夜のむこうの帰り道   作:とーすと

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最近、夜に飲む麦茶が妙においしく感じます。
昼だと普通なのに、静かな時間に飲むと少しだけ特別な感じがするというか。
こういう、夜だと少し印象が変わるものって意外と多い気がします。


第4話「夜の学校」

 

 夜の学校は、黙ってそこにあった。

 

 校門の内側に入った瞬間、わたしは背中の後ろで鉄の閉まる音を聞いた。

 

 ぎい。

 

 振り返ると、さっき通ったはずの門はもう閉じていた。鉄の柵の向こうには、外の道が見えている。街灯も、塀も、いつもの通学路もそこにある。

 

 でも、遠かった。

 

 手を伸ばせば届きそうなのに、もう別の世界みたいだった。

 

 帰ろうと思えば、帰れるのかもしれない。

 

 そう思った。

 

 でも、足は動かなかった。

 

 校門をくぐる前と、くぐった後では、空気の重さが違っていた。外の夜も怖かった。道端の上履きも、電柱の上にいた黒いランドセルも、側溝の中でわたしと同じように息を吸ってくる何かも怖かった。

 

 でも、ここは違う。

 

 ここは学校だった。

 

 昼間、毎日来ている場所。

 教室に入るだけで息がしづらくなる場所。

 誰も何も言わなくても、わたしだけが少しずつ小さくなっていく場所。

 

 その学校が、夜の中で眠っている。

 

 わたしには、そう見えた。

 

 でも、本当に眠っているわけではない気がした。

 目を閉じたふりをして、こちらを見ている。

 

 そんな気がした。

 

 右のポケットの中で、泥の鈴が冷たくなっている。

 

 わたしはそっと手を入れて、ハンカチ越しにそれを握った。鳴らない鈴。廃ビルの祠の前で、土から生まれた鈴。表面には、学校の校章と同じ形の傷が刻まれている。

 

 学校へ来た。

 

 ちゃんと来た。

 

 だから、次に何をすればいいのか教えてほしい。

 

 そう思ってしまって、わたしはすぐに唇を結んだ。

 

 泥の鈴も鳴らない。

 

 お姉ちゃんの音楽プレーヤーも、左のポケットの中で静かなままだった。

 

 結局、進むのはわたしだった。

 

「怖いな…」

 

 小さく言った。

 

 声は校庭の広さに吸い込まれて、すぐに消えた。

 

 校庭は、昼間よりもずっと広く見えた。

 

 白いラインが砂の上に薄く残っている。体育の時間に何度も踏まれた線。昼間なら、そこには足音や声がある。走る子、笑う子、先生の笛の音。そういうものが校庭の広さを埋めている。

 

 でも今は、何もなかった。

 

 何もないと、校庭はこんなに広い。

 

 初めて、そう思った。

 

 懐中電灯の光を足元に向ける。白い丸い光が砂の上を照らした。

 

 そこに、小さな足跡があった。

 

 ひとつ。

 

 ふたつ。

 

 みっつ。

 

 裸足のようにも、上履きの跡のようにも見える。けれど、わたしの足跡ではなかった。わたしの立っている場所より少し前から始まって、校舎の方へ続いている。

 

 誰かが先に歩いたみたいだった。

 

 でも、校門を開けたのは黒い手だった。

 門の中にいた名札のない影は、もう消えていた。

 校庭には誰もいない。

 

 それなのに、足跡だけがある。

 

 その足跡を踏まないように歩いた。

 

 踏んだら、その子のあとをなぞってしまう気がした。

 なぞったら、同じところへ連れていかれる気がした。

 

 校舎へ向かう途中、鉄棒の方から小さな音がした。

 

 きい。

 

 足が止まった。

 

 懐中電灯の光を向けると、鉄棒がわずかに揺れていた。風はない。誰もぶら下がっていない。けれど、低い鉄棒が、誰かの体重を思い出しているみたいに、ゆっくりと揺れている。

 

 きい。

 

 また鳴った。

 

 見続けないようにした。

 

 夜の学校で、動いているものを見続けてはいけない。

 見ていることに気づかれると、近づいてくる。

 

 前にも、そうだった。

 

 わたしは知っている。

 知っているから、怖かった。

 

 校庭の端にある朝礼台の下が、妙に黒かった。

 

 懐中電灯の光がそこへ近づくと、黒いものが少しだけ動いた。丸まった布のようにも見える。人が膝を抱えて座っているようにも見える。ランドセルを背負ったまま、うずくまっているようにも見える。

 

 息を止めた。

 

 黒いものは、顔を上げなかった。

 

 それなのに、見られている気がした。

 

 わたしは視線をそらし、足を速めた。

 

 校舎の入口まで来ると、ガラス扉が閉まっていた。

 

 昼間は何度も通る場所だった。朝、上履きに履き替えて教室へ行く。放課後、ランドセルを背負って外へ出る。ただそれだけの場所。

 

 でも夜は違った。

 

 ガラスの向こうは暗い。

 下駄箱も、廊下も、奥の階段も、ひとつに混ざって黒く見える。

 

 わたしは扉に手を伸ばした。

 

 触れる前から、冷たさが分かった。

 

 この扉を開けたら、もう本当に学校の中に入る。

 校門を越えたときより、もっと深いところに入る。

 

 昼間の学校に戻るのではない。

 夜の学校に、入る。

 

 そう思うと、指が止まった。

 

 怖い。

 

 帰りたい。

 

 でも、帰ったらどうなるのだろう。

 

 泥の鈴は鳴らないまま。

 お姉ちゃんは帰ってこないまま。

 わたしはまた明日の朝、この学校へ来る。

 

 昼間の顔をした学校へ。

 何もなかったような教室へ。

 消えきらない文字のある机へ。

 

 それは、いやだった。

 

 わたしは右のポケットを握った。

 

 冷たい。

 

 でも、その冷たさは、少しだけ背中を押してくれているようにも思えた。

 

「……大丈夫」

 

 言った。

 

 大丈夫じゃない。

 

 すぐに、そう思った。

 

 でも、お姉ちゃんがくれた勇気のおまじないがある。

 前より、少しだけ強くなったはずだった。

 

 ほんの少しでもいい。

 

 今は、その少しがほしかった。

 

 ガラス扉に手をかけた。

 

 鍵は、かかっていなかった。

 

 ゆっくり引くと、扉は重たい音を立てて開いた。

 

 中から、冷たい空気が流れてきた。

 

 チョークの匂いではなかった。

 給食の匂いでもなかった。

 昼間の教室にある、人の気配の残った匂いでもなかった。

 

 古い水。

 ほこり。

 濡れた紙。

 

 それから、少しだけ土の匂い。

 

 その匂いを知っていた。

 

 廃ビルの階段に落ちていた土。

 祠の前から滲み出してきた土。

 泥の鈴を作った土。

 

 学校の中にも、それがある。

 

 わたしは一歩、校舎の中へ入った。

 

 

 校舎の中に入った瞬間、音がなくなった気がした。

 

 外にはまだ夜の音があった。遠くの車の音。どこかの家の室外機の低いうなり。風が電線をなでるような音。

 

 でも、扉の内側には、それが届かなかった。

 

 ガラス扉がわたしの後ろでゆっくり閉まる。

 

 かちゃん。

 

 小さな音だった。

 

 なのに、校舎の中ではすごく大きく響いた。

 

 思わず肩をすくめた。誰かに聞かれた気がしたからだ。誰もいないはずなのに、廊下の奥や下駄箱の影や、階段の向こうで、今の音を聞いている何かがいる気がした。

 

 懐中電灯の光を下駄箱の方へ向ける。

 

 昼間は何でもない場所だった。

 

 たくさんの靴があって、上履きがあって、砂が落ちていて、誰かが急いで靴を履き替えている場所。朝は人の声でいっぱいになる。放課後は、早く帰ろうとする足音が重なる。

 

 でも、今はちがった。

 

 上履きが、静かに並んでいる。

 

 その静けさが、こわかった。

 

 誰も履いていないのに、今にも動き出しそうだった。白い上履きのつま先が、棚の奥からこちらを向いている。ひとつひとつはただの上履きなのに、たくさん並んでいると、たくさんの顔がこっちを見ているみたいだった。

 

 息を小さくした。

 

 見ないようにしよう。

 

 そう思ったのに、目は勝手に見てしまう。

 

 下駄箱の上の方。

 下の方。

 誰かの名前が書かれた場所。

 すみにたまった砂。

 少しだけ開いた扉。

 

 そして、自分の下駄箱。

 

 そこへ近づこうとしたとき、右のポケットの中で泥の鈴が冷たくなった。

 

 痛いくらいだった。

 

 わたしは足を止めた。

 

「……なに?」

 

 小さく聞いた。

 

 でも、返事はない。

 

 分かっている。

 

 分かっているのに、聞いてしまう。

 

 何かが答えてくれたら、少しはこわくなくなると思ったから。

 

 下駄箱に近づいた。

 

 すると、棚の中に並んでいた上履きが、ほんの少しだけ動いた気がした。

 

 全部ではない。

 

 一足だけ。

 

 右端の上履きが、つま先をこちらへ向けた。

 

 ぎゅ。

 

 布がこすれるような、小さな音。

 

 怖くて身体が一瞬固まった。

 

 見なかったことにしよう。

 

 そう思った。

 

 けれど、見てしまったものを、見なかったことにするのは難しい。頭の中にはもう、その上履きの向きが残っている。さっきまでまっすぐ前を向いていたはずなのに、今はわたしを見ている。

 

 ただの上履きなのに。

 

 ただの物なのに。

 

 どうして、見られていると思うんだろう。

 

 わたしは自分の下駄箱の前に立った。

 

 扉に手をかける。

 

 開けたくなかった。

 

 中に何かが入っていたらどうしよう。

 昼間の落書きみたいに、夜もわたしを待っていたらどうしよう。

 上履きの中に、知らないものが詰まっていたらどうしよう。

 

 でも、開けないと進めない。

 

 唇を噛んで、ゆっくり扉を開けた。

 

 ぎい。

 

 自分の下駄箱の中に、上履きはあった。

 

 いつもの上履き。

 

 少し汚れていて、かかとのところに自分の名前が小さく書いてある。昼間に履いていたものと同じだった。

 

 それを見て、少しだけほっとした。

 

 でも、その奥に紙が入っていた。

 

 小さな紙だった。

 

 折られていない。

 ただ、下駄箱の奥に貼りつくように入っている。

 

 濡れていた。

 

 紙の端がふやけていて、光を当てると少しだけ光った。水に濡れたというより、泥水に触ったみたいな色だった。

 

 わたしは指先でつまんだ。

 

 冷たい。

 

 紙なのに、冷たかった。

 

 表には、文字があった。

 

 ユズ

 

 わたしの名前だった。

 

 見た瞬間、胸の奥が小さく縮んだ。

 

 名前を書かれるのは、変な感じがした。

 

 昼間、先生に名前を呼ばれるのとは違う。

 ノートの表紙に自分で名前を書くのとも違う。

 机の端にいやな文字を書かれたときとも違う。

 

 これは、わたしを見つけるための文字みたいだった。

 

 ここにいる。

 分かっている。

 ちゃんと見ている。

 

 そう言われている気がした。

 

 紙を捨てようとした。

 

 でも、指が動かなかった。

 

 捨てたら、もっと増える気がした。

 捨てなかったら、持っていかなければならない気がした。

 

 どちらもいやだった。

 

「……どうすればいいの」

 

 声が、下駄箱の中に吸い込まれる。

 

 紙を裏返す。

 

 そこにも文字があった。

 

 きて

 

 ひらがな二文字。

 

 それだけだった。

 

 でも、見た瞬間に、背中がぞわっとした。

 

 誰が。

 どこへ。

 どうして。

 

 何も分からない。

 

 ただ、来て、と書いてある。

 

 頼まれたみたいだった。

 

 お願いされたみたいだった。

 

 だから、いやだった。

 

 わたしは、頼まれると断るのが苦手だ。

 

 こわいのに。

 行きたくないのに。

 放っておけばいいのに。

 

 それでも、もしかしたら、誰かが困っているのかもしれないと思ってしまう。夜にいるものは、こわい。でも、こわいだけじゃないことを、わたしは少しだけ知っている。

 

 お化けにも、探しているものがある。

 帰りたい場所がある。

 伝えたいことがある。

 

 そういう夜を、歩いてきた。

 

 でも今は。

 

 これは、本当にお願いなのだろうか。

 

 それとも、わたしを呼ぶための罠なのだろうか。

 

 分からない。

 

 分からないまま、手が震えた。

 

 そのとき、下駄箱の中で別の音がした。

 

 ぎゅ。

 

 さっきの上履きの音。

 

 わたしはゆっくり顔を上げた。

 

 並んでいた上履きのつま先が、少しずつこちらを向いていた。

 

 一足。

 二足。

 三足。

 

 ゆっくり。

 

 とてもゆっくり。

 

 まるで、みんなでわたしの方へ向き直っているみたいに。

 

 わたしは紙を握りしめた。

 

 逃げたい。

 

 でも、どこへ?

 

 校門は閉じている。

 外はもう遠い。

 教室へ行くしかない。

 廊下の奥へ進むしかない。

 

 いやだ。

 

 こわい。

 

 でも、ここで止まっていたら、上履きが全部こっちを向く。

 全部に見られる。

 全部に、わたしだと分かられてしまう。

 

 わたしは上履きに履き替えた。

 

 夜の学校で、上履きに履き替えるなんて変だと思った。

 でも、靴のまま入ったら、校舎に怒られる気がした。

 

 そう思ってしまうくらい、ここは学校だった。

 

 わたしは濡れた紙をハンカチに挟んだ。

 

 捨てられなかった。

 

 それが怖かった。

 

 捨てたいのに、捨てられない自分が、いちばん怖かった。

 

 廊下へ出る。

 

 懐中電灯の光が、長い床を照らした。

 

 昼間よりずっと長い廊下。

 

 窓は黒く、外は見えない。掲示板の紙は端がめくれ、ところどころ濡れていた。壁に貼ってある習字の紙が、光の端で揺れているように見えた。

 

 風はない。

 

 なのに、紙だけが少し揺れている。

 

 廊下の床には、白い線があった。

 

 机の脚で引きずったような線。

 

 一本ではない。

 何本もある。

 

 線は廊下の奥へ続いていた。

 

 きて。

 

 紙に書いてあった言葉を思い出す。

 

 行かなきゃいけないのかな。

 

 そう思った。

 

 行きたくない、と思った。

 

 でも、右のポケットの泥の鈴が冷たくなる。

 

 進めと言っているみたいだった。

 

 違うかもしれない。

 

 ただ冷たいだけかもしれない。

 

 でも、今のわたしには、それを合図みたいに思うしかなかった。

 

 わたしは一歩、廊下へ足を出した。

 

 上履きの底が床に触れる。

 

 きゅ。

 

 小さな音がした。

 

 その音に答えるみたいに、廊下の奥で、教室の扉がひとつだけ動いた。

 

 ぎい。

 

 ゆっくり開く。

 

 そこは、わたしの教室だった。

 

 昼間、机の端に文字が残っていた場所。

 給食の時間に、わたしの机だけ少し離れていた場所。

 息をするのが少し難しくなる場所。

 

 夜のその教室が、口を開けるみたいに、暗い入口を見せていた。

 

 そっと、右のポケットにある。泥の鈴を握った。

 

「……行くしか、ないよね」

 

 声は震えていた。

 

 でも、足は前へ出た。

 

 教室の扉は、少しだけ開いていた。

 

 昼間なら、何も考えずに入っている場所だった。

 でも今は、その少し開いたすきまが、口みたいに見えた。

 

 黒い口。

 

 わたしを待っている口。

 

 廊下の白い線は、教室の前で止まっていた。机を引きずったみたいな跡が、そこだけ何本も重なっている。まるで、何度も何度も、誰かがこの教室の前まで机を運んできたみたいだった。

 

 わたしは扉の前で立ち止まった。

 

 入らなきゃ。

 

 でも、入りたくない。

 

 昼間の教室でも、わたしはいつも少しだけ息が苦しくなる。

 席まで歩くあいだに、誰かの目がこっちを見る。見ていないふりをしていても、空気が分かる。椅子を引く音。小さく動く肩。笑いそうになる口元。

 

 夜の教室なら、誰もいない。

 

 誰もいないはず。

 

 それなのに、昼間よりもずっと入りにくかった。

 

 誰もいないからこそ、昼間の嫌な感じだけが、教室の中に残っている気がした。

 

 わたしは右のポケットを押さえた。

 

 泥の鈴は冷たい。

 その冷たさが、手のひらの奥へ入ってくる。

 

「……少しだけ」

 

「少し、見るだけ」

 

 そう言い聞かせて、扉に手をかけた。

 

 ぎい。

 

 扉が開く。

 

 懐中電灯の光が、教室の中へ細く入った。

 

 机が並んでいた。

 

 全部、きちんと前を向いている。椅子も机の下に収まっている。黒板も、教卓も、窓際の花瓶も、昼間と同じ場所にあった。

 

 同じなのに、違う。

 

 人がいないだけで、こんなに違う。

 

 いつもは机の下に落ちている消しゴムのかすも、誰かの筆箱も、丸めた紙もない。きれいすぎるくらい、何もなかった。

 

 でも、わたしの机だけが、列から少し前に出ていた。

 

 教卓の近くへ、ほんの少し。

 

 みんなの机はちゃんと並んでいるのに、わたしの机だけが前に出ている。昼間、班の輪から少し外れていたときとは逆だった。

 

 今度は、前に出されている。

 

 見られるために。

 

 そこに立たされるために。

 

 そんな気がした。

 

「なんで」

 

 声がこぼれた。

 

 教室の中に返事はなかった。

 

 でも、黒板の方から、粉っぽい匂いがした。チョークの匂い。昼間は何度も嗅いでいるはずなのに、夜の中では、それが少し苦かった。

 

 音を立てないように静かに教室に入った。

 

 一歩。

 二歩。

 

 上履きの音が、床に小さく響く。

 

 きゅ。

 きゅ。

 

 自分の足音なのに、誰かが真似しているみたいに聞こえた。

 

 わたしの机の前まで行く。

 

 机の端には、昼間の文字がまだ残っていた。

 

 ――うそつき。

 

 薄くなっている。

 でも、消えていない。

 

 夜になっても、消えていない。

 

 袖で隠そうとして、やめた。

 

 ここには誰もいない。

 

 誰も見ていない。

 

 それなのに、隠そうとしてしまう自分がいやだった。

 

 見られていなくても、見られているみたいに感じる。

 誰も笑っていなくても、笑われているみたいに感じる。

 

 昼間の教室は、夜になっても、わたしの中から出ていってくれない。

 

 そのとき、黒板で音がした。

 

 かっ。

 

 チョークが当たるような音。

 

 急な音にびっくりして振り向いた。

 

 黒板には、何も書いていなかった。

 

 ……はずだった。

 

 懐中電灯を向けると、黒板の真ん中に白い線があった。

 

 一本。

 

 それが、ゆっくり伸びる。

 

 かっ。

 かり。

 

 誰もいないのに、白い線が増えていく。

 

 文字になっていく。

 

 ユ

 

 わたしは息を止めた。

 

 次の線が引かれる。

 

 ズ

 

 黒板に、わたしの名前が書かれていた。

 

 ユズ。

 

 大きく、真ん中に。

 

 それだけでも怖かった。

 でも、すぐに終わらなかった。

 

 その横に、もうひとつ。

 

 ユズ。

 

 下にも。

 

 ユズ。

 

 小さく。

 大きく。

 斜めに。

 消えかけた字で。

 強く押しつけたみたいな字で。

 

 黒板のあちこちに、わたしの名前が増えていく。

 

 ユズ。

 ユズ。

 ユズ。

 

 名前は、わたしのもののはずだった。

 

 先生に呼ばれたら返事をする。ノートに書いたら、自分のものだと分かる。お父さんが呼んだら、家の中にいる自分になる。

 

 でも、黒板に増えていく名前は、わたしのものじゃないみたいだった。

 

 勝手に書かれている。

 勝手に増えている。

 勝手に、わたしを見つけている。

 

 名前だけが、わたしより先に捕まっていくみたいだった。

 

「やめて……」

 

 声が出た。

 

 でも文字は止まらない。

 

 黒板いっぱいに、ユズ、ユズ、ユズ、と増えていく。

 

 あまりにも不気味で怖くて少しでも黒板から離れるために後ずさった。

 

 そのとき、教室の後ろで何かが動いた。

 

 懐中電灯の光を向ける。

 

 そこに、背の低い影が立っていた。

 

 校門の内側にいた影に似ていた。

 子どもくらいの背。

 黒くて、細くて、顔がない。

 

 胸のあたりに、白い四角がある。

 

 名札だった。

 

 でも、名前のところは黒く塗りつぶされている。

 

 何も書かれていない。

 

 それを見た瞬間、胸がぎゅっとなった。

 

 名前がない。

 

 あの子には、名前がない。

 

 だから、わたしの名前を書いているの?

 

 そう思ってしまった。

 

 こわい。

 

 でも、その影が、少しだけさみしそうにも見えた。

 

 顔もないのに。

 表情なんて分からないのに。

 

 それでも、胸のあたりが痛くなった。

 

 もし、名前がなくなったら。

 

 誰にも呼ばれなくなったら。

 

 自分がここにいたことも分からなくなったら。

 

 わたしは、どうなるんだろう。

 

 黒板の文字が、また増えた。

 

 ユズ。

 

 今度は、影の胸の名札にも白い線が浮かびはじめた。

 

 ユ。

 

 わたしははっとした。

 

「だめ!」

 

 思わず叫んだ。

 

 名札に、わたしの名前が書かれていく。

 

 このまま最後まで書かれたら、何かを取られる気がした。名前だけじゃない。もっと大事な、わたしがわたしでいるためのもの。

 

 わたしは机の上にあった黒板消しをつかんだ。

 

 どうしてそこにあったのか分からない。

 さっきまで、なかったかもしれない。

 

 でも、考えている時間はなかった。

 

 黒板へ走る。

 

 足がもつれそうになる。上履きが床をこする。黒板に手を伸ばし、いちばん大きく書かれた名前を消した。

 

 白い粉が舞う。

 

 ユズ、の文字がにじんで消える。

 

 その瞬間、教室の後ろの影が、少しだけ揺れた。

 

 怒ったのかもしれない。

 困ったのかもしれない。

 分からない。

 

 でも、名札に浮かんでいた「ユ」の文字が薄くなった。

 

 わたしは次の文字を消した。

 

 ユズ。

 ユズ。

 ユズ。

 

 消しても消しても、全部は消えない。

 

 でも、消さなきゃ。

 

 これはわたしの名前だ。

 勝手に持っていかれたくない。

 

 それに、もしあの子が名前を探しているなら。

 

 わたしの名前じゃなくて、あの子の名前を見つけなきゃいけない気がした。

 

 そう思った瞬間、教室の机が一斉に音を立てた。

 

 ぎい。

 

 椅子が少しずつ引かれていく。

 

 誰も座っていないのに。

 

 ぎい。

 ぎい。

 ぎい。

 

 机の列が崩れていく。昼間みたいに、わたしの机だけが少しずつ離れていく。周りの机が、わたしから距離を取るように動いていく。

 

 いやだ。

 

 ここでも、離される。

 

 夜の教室でも、ひとりにされる。

 

 黒板消しを握ったまま、息ができなくなった。

 

 でも、右のポケットが冷たい。

 

 お姉ちゃんのおまじないを思い出す。

 

 怖いとき、胸の中で小さく唱える。

 前より、少しだけ強くなれるように。

 

 ほんの少しだけ。

 

 でも、その少しが、今はほしかった。

 

「……だいじょうぶ」

 

 声は小さかったけど、ちゃんと自分の耳に届いた。

 

 そのとき、教室の扉が大きく開いた。

 

 ばん。

 

 廊下の暗さが、教室の中へ流れ込んでくる。

 

 教室の後ろにいた名札のない影が、すっと横へずれた。逃げ道をふさいだのではなく、道をあけたように見えた。

 

 廊下へ出ろ、ということなのか。

 

 それとも、そっちへ行けば助からないということなのか。

 

 分からない。

 

 でも、黒板の文字はまだ増えている。机はまだ動いている。ここにいたら、わたしの名前がこの教室に貼りついてしまう気がした。

 

 黒板消しを置いて、扉へ走った。

 

 教室を出る直前、振り返った。

 

 名札のない影は、まだそこにいた。

 

 胸の名札には、黒い塗りつぶしだけが残っている。

 

 わたしは小さな声で言った。

 

「……あなたの名前、見つけられたらいいね」

 

 自分でも、どうしてそんなことを言ったのか分からなかった。

 

 こわいのに。

 

 逃げたいのに。

 

 でも、そう言わないと、あの子を置いていくみたいでいやだった。

 

 廊下へ出る。

 

 扉が背中の後ろで閉まった。

 

 教室の中の音が、急に遠くなる。

 

 廊下はさっきより暗かった。

 

 床には、濡れた紙が落ちている。

 

 一枚。

 二枚。

 三枚。

 

 懐中電灯で照らすと、全部に同じ名前が書いてあった。

 

 ユズ。

 

 紙は廊下の奥へ続いている。

 避けようとしても、足元に増えていく。

 

 わたしは踏まないように歩いた。

 

 でも、後ろから音がした。

 

 ぬちゃ。

 

 濡れた紙が床からはがれる音。

 

 見たくなかった。

 

 でも、ほんの少しだけ振り返ってしまった。

 

 避けたはずの紙が、少しずつこっちへ近づいていた。

 

 ぬちゃ。

 ぬちゃ。

 

 名前の紙が、床を這ってくる。

 

 わたしの名前が、追いかけてくる。

 

 喉がつまる。

 

 走った。

 

 廊下を走る。

 

 上履きの音が響く。懐中電灯の光が大きく揺れる。掲示物の影が壁で伸びたり縮んだりする。窓ガラスに、わたしの姿が映る。

 

 でも、窓の中のわたしは、少し遅れて走っていた。

 

 見ない。

 

 見ない。

 

 見たら、そっちのわたしがこっちへ来る気がした。

 

 廊下の奥で、何かが立っていた。

 

 大きい。

 

 人の形に似ているけれど、頭の場所がおかしい。首が長く、ゆらゆら揺れている。腕は床につくくらい長い。足音はしないのに、少しずつ近づいてくる。

 

 見つかった。

 

 そう思った。

 

 胸が冷たくなる。

 

 すぐに懐中電灯を消した。

 

 ぱちん。

 

 廊下が真っ暗になる。

 

 自分の息だけが聞こえる。

 心臓の音がうるさい。

 

 近くにある掃除用具入れの陰へしゃがみこんだ。

 

 目を閉じる。

 

 見ない。

 聞こえても、見ない。

 

 長い腕が床をこする音がした。

 

 ずる。

 

 近い。

 

 もっと近い。

 

 わたしのすぐ前を、何かが通っていく気配がした。湿った匂いがした。古い水と、黒板の粉と、土が混ざったような匂い。

 

 こわい。

 

 泣きそうだった。

 

 でも、声を出したら見つかる。

 

 口を両手で押さえた。

 

 右のポケットの冷たさを感じる。

 左のポケットの音楽プレーヤーの硬さを感じる。

 

 お姉ちゃん。

 

 心の中で呼んだ。

 

 声には出さなかった。

 

 長い腕の気配が、少しずつ遠ざかる。

 

 ずる。

 ずる。

 ずる。

 

 音が廊下の奥へ消えていくまで、わたしは動かなかった。

 

 やっと目を開ける。

 

 廊下は暗い。

 でも、さっきより少しだけ静かだった。

 

 わたしは懐中電灯をつけた。

 

 光の先に、階段が見えた。

 

 上へ続く階段。

 

 踊り場の壁に、泥の手形があった。

 

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 

 手形は、階段を上へ向かって続いている。

 

 音を立てないように近づいた。

 

 泥の手形は小さかった。子どもの手みたいだった。でも指が少し長い。手のひらの真ん中に、黒い穴みたいな丸がある。

 

 右のポケットから、冷たさが強くなる。

 

 わたしは泥の鈴を取り出した。

 

 表面に、新しい線が浮かんでいた。

 

 まっすぐな線。

 曲がった線。

 段々になった線。

 

 階段に似ていた。

 

 次は、上。

 

 そういうことなのだと思った。

 

 階段を見上げた。

 

 見上げてから、すぐに後悔した。

 

 上の暗がりで、何かが動いた。

 

 足音がする。

 

 こつ。

 

 一段。

 

 こつ。

 

 また一段。

 

 何かが、上から降りてくる。

 

 ゆっくり。

 

 わたしの方へ。

 

 泥の鈴を握る手に力が入った。

 

「……来ないで」

 

 声は、階段の暗がりに吸い込まれた。

 

 足音は止まらなかった。

 

 こつ。

 

 こつ。

 

 こつ。





ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
書いていると、「この場面もっと上手く書けたかもな……」「もっといい表現があったんじゃないか……」と思うことが毎回かなりあります。
それでも少しずつ形にしていければと思っているので、これからも読んでいただけると嬉しいです。
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