夜のむこうの帰り道 作:とーすと
それでは第8話をご覧ください
子守石の前で、息が止まった。
田んぼの奥に立っている案山子が、こちらを向いていた。
首から上はない。
顔もない。
目もない。
それなのに、見られていると分かった。
懐中電灯の光は、そこまで届いていない。田んぼの奥は黒く沈んでいて、案山子の体も、ぼろぼろの服も、夜と混ざってほとんど輪郭しか見えなかった。
でも、分かる。
あれは、こっちを見ている。
さっきまで聞こえていた細い音は、もう止まっていた。風みたいで、水みたいで、泣いているようにも聞こえた音。その音が消えたせいで、田んぼは急に広くなった気がした。
音がない。
水も、草も、虫も、何も鳴らない。
ただ、遠くに案山子が立っている。
ポケットの中の泥の鈴を取り出す。ハンカチを少しだけ開くと、表面に浮かんでいた子守石の顔みたいなひびは薄くなっていた。そのかわり、別の線がはっきりしている。
縦の線。
横に伸びた線。
垂れた布みたいな細い割れ目。
小さな案山子に見えた。
やっぱり、次はあそこだ。
そう思った瞬間、足元の草がかすかに動いた。
風は吹いていない。
それなのに、田んぼの端に生えた細い草だけが、ゆっくり倒れていく。わたしの方へではない。案山子の方へでもない。何かが、草の下を這っているみたいに、少しずつ、少しずつ。
草の根元で、泥をこするような音がした。
小さくて、湿っていて、何かが腹を地面につけたまま進んでいるような音だった。
懐中電灯を向ける。
草は止まった。
そこには何もいない。
ただ、濡れた土と、倒れた草だけがある。
光を外す。
すると、また草の下で湿った音がした。
さっきより近い。
見えないものが、光の外側だけを選んで動いている気がした。
体が固くなる。
ここに立っていたらだめだ。
でも、急に動いてもだめな気がした。
田んぼの道は細い。左右は黒い水。少しでも踏み外したら、水田に落ちる。水は浅いはずなのに、夜の中では底がないみたいに見える。
水面には、空が映っていた。
黒い空。
でも、ところどころ、それとは別の影がある。
案山子の影だった。
遠くに立っている案山子の影が、水面に長く伸びている。
おかしい。
案山子は、あんなに遠くにある。
それなのに、影だけが、すぐそばの水面に映っていた。
しかも、その影には頭があった。
首から上がないはずの案山子。
でも、水の中の影には、丸い頭のようなものがついている。
見ちゃだめ。
そう思って、すぐに目をそらした。
水面はだめ。
案山子も、見すぎたらだめ。
でも、目を離しすぎるのもだめ。
どうすればいいのか分からない。
ただ、ここにずっと立っていることだけは、もっとだめだと分かった。
一歩、田んぼの奥へ進む。
靴の底が、ぬかるんだ土に沈んだ。
土が足の裏にまとわりついて、引き留めるように重く鳴る。
そのすぐあと、用水路の方で水が小さく揺れた。
わたしの足音に返事をしたみたいだった。
足を止める。
水音も止まった。
もう一歩進む。
泥が靴底から離れる音のあとに、水路の中で同じだけ水が揺れた。
歩く速さが、ぴったり重なっていた。
用水路の中で、何かがわたしと一緒に歩いている。
姿は見えない。
水面も静かに見える。
でも、水の中に何かがいる。
息が浅くなる。
走ってはいけない。
走ったら、水の中のものも速くなる。
案山子から目を離す時間も長くなる。
足元も見えなくなる。
だから、ゆっくり。
少しだけ案山子を見る。
すぐ足元を見る。
水面は見ない。
草むらに近づきすぎない。
そうやって、進むしかない。
案山子は動かない。
動かないまま、待っている。
でも、一度だけ足元を見て、もう一度前を見たとき、案山子の位置が変わっていた。
さっきより近い。
田んぼの奥にいたはずなのに、道の右側に立っている。
顔のない案山子が、横に伸ばした腕を少しだけ下げていた。
通せんぼをするみたいに。
喉が鳴りそうになって、口を押さえた。
見ていない間に、動いた。
でも、見ていたら動かない。
そういうものなんだ。
前の夜も、そうやって覚えていった。
誰かが教えてくれるわけじゃない。
看板があるわけでもない。
間違えたら、すぐに分かる。
近づいてくる足音。
急に冷たくなる空気。
懐中電灯の光の外で、何かが動く感じ。
夜の中では、ちゃんと考えるより先に、体が怖がる。
その怖がり方だけが、道を教えてくれる。
だから今も、足は震えているのに、少しだけ分かった。
この案山子は、見ていない間に近づく。
でも、見続けたら、今度は足元が沈む。
どちらかだけでは、通れない。
泥の鈴を握る手に力が入る。
ひびの形が、布越しに指へ当たった。
案山子の道。
ここを通らなければならない。
子守石の前で止まっていた細い音が、田んぼの奥からもう一度、かすかに伸びてきた。
細く震える風のような音だった。
それは、進めと言っているようにも、来るなと言っているようにも聞こえた。
田んぼの奥へ、ゆっくり進んだ。
急がない。
でも、止まらない。
案山子を見る。
足元を見る。
水面を見ないようにする。
草の音が近づいていないか、耳だけで確かめる。
それを何度もくり返した。
少しでも順番を間違えたら、何かに捕まる気がした。
案山子は、道の右側に立っていた。顔のない首の上に、夜だけが乗っている。ぼろ布みたいな服が肩から垂れていて、腕の先には何もない。
でも、見られている。
目がないのに、そう感じるのが嫌だった。
足元を見る。
道は思ったよりやわらかかった。土が靴の裏にくっついて、歩くたびに少しずつ重くなる。田んぼの水がすぐ横にあるせいか、地面の中まで湿っているみたいだった。
水面は見ない。
そう思っているのに、視界の端に黒い水が入ってくる。
そこに、何かが映っていた。
案山子の影だけではない。
わたしの後ろに、もうひとつ細い影がある。
振り返りそうになって、こらえた。
後ろを見たら、いることになってしまう。
前を見る。
案山子が、また近くなっていた。
今度は道の左側にいる。
さっき右にいたはずなのに。
横に伸びた腕が、田んぼ道の半分をふさいでいた。通るには、その腕の下をくぐるしかない。
近づきたくなかった。
でも、戻れない。
背中の方で、草の下を何かがこする湿った音がした。さっきより近い。見えないものが、田んぼの縁を伝って、ゆっくり追ってきている。
案山子の下を通るしかない。
息を小さくする。
案山子を見すぎない。
でも、目を離しすぎない。
足元を見て、一歩。
案山子を見て、止まる。
また足元を見て、一歩。
腕の下を通るとき、ぼろ布の端が頬の近くで揺れた。
風は吹いていない。
布の中で、何かが動いたみたいだった。
触れないように体を縮めて通り抜ける。
背中のすぐ後ろで、案山子の腕が少し下がった気がした。
振り返らない。
振り返らない。
胸の中で何度も言いながら歩く。
道の先に、案山子が増えていた。
一体。
二体。
三体。
どれも首がない。
どれも違う服を着ている。
どれも少しずつ腕の角度が違う。
田んぼの中、道の端、用水路の向こう。
いつの間にか、いくつもの案山子が立っていた。
見ていない間に増えたのか。
それとも、最初からそこにいたのか。
分からない。
分からないものが多すぎる。
ひとつだけ、胸のところに紙が貼られている案山子があった。
泥で汚れた小さな紙。
そこに何か線が書かれている。
文字ではない。
でも、ただの汚れでもない。
近づかないと読めない。
近づきたくない。
紙の貼られた案山子は、道の先に立っていた。ほかの案山子より少し低く、腕も短い。けれど、そのぶん、こちらへ身を乗り出しているように見えた。
泥の鈴を握る。
表面のひびが、指に当たる。
この案山子に近づけ、ということなのかもしれない。
足を出す。
すると、用水路の中の水が同じ速さで動いた。
水の中のものも、ついてくる。
右には用水路。
左には田んぼ。
前には案山子。
後ろには草の下を這うもの。
どこにも安全な場所がない。
でも、少しずつなら進める。
水音に合わせないように、歩く速さを変えた。
ゆっくり歩いて、急に止まる。
少しだけ早く歩いて、また止まる。
用水路の中の音も、遅れながらついてくる。
ぴったりではなくなった。
ほんの少しだけ、距離ができた気がした。
案山子の前まで来る。
紙には、泥で細い線が描かれていた。
曲がった道。
水路みたいな線。
小さな丸。
その先に、短い横線。
地図みたいだった。
でも、どこの地図かは分からない。
懐中電灯の光を近づける。
その瞬間、足元の水田が大きく揺れた。
水面を見てしまった。
案山子の影が映っている。
目の前の案山子には頭がない。
でも、水の中の影には、頭があった。
丸くて、黒くて、顔の形ははっきりしない。
それなのに、こちらを向いたことだけは分かった。
水の中の頭が、ゆっくり近づいてくる。
影なのに。
水面の中なのに。
こちらへ浮かび上がってくる。
息が止まった。
目をそらす。
足元の土を見る。
水を見ない。
水の中の頭を考えない。
でも、考えないようにするほど、頭の中に形が残った。
顔がない案山子。
水の中にだけある頭。
こちらを見る影。
怖くて、足が動かない。
そのとき、草むらの方から湿った音が近づいた。
見えないものが、すぐそばにいる。
止まっていたら追いつかれる。
足を出した。
道の先へ進む。
案山子の紙にあった曲がった線と同じように、田んぼ道は右へ曲がっていた。小さな丸は、たぶんこの先にある場所を示している。
そこへ行けばいい。
そう思うしかなかった。
曲がり角を抜けると、案山子たちが円を作るように立っていた。
田んぼの中に、ぽっかり開いた小さな広場のような場所。周りを、首のない案山子が囲んでいる。
中央には、ぼろぼろの布切れが落ちていた。
案山子の服の一部みたいだった。泥に汚れて、端が裂けている。長い間、雨と風にさらされていたように見える。
案山子たちは動かない。
でも、全部こちらを向いている。
顔はない。
それでも、全部が見ている。
中央へ行かなければならない。
そう分かった。
円の中へ一歩入る。
案山子の腕が、少しだけ下がった。
道をふさぐみたいに。
出口を閉じるみたいに。
急いではいけない。
見すぎてもいけない。
目を離してもいけない。
案山子を一体ずつ確認する。
足元を見る。
水面を見ない。
草の音が近づいていないか聞く。
円の中は、外よりも静かだった。
用水路の音も遠い。
草むらの音も小さい。
その静けさの中で、自分の息だけが大きく聞こえた。
中央の布切れに手を伸ばす。
触れた瞬間、案山子たちのぼろ布が、いっせいに揺れた。
風はない。
それでも揺れた。
布切れは冷たかった。
ただの布なのに、石みたいに重い。
持ち上げると、裏側に泥がこびりついていた。そこに、細い線がある。
橋。
そう見えた。
小さな橋の形。
泥の鈴を取り出す。
ハンカチを開くと、案山子のひびが薄くなっていた。子守石のひびが消えたときと同じように、輪郭がぼやけていく。
代わりに、別の場所へ新しいひびが浮かぶ。
短い横線。
それを支える細い線。
下に流れる水のような曲線。
小さな橋に見えた。
田んぼの奥で、水の流れる音が強くなった。
用水路の方。
案山子たちの間から、細い道が見えた。
その先に、小さな橋がある。
懐中電灯の光を向ける。
橋は低く、古く、手すりもない。
水路の上に、ただ板を渡したような細い橋。
その上に、濡れた足跡が残っていた。
一つ。
また一つ。
向こう岸へ続いている。
案山子たちが、少しずつこちらを向いた気がした。
顔はない。
でも、見ている。
もうこの円の中に用はない。
次は、あの橋。
分かったのに、足がすぐには動かなかった。
橋の向こうには、また別の夜がある。
でも、戻る道ももう細くなっている。
布切れをハンカチに包む。
泥の鈴をしまう。
案山子の腕の下を抜けて、円の外へ出た。
後ろで、草が揺れる気配がした。
振り返らなかった。
小さな橋だけを見た。
濡れた足跡が、夜の向こうへ続いていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。