夜のむこうの帰り道 作:とーすと
ハーメルンで夜廻シリーズの作品、もっと増えてくれないかなーと思いながら、たまに検索しては眺めています。
夜廻を書いてくれる方が、いつかもっと増えたらいいなと、のんびり願っています。
それではご覧ください。
階段の上から、足音が降りてくる。
こつ。
一段。
こつ。
また一段。
ゆっくりなのに、近づいてくるのが分かった。音だけが先に降りてきて、姿はまだ見えない。懐中電灯の光は階段の途中で止まっていて、その先は黒く沈んでいる。
見えない。
でも、いる。
喉の奥がきゅっと狭くなった。息を吸うと、ほこりと土の匂いが入ってくる。学校の匂いじゃない。夜の匂いだった。さっきまで教室にいたのに、ここだけ廃ビルの階段に戻ったみたいだった。
右のポケットが冷たい。
泥の鈴が、ハンカチ越しに手のひらへ冷たさを押しつけてくる。痛いくらいだった。まるで、ここにいる、と言っているみたいに。
左のポケットには、お姉ちゃんの音楽プレーヤーがある。
そっちは何も反応しない。
でも、硬い角の感触だけで少しだけ落ち着いた。そこにお姉ちゃんがいるわけじゃない。分かっている。それでも、お姉ちゃんが使っていたものがそこにあるだけで、完全にひとりじゃないと思いたかった。
こつ。
足音が、もう少し下に来た。
見上げたら、見えるかもしれない。
足。
手。
顔。
でも、見てはいけない。
そう思った瞬間、体の中が冷たくなった。誰かに教えられたわけじゃない。文字で書いてあったわけでもない。ただ、分かった。
上を見たらだめ。
見たら、あれもこっちを見る。
足が動かない。膝が震える。逃げたい。階段から離れて、廊下へ戻って、校門まで走って、家に帰りたい。
でも、廊下には名前の紙がある。
黒板いっぱいに増えた名前がある。
名札のない子がいた教室がある。
戻っても、怖い。
進んでも、怖い。
どこにも、怖くない場所がない。
「……だいじょうぶ」
小さく言った。
ぜんぜん大丈夫じゃなかった。
声は震えていたし、泣きそうだったし、階段の上から降りてくるもののことを考えるだけで、胸の奥がぎゅっと痛くなる。
でも、お姉ちゃんがくれた勇気のおまじないを思い出した。
怖くなくなるおまじないじゃない。
怖いままでも、一歩だけ動けるようになるおまじない。
お姉ちゃんは、きっと怖くても進んだ。
泣きそうでも、足が震えても、夜の中で立っていた。
だから、あのおまじないをくれたのだと思う。
怖くなくなるためじゃない。
怖くても、少しだけ前へ進めるように。
だから、今度は。
今度は、こっちが進まなきゃ。
懐中電灯を消した。
ぱちん。
暗くなる。
階段の上も、踊り場も、廊下も、全部が同じ黒になった。目を開けているのに、閉じているみたいだった。怖い。でも、見えないなら、見上げなくてすむ。
足音が近づく。
こつ。
こつ。
階段の壁に手をつける。冷たい。少し湿っている。指先に、ざらざらした泥の感触がついた。
掃除用具入れの横に、体を小さくしてしゃがむ。
息を止める。
胸が苦しい。
それでも、動かない。
階段の上から、何かが降りてくる。
こつ。
こつ。
すぐそこ。
足だけが、暗闇の中から見えた。
見ちゃだめ。
そう思ったのに、見えてしまった。
白い足。
上履き。
でも、向きがおかしい。
下へ降りているはずなのに、つま先が上を向いていた。
体は、どっちを向いているの。
考えた瞬間、頭の中がぞわっとした。
顔を見たら、終わる。
目を閉じた。
暗闇より、もっと暗くなる。
足音だけが、耳の横を通りすぎていった。
こつ。
こつ。
目を閉じているのに、白い上履きだけがまぶたの裏に残っていた。つま先が逆を向いた足。下りているのに、上を向いている足。
体はどうなっているのだろう。
考えたくないのに、頭が勝手に考えてしまう。
もし、顔がこっちを向いていたら。
もし、階段を下りながら、ずっと天井を見ていたら。
もし、わたしが見上げた瞬間、その顔と目が合ったら。
だめ。
考えちゃだめ。
息を止めているせいで、胸が痛い。口を少し開けそうになって、あわてて閉じた。音を立てたら、見つかる。息の音だけでも、こっちを向くかもしれない。
何かが、すぐ前で止まった。
こつ、と最後に一度だけ音がして、それから何も聞こえなくなった。
通りすぎたのか、まだそこにいるのか分からない。
目を開けたい。
でも開けたくない。
開けたら、目の前に足があるかもしれない。
足だけじゃなくて、顔があるかもしれない。
暗闇の中で、右手だけがぎゅっと丸まっていた。ハンカチ越しの冷たさが、指の先までしみてくる。
怖い。
ほんとうに怖い。
でも、その冷たさがあると、ここに自分の手があると分かる。まだ消えていない。まだ、ちゃんとここにいる。
胸の中で、お姉ちゃんのおまじないを思い出した。
怖くなくなるわけじゃない。
怖いまま、目を閉じたまま、体が震えたまま。
それでも、ほんの少しだけ、次に何をすればいいのか考えられる。
まず、息をする。
小さく。
気づかれないくらい。
鼻から、ほんの少しだけ空気を吸った。
ほこりの匂い。
古い水の匂い。
土の匂い。
それから、かすかに、上履きのゴムみたいな匂い。
まだいる。
そう思った瞬間、背中が冷たくなった。
目は開けない。
開けないまま、耳だけをすませた。
こつ。
遠くで音がした。
もう一度。
こつ。
遠ざかっている。
ゆっくり、廊下の方へ行っている。
掃除用具入れの陰で、体を小さくしたまま、しばらく動けなかった。足音が完全に聞こえなくなっても、まだ動けない。さっきの逆向きの上履きが、すぐそこに戻ってくる気がした。
それでも、ずっとここにはいられない。
まぶたを少しだけ開けた。
懐中電灯を消しているせいで、階段の下はほとんど真っ暗だった。でも、廊下の奥にぼんやりした非常灯の光があって、床の輪郭だけが薄く見える。
誰もいない。
足もない。
ほっとした瞬間、膝から力が抜けそうになった。
「……いなくなった?」
声にしたら、また来てしまいそうで、すぐに口を閉じた。
立ち上がる。
足がしびれていた。少し動かすだけで、膝のあたりががくがくする。手すりに触れると、冷たい水を触ったみたいだった。
懐中電灯をつける。
ぱちん。
光が戻る。
階段には、泥の手形が残っていた。
壁にも、床にも、手すりの下にも、小さな手形が続いている。上へ。もっと上へ。さっき降りてきたものとは反対の方へ。
行きたくない。
でも、行くしかない。
一段目に足をのせる。
きい、と上履きが鳴った。
その音だけで、また何かが降りてくる気がして、息が止まった。でも何も聞こえない。上は静かだった。
上を見ない。
足元だけを見る。
一段。
また一段。
階段の端には、黒い土が少しずつ落ちていた。踏まないようにする。でも、避けても避けても、次の段にまたある。まるで土が先に進んで、道を作っているみたいだった。
壁の手形は、少しずつ形が変わっていく。
最初は子どもの手みたいだった。
でも上るほど、指が長くなっている。
手のひらの真ん中にある黒い丸も、大きくなっている。
見ない方がいい。
そう思っても、どうしても見てしまう。
何かを探している手なのかもしれない。
何かを呼んでいる手なのかもしれない。
それとも、上へ来いと言っているのかもしれない。
踊り場に着いた。
ここで、さっきの足音を聞いた。
ここから上に、あれがいた。
頭の中でそう思っただけで、首が勝手に上を向きそうになる。
だめ。
顎を下げた。
床だけを見る。
懐中電灯の光の中に、濡れた紙があった。
ユズ。
自分の名前。
また。
足元の紙は、下の階で見たものより黒く濡れていた。文字が少しにじんで、名前の形がくずれかけている。
見つけられている。
そう思った。
校門をくぐって、校庭を通って、下駄箱に入って、教室から逃げて、ここまで来たのに。名前だけはずっと追ってくる。
踏まないようにまたぐ。
でも、紙の端が少しだけ動いた。
ぬちゃ。
床からはがれる音。
見たくない。
進む。
次の段へ足をのせたとき、下から音がした。
ぬちゃ。
ぬちゃ。
紙が這ってくる音。
早く行かなきゃ。
でも、走れない。
走ったら上を見てしまう。足を踏み外す。音も大きくなる。さっきの逆向きの足が戻ってくるかもしれない。
ゆっくり。
でも止まらない。
そう決めて、階段を上った。
途中、壁に貼られた紙が目に入った。
黒く塗りつぶされた名札みたいな紙。
名前のところだけ、真っ黒だった。
下の教室にいた子を思い出した。顔のない、名札のない子。黒板にわたしの名前が増えていったとき、胸の名札にも同じ文字が浮かびかけていた。
あの子は、わたしの名前を取ろうとしたのだろうか。
それとも、自分の名前がほしかったのだろうか。
考えると、怖さといっしょに、別の気持ちが出てきた。
かわいそう、と思ってはいけない気がした。
でも、思ってしまった。
名前がないのは、きっとこわい。
呼ばれないのも、きっとこわい。
わたしだって、教室で名前を呼ばれないとき、いないものみたいな気がする。だけど、黒板に勝手に名前を書かれるのも怖かった。
名前は、呼んでほしい人に呼ばれたい。
勝手に書かれるのは、いやだ。
そんなことを考えていると、上の方で小さな音がした。
かた。
足が止まる。
上を見そうになる。
だめ。
目線を下へ落としたまま、耳をすませる。
かた。
かた。
何かが揺れている音。
足音ではない。
扉でもない。
吊られているものが、ゆっくり動くような音。
見ない。
見てはいけない。
胸の中で何度も言いながら、踊り場を越えた。
やっと、上階の廊下に出た。
階段よりも暗かった。
窓が並んでいる。でも外の景色は映っていない。黒いガラスが、ただ黒いまま続いている。懐中電灯を向けると、光の中に自分の姿がぼんやり映った。
すぐに目をそらした。
窓に映るものは信用できない。
そう思ったのに、視界の端で、窓の中の自分が首をかしげた気がした。
足が止まる。
見ちゃだめ。
見たら、たしかめたくなる。
たしかめたら、きっと戻れなくなる。
首の後ろがむずむずした。自分の首も、同じように傾きそうになる。右手で首元を押さえた。
首の後ろがむずむずした。
窓の中の自分と同じように、首が傾きそうになる。
だめ。
心の中でそう言って、顎を少し引いた。
視線を床へ落とす。
黒い窓は、もう見なかった。
ガラスの奥で何かが笑ったような気がした。
廊下の床には、机を引きずったような白い線が続いていた。線はまっすぐではなく、少し蛇みたいに曲がっている。何度も止まって、また進んで、職員室の方へ向かっていた。
職員室。
昼間でも、あまり近づきたくない場所。
先生たちがいる場所。
何かあったとき、呼ばれる場所。
自分のことを話されているかもしれない場所。
夜の職員室は、もっといやだった。
通りすぎればいい。
屋上へ行くなら、階段を探せばいい。
名札のない子のことも、名前の紙のことも、知らないふりをすればいい。
そう思った。
でも、廊下の奥から音がする。
とん。
とん。
とん。
机を叩くような音。
ゆっくり。
同じ速さで。
誰かが待っているみたいに。
職員室の扉が、少しだけ開いていた。
隙間から、中の暗さが見える。
通りすぎようとした。
でも、光が床を照らしたとき、見えてしまった。
扉の前に、名札が落ちていた。
泥で汚れている。
名前のところは、黒く塗りつぶされている。
教室にいた、あの子のものかもしれない。
そう思った瞬間、足が動かなくなった。
行かなきゃ。
でも、どっちへ?
屋上へ行かなきゃいけない。
お姉ちゃんを取り戻したい。
そのために、ここまで来た。
なのに。
泥で汚れた名札から、目をそらせなかった。
もし、これを置いていったら。
あの子はずっと名前を探すのかもしれない。
黒板に、誰かの名前を書き続けるのかもしれない。
自分の名前が分からないまま、夜の学校にいるのかもしれない。
こわい。
近づきたくない。
でも、放っておくのも、いやだった。
お姉ちゃんのおまじないを胸の中で思い出す。
怖いままでも、一歩だけ。
一歩だけなら。
職員室の扉の前に立った。
中から、また音がした。
とん。
とん。
とん。
まるで、入って、と言っているみたいだった。
右ポケットの中で、ハンカチに包んだ泥の鈴が重く沈んでいた。
音はしない。
けれど、その重さだけで、ここまで来た理由を忘れずにいられた。
左のポケットには、お姉ちゃんの音楽プレーヤーがある。
何も聞こえなくても、その硬い感触が少しだけ背中を支えてくれた。
息を吸う。
手を伸ばす。
扉の隙間に、指をかけた。
「……少しだけ」
声は、ほとんど息みたいだった。
「見たら、すぐ出るから」
誰に言ったのか分からない。
自分にかもしれない。
中にいる何かにかもしれない。
扉を、ゆっくり開けた。
職員室の中は、思っていたより広かった。
昼間は、先生たちの声がする場所。
プリントの紙が重なる音や、電話の音や、誰かが椅子を引く音がする場所。
でも今は、何もなかった。
何もないのに、静かではなかった。
机が並んでいる。
椅子がある。
棚がある。
壁には予定表が貼られている。
奥には、コピー機の白い形がぼんやり浮かんでいる。
知っているものばかりだった。
でも、人がいないだけで、全部が知らないものみたいに見えた。
先生の机の上には、出席簿が開いたまま置かれていた。懐中電灯の光が、紙の上をなぞる。名前がいくつも並んでいる。
クラスの子たちの名前。
自分の名前。
見たくないと思ったのに、見つけてしまった。
ユズ。
その文字だけが、少し濡れていた。
紙の上に、水を落としたみたいに、黒くにじんでいる。
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
また名前。
黒板にも、廊下の紙にも、下駄箱の紙にも、わたしの名前があった。
ここにもある。
もう、どこへ行っても見つけられているみたいだった。
自分の名前なのに、見るたびに怖くなる。
おかしい。
ここにある名前は、違う。
わたしを呼んでいるんじゃない。
わたしを閉じ込めようとしている。
そんな気がした。
とん。
奥の方で音がした。
さっき、廊下で聞いた音。
とん。
とん。
机を叩くような、ゆっくりした音。
逃げたい。
でも、足元には泥で汚れた名札がある。
名前のところを黒く塗りつぶされた、あの名札。
名札のない子。
教室の後ろに立っていた影を思い出す。顔はなかった。何も言わなかった。でも、胸の黒い名札だけが、妙にはっきり見えた。
怖かった。
今でも怖い。
でも、ただ怖いだけではなかった。
名前がないのは、どんな感じなのだろう。
誰にも呼ばれない。
自分でも分からない。
ここにいたのに、どこにも残らない。
そう考えると、胸の奥がちくっとした。
床の名札を拾う。
冷たい泥が、指先についた。
ほんとうは触りたくなかった。
でも、拾わないまま進むこともできなかった。
胸の奥に、お姉ちゃんが残してくれたものを思い出す。
怖さは消えない。
足も震える。
指先も冷たい。
それでも、手を伸ばすことくらいならできる気がした。
たぶん。
ほんの少しなら。
とん。
また音がした。
職員室の奥。
コピー機の近く。
懐中電灯の光を向けると、床に小さな上履きが片方だけ落ちていた。
かかとのところに、かすれた文字がある。
名前。
泥と黒い汚れで、ほとんど読めない。
でも、全部が消えているわけではなかった。
名札のない子が、探していたもの。
そう思った瞬間、職員室の空気が少しだけ重くなった。
どこかで椅子が、ゆっくり回る音がした。
きい。
職員室の中に、細い音が伸びる。
懐中電灯の光を動かすと、誰も座っていない椅子が、机の前で少しだけ揺れていた。さっきまで動いていなかったはずなのに、今は背もたれがこちらを向いている。
見られている。
椅子なのに、そう思った。
机の上には、開いた出席簿がある。
濡れた名前。
黒くにじんだ文字。
床には泥で汚れた名札。
少し離れたところに、片方だけの上履き。
どれも、ばらばらに置かれているのに、全部が同じものを探しているように見えた。
名前。
呼ばれるためのもの。
自分だと分かるためのもの。
あの子は、学校で名前をずっと探しているのかな。
少し離れたところに片方だけ置いてある上履きが気になって近づいて拾い上げた。
泥で汚れたかかとに、懐中電灯の光を当てる。
黒くにじんだ汚れのせいで、名前はほとんど読めない。
けれど、最後の一文字だけが、かすれて残っていた。
小さな文字。
それだけでは、誰のものか分からない。
でも、何もないよりはいい気がした。
名札を机の上に置く。
上履きのかかとの文字を、もう一度見る。
それから、近くにあった赤鉛筆を手に取った。
勝手に触っていいのかな、と思った。
昼間なら、先生に怒られる。
でも今、怒る人はいない。
赤鉛筆の先は少し丸くなっていた。紙を探す。机の上に、小さなメモ用紙があった。白い紙。端が少し曲がっている。
そこに、かすれて残っていた一文字を書いた。
きれいには書けなかった。
手が震えていたから、線が少し曲がった。
でも、書いた。
その紙を、黒く塗りつぶされた名札の上に置く。
完全な名前じゃない。
本当の名前じゃないかもしれない。
でも、何もないままよりは、少しだけましだと思いたかった。
「……これしか、分からない」
声が小さく落ちた。
「ごめんね」
謝ってから、胸の奥がきゅっとした。
こわい相手に謝っている。
逃げなきゃいけない場所で、こんなことをしている。
でも、置いていけなかった。
そのとき、コピー機が動いた。
がこん。
大きな音に、体が跳ねた。
白い機械の中で、何かが回り始める。光が走る。紙が一枚、ゆっくり出てくる。
じじじ。
机の下に逃げようとして、足が止まった。
出てきた紙に、文字がある。
ユズ。
また。
次の紙が出てくる。
ユズ。
また次。
ユズ。
何枚も、何枚も。
白い紙が床に落ちて、名前だけが増えていく。黒板と同じ。廊下の紙と同じ。どこへ行っても、名前が先回りしている。
いやだ。
もうやめて。
そう思った瞬間、職員室の奥に、黒い影が立っているのが見えた。
名札のない子。
顔はない。
胸の白い四角は、まだ黒く塗りつぶされている。
でも、その黒の上に、さっき書いた一文字だけが、うっすら浮かんでいた。
ちゃんと届いたのかもしれない。
そう思った。
影は動かない。
ただ、名札を見ている。
こわい。
でも、少しだけ、さっきと違って見えた。
わたしの名前を奪いに来たものじゃないのかもしれない。
自分の名前をなくして、ずっと探していたのかもしれない。
そう思ったとき、廊下の方から音がした。
こつ。
階段で聞いた音。
こつ。
逆向きの上履き。
近づいてくる。
コピー機の音は止まらない。床には名前の紙が増えていく。廊下からは足音が来る。職員室の中の椅子が、いっせいに少しずつこちらを向き始めた。
逃げなきゃ。
でも、足が動かない。
どこへ隠れればいいのか分からない。
机の下。棚の影。コピー機の横。
足音が近い。
こつ。
こつ。
懐中電灯を消した。
ぱちん。
暗くなる。
近くの机の下へ潜り込んだ。膝を抱えて、口を押さえる。出てきた名前の紙が、床の上でぬるりと動く気配がした。
こつ。
足音が、職員室の入口で止まった。
見ない。
見上げない。
顔を上げない。
机の下から見えるのは床だけ。散らばった紙。椅子の脚。机の影。自分の上履き。
その向こうに、白い上履きが見えた。
つま先が、上を向いている。
息が止まる。
逆さ足の子が、職員室に入ってきた。
こつ。
一歩。
こつ。
また一歩。
机の下に隠れているのに、すぐ近くにいると分かる。床を踏む音が、胸の奥に直接響いてくる。
紙が一枚、足元へ滑ってきた。
ユズ。
見つけた、と言われているみたいだった。
涙が出そうになる。
でも、泣いたら息が震える。
声が出る。
見つかる。
小さく、小さく息をする。
そのとき、机の外で黒い影が動いた。
名札のない子だった。
影は、逆さ足の子の前に立った。
何も言わない。
音も立てない。
ただ、そこに立つ。
逆さ足の子の白い上履きが、ぴたりと止まった。
空気が重くなる。
見てはいけないのに、見たくなる。
何が起きているのか、たしかめたくなる。
でも、顔は上げない。
床だけを見る。
名札のない子の影が、少しずつ廊下の方へ動いた。
逆さ足の子の足も、それについていく。
こつ。
こつ。
足音が遠ざかる。
名札のない子が、連れていってくれた。
そう思った。
完全に安全になったわけじゃない。
助けてくれたのかどうかも、本当は分からない。
でも、今はそう思いたかった。
しばらくして、職員室の中が静かになった。
コピー機も止まっている。
椅子も動かない。
床の紙も、ぴたりと止まっていた。
机の下から、ゆっくり出る。
膝が震えていた。
名札は、机の上に残っている。黒く塗りつぶされたところはまだ消えていない。でも、その上に置いた紙の一文字だけは、ぼんやり光っているように見えた。
「……ありがとう」
小さく言った。
誰に向けたのか、自分でも分からなかった。
名札を持っていくべきか迷った。
でも、ここに置いていく方がいい気がした。
その子が、また取りに戻れるように。
職員室を出る。
廊下は、さっきより静かだった。
奥に、階段が見える。
上へ続く階段。
屋上へ近づく道。
行きたくない。
でも、行く。
怖さは消えていない。
足も震えている。
けれど、胸の奥に残っている小さな勇気だけは、まだ消えていなかった。
階段の前に立つと、土の匂いが濃くなった。
踊り場の壁に、泥の手形がある。
一つ。
二つ。
三つ。
上へ続いている。
ポケットの中で、泥の鈴の重さが沈んでいる。取り出してみると、表面に新しい線が浮かんでいた。
四角い形。
縦の線。
小さな取っ手みたいな傷。
扉に見えた。
屋上の扉。
階段の上に、そこへ続く暗さがある。
顔を上げそうになって、すぐにやめた。
上を見てはいけない。
さっきより強く、そう思った。
階段の上で、何かが揺れている音がした。
ぎい。
ぎい。
鉄の扉の音ではない。
もっと柔らかいものが、天井からぶら下がって揺れているような音。
足元だけを見る。
一段目に足をのせる。
上履きの底が、冷たい階段に触れた。
一段。
また一段。
上は見ない。
泥の手形だけを追う。
階段の端だけを見る。
自分の足だけを見る。
ぎい。
上で何かが揺れている。
ぎい。
近づいているのか、ただそこにあるのか分からない。
でも、見ない。
見たら、きっと向こうも気づく。
胸の中で、あの小さな勇気をもう一度握りしめる。
一段。
また一段。
最後の踊り場を曲がる。
目の前に、鉄の扉があった。
屋上へ続く扉。
扉の下のすきまから、冷たい空気が流れている。
土の匂いがした。
廃ビルの祠の前と同じ匂い。
手を伸ばす。
扉は、閉まっている。
けれど、鍵はかかっていない気がした。
上の方で、まだ何かが揺れている。
ぎい。
ぎい。
見ないまま、扉の取っ手を握った。
冷たかった。
指先が痛くなるくらい。
「……開けるよ」
声は小さかった。
返事はない。
扉の向こうから、また土の匂いが流れてきた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
最近、気づくと夜更かししていることが増えてきました。
「もう少しだけ起きてよう」が、一番危ない気がします。
でも、なんだかんだ。起きてしまっていることが多いです。