夜廻三 夜のむこうの帰り道 作:とーすと
夜廻シリーズを見ていると、ちょっと夜の町に出てみたくなる時があります。
でも実際に行くとなると、普通に怖くないですか?
自分はかなりビビリなので、深夜に外に出たいと思っても、夜の怖さと人間の怖さを想像してしまって、たぶん玄関を出た時点で引き返してしまいそうです。
朝になっても、泥の鈴は消えていなかった。
ユズは布団の中から、机の上をじっと見ていた。
昨日の夜、廃ビルの屋上で見つけたもの。
祠の前のひびから滲み出した土が、ゆっくり形を変えてできたもの。
赤い紐もなく、金属でもなく、振っても鳴らなかった鈴。
それが、机の上にあった。
夢ではなかった。
昨日、泥の鈴を手にしたあと、ユズはしばらく屋上から動けなかった。
祠は何も言わなかった。
夜も何も言わなかった。
フェンスの向こうでほどけて消えた人影も、もう戻ってこなかった。
ただ、手の中の泥の鈴だけが冷たかった。
帰らなきゃ、と思った。
けれど、すぐには足が動かなかった。廃ビルの階段を下りれば、また暗い廊下を通らなければならない。入口の外には、さっき見た夜のお化けたちがまだいるかもしれない。電柱の下の長い影も、側溝の中の白い指も、カーブミラーの中だけにいた黒い子どもも、まだユズを待っているかもしれない。
それでも、屋上にずっといることはできなかった。
「……帰らなきゃ」
ユズは小さくつぶやいて、泥の鈴をハンカチに包んだ。
階段を下りるとき、足音は一つだけだった。
けれどユズは、最後まで振り返らなかった。
廃ビルの外へ出たとき、夜の町はまだそこにあった。街灯は白く光り、自販機は低くうなり、塀の影や電柱の根元には、形になりきらない黒いものがじっとしていた。来るときよりも道は静かで、その静けさがかえって怖かった。
ユズは泥の鈴をポケットの中で握りしめた。
鳴らない。
でも、冷たい。
それだけが、さっき起きたことが本当だったと教えていた。
家に戻ると、玄関は暗かった。
音を立てないように靴を脱ぎ、階段を上がり、自分の部屋へ入った。部屋の明かりをつけると、夜の町の暗さが少しだけ遠くなった。けれど、ポケットから出した泥の鈴は、明るい部屋の中でも暗く見えた。
ユズは机の上にハンカチを広げ、その上へ泥の鈴を置いた。
黒っぽい湿った跡が、布にじわりと広がった。
音楽プレーヤーを横に置いてみても、何も起きなかった。画面は暗いまま。ノイズもない。鈴の音もしない。
けれど泥の鈴の表面には、浅い傷があった。
丸い線。
短い線。
小さな四角。
学校の校章に似ていた。
昨日の夜、屋上で見たときにも、そう思った。
暗くて、手も震えていて、はっきり見えたわけではない。けれど、見間違いだと思えるほど曖昧でもなかった。
次は学校。
そう分かっているのに、ユズはそれ以上考えたくなかった。
昼間でも行きたくない場所。
明るくても息がしづらい場所。
机の端に、消しても残る文字がある場所。
そこへ、夜に行かなければならない。
そう思うと、体が重くなった。頭の奥がぼんやりして、布団に入っても、すぐには眠れなかった。
いつ眠ったのかは、分からない。
そして、朝になった。
ユズは起き上がり、そっと手を伸ばした。
泥の鈴は、小さなハンカチの上に置いてある。昨夜、汚れないようにと思って包んだはずなのに、ハンカチには黒っぽい湿った跡が広がっていた。
乾いていない。
朝の光を浴びているのに、まだ冷たそうだった。
ユズは指先で触れた。
ひやり、とした。
土の冷たさだった。
でも、ただの土ではなかった。
手のひらにのせると、見た目よりもずっと重い。中に何かが詰まっているみたいだった。ユズは鈴を少しだけ振ってみた。
音はしない。
もう一度、振る。
やっぱり鳴らない。
「……鳴らない」
小さくつぶやいてから、ユズは少しだけ唇を噛んだ。
鈴なのに、鳴らない。
けれど、何でもないものではない。
それだけは分かっていた。
ユズは机の上に置いてあった音楽プレーヤーを見た。
お姉ちゃんのものだった。
角に細かな傷があり、画面には薄いひびがある。ボタンを押せば音が流れる。お姉ちゃんが聴いていた音が、まだ中に残っている。
泥の鈴とは違う。
音楽プレーヤーは、お姉ちゃんがこの家にいたことを教えてくれる。
泥の鈴は、夜がまだ終わっていないことを教えてくる。
ユズは泥の鈴をハンカチで包んだ。少し迷ってから、音楽プレーヤーも別のハンカチで包む。二つを同じポケットに入れようとして、やめた。
一緒に入れたら、何かが混ざってしまう気がした。
泥の鈴は右のポケットへ。
音楽プレーヤーは左のポケットへ。
それだけで、体の左右に違う重さが生まれた。
階下から、食器の音がした。
朝ごはんの時間だった。
家の中は、いつもの朝だった。台所には朝の匂いがあって、廊下には柔らかい光が落ちている。昨日の夜、玄関の外へ出たことが嘘みたいだった。廃ビルの暗さも、屋上の祠も、手の中に残った泥の冷たさも、朝の家には似合わなかった。
でも、ポケットにはちゃんと重さがある。
なくなっていない。
ユズは朝ごはんを食べながら、右のポケットを気にしていた。
泥の鈴は、そこにある。
鳴らないまま、冷たいまま、ただそこにある。
学校へ行く時間になると、ユズは玄関で靴を履いた。
外は明るかった。
夜の空気はもうない。湿った土の匂いもしない。道路には朝の光が広がり、電柱の影も短かった。側溝のすきまはただのすきまで、カーブミラーには普通に道が映っている。
それでも、ユズはまっすぐ前だけを見て歩いた。
昨日の夜、そこに何がいたかを覚えていた。
今は何もいない。
けれど、いなくなったわけではない気がした。
ただ、昼の顔をして隠れているだけ。
ユズは右のポケットを押さえた。
泥の鈴は冷たい。
学校が近づくにつれて、その冷たさが少しずつ強くなる気がした。
校門が見えてきた。
昼の学校は、明るかった。
校庭には白い線が引かれていて、校舎の窓には朝の空が映っている。下駄箱へ向かう子どもたちの足音が、あちこちで重なっていた。
ユズは校門の前で足を止めた。
校門の横に、学校の名前と校章がついている。
丸い線。
短い線。
小さな四角。
ユズは息を止めた。
ポケットから泥の鈴を取り出しかけて、すぐにやめた。ここで出してはいけない。誰かに見られたら困る。汚いと思われるかもしれない。取り上げられるかもしれない。
でも、見なくても分かった。
泥の鈴に刻まれていた傷は、この校章と同じだった。
昨日、屋上の祠の前で現れた鈴。
その鈴が示していた場所。
学校。
昼の学校ではなく、きっと夜の学校に。
ユズは喉の奥がきゅっと狭くなるのを感じた。
学校は、明るい場所だった。
先生がいて、チャイムが鳴って、教科書を開いて、給食を食べる場所だった。
でも、ユズにとって、そこは安全な場所ではなかった。
校門の内側へ入ると、足が少し重くなった。
下駄箱で靴を脱ぐ。上履きに履き替える。ランドセルの肩紐を直す。どれもいつもと同じ動きなのに、右のポケットだけが妙に気になった。
泥の鈴を見られないようにしなきゃ。
そればかり考えていた。
教室に近づくにつれて、ざわざわした音が大きくなる。
机を動かす音。
椅子を引く音。
笑い声。
黒板の前を走る足音。
どれも普通の音だった。
普通なのに、ユズの足は教室の前で止まった。
入りたくない。
そう思った。
夜の廃ビルへ入ったときとも違う怖さだった。
暗いから怖いのではない。
何かが出るから怖いのでもない。
ここでは、みんながいる。
みんながいるから、怖かった。
ユズは右のポケットを押さえたまま、教室へ入った。
教室の空気が、ほんの少しだけ変わった。
声が止まったわけではない。
誰かがはっきり何かを言ったわけでもない。
それでも分かった。
見られている。
ユズは顔を上げなかった。机と机の間を通り、自分の席へ向かう。視界の端で、誰かが体を寄せる気配がした。椅子の脚が床をこする音がする。小さな笑い声が、すぐに別の話し声の中へ紛れた。
机の端には、まだ薄く文字が残っていた。
――うそつき。
昨日よりは薄くなっている。
でも、消えてはいなかった。
ユズは袖でその文字を隠すように、机の上に腕を置いた。
右のポケットの泥の鈴が、体に当たる。
ここでは出せない。
見せてはいけない。
泥の鈴まで、汚いものみたいに見られたくなかった。
授業が始まっても、ユズは右のポケットが気になって仕方なかった。
先生の声。
チョークの音。
鉛筆がノートをこする音。
いつもの音が、いつも通りに流れていく。
でも、ユズの手は何度もポケットへ伸びかけた。泥の鈴がそこにあるか、確かめたくなる。なくなっていたらどうしよう。誰かに取られていたらどうしよう。そんなはずはないのに、不安が消えなかった。
ユズはポケットの上から、そっと押さえた。
冷たい。
そこにある。
それだけで少しだけ息ができた。
給食の時間になっても、ユズはほとんど話さなかった。
机を動かす音がして、教室が班の形に変わっていく。ユズの机は、今日も少しだけ輪から外れた。誰かが直接押しのけたわけではない。けれど、気づけばそうなっていた。
トレーの上には、パンとスープと牛乳がのっていた。
ユズはスプーンを持つ。
食べる。
飲み込む。
ただ、それだけを考えた。
右のポケットに泥の鈴があるせいで、座っている姿勢が少しだけぎこちない。けれど、取り出すことはできない。机の下で、膝の上に手を置く。指先が少し震えていた。
昼の学校は、何もおかしくない。
廊下も、教室も、校庭も、ぜんぶ普通だった。
怪異なんていない。
夜のお化けもいない。
壁から土が滲むこともない。
それなのに、ユズはずっと息がしにくかった。
放課後になった。
ランドセルを背負い、教室を出る。廊下には夕方の光が差し込んでいた。窓の外では、校庭に残った子どもたちが動いている。靴箱の方から、上履きの音がいくつも響いていた。
ユズは校門へ向かいかけて、ふと足を止めた。
校舎を振り返る。
屋上が見えた。
昼の終わりの光の中に、フェンスが細く並んでいる。そこには何もいない。ただの学校の屋上だった。昨日の廃ビルの屋上とは違う。祠もない。土もない。黒い鳥みたいにほどける人影もいない。
それでも、ユズは目を離せなかった。
泥の鈴の傷。
校門の校章。
そして、屋上。
全部が、同じ場所を指している気がした。
ユズは右のポケットを握った。
「……夜に、来なきゃ」
声はとても小さかった。
誰にも聞こえなかったと思う。
でも、自分には聞こえた。
それだけで、もう逃げられない気がした。
放課後、ユズは校門を出ても、すぐには足を速められなかった。
学校を出たはずなのに、まだ背中に校舎の気配が残っている。
ランドセルの肩紐を握る手に、少しだけ力が入った。
右のポケットには、泥の鈴がある。
鳴らない鈴。
昨日の夜、廃ビルの祠の前で現れた鈴。
その表面に刻まれていた傷は、校門の横にあった校章と同じ形をしていた。
次は学校。
それはもう、分かっていた。
分かっているのに、認めたくなかった。
昼間の学校でさえ、ユズには息がしづらい場所だった。
教室に入ったときに変わる空気。
机の端に残った文字。
給食の時間に、少しだけ離れた自分の机。
誰も何も言わなくても、そこにいてはいけないように感じる時間。
それだけでも、胸の奥がきゅっとなる。
なのに、夜に行かなければならない。
ユズは夜の学校を知らないわけではなかった。
暗い廊下。
誰もいない教室。
昼間とは違う音のする階段。
自分の足音だけが、広い校舎の中で大きく聞こえる感じ。
知らないから怖いのではない。
知っているから怖かった。
もう行かなくていいと思っていた。
もうあの夜は終わったと思っていた。
鈴を返して、お姉ちゃんを失って、それでも朝が来たのだから、全部終わったのだと思おうとしていた。
でも、終わっていなかった。
帰り道を歩いている間も、右のポケットだけが冷たかった。夕方の道にはまだ人の気配がある。遠くで車が走り、どこかの家から夕飯の匂いがする。電柱の影は長く伸びているけれど、まだ夜のものではない。
それでも、ユズには分かった。
少しずつ、夜が近づいている。
家に帰って、自分の部屋に入っても、泥の鈴の冷たさは消えなかった。
ユズは机の上にハンカチを広げ、その上に泥の鈴を置いた。黒っぽい湿った跡が、布にじわりと広がっていく。朝より少し大きくなっているように見えた。
乾かない。
壊れない。
鳴らない。
ただ、そこにある。
それが怖かった。
ユズは音楽プレーヤーをその横に置いた。
お姉ちゃんの音楽プレーヤー。
泥の鈴。
二つ並べると、まるで昼と夜を机の上に置いているみたいだった。
お姉ちゃんが残してくれたものは、ちゃんと形がある。傷も、ひびも、ボタンの感触もある。
けれど泥の鈴は、廃ビルの屋上で、祠の前の土から現れたものだった。
ユズは、それを見た。
自分の手で拾った。
今も、その冷たさを覚えている。
でも、どうして現れたのかは分からない。
願いを聞いてくれたのか。
試されているのか。
それとも、もっと別のものに引き寄せられているだけなのか。
何も分からない。
分からないものを持っていることが怖い。
でも、手放すことはもっと怖い。
これを捨てたら、もうお姉ちゃんに近づく道まで消えてしまう気がした。
「……学校」
声に出すと、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
夜の学校に行くのが怖いのか。
学校そのものが怖いのか。
ユズには、少し分からなかった。
廃ビルは怖かった。暗くて、冷たくて、お化けがいて、入ってはいけない場所だと分かる怖さだった。
でも学校は違う。
朝になれば普通の顔をする。
先生がいて、チャイムが鳴って、給食が出て、みんながいる。
だから、怖いと思ってはいけない場所みたいに見える。
でも、ユズは怖かった。
明るくても。
人がたくさんいても。
昼間でも。
ユズは泥の鈴を手に取った。
冷たい。
その冷たさが、手のひらから胸の奥までゆっくり入ってくる。いやだと思った。けれど同時に、その冷たさがあるから、自分がまだ逃げていないと分かる気もした。
怖い。
行きたくない。
でも、行かなきゃ。
その三つが、胸の中でぐちゃぐちゃに混ざっていた。
窓の外で、夕方が終わろうとしている。
建物の輪郭が黒くなり、電線が細い線になって空に残る。遠くの家に明かりがつく。町は少しずつ、人のものから夜のものへ変わっていく。
ユズは懐中電灯を机に置いた。
それから、泥の鈴を右のポケットへ入れた。
音楽プレーヤーを左のポケットへ入れた。
右には、夜から来たもの。
左には、お姉ちゃんが残したもの。
その真ん中に、自分がいる。
ユズはそう思って、少しだけ息を吸った。
「行かないと」
小さく言った。
声は震えていた。
でも、言わなければ立てなかった。
言葉にしなければ、また布団の中に逃げてしまいそうだった。
階段を下りると、家の中には夜の生活音があった。
台所の方で水が流れる音。食器が触れ合う音。遠くのテレビの低い声。ここにいれば安全だと、家そのものが言っているみたいだった。
ユズは玄関の前で止まった。
靴を履く。
懐中電灯を握る。
ドアノブに手をかける。
学校へ行くだけ。
そう思おうとした。
でも、夜に学校へ行くことは、昼に学校へ行くこととは全然違う。
同じ道を歩いて、同じ校門をくぐって、同じ校舎を見るだけなのに、きっと中にあるものは違う。
いや。
本当は、違わないのかもしれない。
昼に見えなかったものが、夜には見えるだけなのかもしれない。
ユズは唇を結んだ。
その考えが、一番怖かった。
ドアを開ける。
夜の空気が、足元から家の中へ入ってきた。
ユズは振り返らなかった。
家の明かりを背中に受けたまま、外へ出る。
ドアが閉まる音がした。
ぱたん。
その瞬間、ユズはまた、夜の中にひとりになった。
通学路は、昼間よりも細く見えた。
電柱の明かりはついている。けれど、その下にある影は、光に押しつぶされるみたいに黒く濃かった。道路の白線はかすれていて、懐中電灯の光を当てると、古い傷みたいに浮かび上がる。
ユズは一歩ずつ歩いた。
こつ。
こつ。
足音が、いつもより遅れて耳に届く。
学校へ向かう道は、毎日歩いているはずだった。角を曲がれば何があるかも、どこに自販機があるかも、どの家の塀が少し欠けているかも知っている。
知っている道なのに、今は知らない場所みたいだった。
道端に、上履きが落ちていた。
片方だけ。
白い布は土で汚れていて、つま先が学校の方を向いている。ユズは足を止めた。誰かの忘れ物かもしれない。昼間なら、そう思えた。
でも夜の道に、上履きが片方だけ落ちているのは変だった。
ユズが見ていると、上履きの向きがほんの少し変わった。
ぎし。
布ではなく、何か骨のようなものがきしむ音がした。
ユズは息を止めた。
「……見てない」
小さく言って、目をそらした。
歩き出すと、背中の方で、ずる、と何かを引きずる音がした。上履きがついてきているのかもしれない。そう思ったけれど、振り返らなかった。
振り返ったら、片方だけではなくなっている気がした。
次の角に、電柱があった。
その上に、黒い塊が乗っていた。
最初はカラスかと思った。けれど違った。四角い。角が丸く、二本の細い紐のようなものが垂れている。
ランドセルに似ていた。
その下に、細い足が二本ぶら下がっている。
ユズは驚いて、咄嗟に懐中電灯を上へ向けそうになって、すぐに下ろした。
照らしたら、顔まで見えてしまう。
見たくない。
でも、見ないまま通るのも怖い。
その下を通るとき、上から小さな音がした。
かた。
かた。
ランドセルのふたが、ゆっくり開いたり閉じたりしているような音。
ユズは早足になった。
逃げたい。
でも、走ったら追いかけてくる。
夜のお化けは、気づいたことに気づくと近づいてくる。
ユズはそれを知っていた。
横断歩道に出た。
信号は赤だった。
車は来ていない。道の向こうには、学校へ続く坂が見える。昼間なら、同じ学校の子の誰かが走り出して、誰かが怒られて、信号が変わるのを待つ。
今は、ひとりだけ。
白線の上に、小さな足跡があった。
濡れた足跡。
子どもの足より、もっと小さい。裸足の形だった。足跡は一つ、二つ、三つと、横断歩道の白線の上に並んでいる。
ユズが見ている前で、もう一つ増えた。
ぺた。
音がした。
誰もいないところに、濡れた足跡だけがつく。
ぺた。
また一つ。
足跡は、学校の方へ続いていた。
ユズは唇を噛んだ。
「……そっち、行くの?」
答えはない。
信号が青に変わった。
その音が、やけに大きく響いた。
ユズは白線を踏まないように歩いた。足跡を踏んだら、何かを連れていってしまう気がしたからだった。
坂を上るころには、息が少し苦しくなっていた。
右のポケットの泥の鈴が冷たい。左のポケットの音楽プレーヤーは、何も反応しない。お姉ちゃんの音は沈黙している。
どうして何も言ってくれないの。
そう思って、ユズはすぐに自分を責めた。
音楽プレーヤーは、お姉ちゃんじゃない。
泥の鈴も、お姉ちゃんじゃない。
ユズが勝手に、何かを求めているだけ。
分かっている。
でも、何かに頼らないと、足が止まりそうだった。
側溝の横を通ったとき、奥から息を吸う音がした。
すう。
冷たい空気を、長く吸い込む音。
ユズは足を止めた。
側溝のすきまは黒い。何も見えない。ただ、奥に誰かがいる気配だけがあった。
すう。
また音がする。
今度は、ユズの息に合わせているみたいだった。
ユズが息を止めると、側溝の中の音も止まった。
ユズが小さく息を吸うと、奥の何かも吸った。
すう。
同じ速さで。
同じ深さで。
ユズは怖くなって、口を手で押さえた。
息をしたら、気づかれる。
でも、息をしないと歩けない。
胸が苦しくなる。目の奥が痛くなる。
ユズは小さく、小さく息を吐いて、そのまま歩き出した。
側溝の中から、何かが爪でふたをこする音がした。
かり。
でも、追ってはこなかった。
学校の校門が見えた。
ユズは立ち止まった。
昼間、何度も通っている校門。
朝は開いていて、子どもたちが出入りして、先生が立っていることもある場所。
今は閉まっていた。
鉄の柵が、夜の中で黒く立っている。門の向こうには校庭が広がっているはずなのに、暗すぎて奥が見えない。校舎の窓は全部黒い。まるで、校舎そのものが目を閉じているみたいだった。
でも、眠っているわけではない。
ユズには分かった。
中に何かがいる。
校門の内側、少し離れたところに、背の低い影が立っていた。
子どもみたいな大きさだった。
けれど、顔は見えない。
胸のあたりに、白っぽい四角がある。
名札。
そう思った。
でも名前のところは、黒く塗りつぶされていた。
ユズは息をのんだ。
影は動かない。
ただ、そこに立っている。
見ているのか、見ていないのかも分からない。
ユズは右のポケットに手を入れた。
泥の鈴が、今までより冷たかった。
手のひらに痛いくらいの冷たさが刺さる。
鳴らない。
でも、震えている。
ほんの少し。
音にはならないくらい、小さく。
「……ここ、だよね」
ユズはつぶやいた。
声は校門の前で消えた。
帰りたい。
今すぐ振り返って、家まで走って、布団にもぐりたい。
明日になれば、昼の学校に戻る。
怖いけれど、明るい。
嫌だけれど、人がいる。
でも、それでは何も変わらない。
お姉ちゃんは戻ってこない。
鈴も鳴らない。
ユズはずっと、何もなかったふりをするしかなくなる。
それは、いやだった。
ユズは校門に近づいた。
鉄の柵の間から、冷たい空気が流れてくる。校庭の砂の匂い。古い雨の匂い。使われていない教室の匂い。
校門の向こうの影が、少しだけ首を傾けた。
それから、ゆっくり消えた。
消えた場所に、黒い手が一本だけ残った。
手は細く、指が長かった。子どもの手にも、大人の手にも見えない。その手が、校門の内側から鉄の柵をつかむ。
ぎい。
門が少しだけ開いた。
人ひとりが、横になれば通れるくらいの隙間。
ユズは震える手で懐中電灯を握り直した。
入れば、戻れないかもしれない。
でも、入らなければ始まらない。
泥の鈴が、手の中で冷たく震えた。
ユズは目を閉じて、もう一度だけ息を吸った。
「……行こう」
小さく言って、校門の隙間へ体を滑り込ませた。
門の内側に足を踏み入れた瞬間、背後で鉄の音がした。
ぎい。
振り返ると、校門は閉じていた。
外の道は、鉄の柵の向こうにある。
でも、もう遠かった。
ユズは前を向いた。
夜の学校は、黙ってそこにあった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
自分は夜廻シリーズを動画で見たのですが、夜廻も深夜廻も本当に色々と印象に残る場面が多くて、見ていて怖さと楽しさを感じてます。
皆さんは、作中で特に印象に残っている場所や場面などありますでしょうか。
よければ、そういったお話も聞かせていただけると嬉しいです。