教えてください、先生。

生憎と、彼女にそんなことは言われたことはないけれど。

でも、少しくらいは、彼女の支えになっていると信じたいものだ。


(ある女教師、あるいは鈍感女のある回想)

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第1話

「…ふぅ、今日もまぁよく頑張ったものだ」

 

 最後の授業も終えて誰もいない化学準備室でわざとらしい溜息を付くと、夜語トバリは椅子に腰かけてテーブルのガスバーナーに火を付けた。その上に水を入れたビーカーを乗せて、戸棚からインスタントコーヒーを取り出す。そのままぼんやりと下校する生徒や部活動を始めようとする生徒が見え始める校庭に視線を移す。口寂しさを誤魔化すための棒キャンディの包装に手を伸ばそうとしたところで、準備室の扉にノックの音が響いた。

 

「…はーい」

「夜語先生、いますか?」

「あぁ、君か。いいよ、入ってきて」

 

 少しの警戒を直ぐに解いて、ポケットにキャンディを仕舞ったトバリはノックの主に部屋に入る様に促す。からから、とドアの金具が少しの音を立てて横に滑り、紫髪を肩の辺りで切り揃えた少女が控えめな笑顔を見せた。

 

「今日は図書室じゃないんだな、結月君」

「図書委員会の集まりで使っちゃってまして…。それに、一週間くらい夜語先生のコーヒー飲めてないなって」

「まったく、ここは喫茶店じゃないんだぞ」

 

 笑顔の控えめさとは裏腹に存外遠慮のない発言をしながら少女、結月雫はそのまま後ろ手に横開きのドアを閉めてすとすとと軽い足取りでトバリが机代わりにしている化学室と同じデザインのテーブルへと向かった。その間に、トバリは何時の頃からか準備室に置かれるようになった雫用のマグカップに慣れた手つきでインスタントコーヒーの粉を入れると、温まったビーカーのお湯を注ぐ。そうすれば、あっという間に化学準備室の中の空気をコーヒーの香りが満たした。

 

「ありがとうございます。夜語先生のコーヒー、なんでか美味しくて」

「コツも何もない適当な淹れ方なんだがな…。まぁ、砂糖はそこにあるし、勝手に寛いでてくれ。私は私の分のコーヒーを淹れるから」

「あ、まだ淹れてなかったんですか?自分のから淹れてくれてもよかったのに」

「生徒には甘く、が私の信条だからね。よく苦情も入るが、まぁ別にいいだろう」

「ふふ、ありがとうございます」

 

 そう表情を緩ませてマグカップに口を付ける雫を横目にトバリは水道からまたビーカーに水を注ぐと未だに火を吐くガスバーナーの上に置いた。その様子をぼんやりと眺めている雫は、あ、と声を上げると鞄から薄桃色の小さな包みを取り出した。

 

「そういえば、お姉ちゃんがお菓子作ってくれたんです。クッキーだったかな?夜語先生もどうですか?」

「…学校内にお菓子の類を持ち込むのは校則違反の筈なんだが」

「もう、いつも同じこと言いますよね、先生。全くおんなじこと言いますけど、こんなの皆やってますよ?…あ、美味しい。ほら、先生もどうぞ」

「…はぁ、まったく。…うん、美味しい。ココアのも、もう一枚いいかな?」

「ふふ、そんな遠慮しなくてもいいですって。どうぞどうぞ」

 

 そう軽口を言い合いながら校則違反のクッキーに手を伸ばして舌鼓を打つ。そうしているうちに沸騰していたビーカーのお湯に気付いて自身のコーヒーをマグカップに用意するトバリの様子を感心するように見ながら雫は口を開いた。

 

「…相変わらず、手際いいですよね。先生って、職員室とかでも美味しいとか言われたりしないんですか?」

「ん?あぁ、結構言われてたと思うよ。それが面倒だから、なるべくこっちで過ごすようにしてるのもある」

「あはは…、先生らしいですね。…でも、私としても有難いです。教室も、あんまり居心地よくないですし」

「…いつも言うが、あまり人に合わせすぎるのも息苦しいだけだぞ?少しは我を出してもいいんじゃないか?…まぁ、簡単なことではないんだろうが」

「…そう、ですね。私は、夜語先生みたいに強くないので」

 

 そう言って雫は右手首を少し痛いくらいに握る。雫は、隣町からの転校生だ。一年生の頃、以前の中学校でいじめを経験していた雫は、自身を支えてくれる姉の提案もあり、少々の通学の不便を伴う代わりに環境を一新できる現在の中学校へと転校してきた。幸いなことにいじめとは無縁の生活を今のところ送れてはいる。しかし、以前の記憶が未だに小さなトラウマとなっている雫は周りに少しの壁を作っていて。それに気付いて、メンタルケア兼相談役を買って出たのがトバリだった。元々、職員室に戻ることが面倒だからと化学準備室で時間を過ごすことが多いトバリは避難先として、自身の根城を提供した。それに少々の申し訳なさを覚えつつも、ついつい甘える形で雫は週に一度ほど、割と頻繁に化学準備室に訪れるようになっていた。

 

「私もそう強くないさ…っと、すまない。クッキー、全部食べてしまった」

「あ、いえ…」

 

 そう、少し震える声を絞り出してトバリに返事をしようとした雫の視線の先で、後を引いた口の物寂しさを誤魔化すためか、トバリが先程ポケットに入れたキャンディを取り出して口に放り込んでいた。そのまま棒を咥えながら、机の上に置いてある容器から角砂糖を二つ摘まんで自身のマグカップに放ってスプーンで溶かした。

 

「…ん?どうした?お代わりでも入れるかい?」

「あ、でしたらお願いします…。…先生って、もしかして煙草吸いますか?」

「ん…っ」

 

 ビーカーに水を入れる手を僅かに濡らして、トバリは少し意外そうに雫を見る。彼女の目は先程までの怯えたようなものから直ぐに取って代わって、好奇と羨望を含んだものになっていた。

 

「…まぁ、吸うが。隠しているわけではないにせよ、そんなに分かりやすいものかね…?」

「いえ、お父さんも吸ってて、それに雰囲気が似てたので。…かっこいいですよね、それ」

「…まぁ、私も結月君と同じ頃にはそういった憧れも持っていたものだから強くは言えないが…、教員としてはあまり勧められたものではないな。身体にも悪いし、社会受けも悪いぞ?」

「それはそうですけど…。やっぱり大人への憧れは中学二年生には止められませんよ…。煙草吸う大人の女性って、雰囲気それだけでかっこいいですし…」

「まぁ、私も当時のことを思えば否定はできないな」

「…それに」

 

 一度言葉を切って、雫は再び包帯の巻かれた右手首をぎゅっと握って視線を落とした。その視線を直ぐにトバリへ戻して切り落とされた言葉を再び紡ぐ。

 

「かっこ悪いかも、ですけれど…。それだけで、少し強くなれそうな気がするんです。どうしようもない大人と子供との距離を縮められるんじゃないかって…」

 

 少しだけ視線に熱を含ませながら雫はトバリに少し躊躇いがちに、しかしはっきりと自分の意志を伝えてみせた。それを受け止めて少し悩むように頭の後ろを掻き毟りながら唸ったトバリは、つかつかと少し強い調子で雫に歩み寄って彼女の目の前で立ち止まった。そのままトバリは、少し怯んだように自身を見上げる雫の口に、それまで自身が口に含んでいた飴を突っ込んだ。

 

「んむっ…」

「…悪いことは言わないから、先走り過ぎないことだ。人間ってのはな、意志さえあれば自然と大人というものになっていくものなんだよ。逆に、どう足掻いたところでおいそれと大人になれるものではない。無理に大人になろうと空回りしてどうにもならなくなった友人達を、これでも何人も見ている身なんだ、私は。だから、焦らずに自分の無理のない範囲で大人を目指すことだ。勿論、許される歳が来るまで煙草とか、酒とか、禁じられたものに手を出すなんて馬鹿な真似をやってはいけないよ。とりあえず、その時が来るまではこれで我慢したまえ。いいね?」

 

 そう、雫の警戒を解きほぐすように穏やかな、しかし、有無を言わせない調子でトバリは語り掛けながら頭を撫でてやる。しかし、その言葉を受け取った雫は顔を真っ赤にして俯いてしまっている。

 

「…間接、キス…」

「…?聞いてるかい、結月君?」

「ぇ、あ、は、はい!大丈夫です!キャンディで我慢します!」

「お、おう…。聞き分けが良くて助かるよ。…っと、そろそろお湯が沸くな。ガスバーナーは火が強くて助かる。どうする?砂糖は入れるかい?」

「は、はいっ!」

 

 普段の雫らしからぬ真っ赤な顔での緊張したような声色に少し驚きながらも、トバリは彼女が自分の言葉を素直に受け入れた様子であることに満足して雫の分のコーヒーを再び淹れ始めた。…当の雫は憧れと密かな恋慕を秘めた人との思いがけない間接キスに嬉しさがほぼ十割の混乱に陥って口の中に残る甘さを大切に、大切に味わうことしか出来ていなかったのだが。


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