藤の代にて月を思ふ   作:藤代

5 / 5
沢山の評価ありがとうございます
4話までも細かく書き直しましたので、見て頂けると嬉しいです


出会いは突然に

「まさか、こんなことになるなんて……」

 

そんなありきたりで、陳腐で、手垢のついた創作物のテンプレートみたいな言葉すら、喉の奥に固まって途中で引っ込んでいた。

私はただ、呼吸の仕方を忘れたかのように、目の前の光景を凝視することしかできない。

もはや大半の人間が普段使いするようになった、コンタクトレンズ型のVRデバイス『スマコン』がついていないかをまず確認する。

改めて、明らかに現実世界の生身の網膜が捉えていたその視界の真ん中に、彼女はいた。

夕暮れの朱と紫が混ざり合う、世界の境界が曖昧になる時間帯。

人通りの少ない路地の真ん中で、まるで世界から拒絶されたかのように、ぽつりと蹲っている少女。

凛とした、けれど今は痛々しいほどに青ざめた顔つき。

冷たい陶器で作られた人形のように血の気の引いた肌と、その左目の下に微かに、しかし確かに刻まれた、特徴的な涙ぼくろ。

――酒寄彩葉(さかよりいろは)。その人だった。

私が八千年間、ヤチヨの傍らで、ただただ、シナリオの絶対的主人公(ヒロイン)として想い続けた、この世界の中心(センター)

 

「あ、あの、すみません。……ちょっと、貧血みたいで」

 

地面の冷たいコンクリートに指先を立て、いまにも消え入りそうな細い声で彼女が呟く。

その声が耳に届いた瞬間、私の脳内メモリは完全にフリーズした。

 

 

───────

 

 

始まりは、本当にただの、どこにでもある買い出しだったのだ。

仮想空間『ツクヨミ』の本格的な運用が始まり、しばらく引きこもり気味だったので、最低限の生活必需品や、ちょっとした保存食なんかを揃えておこうと、久しぶりに地上(別に地下にいる訳ではない)に出ただけだった。

思ったより買うものも多く、近くの店舗に適当なものがなかったためいくつかの店をハシゴしていたのだが、その道すがら、ショップで見かけてしまった月見ヤチヨ新作グッズの存在が、私のすべてを狂わせた。

 

(このガチャ実質無料でしょ。ヤチヨだけのガチャ最高すぎない?)

(待って、このアクリルスタンドのヤチヨ、あざと可愛さが限界突破してない!?)

(このバッジの表情、八千年の感情を隠しきれてない特有の陰りがあって最高にエモい……ッ!)

 

気がつけば、私の脳内メモリは完全に推し活へと全振りされていた。保存用、観賞用、そして布教用(一体誰に布教するつもりだ。私しかいないのに)のヤチヨグッズを片っ端から両腕に抱え、ホクホクの幸福感に包まれながら、随分と足を伸ばしてしまっていた。

そんな限界オタク丸出しの私が、ご機嫌で夕暮れの帰路についていた最中に出会ったのが、よりにもよって、このボロボロの酒寄彩葉だったのだ。

出会いってもっと劇的なものじゃないんですか……?なんて大量の袋を持ちながら思った。

ヤチヨが出会うよりも前に、私が、彩葉とダイレクトに接触するなんて……。

けれど、そんな混乱は一瞬で、目の前の彼女の最悪すぎる状態を見せつけられた瞬間に、綺麗さっぱり吹き飛んでいた。

原作のストーリーが本格的に動き出す前だというのに、すでに彼女の健康は、客観的に見て完全に崩壊していた。

肌の血色は悪く……薄幸の美少女感が出ててこれはこれでいいけど。

目の下には消えない濃い隈が刻まれ……それもそういう影のあるキャラぽくていいけど。

視線はどこか焦点が合わずに彷徨っている……これも大人しめのキャラぽくて本当に美人で……って違う!そういう話ではなく!

壊滅的な食生活、人間の限界に挑むかのような極端な睡眠不足、そして過度なエナジードリンクへの依存。むしろ、今日この瞬間まで、この貧弱な身体でよく倒れずに生きて歩けていたな、というレベルの生命の限界値。

この子……ほんとに原作開始まで生きてられるのかなぁ。

どれほど過酷な現実の中で、たった一人で息を殺して耐えているか。

それを知っているからこそ、私の胸の奥が、締め付けられるように激しく痛む。

私は気がつけば、考えるよりも先に動く身体で、買い物袋を放り出して彼女の細い肩を支えていた。

 

「大丈夫だよ。ゆっくりでいいから。ほら、近くにベンチがあるし、そこに体重預けて」

 

彼女の身体は、驚くほど軽くて、そして儚かった。まるで、今にも音を立てて割れてしまいそうなガラス細工のようだった。

 

「……少しは楽になった?」

「あ、はい。……ありがとうございます。ご迷惑を、おかけしました……」

 

ベンチに腰掛け、まだ手足が小刻みに震えているくせに、彩葉はそそくさとその場を立ち去ろうと腰を浮かせた。

他人にこれ以上迷惑をかけたくない。誰も頼りたくない。自分の弱みを見せたくない。という、彼女の頑なな、痛々しいほどの防衛本能が、その短い言葉と拒絶の仕草から透けて見えた。

いやいやいや。流石にこれは見なかったことにはできないよ。

ここで放り出したら、私は何のためにこの世界で八千年間過ごしてきたんだ。

 

「ちょいちょい、待ちなし。全然万全じゃないでしょ、貴方」

「あの、でも、これ以上知らない人に甘えるわけには……」

「甘えるとかじゃないの。いいから。とりあえずこれあげる」

 

私は買い物袋の奥から、ガサゴソと音を立てて、自分のために購入していたサプリメントの袋を引っ張り出して、彼女の膝の上に無理やり押し付ける。

ぶっちゃけ、私のこの月人仕様(チート性能)の頑丈すぎるボディに、現代人類の作った本物の栄養(サプリ)が必要なのかと言われると、かなり怪しい。

遺伝子レベルで違うか何かで、どれほど不摂生をしようが、数日間徹夜でコードを叩き続けようが、肉体が勝手に最適な状態へ恒常性(ホメオスタシス)を働かせてしまうからだ。

けれど、軽い食事や、基本のビタミンやミネラルを摂取する習慣が今でも残っているのは、前世の、まだ私が脆くて弱い人間だった頃の名残というか、単なる気分の問題だ。まあ、八千年前かぐやだって、地球に落ちてきてからは普通にご飯を食べて暮らしていたわけだし。

ちなみに、適度な筋トレと有酸素運動も欠かしていない。月人ボディでも健康志向。字面だけ見ると宇宙規模で意味がわからないが、とにかく実は私はただ体のチートに頼っているだけでなく、ちゃんと健康を意識しているのだ。

 

「へ?!ももも、貰えませんよ……!?これレシート……結構高いやつじゃないですかこれ!」

 

彩葉は、サプリを膝の上に置かれ、突然の出来事に上手く反応できていないみたいだった。

 

「いいから黙って受け取りなさい。その様子だと、まともなご飯も食べてないし、睡眠も取れてないでしょ」

「う……それは、はい……」

「バランスのいい生活が一番なのは分かってるけど、まあ現代の忙しい学生にはそれが一番難しいよね。だからこそサプリだよ。馬鹿にできないくらい効果あるんだから。これ飲んでおくだけで、倦怠感はかなりマシになるからね」

 

私は袋の中から、愛用しているオススメの組み合わせ――マルチビタミン、マルチミネラル、そして疲労回復に効くアミノ酸――をいくつかピックアップして、彼女の手元へ手際よく並べていく。

 

個人的な経験則として、前世で修羅場を生き抜いていた頃も、これらさえきっちり押さえておけば、人間の身体はかなり持ち堪えてくれた。だから、騙されたと思って継続して買うことを強く推奨する。

……って、なんかこれじゃ街頭の怪しいサプリ販売員か、マルチ商法の勧誘みたい。ほんと何やってるんだろうね、私は。

 

「で、でも貰えませんよ。こんなに、返せるものもないし」

「とにかく一週間試してみて。めっちゃ効果あるんだから」

「あれ?話聞いてくれないな……?」

 

返答は聞き流した。彩葉は両手にサプリの袋を抱えたまま、完全に困惑している。

道端で倒れかけたら、謎の女に捕まり、怒涛の勢いで健康指導をされながらサプリを処方されているのだ。客観的に見なくても状況が奇妙すぎる。

でも仕方ないやつだから、これは。

 

「あとは、カフェイン。……どデカいサイズのエナジードリンクとか、がぶ飲みしてない?」

「……飲んでます。なんで、分かるんですか」

 

彩葉がビクッと肩を揺らし、怯えたように縮こまる。

 

「見るからにカフェイン切れの離脱症状が出てるからだよ。飲むなとは言わない。作業に必要なのも、それがないと脳が動かないのも、よーく分かる。でもね、せめて買うなら缶の小さいヤツにしなさい」

「小さい、やつ……?」

「そう。カフェインはね、一度に大量に摂取するほど、後で効果が切れた時の反動がキツくなるの。小さい缶でも、脳への覚醒作用は十分足りるから。その方が一度の摂取量も抑えられるし、何より、炭酸が抜けてぬるくなる前に、最後まで美味しく飲めるでしょ」

「正論過ぎる……!」

「貴方、めちゃくちゃ頭が良さそうなのに、栄養が足りなすぎて思考力低下しすぎじゃない……?」

 

それにね、と私は言葉を続ける。

 

「我慢するストレスも少なくて済むでしょ。単純にサイズを半分にすれば、同じ値段で二回に分けて飲む楽しみができるわけだから。そういう小さなライフハックが、生活の破綻を防ぐの」

 

正直、作業しながらあの特大サイズのエナドリを机に置いている時って、最後の方はぬるくなって惰性で義務のように飲んでいる気がするのだ。前世の私もそうだった。

まあ、そもそも「エナドリなんか健康に悪いから買うな」と正論のナイフを突きつけるのが一番正しい態度なのだろうけれど、この先の人生、彼女にとってそれが数少ない好きな物であり、過酷な現実を戦うための心の支えになることを、私は知っている。それを頭ごなしに否定するのは、あまりにも野暮というものだ。

 

「まあ、でも、大きいサイズの方が、容量的に少し安くなるのもあるので……」

 

彩葉はなおも、財布の事情を気にするように小さく口篭る。

 

「そんなの、小さいやつをネットで箱でまとめ買いすれば、一本あたりの単価は同じくらい安くなるでしょ。なんなら私が代わりにポチって、貴方の家に送りつけてあげようか?見てられないよ?本当に」

「いえいえいえ!?本当に!本当に大丈夫ですから!!」

 

必死に両手を振って遠慮する彼女のリアクションを見て、ふと思う。あれ、なんか私、お母さんみたいだな、と。

いや、生きた時間をトータルすれば、年齢的にもうおばあちゃんだ。孫の偏食を心配して口うるさく小言を言う、老後のメンタリティだ。もし自分に子供や孫がいたら、きっとこんな風に口うるさく世話を焼いていたのだろうか。八千年間の時間が、私の精神を奇妙に達観させてしまっていた。

あまりにも図星で、かつ耳に痛い小言の連続に、ずっと縮こまって下を向いていた彩葉だったが、ふと、何かを言いかけて顔を上げた。

 

――そして私の顔を正面から見たまま、石のように完全にフリーズした。

ん? と思った。何か顔にでもついていただろうか。さっき食べたお菓子のクズでもついていたかな。

そう首を傾げた直後に、私は自分の、取り返しのつかない致命的なミスに気がついた。

 

しまった。

 

私の生身の肉体は、芦花とほぼ同じ顔をしているんだった。

いや、だって、もう前世の百倍くらいの途方もない年月をこの姿で生きているからでして。私にとってはこれが自分自身の顔として完全に馴染みすぎてしまっていたのだ。鏡を見るたびに、今日も藤色の髪が綺麗だな♪くらいにしか思っていなかった。

なんて、誰に向けたものかも分からない言い訳を脳内で必死に呟いたところで、当然何の役にも立たない。

案の定、彩葉の虚ろだった瞳に、鋭く、切迫した光が宿り、戸惑いの混ざった質問が飛んできた。

 

「あの……、芦花……?」

「……誰だろう。人違いじゃないかな」

 

私は心臓のバクバクを必死に隠して、すました顔で首を横に振った。

 

「いや、でも、あまりにも似すぎているっていうか。雰囲気は全然違うんですけど、私の知り合いの子に、もっっの凄くそっくりで……」

「あー、あれだよ。もうひとりの自分と街で出会ったら死ぬ、みたいな都市伝説あったよね。ドッペルゲンガー的な」

「ドッペルゲンガー!?でも本当にそれぐらい似てるんですけど……!?え、もしかして、いとことか親戚なんじゃ」

「残念ながら私の家族は一人しかいないんだよね」

「う……そうですか変なこと聞いてすみません」

「大丈夫、そいつウミウシだから」

「いや人じゃないんかい!」

 

返しが良いな。

まあ、フシもカウントするなら一匹増えるけど。

そんな風に私が投げた雑なボケを、体調不良のはずなのに的確なテンポと鋭さで拾って見せた。その切れ味は、磨けば恐ろしいほどに光る、未来の人気配信者としての片鱗をまざまざと思わせた。

やっぱりライバーの才能もあるよね。逆に貴様は何を持ちえないんだ、酒寄彩葉。

 

「まあ、私に顔が似てるっていうそのお友達も、きっと心配してると思うよ。……貴方のこと」

「……そう、なんですかね」

 

彩葉は、少しだけ寂しそうに、拒絶の壁の向こう側で目を伏せた。

私に対する警戒を完全に解いたわけではないのだろう。ただ、それを維持するだけの心の余裕もなさそうだった。

この子はきっと、誰かに頼るという選択肢を選ぶ前に、すべてを自分一人で抱え込んでどうにかしようとしてしまう。限界を迎えて、心がバラバラに壊れそうになっても「助けて」と言えない。言えないまま、ぽっきりと折れて冷たい水底に沈んでしまう。

私は、この子のこれからを知っている。

ここで余計な関わりを持つべきではなかったのかもしれない。もう手遅れな気もするけれど。

ただ、目の前で弱り果てて、今にも消えてしまいそうな最愛のヒロインを、冷たく放っておけるほど――私は器用にはなりきれなかったし、何より、一人のオタクとしての衝動がそれを絶対に許さなかった。

 

「あのね、人間なんてさ、ひとりで生きていくには世界は辛すぎるから。もし友達と顔が似てて、少しでも話しやすいって思ってくれたなら、いつでも相談に乗るよ。私、たまにこの辺来ることもあるから」

 

立川って結構オタクに優しい街なんだよね。グッズのショップもあるし。まさか彩葉に会うとは思わなかったけど

 

「あ……ありがとうございます?」

 

ベンチから立ち上がり、私が踵を返そうとした、その時。

背後から、不意に切迫したような、何かにすがるような声が私を引き止めた。

 

「あの……! お名前、聞いてもいいですか!」

 

振り返ると、彩葉がまっすぐに、その大きな瞳で私を見つめていた。

私は、一瞬だけ胸の奥がチクリと痛むのを覚えながら、静かに、けれど優しい気持ちでつい微笑んだ。

 

「私は藤代。……貴方は?」

「酒寄、彩葉です」

「よし。――彩葉」

 

その名前を、私の口から明確に呼んだ瞬間。

ブレスレットが、まるで見えない鎖に締め付けられたかのように軋んだ。熱い痛みが一瞬だけ走る。

けれど、私はそれを表情には一切出さずに、いつものすました、普通の顔を保ち続けた。この程度の痛み、彼女が背負っている重さに比べれば、微々たるものに過ぎない。

目の前の彩葉は、まだ少し顔を青くしたまま、私が渡したサプリの袋を、まるで宝物でも扱うかのように大切そうに両腕で抱えてくれている。

 

「今度は、もっと健康な時に会おうね」

 

そう言って軽く手を振ると、彩葉も少し驚いたように、けれどどこか救われたような、柔らかくて優しい顔で、小さく手を振り返してくれた。

それが、私と酒寄彩葉との、劇的でも何でもない、けれど決定的に運命に関わる、平凡な邂逅の記録だった。

 

 

「あ、あの……!ベンチに大量の荷物忘れてます!あ……!えっこれっヤチヨの新しいグッズ!?もしかしてヤチヨ好きなんですか!?私も好きで(」

 

訂正、全然かっこよくお姉さんっぽく去るなんて出来なかった。あとヤチヨ推してることがバレて、急に元気になった彩葉とこのあと普通に話が盛り上がってマブダチになりました。

 

 

───────

 

 

「……あれ?なんか最近、彩葉調子良さげじゃない?」

 

放課後の教室。傾きかけた西日が窓ガラスを透過し、乱雑に並んだ机の端をオレンジ色に焼き付けている。

課題のプリントをトントンと机に叩きつけて片付けていた綾紬芦花(あやつむぎろか)が、不意に、本当に何気ないといった風に私の顔を覗き込んできた。

その隣、スマホの画面をタップしていた諫山真実(いさやままみ)が、ぴくりと獣のように耳を動かして、気怠げな視線のままこちらへと転じる。

 

「え?あ、そうかな……」

「そうかなじゃないよ! いつもならこの時間、魂が口から半分デロデロに抜けたゾンビみたいになってるのに。肌の血色もすごくいいし、何より、その……いつも呪いみたいにしつこかった目の下のクマが、めちゃくちゃ薄くなってる」

「それ、え、私ってそんな酷かった!?」

 

 さすがに自覚がなさすぎた。戸惑う私を見て、真実もいつも通りのゆったりとした声で、会話に加わってくる。

 

「確かに〜、最近見た中だといちばん人間らしい顔つきかも。いろは、昨日は何時間寝たの〜?」

「ええと、連続で7時間、かな……?」

「え、睡眠も取れてる……嘘、まさか彩葉、悪魔にでも魂売って健康を手に入れた……!?」

「だから、違うってば!」

 

二人の、まるで未確認生物でも発見したかのような詰め寄りに、私はタジタジになりながらも、言い訳の証拠を示すように机の上に置いてあったスクールバッグのジッパーを開けた。

バラバラと小気味いい音を立てて、机の上に滑り出たのは、いくつかのサプリメントの袋だ。

 

「これ、飲んだり色々してたら、結構元気になってきてて……」

「なにこれ。サプリメント? マルチビタミン、マルチミネラル、アミノ酸……って、めちゃくちゃバランス良い組み合わせじゃん」

 

芦花がその中の一袋を手に取り、裏面の成分表をまじまじと睨みつける。真実もすかさずそれを首を傾げながら覗き込み、心当たりがあるのか、手元のスマホで検索し始めた。

 

「ほぇぇ、これ、ネットで栄養ガチ勢がすっごいバズらせてるやつだ〜。ちょっと値段はするけど、配合バランスがよくてめっちゃ効くって話題のやつ。これ、彩葉じゃ絶対買わないでしょ。どうしたの?」

 

真実の鋭い言葉に、私は夕暮れの、あの奇妙で、非現実的だった出来事を思い出して、急に耳の裏が熱くなるのを感じた。

 

「実は……ちょっと前、人通りの少ない路地で、貧血でずるずると倒れそうになっちゃって」

「えっ!?大丈夫だったの!?」

「うん。なんとか。それでその時に、なんか……すごく怪しいお姉さんに、これ貰ったの」

 

「……は?」

 

芦花と真実の声が、気持ち悪いくらい綺麗にハモった。西日の差し込む教室の温度が、一瞬で数度下がったような錯覚に囚われる。

 

「怪しい、お姉さん……?」

「うん。藤色のすごく綺麗な長い髪をしてて……。私が倒れそうになったとき、もの凄い勢いで支えて近くのベンチまで運んでくれたの。私、迷惑かけたくないから帰ろうとしたら、急に袋の奥からこれをドサドサって私の膝に押し付けてきて。『いいから黙って受け取りなさい』って」

「不審者事案……!!完全に事案だよそれ!?大丈夫!? 妙な契約書とか書かされてない!?」

「だ、大丈夫だから!でもね、すごく正論っていうか、生活指導されちゃって。私がいつもがぶ飲みしてた特大サイズのエナドリも、見るからにカフェインの離脱症状が出てる、後で反動がキツくなるから缶の小さいやつにしなさいとか。小さいやつをネットで箱買いしてまとめ買いすれば、一本あたりの単価は同じくらい安くなるんだから、とか……。それでサプリも、とにかく一週間試してみて、効果あるからって、怒涛の勢いで押し切られちゃって」

 

 話しているうちに、自分でもあの状況がどれほど異常で、奇妙極まりないものだったかを再認識して、だんだんと声が小さくなっていく。

けれど、実際にそのサプリを律儀に飲んで、アドバイス通りにエナドリを小さい缶に変えてみたら――驚くほど、私の身体を支配していた体調不良が軽くなっていったのだ。

頭がちゃんと回るから予習の時間も減って、更にゲームをする余裕すら生まれた。結果として睡眠時間も伸び、浅い睡眠も減っていった。慢性的に悩まされていた口内炎が綺麗になくなり、何より、日中のあの泥を引きずっているような頭痛と鉛のような倦怠感に、さよならできる日が来るなんて思わなかった。

 

「……怪しすぎる」

 

 芦花が、サプリの袋を強く握りしめたまま、なぜかひどく強張った、見たこともないような表情で呟いた。それを見た真実は隣で汗をかいていた。どういう状況?

 

「顔……。その人、どんな顔をしてたの、彩葉」

 

 なぜそこまで顔が気になるんだろう。芦花の声の、謎にどこか切迫した、焦燥感のような響きに、私は一瞬息を呑んだ。

でもそうだ。あの時、私が一番パニックになりかけた、あの決定的な衝撃。

 

「それが……ね。言っても信じてもらえないかもしれないんだけど」

 

 私は、まっすぐに芦花の顔を見つめ返した。その瞳に、自分の顔が映る距離で。

 

「その人、芦花に……貴方に、もの凄く顔が似てたの」

「えっ――」

 

 芦花の息が、驚きで一瞬止まった。

 

「雰囲気は全然違うんだよ? 芦花より大人っぽくてお姉さんって感じなんだけど……でも、本当に瓜二つで、私、思わずパニックになって芦花?って名前を呼んじゃったくらい」

「私に、似てる……?」

「うん。ドッペルゲンガーかなって笑い話にされちゃった。いとこか親戚はいますかって聞いたら、家族は一人しかいないんだよねって。でもその家族はウミウシだからとかボケてたから……やっぱりちょっと、頭のネジが外れた変わった人だったのかも……」

 

 私が少し照れ隠しに笑いながらそう言うと、芦花はなぜか「私に似てる……私にもチャンスが……?いや、先を越されて……?ウミウシ……?」とか、ブツブツと謎の呪文を呟きながら、完全に石のように硬直してしまった。

その横で、真実が硬直した芦花を哀れみの目で見つめていた。

 

「……あ、でもね。実は話、そこで終わりじゃないんだ」

 

 私がそう付け足した瞬間、石化していた芦花がガタッ!!と凄まじい音を立てて机を揺らした。

 

「終わりじゃないって、どういうこと!? そのあと何かされたの!?」

「いや、されたっていうか……その人、もの凄く格好よくて切ない大人の微笑みを浮かべて、そのまま背を向けて立ち去ろうとしたのね」

「うん。……うん?」

「でも、大量の荷物全部ベンチに置いたまま忘れて帰ろうとしてて」

「え」

「あ、荷物忘れてます!って私慌てて袋持っていこうとしたら、袋の中からヤチヨの新作アクスタとか缶バッジが信じられない量ドサドサ溢れ出てきて……。私、あんまりヤチヨ推しの知り合い居ないから、思わず『もしかしてヤチヨ好きなんですか!? って叫んじゃったの」

 

そこからの展開は、今思い出しても凄まじかった。

さっきまでミステリアスに佇んでいたはずの藤色の謎の美女は、推しが共有できると知れば人懐こい笑顔で永遠に語り始めたのだ。

 

「……は? え? なにそれ……」

 

 芦花が、完全に情緒迷子になった顔でポカンと口を開ける。真実は、「あは、お姉さん、一瞬でメッキ剥がれちゃったんだ〜」とクスクス笑っている。

 

「そこから二人でヤチヨのどこがエモいかとか、どこが最高だとかでめちゃくちゃ話が盛り上がっちゃって。サプリくれた時の雰囲気はどこへやら、最終的に『同担拒否じゃない限界オタクの同志が見つかるなんてこれ以上のめでたしはないよ!』って泣きながらハグし合って、普通に連絡先交換してマブダチになってた」

 

「は、彩葉……まさかまたその人と会うって事?」

 

 芦花が、今度は別の意味で(おそらく、自分以外の人間と彩葉がヤチヨのオタ活でマブダチになったという、凄まじい嫉妬と困惑が混ざった複雑な目で)私の肩を両手で掴んで揺らしながら真剣な目で問いかけてきた。その手は、心なしかさっきより激しく震えている。

 

「う、うん。たまにこの辺来るみたいで、なんなら今度、一緒にヤチヨのコラボカフェ行こうねって約束したし、何かあればいつでも相談に乗るよって……。芦花、どうしたの? そんなに怖い顔して」

「あ……ううん、なんでもない。ただ、本当に彩葉に害がないなら、いいんだけど……。でも、ウミウシが家族の、藤色の髪の、私にそっくりな、ヤチヨの限界オタク……? 情報がっ、多すぎる……ッ!」

 

 芦花はゆっくりと手を離し、魂が半分抜けたような感じで、ぶつぶつと虚空に呪詛を吐きながら視線を彷徨わせた。

その様子を、真実は「彩葉に新しい友達ができてよかったね〜」と、特に何も考えていない感じで、けれどどこか楽しそうに見つめていた。

 

藤代さん。私は胸の中で、もう一度その名前を呼んだ。

あの人と話していると不思議と心が楽になって、お母さんの言葉が浮かんできたりしなかった。あの時は久々に好きなものを語れて楽しかったなぁ。

私は、そんなことを思い出して、胸の奥がただただ純粋な温かさだけで、ぽかぽかと満たされていくのを感じていた。

 

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