夜のむこうの帰り道 作:とーすと
曲がりなりにも神に該当する存在に干渉しているって凄すぎますね。
それではご覧ください。
学校から出ても、すぐには安心できなかった。
校門の外に出たのに、背中の後ろにはまだ校舎がある。黒い窓も、長い廊下も、屋上の空も、ぜんぶ閉じた門の向こうに残っているはずだった。
でも、本当に置いてこられたのか分からない。
夜の学校で見たものは、目を閉じても消えてくれなかった。
黒板いっぱいに増えた名前。
床を這ってきた濡れた紙。
名前のない名札。
屋上の黒板に書かれていた、みないで、という文字。
空を見ていないのに、足元まで伸びてきた影。
思い出すだけで、喉の奥が狭くなる。
帰り道を歩きながら、何度も後ろを振り返りそうになった。
でも、振り返らなかった。
振り返ったら、校門のすきまから誰かが見ているかもしれない。
閉じたはずの校舎の窓に、わたしの名前がまた浮かんでいるかもしれない。
そう思うと、前だけを見るしかなかった。
家が見えたとき、少しだけ息ができた。
玄関の前に立つ。
ドアノブに手をかける。
家の中のあたたかい空気が、すきまから少しだけ漏れてくる。
家の中はとても静かだけど、夜の静かさとはどこか違って安心できた。
靴を脱いで、階段を上がる。
自分の部屋に入って、ドアを閉める。
そこでやっと、ポケットから泥の鈴を取り出した。
ハンカチを開く。
泥の鈴は、手のひらの上に重く沈んだ。
学校の屋上で浮かんでいた、目を閉じた顔みたいな傷は消えていた。
さっきまで確かにあったはずなのに、表面はなめらかに戻っている。
そのかわり、学校を出る前に見たひびが、まだ残っていた。
丸い輪郭。
小さくくぼんだ目のような線。
口を開けて泣いているみたいな割れ目。
もう一度見ても、やっぱりそう見えた。
田んぼの方にあった、子守石。
学校の夜で見間違えたわけではなかった。
暗がりの中で、変な形に見えただけでもなかった。
部屋の明かりの下で見ても、そのひびは子守石の顔に似ていた。
次は、田んぼの方。
それはもう分かっていた。
分かったからこそ、胸の奥が重くなった。
また夜に出なければならない。
また、あの場所へ行かなければならない。
でも、行かなければ、お姉ちゃんには近づけない。
泥の鈴を握る手に、少しだけ力が入った。
机の上にハンカチを広げ、泥の鈴を置く。
黒っぽい湿った跡が、布にじわりと広がった。
部屋の明かりの中にあるのに、それだけが夜のものみたいだった。
布団に入っても、なかなか眠れなかった。
目を閉じると、学校の屋上ではなく、田んぼの道が浮かんでくる。
細い道。
左右に広がる黒い水。
水面に映る空。
遠くに立っている案山子。
子守石の顔みたいなひびが、まぶたの裏に残っていた。
次は、あそこへ行く。
そう決めているはずなのに、体はすぐには追いつかなかった。学校の夜で震えた足も、冷たくなった手も、まだそのまま残っている気がした。
それでも、朝になれば、また準備しなければならない。
そう思いながら、いつの間にか眠っていた。
朝になっても、ひびは消えていなかった。
机の上の泥の鈴には、昨日の夜と同じ形が残っていた。
それどころか、部屋に差し込む朝の光の中では、輪郭が少しだけはっきりして見えた。
やっぱり、田んぼだ。
そう思った。
怖さはあった。
でも、もう目をそらす理由にはならなかった。
学校へ行く準備をしている間も。
朝ごはんを食べている間も。
通学路を歩いている間も。
ずっと、頭のどこかに田んぼがあった。
昼の学校では、何も起こらなかった。
チャイムが鳴って、授業があって、給食があって、帰りの会があった。
教室はいつも通りだった。
息はしづらかったけれど、夜のものはいなかった。
それでも、ポケットの中の重さだけは消えなかった。
放課後、家に帰るころには、空の端が赤くなっていた。
田んぼの方へ続く道は、まだ明るかった。
昼の顔をしていた。
でも、夜になったら変わる。
それを、知っている。
部屋に戻って、泥の鈴を机の上に置く。
ひびは、朝よりもはっきりしていた。
子守石の顔に似ている。
もう、見間違いだとは思えなかった。
窓の外で、夕方がゆっくり暗くなっていく。
町の音が少しずつ遠くなる。
電線が黒く細い線になる。
家々の明かりが、ぽつぽつと灯り始める。
田んぼの方は、家のある道より暗くなるのが早い。
広くて、低くて、水があるから。
夜が、そこに先に落ちるみたいに。
懐中電灯を手に取った。
怖い。
そう思った。
でも、怖いからやめるわけにはいかなかった。
机の上の泥の鈴を見る。
子守石の顔に似たひびが、こちらを向いている。
あの場所へ行けば、また何かが分かるかもしれない。
お姉ちゃんに近づくための、次の何かが。
泥の鈴をハンカチで包む。
ポケットに入れる。
玄関まで下りると、家の中にはいつもの夜の音があった。
でも、ドアの向こうからは、もう別の音が聞こえる気がした。
風の音。
水の音。
草がこすれる音。
そのどれとも違う、細い音。
泣いているようにも聞こえる。
でも、何が泣いているのかは分からない。
ドアを開ける。
夜の空気が入ってきた。
田んぼがある方から、ひゅう、と細い音が伸びてきた。
外へ出ると、家の明かりが背中に当たった。
あたたかい光だった。
振り返れば、そこには玄関があって、廊下があって、いつもの家がある。
でも、前を向くと夜があった。
田んぼの方へ続く道は、町の中の道より暗かった。街灯の数が少なくて、家の窓の明かりもだんだん遠くなる。歩くたびに、いつもの道から少しずつ離れていく感じがした。
懐中電灯の光を足元に落とす。
アスファルト。
小さな石。
白く薄い道路の線。
道の端に伸びた草。
昼間なら、なんでもないものばかりだった。
でも夜になると、草の影は指みたいに見える。道路の小石は、何かの目みたいに光る。側溝のすきまは、どこか知らない場所へ続いている穴みたいになる。
田んぼの方から、また細い音が聞こえた。
ひゅう。
風の音に似ている。
でも、ただの風ではない気がした。
途中で少し震えて、細く切れて、また伸びる。
泣いているみたい。
そう思って、すぐに首を振った。
何が泣いているのか、分からない。
分からないものを、勝手にそう決めてはいけない気がした。
でも、胸の奥は落ち着かなかった。
泣いているように聞こえるものを、放っておくのは苦手だった。
田んぼへ続く道に入ると、急に空が広くなった。
家の屋根がなくなる。
塀も低くなる。
隠れる場所が少なくなる。
夜が、上からも横からも近づいてくる。
左右には水田が広がっていた。水は黒く、懐中電灯の光を向けても底が見えない。水面には空が映っているはずなのに、ところどころ、何も映していない場所があった。
そこだけ黒い。
水の上に、穴が開いているみたいだった。
見続けないようにした。
田んぼの道は細かった。
片方へ足を滑らせたら、水の中に落ちてしまいそうだった。水田の水は浅いはずなのに、夜に見ると、とても深く見える。足首だけでは済まない気がした。
道の向こうに、案山子が立っていた。
遠くから見ると、人に見えた。
細い体。
横に伸びた腕。
ぼろぼろの服。
でも、近づくと案山子だった。
顔はなかった。
首から上が、暗さに溶けているのか、もともとないのか分からない。帽子もない。頭のあるはずの場所には、ただ夜が乗っていた。
通りすぎるとき、見ないようにした。
でも、背中が気になった。
案山子は、田んぼを見ているはずだった。
でも、今はわたしを見ている気がした。
振り返りたくなる。
だめ。
振り返ったら、さっき通りすぎた場所より近くに立っているかもしれない。
足を止めない。
用水路の横に出た。
水が流れている。
ちょろちょろ、という音ではなかった。
すう。
吸う音。
少し間を置いて。
はあ。
吐く音。
水が流れているだけなのに、呼吸みたいに聞こえる。近づくと、その音も少し近くなる。離れようとすると、後ろからついてくるみたいに聞こえる。
息を合わせないようにした。
こっちが吸うと、用水路も吸う。
こっちが吐くと、用水路も吐く。
そんなふうに思ってしまうから。
口を小さく閉じて、できるだけ音を立てずに呼吸した。
泥の鈴が、ポケットの中で重く沈んでいる。
子守石の顔に似たひび。
あれを思い出すと、足が自然に前へ向いた。
怖いのに。
怖いから止まりたいのに。
でも、止まったら、あの細い音がずっと遠くで震えている気がした。
田んぼ道の先に、小さな石が見えた。
子守石。
暗がりの中に、ぽつんとあった。
昼間に見れば、ただの石なのかもしれない。
古くて、雨にぬれて、草に囲まれているだけの石。
でも夜は違った。
石のまわりだけ、草が内側へ倒れていた。
まるで、石の方へ頭を下げているみたいだった。
近づくにつれて、細い音が大きくなる。
ひゅう。
ひゅう。
風なのか。
水なのか。
石のすきまから出ている音なのか。
分からない。
子守石の前で立ち止まった。
懐中電灯の光を当てる。
石の表面には、顔のような模様があった。
丸い輪郭。
小さなくぼみ。
口を開けているみたいな割れ目。
泥の鈴に浮かんだひびと、よく似ていた。
やっぱり、ここだ。
そう思った瞬間、足元の水音が止まった。
さっきまで聞こえていた用水路の呼吸みたいな音も、草がこすれる音も、遠くの虫の声も、全部なくなった。
静かすぎる。
音が消えると、夜が近くなる。
子守石の前に、小さな布が落ちていた。
ぼろぼろで、泥に汚れている。何かを包んでいたような形だった。けれど中身はない。布の端だけが、水を吸って重くなっていた。
触っていいのか分からなかった。
でも、ここまで来たのは、これを見るためかもしれない。
指を伸ばす。
布に触れた瞬間、石の奥で、こつ、と音がした。
小さな音。
中から叩いたみたいな音。
手を引っ込める。
こつ。
また鳴った。
今度は、子守石ではなく、ポケットの中からだった。
泥の鈴を取り出す。
ハンカチを開くと、子守石の顔みたいなひびが、少しだけ薄くなっていた。完全に消えたわけではない。でも、さっきより輪郭がぼやけている。
そのかわり、鈴の表面の別の場所に、細い線が浮かび始めていた。
まっすぐな縦の線。
横に伸びた線。
斜めに垂れた線。
何かに似ている。
そう思ったとき、田んぼの奥で、かさり、と音がした。
草が動いた。
懐中電灯を向ける。
田んぼの奥に、案山子が立っていた。
さっき通りすぎた案山子とは、場所が違う。
でも、同じ案山子に見えた。
首から上がない。
横に伸びた腕が、少しだけこちらを向いている。
ポケットの中で、泥の鈴が重くなった気がした。
鈴の表面に浮かんだ新しい線。
縦の棒。
横に伸びた腕。
垂れた服みたいなひび。
小さな案山子に見えた。
子守石の前の細い音が、ぴたりと止まる。
止まったことが、いちばん怖かった。
泣いているように聞こえていたものが消えたのに、安心できなかった。むしろ、何かがこちらに気づいたみたいだった。
田んぼの奥の案山子が、少しだけ向きを変えた。
顔はない。
それなのに、こちらを見たと分かった。
指先が冷たくなる。
足は動かない。
子守石の前で、泥の鈴を握りしめる。
学校の夜は終わった。
でも、次の夜は、まだ始まったばかりだった。
ここまで読んでくださり、ありがとうごさいます。
昨日は気づいたら夜更かしをしてしまっていたので、皆さんも物事には集中しすぎないようにお気をつけください。