットの泥の鈴が冷たい。左のポケットの音楽プレーヤーは、何も反応しない。お姉ちゃんの音は沈黙している。

 

 どうして何も言ってくれないの。

 

 そう思って、ユズはすぐに自分を責めた。

 

 音楽プレーヤーは、お姉ちゃんじゃない。

 泥の鈴も、お姉ちゃんじゃない。

 ユズが勝手に、何かを求めているだけ。

 

 分かっている。

 

 でも、何かに頼らないと、足が止まりそうだった。

 

 側溝の横を通ったとき、奥から息を吸う音がした。

 

 すう。

 

 冷たい空気を、長く吸い込む音。

 

 ユズは足を止めた。

 

 側溝のすきまは黒い。何も見えない。ただ、奥に誰かがいる気配だけがあった。

 

 すう。

 

 また音がする。

 

 今度は、ユズの息に合わせているみたいだった。

 

 ユズが息を止めると、側溝の中の音も止まった。

 

 ユズが小さく息を吸うと、奥の何かも吸った。

 

 すう。

 

 同じ速さで。

 

 同じ深さで。

 

 ユズは怖くなって、口を手で押さえた。

 

 息をしたら、気づかれる。

 でも、息をしないと歩けない。

 

 胸が苦しくなる。目の奥が痛くなる。

 

 ユズは小さく、小さく息を吐いて、そのまま歩き出した。

 

 側溝の中から、何かが爪でふたをこする音がした。

 

 かり。

 

 でも、追ってはこなかった。

 

 学校の校門が見えた。

 

 ユズは立ち止まった。

 

 昼間、何度も通っている校門。

 朝は開いていて、子どもたちが出入りして、先生が立っていることもある場所。

 

 今は閉まっていた。

 

 鉄の柵が、夜の中で黒く立っている。門の向こうには校庭が広がっているはずなのに、暗すぎて奥が見えない。校舎の窓は全部黒い。まるで、校舎そのものが目を閉じているみたいだった。

 

 でも、眠っているわけではない。

 

 ユズには分かった。

 

 中に何かがいる。

 

 校門の内側、少し離れたところに、背の低い影が立っていた。

 

 子どもみたいな大きさだった。

 けれど、顔は見えない。

 

 胸のあたりに、白っぽい四角がある。

 

 名札。

 

 そう思った。

 

 でも名前のところは、黒く塗りつぶされていた。

 

 ユズは息をのんだ。

 

 影は動かない。

 ただ、そこに立っている。

 

 見ているのか、見ていないのかも分からない。

 

 ユズは右のポケットに手を入れた。

 

 泥の鈴が、今までより冷たかった。

 手のひらに痛いくらいの冷たさが刺さる。

 

 鳴らない。

 

 でも、震えている。

 

 ほんの少し。

 音にはならないくらい、小さく。

 

「……ここ、だよね」

 

 ユズはつぶやいた。

 

 声は校門の前で消えた。

 

 帰りたい。

 

 今すぐ振り返って、家まで走って、布団にもぐりたい。

 明日になれば、昼の学校に戻る。

 怖いけれど、明るい。

 嫌だけれど、人がいる。

 

 でも、それでは何も変わらない。

 

 お姉ちゃんは戻ってこない。

 鈴も鳴らない。

 ユズはずっと、何もなかったふりをするしかなくなる。

 

 それは、いやだった。

 

 ユズは校門に近づいた。

 

 鉄の柵の間から、冷たい空気が流れてくる。校庭の砂の匂い。古い雨の匂い。使われていない教室の匂い。

 

 校門の向こうの影が、少しだけ首を傾けた。

 

 それから、ゆっくり消えた。

 

 消えた場所に、黒い手が一本だけ残った。

 

 手は細く、指が長かった。子どもの手にも、大人の手にも見えない。その手が、校門の内側から鉄の柵をつかむ。

 

 ぎい。

 

 門が少しだけ開いた。

 

 人ひとりが、横になれば通れるくらいの隙間。

 

 ユズは震える手で懐中電灯を握り直した。

 

 入れば、戻れないかもしれない。

 でも、入らなければ始まらない。

 

 泥の鈴が、手の中で冷たく震えた。

 

 ユズは目を閉じて、もう一度だけ息を吸った。

 

「……行こう」

 

 小さく言って、校門の隙間へ体を滑り込ませた。

 

 門の内側に足を踏み入れた瞬間、背後で鉄の音がした。

 

 ぎい。

 

 振り返ると、校門は閉じていた。

 

 外の道は、鉄の柵の向こうにある。

 

 でも、もう遠かった。

 

 ユズは前を向いた。

 

 夜の学校は、黙ってそこにあった。




ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

自分は夜廻シリーズを動画で見たのですが、夜廻も深夜廻も本当に色々と印象に残る場面が多くて、見ていて怖さと楽しさを感じてます。
皆さんは、作中で特に印象に残っている場所や場面などありますでしょうか。
よければ、そういったお話も聞かせていただけると嬉しいです。
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