夜のむこうの帰り道 作:とーすと
誰か読んでいる人がいる。それだけで、嬉しい気持ちが湧いてきます。
第6話もお楽しみいただければ幸いです。
それではご覧ください。
取っ手を握ったまま、しばらく動けなかった。
冷たい。
ただ冷たいだけじゃない。指の先から、腕の中まで、ゆっくり冷たさが入ってくる。鉄の扉なのに、地面の奥に埋まっていた石を触っているみたいだった。
扉の下のすきまから、細い風が流れてくる。
夜の風。
土の匂い。
濡れたコンクリートの匂い。
後ろの階段では、まだ何かが揺れている。
ぎい。
ぎい。
上の方から聞こえるのに、見てはいけない。
見上げたら、さっきの逆向きの足より、もっとだめなものが見える気がした。
取っ手を握る手に力を入れる。
開けたくない。
でも、開けなきゃ。
ここまで来た。
閉じた校門のすきまを通った。
誰もいない校庭で、知らない足跡を避けながら歩いた。
下駄箱では、濡れた紙に自分の名前を見つけた。
教室の黒板には、消しても消しても名前が増えていった。
職員室では、黒く塗りつぶされた名札を拾った。
ひとつ進むたびに、帰る場所が少しずつ遠くなっていった。
ここで戻ったら、今まで見たものも、聞いたものも、全部なかったことにしなければならない気がした。
ここで帰ったら、全部が途中で終わってしまう。
それは、いやだった。
「……開けるよ」
もう一度、小さく言った。
誰かに聞かせるためじゃない。
言わないと、手が動かなかった。
取っ手を回す。
ぎし、と音がした。
扉は重かった。さびているのか、それとも向こう側から何かが押さえているのか、少しずつしか開かない。肩で押す。足で踏んばる。上履きの底が、階段の床で小さく鳴った。
ぎい。
扉が開いた。
すきまから、黒い空気が入ってくる。
夜の校舎の中より、もっと広い暗さだった。
廊下の暗さは壁や天井に囲まれていた。でも、扉の向こうの暗さには、終わりがない。
外だ。
屋上だ。
でも、見上げてはいけない。
そう思った瞬間、首の後ろが固くなった。
空を見ちゃだめ。
何があるのか、知りたい。
見れば分かる。
見れば、どうして怖いのか分かる。
でも、分かったら終わる。
そんな気がした。
扉を少しだけ広く開けて、足元に懐中電灯の光を落とす。床が見えた。屋上のコンクリート。細かいひび。黒いしみ。そこに、湿った土が点々と落ちている。
学校の屋上に、土なんてあるはずがない。
でも、あった。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
それは、何かが歩いたあとみたいに、屋上の奥へ続いていた。
足跡じゃない。
手形でもない。
ただ、土が落ちているだけ。
なのに、道みたいだった。
一歩、屋上へ出る。
扉の内側にいたときより、空気が軽いはずなのに、胸が苦しかった。広い場所なのに、逃げ場がない。上も、横も、ぜんぶ夜に開いている。どこからでも見つかってしまう気がする。
顔を上げない。
足元だけを見る。
懐中電灯の白い光の中に、自分の上履きがある。つま先が少し汚れている。さっき階段でついた泥が、かかとの横に残っている。
これだけ見ていればいい。
これだけ。
ぎい。
上で、また音がした。
今度は階段の中ではなかった。
屋上の上。
空の方。
何かが揺れている。
やわらかいものが、ゆっくり揺れている音。
ひもか、布か、もっと別のものか。
見たい。
見たくない。
知りたい。
知りたくない。
頭の中で、いろんな気持ちがぶつかった。怖いものは、見えない方が怖い。でも、見たらもっと怖くなることも知っている。
右手が勝手にポケットを探った。
ハンカチに包んだ泥の鈴の形が、布越しに分かる。丸くて、重くて、まだ少し湿っているような感触。握ると、さっきまでばらばらだった気持ちが、少しだけ手の中に集まった。
大丈夫じゃない。
でも、進める。
一歩だけなら。
屋上の床を進む。
光の輪が前へ動く。土の点が続いている。その先に、黒い跡があった。水たまりみたいに見えるけれど、水ではない。懐中電灯の光を当てても、表面は光らなかった。
黒い穴みたいだった。
その中に、空が映っている。
見上げていないのに、空が見えた。
ユズは息を止めた。
黒い跡の中に映った空は、本当の空と同じではなかった。星もない。雲もない。ただ黒いだけ。けれど、その奥で何かがゆっくり動いた。
長いもの。
細いもの。
揺れているもの。
見ちゃだめ。
思わず目をそらした。
心臓が痛いくらい鳴っている。
足元だけを見ていても、空は足元に落ちてくる。
見ないようにしても、向こうから見せてくる。
屋上の真ん中に、何かが立っていた。
小さな黒板だった。
教室にあるものより小さい。脚がついていて、そこだけぽつんと置かれている。どうして屋上に黒板があるのか分からない。脚の下には、泥がこびりついていた。
そこに文字があった。
白いチョークじゃない。
泥で書いたみたいな、黒く濡れた文字。
みないで
ひらがなで、そう書いてあった。
見ないで。
誰が書いたのだろう。
何を見ないでほしいのだろう。
空。
上にいるもの。
それとも、怖がっている誰かの顔。
分からない。
でも、その文字を見た瞬間、胸の奥が小さく震えた。
命令みたいにも見えた。
お願いみたいにも見えた。
見ないで。
見つけないで。
知らないで。
そんなふうにも見えた。
屋上の床に、影が落ちた。
頭の上からではなく、足元に先に来た。
長い影。
人の形に少し似ている。でも首が長すぎる。腕も長すぎる。影の頭が、屋上の床の上でゆっくり曲がった。
こっちを向いた。
空を見ていないのに。
向こうが、こっちを見ている。
喉が音を立てそうになって、口を両手で押さえた。
動かない。
見上げない。
影を踏まない。
そう思った。
誰に教えられたわけでもない。
でも、体が勝手に分かった。
見られちゃだめ。
足元の影が、少しずつ近づいてくる。
泥の鈴を握る手に、ぎゅっと力が入った。
その表面が、ハンカチ越しに少しだけ震えた気がした。
影が、床の上を這うみたいに近づいてきた。
足音はしない。
上で何かが揺れる音だけがする。
ぎい。
ぎい。
そのたびに、床の影も少しずつ揺れた。水に映ったものみたいに、形が伸びたり縮んだりする。でも、これは水じゃない。屋上のコンクリートに落ちている、黒い影だった。
踏んだら、だめ。
そう思った。
踏んだら、たぶん気づかれる。
もう気づかれているのかもしれないけれど、もっと近くまで来てしまう。
息を小さくする。
影は、わたしの上履きのすぐ前まで伸びていた。あと少し足を出していたら、つま先が黒いところに触れていたかもしれない。
動けない。
動いたら踏む。
止まっていたら近づいてくる。
どうしたらいいのか分からなくて、手の中の泥の鈴を握った。ハンカチの布が少し湿っている。そこから、土の冷たさがじんわり指にうつる。
怖いとき、何かを強く握ると、少しだけ体がここに戻ってくる。
屋上の上には、見てはいけないものがいる。
でも、今ここにいるのはわたしだ。
足も、手も、息も、まだちゃんとある。
影の頭が、床の上でゆっくり動いた。
わたしを探しているみたいだった。
見上げていないのに、見られている感じがする。目がどこにあるのか分からないものに、じっと見られている。それが、いちばん気持ち悪かった。
黒板の文字が目に入った。
みないで。
泥で書かれたその字は、さっきより濃くなっている気がした。
見ないで。
それは、わたしに言っているのかもしれない。
上にいるものに言っているのかもしれない。
それとも、誰かが自分に言い聞かせた言葉なのかもしれない。
見ない。
見られない。
見つからない。
その三つが、頭の中でぐるぐる回る。
影が少し引いた。
今だ。
そう思った瞬間、足が動いた。
一歩。
影を踏まないように、黒いしみのない場所へ足を置く。上履きの底がコンクリートに触れた音が、やけに大きく聞こえた。
きゅ。
体が固まる。
上で揺れる音が止まった。
静かになった。
静かすぎた。
音がある方が、まだ怖くなかった。何かが揺れていると分かるから。今は、何も聞こえない。上にいるものが止まったのか、こちらを見ているのか、近づいているのか、分からない。
顔を上げたい。
だめ。
足元を見る。
コンクリート。
ひび。
土。
黒いしみ。
わたしの上履き。
それだけを見る。
もう一歩。
影の端を避ける。
屋上の床に落ちた土は、黒板の向こうへ続いていた。点々と、何かがこぼしたみたいに続いている。そこをたどればいいのだと思った。
でも、道はまっすぐではなかった。
黒いしみのそばを曲がり、影の間を抜け、ところどころで途切れている。まるで、わたしがどこを歩けば怖がるのか、分かっているみたいだった。
足を置く場所を探す。
急げない。
でも、遅すぎてもだめ。
屋上の上で、また音がした。
ぎい。
今度は少し近かった。
見ない。
足だけを見る。
そう思っていたのに、床に落ちた影が、いきなり長く伸びた。わたしの足の横を通りすぎて、黒板の脚に触れる。
黒板が少し揺れた。
かた。
泥の文字が、にじむ。
みないで。
その下に、別の線が浮かんだ。
まだ文字になる前の線。
誰かが、濡れた指でなぞっているみたいだった。
ゆっくり。
ゆっくり。
それは新しい言葉になった。
こわい
見た瞬間、胸の奥がつまった。
怖い。
それは、わたしの気持ちだった。
でも、わたしが書いたわけじゃない。
声に出してもいない。
なのに、黒板に出てきた。
まるで、この屋上が、わたしの中をのぞいているみたいだった。
いやだ。
怖いと思っていることまで、知られたくない。
怖いのは本当だけど、知られたら、そこをつかまれる気がした。
黒板の文字が、またにじむ。
こわい
その下に、小さな線が増える。
でも、最後まで見てはいけない気がした。
文字を読むのも、見ていることになるのかもしれない。
視線を床へ落とす。
そのとき、左のポケットの中で、硬いものが体に当たった。
音楽プレーヤー。
何も流れていない。画面も見えない。ただ、服の中で小さな角が当たっているだけ。それなのに、その硬さで思い出す。
全部が夜のものになったわけじゃない。
まだ、昼にあったものも持っている。
お姉ちゃんが使っていたものも、ここにある。
そのおかげで、ほんの少しだけ息ができた。
黒板の横を通る。
見ないで。
こわい。
泥の文字を横目に見ないようにして、足元だけを見て進む。
黒板の向こうに、小さな影があった。
祠に似ていた。
でも、廃ビルの屋上にあったものとは違う。学校の屋上に、そんなものがあるはずもない。近づくと、それが木でも石でもないことが分かった。
机だった。
小さな机。
小学校の机より、もっと小さい。
古くて、脚が少し曲がっている。
上には泥が積もっていて、その真ん中に、黒い小さなかたまりが置かれていた。
祠に見えたのは、その机が、何かをまつる場所みたいにそこにあったからだった。
近づきたい。
でも、そこへ行くまでの床には、影がいくつも落ちている。
長い影。
細い影。
首の曲がった影。
名前の紙みたいに平たく広がる影。
どれも、空から落ちている。
でも、空を見ない。
上に何があるのか、考えない。
考えたら、頭の中に形ができてしまう。
形ができたら、見たくなる。
見たら、きっと終わる。
机まであと少し。
一歩。
止まる。
影の頭が動く。
動かない。
息を止める。
影が通りすぎる。
また一歩。
足が震えている。上履きの先が、影の端に触れそうになる。あわてて引っ込めた。バランスを崩しそうになって、片手をつきそうになる。
だめ。
床にも影がある。
手をつく場所も選ばないといけない。
怖い。
頭の中で何度も言葉が出てくる。
怖い。
怖い。
怖い。
黒板に書かれた言葉と同じ。
でも、怖いと思うことは、悪いことじゃない。
そう思おうとした。
怖いから止まる。
怖いから見る。
怖いから逃げる。
でも、怖いから、気をつけられる。
怖いままでも、進める。
胸の奥に残っている小さな勇気を、ぎゅっと握るみたいに息を吸った。
机の前に着いた。
上は見ない。
机の上だけを見る。
泥のかたまりだと思ったものは、しずくの形をしていた。涙みたいな形。黒くて、でも泥の鈴と同じような色で、近づくと少し震えているように見えた。
触っていいのか分からない。
でも、ここまで来たのは、これのためだと思った。
指を伸ばす。
しずくに触れた瞬間、手のひらの中に、冷たさではないものが入ってきた。
震え。
誰かの手の震えだった。
わたしの手じゃない。
なのに、手が震える。
喉がつまる。
息が浅くなる。
逃げたい。
でも、逃げられない。
そんな気持ちが、胸の中に入ってきた。
わたしのものじゃない。
でも、知らない気持ちでもなかった。
暗いところで息を止めている感じ。
足が震えているのに、動かないようにしている感じ。
泣きそうなのに、泣かないようにしている感じ。
その人も、わたしと同じで色んな気持ちを抱えてた。
きっと、何度も帰りたかった。
目を閉じて、耳をふさいで、何も見なかったことにしたかった。
それでも、そこにいた。
震えながら、息を殺しながら、夜の中に立っていた。
その震えが、手のひらから胸の奥へ、ゆっくり沈んでいく。
誰のものなのかはわからない。
声も、顔も、名前もない。
でも、知らない人のものだとは思えなかった。
あの夜に離してしまった暖かい手を思い出して、胸が痛くなった。
しずくの形をした泥の欠片を、そっと手の中に包む。
その瞬間、屋上の上で、音が止まった。
ぎい、という音が消える。
影が全部、動きを止める。
静かになる。
それがいちばん怖かった。
次に、床の影がいっせいにこちらを向いた。
見つかった。
そう思った。
空を見ていないのに。
顔を上げていないのに。
向こうが、こっちを見つけた。
手の中の欠片が震える。
泥の鈴も、ハンカチの中で重く沈んでいる。
戻らなきゃ。
でも走れない。
走ったら上を見る。
走ったら影を踏む。
走ったら、音で見つかる。
もう見つかっているのかもしれないけれど、それでも、これ以上近づけてはいけない。
足元だけを見る。
帰り道を探す。
さっき来たときより、影が増えていた。
黒いしみも広がっている。
土の点も、ばらばらになっている。
どこを歩けばいいのか分からない。
でも、扉の方角は分かる。
冷たい風が背中ではなく、頬の横を通っている。
扉の下のすきまから来る風。
そっちへ行けば戻れる。
一歩。
影の間へ足を置く。
床の黒い頭が、ゆっくりこちらへ曲がる。
止まる。
息を止める。
影が少しだけ迷うみたいに揺れる。
また一歩。
手の中の欠片が震えている。まるで、こわい、と言っているみたいだった。
大丈夫、と言いそうになって、やめた。
大丈夫じゃない。
今も怖い。
きっと、あの震えも怖いままだった。
でも、それでも持って帰る。
扉が近づく。
あと少し。
そのとき、足元の黒いしみの中に、空が映った。
見たくないのに、見えてしまった。
黒い空の奥に、長いものがたくさん垂れている。糸みたいなもの。髪みたいなもの。そこに、紙や上履きみたいな小さなものが吊られている。
揺れている。
ぎい。
ぎい。
階段で聞いた音。
屋上で聞いた音。
あれは、上から吊られていたものの音だった。
吐きそうになった。
目をそらす。
扉まで、あと三歩。
一歩。
影が伸びる。
二歩。
背中に視線みたいなものが刺さる。
三歩。
扉の取っ手に手が届いた。
開ける。
中へ滑り込む。
背中の後ろで、扉が重く閉まった。
がちゃん。
音が階段に重く響いた。
そこで初めて、息が出た。
肩が震えている。膝も震えている。手の中の泥の欠片も、まだ小さく震えている。
階段の中は暗い。
でも、屋上よりは狭かった。
上が見えないだけで、少しだけ息ができた。
ハンカチを開いて、泥の鈴を出す。
手の中のしずくを近づけると、それはゆっくり形を崩した。水みたいにではなく、土がほどけるみたいに、少しずつ鈴の表面へ沈んでいく。
吸い込まれたあと、鈴のひびが少しだけ変わった。
目を閉じた顔みたいな傷が、そこに浮かんでいた。
音はしなかった。
でも、手の中で短く震えた。
それだけで、今のが何だったのか少し分かった気がした。
誰かの怖さ。
怖くても、それでも立っていた人の怖さ。
その震えが、まだ指の中に残っていた。
階段の下を見た。
夜の学校は、まだ終わっていない。
それでも、屋上の扉の向こうに戻るよりは、下へ降りる方が、ほんの少しだけましに思えた。
階段の下は、暗かった。
屋上から戻ってきたはずなのに、安心できなかった。
扉の向こうには、まだあの広い夜がある。
上で揺れていたものも、床に落ちた影も、黒いしみの中に映った空も、扉一枚で本当に向こう側へ戻ったのか分からなかった。
手の中には、泥の鈴がある。
さっきのしずくは、もう見えない。
鈴の表面に沈んで、そこに新しい傷だけを残していた。
目を閉じた顔みたいな傷。
手の中には、泥の鈴がある。
さっきのしずくは、もう見えない。
鈴の表面に沈んで、そこに新しい傷だけを残していた。
目を閉じた顔みたいな傷。
その傷をじっと見た。
閉じた目。
きつく結ばれた口。
小さくうつむいた顔。
気のせいなのかもしれないけど、そんな風に見えた。
見ないようにしている顔なのか。
見られたくない顔なのか。
それとも、何かをこらえている顔なのか。
分からない。
でも、その傷を見ていると、屋上の黒板に書かれていた言葉を思い出した。
みないで。
あれは、空を見てはいけないという意味だけではなかったのかもしれない。
怖いところを。
震えているところを。
泣きそうなところを。
誰にも見られたくない。
そういう意味も、あったのかもしれない。
ユズは泥の鈴をハンカチで包み直した。
傷は、布の中に隠れた。
けれど、一度見てしまった形は、まぶたの裏に残っていた。
階段の上で、ぎい、と音がした。
扉の向こうではない。
階段の上。
さっきまで通ってきた暗がりの中。
まだ、何かが揺れている。
顔を上げそうになって、あわてて顎を引いた。
上は見ない。
それだけは、もう体が覚えていた。
下へ行かなきゃ。
学校の夜は、まだ終わっていない。
けれど、屋上には戻れない。
戻ったら、今度こそ空を見てしまう気がした。
階段を一段、下りる。
上履きの底が、冷たい段に触れる。
こつ。
音が響いた。
すぐに止まる。
耳をすませる。
何も来ない。
何も降りてこない。
でも、安心はできない。
もう一段。
こつ。
壁には、上へ向かっていた泥の手形が残っている。
でも、さっきより薄くなっている気がした。
手形の中の黒い丸も、少しだけ小さく見える。
屋上で何かを受け取ったからだろうか。
それとも、ただ懐中電灯の光が揺れて、そう見えただけなのか。
分からない。
分からないことばかりだった。
それでも、足は下へ向かっていた。
下の踊り場に着く。
さっき通った廊下が見えた。
名前の紙は、もう動いていなかった。
床にぺたりと貼りついている。
濡れた白い紙に、黒い文字がにじんでいる。
ユズ。
自分の名前。
見たくないのに、目に入る。
でも、さっきほど怖くなかった。
名前がそこにある。
勝手に書かれている。
それはまだいやだった。
でも、取られたわけじゃない。
わたしは、まだわたしだ。
そう思おうとした。
そのとき、廊下の奥で小さな音がした。
とん。
職員室の方だった。
とん。
机を叩くような音。
前より、少し弱い。
何かが、まだ待っている。
名札のない子のことが頭に浮かんだ。
黒く塗りつぶされた名札。
かすれた一文字。
机の上に置いてきた紙。
あれでよかったのかな。
ちゃんと届いたのかな。
分からない。
でも、確かめに行かなければいけない気がした。
怖いのに。
帰りたいのに。
また、足がそっちを向いていた。
職員室の方へ歩く。
行きたくないのに、足はそっちへ向かっていた。
廊下に貼りついた紙を踏まないように、一枚ずつ避ける。
濡れた紙は、もう動かなかった。さっきみたいに床を這ってこない。ただ、そこにあるだけ。
でも、そこにあるだけでもいやだった。
自分の名前が、床に落ちている。
踏まれそうな場所にある。
泥で濡れて、黒くにじんでいる。
それが、なんだかとても気持ち悪かった。
職員室の扉は、少しだけ開いていた。
さっき出たときより、すきまが広くなっている気がした。中は暗い。机の形も、棚の形も、コピー機の白いかたまりも、ぼんやりとしか見えない。
奥から、また音がする。
とん。
さっきより小さい。
とん。
何かを叩く音というより、誰かがそこにいると知らせるために、そっと合図しているみたいだった。
入るのはいやだった。
でも、あの名札を置いたままにしたことが、ずっと胸に引っかかっていた。
あれでよかったのか分からない。
たった一文字だけで、本当に届いたのか分からない。
もしかしたら、余計なことをしたのかもしれない。
そう考えると、足の裏が冷たくなる。
扉に手をかける。
ゆっくり開ける。
ぎい。
音が、暗い職員室に広がった。
中に入ると、紙の匂いがした。濡れた紙。古い紙。長い間しまわれたままの紙。そこに、かすかに泥の匂いが混じっている。
机の上に、名札はあった。
黒く塗りつぶされた名札。
その上に置いた小さな紙。
紙には、さっき写した一文字が書いてある。
下手な字だった。
線がふるえて、少し曲がっている。
でも、その文字は消えていなかった。
むしろ、さっきより少しだけはっきりしている気がした。懐中電灯の光を当てると、紙の白さの中に、赤鉛筆の線が細く浮かび上がる。
その横に、濡れた跡があった。
涙みたいな丸い跡。
水なのか、泥なのか、分からない。
胸の奥が、少しだけ痛くなった。
「……届いたかな」
小さく呟いた。
その言葉に返事をするみたいに職員室の奥で、椅子がひとつだけ静かに揺れた。
きい。
それだけだった。
怖いはずなのに、少しだけ、ほっとした。
ちゃんと分かったわけじゃない。
何も解決していない。
でも、さっきよりは、暗さが少しだけ薄くなった気がした。
名札にはまだ、黒い塗りつぶしが残っている。
名前は戻っていない。
一文字だけでは、きっと足りない。
それでも、何もないよりはいい。
そう思いたかった。
そのとき、コピー機の方で紙が落ちた。
はらり。
体がびくっとした。
懐中電灯を向ける。
床に一枚だけ、紙が落ちている。
また自分の名前かと思った。
でも、違った。
黒く塗りつぶされた四角。
その下に、小さな矢印みたいな線。
矢印は、職員室の外を向いている。
廊下。
出口。
行け、ということなのかもしれない。
ここにはもういなくていい、ということなのかもしれない。
そう思った瞬間、職員室の入口に影が立った。
名札のない子だった。
顔はない。
声もない。
胸の名札には、まだ黒い塗りつぶしがある。
でも、その端に、さっきの一文字と同じ線が、ほんの少しだけ浮かんでいた。
こわい。
やっぱりこわい。
でも、さっきより逃げたいだけではなかった。
その子は、こちらへ近づいてこなかった。入口のそばに立って、廊下の方を向いている。まるで、先に出ろと言っているみたいだった。
職員室の奥で、また別の音がした。
こつ。
逆向きの足音。
戻ってきた。
入口に立っていた影が、少しだけ体を傾けた。
早く、というふうに見えた。
考えるより先に、足が動いた。
机の間を抜ける。
床の紙を踏まないようにする余裕はなかった。
上履きの下で、濡れた紙がぬるりとつぶれる感触がした。
いやだ。
でも止まれない。
職員室の出口へ向かう。
名札のない子の横を通るとき、胸のあたりが冷たくなった。顔は見えないのに、見送られている気がした。
「……ありがとう」
声に出た。
とても小さかった。
聞こえたかどうかも分からない。
廊下に出る。
後ろで、職員室の扉がひとりで閉まった。
ばん。
その音と同時に、中から足音がした。
こつ。
こつ。
扉の向こうで、何かが歩いている。
でも、出てこない。
名札のない子が、止めてくれているのかもしれない。
そう思った。
思ってしまった。
廊下は、さっきより暗かった。
でも、奥の方に、薄い明かりが見える。
非常灯の緑の光。
その下に、階段がある。
下へ続く階段。
校舎を出るには、あそこへ行けばいい。
上へ行く必要はもうない。
屋上にも戻らない。
足が少しだけ軽くなる。
でも、そのとき、床に落ちていた名前の紙が、一枚だけ動いた。
ぬちゃ。
ユズ。
黒くにじんだ文字が、懐中電灯の光に浮かぶ。
名前の紙は、進む先ではなく、後ろへ向かって動いていた。
職員室の方へ。
一枚。
また一枚。
床に貼りついていた紙が、ゆっくり集まっていく。
ユズ。
ユズ。
ユズ。
全部、職員室の扉の前に集まっていく。
それを見て、胸の奥がざわざわした。
わたしの名前が、また取られるのかと思った。
でも、少し違う気がした。
紙は、扉の前で重なっていく。
黒く塗りつぶされた四角みたいな形になっていく。
その中に、さっき書いた一文字の線が混じる。
名前ではない。
でも、名前を隠していた黒が、少しずつ薄くなっているように見えた。
見届けたい。
でも、見ていると何かに気づかれそうで怖い。
廊下の奥から、また音がした。
ぎい。
上の方ではない。
今度は校舎全体が、古くきしむみたいな音。
もう行かないと。
紙の動きから目を離し、階段へ向かった。
下へ下りる。
一段。
また一段。
階段の壁には、泥の手形が残っていた。
けれど、上へ向かっていた手形とは違って、今は下へ向かうように見えた。
出口へ。
そう言われている気がした。
それでも、安心はできなかった。
夜の学校は、優しくなったわけじゃない。
ただ、少しだけ通してくれているだけ。
そんな感じだった。
下駄箱のある階まで下りると、空気が少し変わった。
外の匂いが混じっている。
冷たい夜の空気。
砂の匂い。
校庭の匂い。
玄関が近い。
ガラス扉の向こうに、夜の校庭が見えた。
でも、その前に下駄箱があった。
上履きが並んでいる。
つま先は、もう全部こちらを向いてはいなかった。
いくつかは横を向き、いくつかは奥を向いている。
昼間と同じ、ただの上履きの列に少し近づいていた。
それでも、油断はできない。
自分の下駄箱の前に立つ。
靴に履き替えようとして、動きが止まった。
中に、紙が入っていた。
また。
体が固くなる。
でも、その紙には、名前は書かれていなかった。
小さな黒い丸。
その横に、白い線。
校門の方を指しているようにも見える。
出ていい、ということなのか。
それとも、外に次の何かがいるということなのか。
分からない。
でも、今は出るしかなかった。
靴に履き替える。
上履きを戻す。
そのとき、下駄箱の奥で何かが小さく鳴った。
ころ。
泥のかけらみたいなものが転がってきた。
拾うと、乾いた土だった。
泥の鈴の色とは少し違う。
学校の砂に近い色。
でも、指で触れた瞬間、ぼろりと崩れた。
中から、小さな白いものが出てきた。
紙の端。
そこには、黒く塗りつぶされた名札にあったものと同じ一文字が、かすかに残っていた。
はっとした。
あの子の名前の続きかもしれない。
全部はまだ分からない。
でも、少しだけ近づいた。
そう思った。
紙の端をハンカチに挟む。
持っていくべきなのか、置いていくべきなのか迷ったけれど、今は置いていけなかった。
いつか返せるかもしれない。
そう思ったから。
ガラス扉へ向かう。
鍵はかかっていなかった。
外へ出る。
夜の空気が頬に当たった。
校庭は、入ってきたときよりも静かだった。
足跡も、もう増えていない。
鉄棒も揺れていない。
朝礼台の下の黒いものも、見えなかった。
でも、夜はまだそこにある。
校門の方へ歩く。
外の道が見える。
帰れる。
そう思った瞬間、校舎の上の方で、ぎい、と音がした。
屋上の方。
見上げない。
足元だけを見る。
校門まで、あと少し。
砂の上に、自分の足跡がついている。
そこに、もうひとつ、小さな足跡が並んでいた。
名札のない子のものかもしれない。
違うかもしれない。
でも、その足跡は、校門のところで止まっていた。
門は少しだけ開いていた。
入るときよりも、ずっと細いすきま。
そこを通る。
鉄の冷たさが腕に触れた。
校門の外へ出た瞬間、背中の後ろで門が閉まった。
ぎい。
でも、今度は振り返らなかった。
前だけを見る。
通学路が続いている。
家の方へ。
ポケットの中で、ハンカチに包んだ泥の鈴が重く沈んでいた。
取り出してみる。
表面にあった、目を閉じた顔みたいな傷は消えていた。
さっきまで確かにあったはずなのに、泥の表面はなめらかに戻っている。
そのかわり、別の場所に、新しいひびが入っていた。
丸い輪郭。
小さくくぼんだ目。
口を開けて泣いているみたいな線。
赤ちゃんの泣き顔に見えた。
胸の奥が、きゅっと冷たくなる。
知っている。
この形を、知っている。
田んぼの方にあった石。
暗い夜の中で、赤ちゃんの泣き声が聞こえた場所。
あの石の顔に、少し似ていた。
泥の鈴を握る手に、力が入る。
学校の夜は、終わったのかもしれない。
でも、次の夜はもう、別の場所を指していた。
そう思ったら、帰り道の暗さが、また少しだけ深くなった。
これにて、学校編は終了となります。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
余談になっちゃいますが、最近、夜に少しだけ窓を開けると、思ったより風が涼しくて驚くことがあります。
昼間との温度差で油断しがちなので、皆さんも体調にはお気をつけください。