夜のむこうの帰り道   作:とーすと

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第9話をご覧ください。


第9話「橋の上の足跡」

 

 小さな橋が、用水路の上にかかっていた。

 

 橋といっても、町にあるようなちゃんとした橋じゃない。細い板を何枚か並べて、その上に古い木を渡しただけみたいな、頼りない橋だった。手すりもない。板の端は黒く湿っていて、ところどころささくれている。

 

 その下を、水が流れている。

 

 夜の水は、黒かった。

 

 懐中電灯の光を向けても、底までは届かない。光は水の表面でゆがんで、細く割れて、すぐに飲みこまれてしまう。水路はそんなに深くないはずなのに、そこだけ地面の下へずっと続いている穴みたいに見えた。

 

 橋の上には、足跡があった。

 

 濡れた足跡。

 

 一つ。

 また一つ。

 向こう岸へ続いている。

 

 裸足のようにも見える。

 上履きの跡のようにも見える。

 でも、はっきりとは分からない。

 

 ただ、踏んではいけない気がした。

 

 前の夜も、そうだった。

 

 夜の道には、踏んではいけないものがある。

 見てはいけないものがある。

 聞こえても、答えてはいけない音がある。

 

 誰かが教えてくれるわけじゃない。

 でも、間違える前に、体の奥が冷たくなる。

 

 今もそうだった。

 

 橋の上の足跡を見た瞬間、足が止まった。

 

 踏んだら、何かが来る。

 

 そう思った。

 

 後ろの田んぼでは、案山子たちがまだ立っている。振り返らなくても分かる。首のない体が、夜の中でこちらを向いている。顔はないのに、見ている。さっき通ってきた案山子の囲いから、まだ逃げきれていない気がした。

 

 戻れない。

 

 でも、橋を渡るのも怖い。

 

 橋の向こうは、さらに暗かった。田んぼ道の先に、低い草が続いている。その奥には、何か黒いものがある。水門かもしれない。古い小屋かもしれない。ただの影かもしれない。

 

 でも、そこから水の音がしていた。

 

 流れているというより、何かが狭い場所を押し通ろうとしているような音だった。水が石に当たる音ではない。もっと重くて、奥で詰まっているものが少しずつ動いているような音。

 

 泥の鈴を取り出す。

 

 案山子の形に見えたひびは、もうほとんど消えていた。代わりに、橋みたいな線が浮かんでいる。短い横線と、それを支える細い線。その下には、流れる水のように曲がったひび。

 

 やっぱり、この橋だ。

 

 ハンカチに包み直して、ポケットへ戻す。

 

 橋の前に立つ。

 

 足跡のない板を探した。

 

 濡れた跡は、橋の真ん中を通っている。右にも左にも少しだけすきまがあるけれど、板の端は細い。ずれて踏めば、水路に落ちる。足跡を踏めば、たぶんもっと悪い。

 

 橋の下で、水が小さく揺れた。

 

 まだ足を乗せていないのに。

 

 まるで、待っているみたいだった。

 

 息を吸う。

 

 足跡を踏まない。

 水面を見すぎない。

 板の端だけを見る。

 後ろは振り返らない。

 

 そう決めて、一枚目の板に足を乗せた。

 

 湿った木が、足の下でわずかに沈んだ。

 

 同じ瞬間、橋の下の水が動いた。

 

 わたしの足に合わせて、水の中でも何かが一歩進んだみたいだった。

 

 心臓が強く鳴る。

 

 でも、戻らない。

 

 もう片方の足を、足跡のない場所へ置く。

 

 橋は短い。

 

 昼間なら、すぐに渡れる。

 

 でも夜の中では、向こう岸が遠かった。

 

 足跡は、橋の途中で少しだけ向きが変わっていた。

 

 最初は向こう岸へ向かっていたのに、途中から、こちらへ戻ってくるような向きになっている。

 

 何かが、向こうから戻ってきた。

 

 橋の下の水が、今までより近くで揺れた。

 

 流れに逆らって、水面が横にふくらんでいる。

 

 魚ではない。

 流れてきた草でもない。

 

 黒い盛り上がりが、橋の板に沿ってゆっくり動いていた。細長くて、ぬめった背中みたいな形。それが、わたしの足を置いた板の真下で止まった。

 

 水面が、少しへこむ。

 

 下から、何かがこちらを見上げている気がした。

 

 見ちゃだめ。

 

 橋の下は見ない。

 足跡を見る。

 板を見る。

 

 でも、足跡も怖かった。

 

 濡れた跡は、橋の真ん中に続いている。最初からあったものだけじゃない。今も増えている。

 

 板の上に、黒い水がにじむ。

 ただのしみみたいに広がったあと、かかとの丸みができる。

 つま先の形が浮かぶ。

 細い指みたいな跡が、五つに分かれる。

 

 誰も立っていない。

 

 でも、見えない足がそこに置かれたみたいに、板がほんの少し沈んだ。

 

 次の足跡が、そのすぐ前に浮かぶ。

 

 こちらへ向かっている。

 

 橋の上で、見えない誰かと向かい合っていた。

 

 逃げたい。

 

 でも、後ろには田んぼがある。

 案山子たちがいる。

 戻れば、首のない体が道をふさいでいるかもしれない。

 

 前へ進むしかない。

 

 足跡のない板を探す。

 

 左側には、濡れた足跡が二つ並んでいた。

 真ん中の板には、今まさに新しい足跡が浮かび上がっている。

 

 残っているのは、右端だけ。

 

 靴の半分も乗らない細さだった。板のすきまから、下の黒い水が見えている。そこに、さっきの細長い影がぬるりと近づいてきた。

 

 そこを通るしかない。

 

 右足を板の端へ伸ばす。

 

 膝が震えた。

 

 靴の先が、濡れた足跡の黒いふちに触れそうになる。少しでもずれたら踏む。踏んだら、たぶん橋の下のものが届く。

 

 橋の板に左手をついた。

 

 木は湿っていて、ぬめっていた。指先に小さなささくれが刺さる。痛い。でも、その痛みのおかげで、手を離さずにいられた。

 

 板の下で、水面が縦に裂けるように揺れた。

 

 黒いものが、橋の真下を横切る。

 

 長い。

 細い。

 でも魚の動きじゃない。

 

 水の中を、人が四つん這いで歩いているみたいだった。

 

 板のすきまから、濡れた何かが少しだけ見えた。指のようにも、草の根のようにも見える細いもの。それが橋の裏側を探るように動いていた。

 

 わたしの足の真下を。

 

 息を止める。

 

 このまま止まっていたら、下から届く。

 

 体を起こして、右足へ体重を移した。

 

 靴の端が足跡のすぐ横に沈む。

 触れていない。

 でも、ほとんど触れている。

 

 その瞬間、橋の下の水が少し遅れて同じ場所へ寄ってきた。

 

 追いつかれる。

 

 そう思った。

 

 急ぎたい。

 

 でも急げない。

 

 走れば、足跡を踏む。

 板を踏み外す。

 水面を見る。

 全部だめ。

 

 懐中電灯の光を、次に足跡が浮かびそうな板の前へ置いた。

 

 白い光の輪の中で、濡れた板がぼんやり光る。そこへ、新しい足跡が出かけた。

 

 けれど、途中で止まった。

 

 かかとの跡だけが半分浮かび、それ以上広がらない。

 

 光が当たっている間は、進めない。

 

 そう分かった。

 

 懐中電灯を動かさないように、腕を固める。

 体だけを横へずらす。

 右足を板の端へ置く。

 左足を引き寄せる。

 

 水面を見ない。

 足跡を踏まない。

 光をずらさない。

 

 三つのことを同時に考えると、頭の奥が痛くなった。

 

 手が震える。

 光も揺れる。

 

 光の端が板から少し外れた瞬間、そこに濡れた足跡が一つ浮かんだ。

 

 近い。

 

 目の前。

 

 反射的に体を引いた。

 

 そのせいで、かかとが板の端から外れる。

 

 体が後ろへ傾いた。

 

 下の黒い水が、口を開けたみたいに近づく。

 

 思わず、橋の下を見てしまった。

 

 水面には、橋が映っていなかった。

 

 代わりに、細い道が映っている。

 

 水の中に、田んぼ道みたいなものがあった。黒くて、狭くて、どこまでも奥へ続いている。その上を、濡れた足跡が進んでいた。

 

 一つ。

 また一つ。

 暗い奥へ向かって。

 

 その道のずっと先で、何かが立ち止まった気がした。

 

 振り返ろうとしている。

 

 見てはいけない。

 

 すぐに目をそらす。

 

 板をつかむ。

 

 体を戻す。

 

 指が痛い。

 膝が震える。

 でも、落ちなかった。

 

 向こう岸を見る。

 

 あと少し。

 

 板三枚分。

 

 そのうち二枚には、もう足跡が浮かんでいる。

 

 残っているのは、一番端の細い板だけだった。

 

 懐中電灯の光を、足跡の前へ置く。

 見えない足を止める。

 その間に、板の端へ足を置く。

 

 一歩。

 

 水路の中のものが、橋の下を滑るように追ってくる。水面がふくらみ、板のすきまから冷たい空気が上がってくる。

 

 もう一歩。

 

 足跡が光の外で増える。

 でも、踏まない。

 

 最後の一歩。

 

 向こう岸の土に、靴が触れた。

 

 冷たい土だった。湿っていて、少し沈む。でも、橋の板よりずっと広い。

 

 渡れた。

 

 膝から力が抜けそうになった。けれど、そこで座り込んだらだめだと思った。水路のすぐそばにいる。橋の下のものが、まだ近くにいる。

 

 橋から数歩離れる。

 

 そこで、やっと振り返った。

 

 橋の上には、足跡がなかった。

 

 さっきまであった濡れた跡が、全部消えている。板はただ黒く湿っているだけ。誰も通っていないみたいだった。

 

 でも、橋の下の水だけが揺れていた。

 

 流れとは違う揺れ方だった。

 下にいるものが、まだ橋の下でこちらを探しているみたいだった。

 

 水面のすぐ下に、黒い細長い影が残っている。

 

 それは橋を渡ってこなかった。

 

 渡れないのかもしれない。

 

 それとも、橋の上でわたしを落とせなかったから、もう用がないのかもしれない。

 

 泥の鈴を取り出す。

 

 橋の形のひびは、薄くなっていた。

 

 代わりに、別の形が浮かび始めている。

 

 四角い板のような線。

 その横に、細い縦線。

 下には、水が流れているみたいな曲がったひび。

 

 水門。

 

 そう見えた。

 

 顔を上げると、田んぼの奥に黒い形があった。

 

 古い水門だった。

 

 低いコンクリートの壁。

 錆びた鉄の板。

 暗い口みたいな水の出口。

 

 閉まっているはずなのに、水の音がする。

 

 水が流れている音じゃない。

 

 内側から、重たいものが押している音だった。

 水門の向こうで、何かがゆっくり体をぶつけているような音。

 

 橋は越えた。

 

 でも、次はあそこだ。

 

 そう分かった。

 

 振り返ると、橋の向こう側に案山子が一体立っていた。

 

 首はない。

 

 でも、橋を渡ってくる気配はなかった。

 

 そこから先には来られないのかもしれない。

 それとも、来る必要がないのかもしれない。

 

 水門の方から、重い水音がまた聞こえた。

 

 今度は少し近い。

 

 泥の鈴を握りしめる。

 

 田んぼの夜は、まだ終わらない。

 

 橋の向こうへ来てしまった。

 

 戻るより、進む方が近い。

 

 そう思うしかなかった。

 

 水門は、田んぼの奥に沈むように立っていた。

 

 さっき橋の向こうから見えたときよりも、近づくほど大きく見える。低いコンクリートの壁。黒く濡れた水路。錆びた鉄の板。昼間なら、ただ古くなった田んぼの設備に見えるのかもしれない。

 

 でも、夜の中では違った。

 

 水門は、口みたいだった。

 

 閉じているのに、何かを飲みこもうとしている口。

 開いていないのに、奥で息をしている口。

 

 そこから、重たい水の音がしていた。

 

 水が流れる音ではなかった。

 水が押し返されている音。

 狭いところに詰まったものが、内側からゆっくり動いているような音。

 

 近づくたびに、その音が胸の奥へ響いてくる。

 

 足元の土は、橋の手前よりも柔らかかった。靴の裏が沈む。抜こうとすると、土が少しだけ足を引っ張る。田んぼの水が近いからなのか、それとも水門の方から湿った空気が流れてきているからなのか分からない。

 

 道の両側には、背の低い草が続いている。

 

 懐中電灯の光を向けると、草の葉には小さな水滴がついていた。その水滴が、白く光る。たくさんの小さな目みたいだった。

 

 見られている。

 

 そう思って、光を足元に戻した。

 

 後ろにある橋は、もう遠い。

 

 振り返らなくても分かる。

 あの橋の下には、まだ水路の中のものがいる。

 渡ってはこない。けれど、消えたわけじゃない。

 

 前には水門。

 

 後ろには橋。

 

 逃げる場所が、少しずつなくなっていく。

 

 泥の鈴をポケットの上から押さえた。布越しに、硬い形が分かる。橋のひびは薄くなり、水門みたいな線が浮かんでいた。

 

 ここへ来い、ということなのだと思う。

 

 でも、水門の前に立ったら何が起こるのかは分からない。

 

 分からないのに、足はそちらへ向いていた。

 

 水門まで、あと少し。

 

 そのとき、道の横の用水路で、水面が盛り上がった。

 

 流れとは違う動きだった。

 

 黒い水が、内側から押されるように丸くふくらむ。ゆっくりと前へ動く。橋の下で見た細長い影とは違う。今度はもっと幅がある。水の下に、大きな袋のようなものが沈んでいて、それが泥の底をこすりながら進んでいるみたいだった。

 

 足が止まる。

 

 水面のふくらみも止まった。

 

 こちらの動きに合わせている。

 

 水路の中のものは、橋で終わったわけじゃなかった。

 

 ここまで、ついてきている。

 

 息を小さくした。

 

 走ってはいけない。

 音に合わせてもいけない。

 水面を見続けてもいけない。

 

 橋で覚えたことを、もう一度思い出す。

 

 でも、水門の方からは別の音がする。

 

 内側から押すような重い音。

 水路からついてくる湿った動き。

 草の奥で、何かが葉を分けるような気配。

 

 怖いものが、一つじゃない。

 

 どこを見ればいいのか分からない。

 

 水門の前に、細い板が落ちていた。

 

 水路を渡すための板ではない。古い木片のようなものだった。半分泥に埋まっていて、表面には黒い筋がいくつも走っている。

 

 その筋は、ただの汚れではなかった。

 

 懐中電灯の光を近づける。

 

 線は、水門の形に似ていた。

 

 錆びた鉄板。

 横へ伸びる水路。

 その奥にある、黒い四角。

 

 地図ではない。

 でも、何かを示している。

 

 木片の先は、水門の左側を向いていた。

 

 正面から近づいてはいけない。

 

 そういうことかもしれない。

 

 水門の真正面には、黒い水の出口がある。

 あそこへ立ったら、内側から押しているものに見つかる気がした。

 

 左へ回り込む。

 

 そう決めた瞬間、水門の中で、何かが鉄板を押した。

 

 錆びた板が、ほんの少しだけ外側へふくらむ。

 

 水ではない。

 

 水だけなら、こんなふうには動かない。

 

 中に、何かがいる。

 

 鉄板のすきまから、黒い水が細くにじみ出た。

 それは地面に落ちず、板の表面をゆっくり伝って下りてくる。

 

 まるで、内側から外を探っているみたいだった。

 

 水門の前に立っていたら、あれに触れていた。

 

 背中が冷たくなる。

 

 左へ。

 

 足音を小さくして、水門の横へ回る。

 

 用水路の水のふくらみも、少し遅れて動き出した。

 

 ついてくる。

 

 しかも今度は、水面の下だけではなかった。

 

 草の根元でも、何かが動いている。

 

 水路から上がってきたのか。

 それとも、もともと草の中にいたのか。

 

 低い草が、こちらへ向かって倒れていく。まっすぐではない。水の流れみたいに、曲がりながら近づいてくる。

 

 水門の左側には、細い通路があった。

 

 コンクリートの壁と草むらの間に、人ひとりがぎりぎり通れるくらいのすきま。

 そこを通れば、水門の裏側へ回れる。

 

 でも、草むらの中のものも、同じ方向へ動いている。

 

 急がなきゃいけない。

 

 でも、急ぎすぎたら水路の中のものが追いつく。

 

 足を止めずに、速さだけを少しずつ変える。

 

 ゆっくり。

 少し早く。

 止まるふりをして、また進む。

 

 水面のふくらみが、一瞬遅れる。

 

 そのすきに、水門の横の通路へ体を滑り込ませた。

 

 コンクリートの壁がすぐ右にある。冷たく湿っていて、触れると服の袖が濡れた。左側の草むらは近すぎる。葉の先が足に触れる。

 

 何かが草の中から出てきそうで、見たくなかった。

 

 でも、見ないと近づかれる気もした。

 

 懐中電灯を低く向ける。

 

 草の間に、黒い筋が走っていた。

 

 泥の跡。

 

 細い体を引きずったような跡が、草の根元を割って伸びている。

 その先が、わたしの足元へ向かっていた。

 

 もう近い。

 

 水門の裏側まで、あと数歩。

 

 その奥に、小さな取っ手が見えた。

 

 錆びた鉄の取っ手。

 水門の横についている、古い操作用の扉みたいなもの。

 

 泥の鈴のひびは、たぶん、あれを示している。

 

 そう思った瞬間、水門の内側から、また重い圧が来た。

 

 鉄板が、低くきしむ。

 

 横の小さな扉も、内側から押されたように震えた。

 

 開けていいものなのか分からない。

 

 でも、ここまで来たら、確かめるしかなかった。

 

 手を伸ばす。

 

 取っ手は、泥と錆でざらざらしていた。

 

 握った瞬間、草むらの中のものが、足首のすぐ横まで来た気配がした。

 

 見ない。

 

 考えない。

 

 取っ手を回す。

 

 硬い。

 

 動かない。

 

 もう一度、力を入れる。

 

 水門の中で、何かがこちらに気づいたように、重い音が止まった。

 

 静かになる。

 

 まずい。

 

 そう思った。

 

 静かになるのが、いちばん怖い。

 

 取っ手が、少しだけ動いた。

 

 錆びついた鉄が、指の中でぎりぎりと回る。ほんの少し。ほんの少しだけなのに、水門の向こう側で止まっていた気配が、一気に近づいた。

 

 内側から、何かが聞いている。

 

 そんな感じがした。

 

 息を止める。

 

 取っ手を握ったまま、動けない。

 

 足元の草むらでは、黒い筋がさらに伸びていた。泥の中を何かが這っている。その跡が、わたしの靴のすぐ横まで来ている。

 

 懐中電灯の光を少しだけ下げた。

 

 草の根元に、細いものが見えた。

 

 指ではなかった。

 虫でもなかった。

 濡れた草の根が束になって、一本の生き物みたいに動いている。

 

 それが、地面の上を探るように左右へ揺れた。

 

 わたしの足首を探している。

 

 体が固まる。

 

 足を引きたい。

 

 でも、いきなり動いたら、草の中のものに触れる。

 水門の中のものにも気づかれる。

 用水路のふくらみも、すぐ後ろまで来ている。

 

 逃げ場がない。

 

 取っ手から手を離せば、ここまで来た意味がなくなる。

 取っ手を回し続ければ、何かを開けてしまう。

 

 どっちも怖い。

 

 でも、閉じたままでは進めない。

 

 もう一度、力を入れた。

 

 鉄の取っ手が、ゆっくり回る。

 

 水門の横の小さな扉が、内側から少し押し返してきた。手のひらに重さが伝わる。扉の向こうに、水があるのか、泥があるのか、それとも別のものがいるのか分からない。

 

 ただ、向こう側が空っぽではないことだけは分かった。

 

 扉のすきまから、黒い水が細くにじみ出た。

 

 水は下へ落ちず、扉の表面を這うように横へ流れた。まるで、道を探しているみたいだった。すきまから出た水の先が、わたしの指の方へ伸びる。

 

 触れたらだめ。

 

 とっさに手を離す。

 

 黒い水は、取っ手の上をゆっくりなぞったあと、地面へ落ちた。落ちた場所の草が、音もなく黒く沈む。草の葉が細く縮んで、泥の中へ引きこまれる。

 

 そこに触れていたら、手がどうなっていたのか。

 

 考えたくなかった。

 

 でも、扉は少しだけ開いていた。

 

 すきまは指一本分くらい。そこから、冷たい空気が流れてくる。水の匂い。錆の匂い。ずっと閉じこめられていた泥の匂い。

 

 そして、その奥に何かがある。

 

 懐中電灯の光をすきまへ向ける。

 

 黒い。

 

 何も見えない。

 

 けれど、光の先で何かが動いた。

 

 細長い影が、すきまの奥を横切る。

 

 水路の中で見たものと似ていた。

 でも、もっと近い。

 もっと太い。

 

 水門の中を、何かがゆっくり回っている。

 

 閉じられた場所の中で、出口を探しているみたいに。

 

 すぐ後ろで、水面がふくらんだ。

 

 用水路の中のものが追いついた。

 

 振り返らない。

 

 見たら、動けなくなる。

 

 草むらの中の濡れた根のようなものが、靴のかかとに触れた。

 

 冷たい。

 

 足首から、背中まで一気に寒くなった。

 

 反射的に足を上げる。

 

 草の中のものが空振りするように、泥の上を撫でた。その瞬間、体のバランスが崩れる。右肩が水門の壁にぶつかり、懐中電灯の光が大きく揺れた。

 

 光が扉のすきまから外れる。

 

 水門の中で、何かが動いた。

 

 さっきまでゆっくりだった影が、急にこちらへ向かった。

 

 まずい。

 

 懐中電灯をすきまへ戻す。

 

 白い光が、黒い水の奥を照らす。

 

 そこに、目のようなものはなかった。

 

 顔もない。

 

 ただ、太い水のかたまりが、内側から扉へ押しつけられていた。水なのに、形がある。丸まった背中のようにふくらみ、細いものを何本も伸ばして、すきまを探っている。

 

 光を当てると、その動きが鈍った。

 

 止まるわけじゃない。

 でも、迷う。

 

 光が嫌いなのかもしれない。

 

 そう思った。

 

 右手で懐中電灯を持ったまま、左手をもう一度取っ手へ伸ばす。黒い水がついていない場所を選んで、指先だけで握る。

 

 熱いくらい力を入れた。

 

 取っ手が回る。

 

 小さな扉が、少しずつ開く。

 

 開いたすきまから、黒い水のかたまりが細い触手みたいなものを伸ばしてきた。

 

 水でできているのに、水滴にならない。一本のまま、空気の中で震えている。先端が左右に揺れ、わたしの手を探す。

 

 懐中電灯をそこへ向ける。

 

 白い光の中で、黒い水の先が少し縮んだ。

 

 今だ。

 

 扉をもう少し引く。

 

 中に、何かがあった。

 

 水門の壁の内側、泥に埋もれるようにして、小さな木札が挟まっている。古くて、黒く濡れていて、端が欠けている。そこに、細い線が刻まれていた。

 

 泥の鈴のひびと同じ。

 

 水門の形。

 

 たぶん、これを取ればいい。

 

 そう思った瞬間、用水路の水が一段高く盛り上がった。

 

 後ろから、冷たい水の匂いが迫ってくる。

 

 草むらの中のものも、また足元へ伸びてきた。今度は一本ではない。何本も。濡れた根のようなものが、泥の上を這って靴の周りを囲もうとしている。

 

 時間がない。

 

 左手で木札をつかむ。

 

 ぬめっている。

 泥が指の間に入る。

 木なのに、少し柔らかい。

 

 引っ張る。

 

 抜けない。

 

 奥の泥が、木札を放さない。

 

 もう一度、強く引く。

 

 木札が少し動いた。

 

 その瞬間、水門の中の黒いかたまりが扉へぶつかった。

 

 重たい水が壁を叩くような衝撃。

 

 扉が外側へ押される。

 

 腕がしびれる。

 取っ手を持っていられない。

 

 扉が広がる。

 

 すきまが大きくなる。

 

 黒い水が、そこから腕のように伸びてきた。

 

 まっすぐ、わたしの胸の方へ。

 

 光を当てる。

 

 水の腕は途中で曲がった。けれど完全には止まらない。光の端を避けるように、横から回り込んでくる。

 

 左手は木札をつかんだまま。

 右手は懐中電灯。

 足元には草の根みたいなもの。

 後ろには用水路。

 

 動けない。

 

 でも、木札を離したら、また取れなくなる。

 

 息を吸う。

 

 浅く。

 短く。

 

 体を横にひねる。

 

 黒い水の腕が、服の前をかすめた。冷たいものが布に触れる。触れたところから、じわっと冷たさが広がる。

 

 でも、つかまれてはいない。

 

 そのまま、木札を引いた。

 

 泥が裂けるような感触が手に伝わる。

 

 木札が抜けた。

 

 同時に、水門の中で何かが大きくうねった。

 

 扉のすきまから、黒い水が一気にあふれそうになる。

 

 逃げなきゃ。

 

 木札を握ったまま、後ろへ下がる。

 

 草の根みたいなものが、靴に絡む。足を取られる。転びそうになる。

 

 懐中電灯を草むらへ向ける。

 

 光を受けた草の根が、泥の中へ少し引っ込んだ。

 

 完全には消えない。

 

 でも、足首から離れた。

 

 そのすきに、通路を戻る。

 

 水門の小さな扉が、背中の後ろでさらに開いた気配がした。

 黒い水が、地面を這って追ってくる。

 

 水は流れるのではなく、伸びる。

 

 低く、薄く、地面に張りついたまま、こちらへ近づいてくる。草に触れると、草が黒く沈む。泥に触れると、泥がさらに深くなる。

 

 踏んだら、足を取られる。

 

 走りたいのに、走れない。

 

 足元を選ぶ。

 

 乾いている土。

 草がまだ立っている場所。

 黒い水が触れていない場所。

 

 一歩。

 また一歩。

 

 後ろの水が近づく。

 用水路のふくらみも、並んで動いてくる。

 草むらの中のものも、光の外側を選んで回り込もうとしている。

 

 三つが同時に来る。

 

 頭の中が白くなりそうだった。

 

 でも、橋のときと同じ。

 

 ひとつずつ見るしかない。

 

 まず足元。

 次に水門から伸びる黒い水。

 それから草むら。

 最後に用水路。

 

 懐中電灯を低く振る。

 

 草の根が引く。

 黒い水の先が少し止まる。

 でも、用水路のふくらみは止まらない。

 

 水の中のものには、光が届かない。

 

 どうする。

 

 足がぬかるみに沈む。

 

 抜けない。

 

 靴の裏が泥に吸いつく。

 

 後ろから黒い水が迫る。

 

 右側の草むらから、根のようなものが伸びる。

 

 用水路の水が、真横で盛り上がる。

 

 もう少しで、三つとも届く。

 

 そのとき、手の中の木札がぬるりと動いた。

 

 落としそうになる。

 

 見ると、木札に刻まれた線の隙間から、泥がこぼれていた。

 

 水門の形だと思っていた線が、少し変わっている。

 

 短い線が、横に伸びている。

 

 道みたいだった。

 

 水門の横ではなく、少し離れた細い農道。

 草の切れ目。

 そこへ行けと言っているみたいだった。

 

 左を見る。

 

 草むらの奥に、確かに細い道があった。

 

 さっきは見えなかった。

 

 草が倒れて、一本だけ黒くない土が続いている。

 

 あそこなら、用水路から離れられる。

 

 泥に沈んだ足を、力いっぱい引き抜く。

 靴が脱げそうになる。

 それでも抜く。

 

 足が抜けた瞬間、黒い水がさっきまで靴のあった場所を覆った。

 

 遅れていたら、捕まっていた。

 

 細い農道へ向かう。

 

 草の根が足首を狙って伸びる。

 懐中電灯を当てる。

 引っ込む。

 また別のところから伸びる。

 

 足を高く上げて、倒れた草をまたぐ。

 木札を胸に抱える。

 黒い水の先を避ける。

 

 農道へ飛び込むように入った。

 

 土の感触が変わった。

 

 水っぽい泥ではなく、少し固い土。

 草も低い。

 用水路から少し離れている。

 

 そこで初めて、後ろを見た。

 

 水門の前に、黒い水が広がっていた。

 

 けれど、農道までは来ない。

 

 水は、見えない線に止められたみたいに、そこでうねっていた。草の根のようなものも、その手前で絡まり合って動いている。

 

 用水路のふくらみも、こちらへは来ない。

 

 水門の近くから出られないのかもしれない。

 

 でも、安心はできなかった。

 

 黒い水の表面に、何かが浮かび上がった。

 

 足跡。

 

 橋で見た濡れた足跡と同じ形。

 

 それが、水門の前から農道の入口へ向かって、ひとつだけ残っていた。

 

 今のは、わたしの足跡じゃない。

 

 誰かが先にここを通った。

 

 そう思った。

 

 木札を見る。

 

 泥で汚れているけれど、刻まれた線はまだ残っている。水門の形。その横に伸びる細い道。そして、その先に小さな四角。

 

 小屋。

 

 そう見えた。

 

 田んぼの奥にある、古い農具小屋かもしれない。

 

 ポケットから泥の鈴を取り出す。

 

 水門のひびは、少しずつ薄くなっていた。

 

 代わりに、表面の別の場所に、新しい線が浮かび始めている。

 

 小さな四角。

 傾いた屋根。

 戸のような縦線。

 

 古い小屋の形。

 

 水門の奥で、重たい水の音がまたした。

 

 今度は遠い。

 

 でも、まだ終わっていない。

 

 木札をハンカチに包む。

 泥の鈴をしまう。

 

 農道の先には、低い影があった。

 

 小屋だ。

 

 夜の中に、黒い箱みたいに立っている。

 

 水門からは離れた。

 

 でも、次はあそこへ行かなければならない。

 

 足は震えている。

 

 服の前には、黒い水が触れた冷たさが残っている。

 

 それでも、戻る道より、農道の先の方が近かった。

 

 小屋の影を見つめる。

 

 戸のすきまから、細い暗さが漏れているように見えた。





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