月見ヤチヨコラボカフェ『月詠茶房』。
目の前には、キラキラと効果音が聞こえてきそうなほど目を輝かせながら、それはもう世界一幸せそうな顔でパンケーキを頬張っている酒寄彩葉。その姿は、記憶に刻まれるほど何度も見返したかぐやと少し似ているようにも見えた。
そして私の前にもまったく同じ、重力に逆らうようにふんわりとそびえ立つでっかいパンケーキ。
意気投合した。それは全面的に認める。
けれど、流れで路地裏でサプリを渡した結果、二人揃って推しのコラボカフェに並んで入店し、同じテーブルで向き合ってパンケーキを突っつくくらい仲良くなるとは、さすがの私も予想していなかった。
でもまあ、これは最悪にして最高の役得だと思っておこう。本来であれば、こんな未来は存在しなかったのだから。
目の前で彩葉が「ん〜〜!」と幸せそうに頬を緩ませ、頭の上にぴこぴこと幻覚の狐耳が見える勢いで感動しているのを見るだけでも、この場に足を踏み入れた価値は十二分にある。
サプリのお陰かご飯がより美味しく感じられるようになりましたとか言ってたからねこの子、分析するに、亜鉛不足由来の味覚障害とかでは……
…………あと問題があるとすれば。
ヤチヨにまだ何も話せていない、ということだ。むしろどうやってこの状況を、どう相棒として説明すればいいというのだろう?
『ごめんヤチヨ、ちょっと散歩してたら彩葉と遭遇してさ、健康指導ついでにオタクトークで爆速で意気投合しちゃって、二人でコラボカフェ行ってきた』
……ダメだどう言葉を飾っても意味が分からない。
私がヤチヨの立場なら、目の前で「は?」と素の声を漏らしたあと、冷や汗を流しながら緊急メンテナンスのボタンを連打する。絶対にそうなる。
「藤代さん食べないんですか?」
「あ、ああ。食べるよ。ちょっと……考え事というか、なんというか、色々とでっかいなーって」
問題がでっかいな〜、このパンケーキと同じくらい。
「そうですよね!このパンケーキの上に乗ってるヤチヨの――」
「あ、う、うん」
そこからの彩葉のマシンガントークは、怒濤の一言だった。
クリームが衣装を完璧に再現しているだとか、添えられた星チョコの数がヤチヨのライブの背景にあった星の数と完全に一致しているだとか、果実ソースのグラデーションがツクヨミのネオンを表現しているだとか。いや失礼ながらそこまで見てなかった。
というか彩葉、推しのことになるとめちゃくちゃテンション上がって可愛すぎるな。
私も八千年の中で『超かぐや姫!』のオタクとして感情を煮詰め続けてきた人間だ。好きなものの話になった瞬間、ブレーキの壊れたダンプカーみたいにここ好き!ここ尊い!を連打するこの感じ、嫌というほど理解できてしまう。なんなら強烈な親近感すらあった。オタク、最高。
よし、せっかく来たのだから、いまはこの一瞬を思いっきり楽しまなければ損だ。
そう自分に言い聞かせ、ナイフを生地へと入れる。ふわり、と驚くほど抵抗なく、吸い込まれるように刃が沈んでいった。切り分けた一口分をフォークで持ち上げると、まだほんのり温かい生地の上から、とろりと黄金色のメイプルシロップが垂れる。ゆっくりと口へと運べば。
「んまぁ……」
思わず声が漏れてしまった。
ふわふわの生地が舌の上で夢のようにほどけ、直後に濃厚なメイプルの甘さと、焦がしバターの芳醇な香りと絶妙な塩気が一気に口内に広がる。甘いだけじゃない。美味しすぎる。
コラボカフェの、キャラがプリントされているから許されるな〜というクオリティを遥かに超越している。普通にスイーツの専門店として行列ができるレベルだった。
「これ美味しすぎません!?!?」
彩葉も同時に、テーブルを乗り出す勢いで身を乗り出してきた。
「いや本当にびっくり。コラボカフェのクオリティじゃないねこれ」
「ですよね!? 私、こういうのって見た目がすっごく可愛いだけで満足なんですけど味までこんなに妥協がないなんて……!」
「マジでミシュランの星ついてる店からシェフ引き抜いてきた?」
「流石ヤチヨ!ファンへの愛に一切の妥協無し!絶対メニュー開発で監修もしてます!」
「してそうなの怖いな〜」
多分間違いなくしている。八千年前から食へのこだわりは筋金入りだったあの子のことだ。クリームの位置、シロップにまで細かく口を出して、スタッフを泣かせてるんじゃないかと、容易に脳裏に浮かぶ。
『もうちょっとかな〜。うんうん、そこ!みんなが写真撮った時に一番可愛く、かつ一口目で最高に感動してもらわないと☆』
容易に再生できすぎて胃が痛くなってきた。
今回訪れているコラボカフェは、記念すべき第一回目のコラボだ。
基本的に私はツクヨミ運営なら手伝っているけれど、こういうキャラクター的な仕事は大体ヤチヨ本人(またはフシ)がこなしているため、そこまで中身を知らない。まあ、その方がファンとしても楽しめるしという理由もある。ヤチヨも私が楽しんでるのを知ってるので、大変な事以外は任せてこないし。
店内は当然というべきか、視界の360°どこを向いてもヤチヨ、ヤチヨ、ヤチヨ。
壁には描き下ろしの衣装イラスト。
テーブルクロスにはデフォルメされたちびヤチヨ。
ドリンクのストローにまで小さな装飾。
店内BGMは当然、彼女の歌がやけにいいスピーカーで流れている。
ここまで来ると、もはやカフェというよりは月見ヤチヨ信仰の総本山に近い。
まあ、目の前でうっとりと壁のイラストを拝んでいる彩葉の顔を見る限り、彼女の信仰心は既に限界値を突破しているようだ。私もさっき拝んだから分かるよ。
ちなみに、この世にはヤチヨの限定グッズの転売というものは存在しない。
正確には――存在することができないというのが正しい。
何故なら、転売屋が湧いた瞬間に、ヤチヨ本人が『おいたはダメだよ〜?』と直々に介入するからである。
今や様々なコンテンツと繋がっているツクヨミというシステムそのものが彼女の庭のようなものなので、悪質な買い占めや高額転売の挙動を検知した瞬間、IPアドレスごと特定され、即座にアカウントがBANされる。
しかも彼女の凄まじいところは、転売を力で潰すだけでなく、そもそも転売屋から買う必要がないほど圧倒的な供給量を確保するところだ。力は正義であった。
欲しい人間が、欲しい時に、正規の価格で絶対に買える。
言葉で言うのは簡単だが、物流と生産ラインを完全にコントロールしなければ不可能な技だ。いやヤチヨ様々すぎる。一生推す。
「今回の限定グッズ、かなり人気あるらしいから来れてよかったよ」
「めじるしアクセサリー、SNSでずっと話題になってましたもんね。しかも今回は限定衣装ですし……」
彩葉がテーブルの端に置かれた小さなノベルティ袋を、まるで赤ん坊でも扱うかのように大切そうに指先で撫でる。
「ヤチヨのグッズだから売り切れの心配はないけど、普通のコンテンツなら今頃阿鼻叫喚だろうね」
「絶対そうです!今頃買えなかった転売許さないの地獄絵図ですよ。推し活はいつだって血で血を洗う戦争なんですから」
「い、彩葉の目がガチすぎて怖い……」
私も熱中してこの雰囲気になってるとしたら、少し自戒した方がいいなとか思った。
───────
そうして二人でコラボカフェを満喫し、食後のドリンクと
不意に、店内の照明が少しだけトーンを変え、中央のカウンター前でスタッフが清らかなベルを鳴らした。
「はーい!皆様お待たせいたしました!本日のこのお時間のメインイベント、『ヤチヨとおはなし!』のリアルタイム抽選を開始いたしまーす!」
「え」
私はフォークを口元で止めた。
「なにそれ」
彩葉がパッと顔を輝かせて顔を上げる。
「あ、藤代さん知らなかったんですか?これ、コラボカフェの開催期間中、各回ごとに一組だけ当たる超限定イベントなんですよ!モニター越しに、なんと生のヤチヨと五分間もお話しできるんです!」
「ヤチヨと……直接……喋れる……!?」
声が裏返った。
え。なにそれなにそれなにそれ。聞いてない。スケジュールにそんなイベント載ってた!?
待ってそれどういう形式!? 映像通話!? リアルタイム!? 分身!?
いや、ヤチヨの処理能力ならカフェに意識を飛ばしてリアルタイム応答するなんて朝飯前だろうけど!
どれにしても、私にとっては死を意味していないかな?
彩葉はもちろんヤチヨと話したい。当たり前だ。
目の前でこんなに幸せそうに推しデザートを食べている子が、今の人生の殆ど全てと言ってもいい推し本人と会話できる千載一遇のチャンスを逃したいわけがない。
だが――そこに私が同席していたら?
モニターの向こうのヤチヨ。
画面の前の彩葉。
そして、なぜか彩葉の隣で気まずそうな私。
地獄。どう考えても地獄の絵面だろ。
流石のヤチヨも処理出来ずに混乱する未来しか見えなかった。
「あ、あのさ彩葉。もし当たったら、私辞退するから彩葉一人で行ってきなよ?」
「え?」
「ほ、ほら私、急にヤチヨと話すとか緊張しちゃうし!」
我ながら苦しすぎる言い訳だ。けれど彩葉は、少し申し訳なさそうに受付の案内板を指差した。
「あ、えーと……この抽選、テーブルの番号単位で応募されるみたいで、トラブル防止の為にそのグループの1人だけとかはダメみたいです。辞退するなら席ごとキャンセルになっちゃうみたいで……」
「そ、そっかぁ……」
「それに私も緊張しちゃうのでひとりより藤代さんいてくれた方が……嬉しいなって」
推しと喋れるかもしれない千載一遇のチャンス。ここで私が保身のために応募を蹴るというのもできるし、本来の流れを考えてもそれが適切な気はするけど……。
そんな逡巡の中、彩葉の表情が目に見えてしゅんと曇っていく。耳と尻尾があれば完全に垂れ下がっていた。
「……よ、よし!当たるかどうかも分かんないし、とりあえず応募してみようか」
「……!本当ですか!?」
一瞬で彩葉の顔に花が咲いた。眩しすぎ。
ついOKしてしまったが、まだだ。ここが大事な話だ。当たる確率など、数十組の中のたった一組。宝くじレベルとは言わないが、普通に考えれば落選する確率の方が圧倒的に高い。
大丈夫。当たらなければ、ただの楽しい思い出で終わる。
大丈夫、大丈夫――。
「おめでとうございます! 本日の当選は――こちらの7番テーブルのお客様です!」
スタッフのお姉さんが、満面の笑みで私たちのテーブルを指差した。
私たちに向けて同士たちの暖かい拍手が贈られる。
「…………」
「え……っ、藤代さん!! やった、やりましたよ!!生ヤチヨです!本物のヤチヨと喋れますよ!?」
「あ、うん。そうだね。ヤッタネ。ドウシヨッカナ。キンチョウシテキタ」
「藤代さん!?」
彩葉がガバッと私の肩を掴み、猛烈な勢いで揺さぶり始める。
「緊張しすぎてロボットみたいになってますよ!?」
彩葉揺らさないで!今の私の精神は処理落ちギリギリで維持されているから!今強い振動を加えると本当に壊れるから!!
「だ、大丈夫ですか藤代さん!?」
「大丈夫大丈夫……ちょっと魂が口から出ちゃっただけ……」
「全然大丈夫じゃない顔!?」
───────
「それでは当選されたお二人様、こちらの特別ブースへどうぞ!」
スタッフさんに笑顔で案内され、私は脚をガクガクと震わせながら重い足取りで歩を進めた。逃げたい。今すぐフィジカルを駆使して超スピードでこの店から離脱したい。
けれど、隣を歩く彩葉の横顔を見たら、そんな逃げ腰もすぐに消えてしまう。
彼女は緊張で唇を噛み締めながらも、胸の前で両手をきつく握りしめ、何度も何度も深呼吸を繰り返している。私に寄り添ってくる姿は少しの不安を感じさせるが、その瞳には、純粋な希望と期待と憧れだけが満ちていた。
(……そんな顔されたら逃げられるわけないじゃんね)
「行こっか、彩葉」
「はい……っ!」
防音パーテーションで区切られた小さなブース。そこには巨大な高解像度モニターと、専用の広角カメラが設置されていた。うわこれ確実に顔映るな。
スタッフさんが端末の認証を済ませると、画面がゆっくりと暗転する。
中央に流れる、ヤチヨのロゴマーク。
そして――。
『ヤオヨロ〜!☆コラボカフェに来てくれた神が――』
画面が切り替わり、そこに映し出されたのは、あまりにも見慣れた私の最推しである電子の歌姫。
いつ見ても惚れ惚れするような煌びやかな衣装で、あざとい笑顔を向けてきた。
画面の中のヤチヨの視線が、まず、憧れで息を呑む彩葉へと向けられ。そして、そのすぐ隣に立つ――私へと。
『…………』
「…………」
ヤチヨの動きが、完璧に止まった。
私もまた、金縛りに遭ったように硬直した。
……そりゃ止まる。
ヤチヨからしてみれば、今日突然、現代でまだ正式に出会っていないはずの最愛の人との初会話である。
そしてあろうことか、八千年間一緒にいたはずの相棒と腕を組むような距離で並んで画面の前に立っているのだ。
(ごめんヤチヨ!!本当にごめん!!事故!全部事故なの――っ!!)
「や、ヤオヨロ〜! わ、生ヤチヨだー。ドウシヨウ。カンドウシテカラダガウゴカナイ」
「藤代さんまたロボットに戻ってる!?」
彩葉が横で必死に突っ込んでくるが、私の心臓は破裂寸前だ。
画面の向こう、ヤチヨの口角はプロの意地で美しく上がったままだ。けれど、その瞳が完全に???????という困惑の文字で埋め尽くされている。
「あ、あれ……?もしかして回線の調子が悪いんですかね?」
固まったヤチヨを見て、彩葉が不思議そうに首を傾げた。
「あ、そ、そうみたいだねー!?回線混み合ってるのかなー!?」
乗った!! 全力でその船に乗った!!
頼むヤチヨ、プロになれ!! 画面の前の世界で一番大切なファンのために今だけは完璧な『月見ヤチヨ』を演じ切ってお願い!!
『わ、わー!そうだね!回線がちょっと気まぐれを起こしちゃったみたいなのです☆いや〜最近は電波も気難しくて困っちゃうよね〜今日はカフェに来てくれて感謝感激雨アラモード☆』
戻した!! 一瞬で完璧な月見ヤチヨに引き戻した!!
流石だ。八百万の神々を相手にしてきた電子の歌姫のメンタルは伊達じゃない。てか後で絶対に私、ツクヨミの裏で正座させられるやつだこれ。
「ヤチヨ……っ!」
彩葉が、感極まった様子でモニターへ近付く。
「ヤチヨの……ヤチヨのコラボパンケーキ、とっても……とっても美味しかったです……っ!」
さっきまで私相手にマシンガントークをかましていた子が、本人を前にした瞬間、声どころか全身を小さく震わせている。頬は熟したトマトのように真っ赤だ。推しを前にした一人の少女の、あまりにもピュアな姿。
『…………!』
ヤチヨの瞳が深く揺れた。
『……良かったなぁ』
彼女の声から、一瞬だけ月見ヤチヨのメッキが剥がれ落ちる。
掠れた、震えるような、深く静かな本音の響き。
『すっごく……すっごく考えて、作ったから……』
(ヤバいって彩葉!それ以上は耐えられない――っ!)
パンケーキ。よりによって、彩葉が最初に投げかけた感想が、それだったなんて。
二人の過ごした日々を彩る、あの大切な思い出のピースたち。
「ヤチヨ!素敵なメニューをありがとう!」
彩葉は気づかない。ただ純粋な感謝を、憧れの歌姫へと届けている。
ヤチヨは必死で笑っている。いつもの、輝くような月見ヤチヨの顔で。
けれど、その瞳の奥で涙が、決壊寸前で溢れそうになっているのが私には痛いほど伝わってきた。
耐えろヤチヨ耐えるんだ!! ここで泣いたらツクヨミはどうなっちゃうの!?ライフはまだ残ってる!ここで耐えればコラボライブできるんだから!
「ヤチヨは、どうしてパンケーキを目玉商品にしようと思ったの?」
彩葉やめろ!! 無邪気に核心を突くのは!!
『…………』
一瞬だけ、ヤチヨがまつ毛を伏せ、深く息を吸い込んだ。
それから――また、世界で一番可愛い笑顔を浮かべて。
『えっとね』
少しだけ、愛おしそうに間を置いて。
『パンケーキが、好きなんだ。……ずっと、ずっと昔から』
その言葉の本当の意味を知っているのは、世界中で、まだ私だけだった。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。
小さな部屋、焦げた生地。笑い合っていたあの時間。
たった一皿のお菓子に込められた愛が、時を超えて、いま目の前の彩葉へと届いている。
「そっか……新情報だ……」
彩葉が胸に手を当てて小さく呟く。
「ヤチヨ道は……深い……」
違う。いや、合ってるんだけど今そこじゃないから。
「教えてくれてありがとうヤチヨ!私、これからもずっとずっと応援してます!」
『……ありがとう、彩葉』
ヤチヨが、つい、はっきりと彼女の名前を呼んだ。
『私も、こんなに可愛い子に応援してもらえてるなんて分かったら、もっと頑張っちゃうよ〜☆』
「…………」
彩葉の動きが、完全に止まった。
「え」
「彩葉……?」
「私の名前……いま、ヤチヨが……私の名前……っ」
あ。まずい。なんでヤチヨが彩葉の名前知ってるのかとか色々不審な点がありすぎる。
そんなことを思って慌てた矢先。
「ファンサが……ファンサの過剰摂取で……」
「彩葉!?」
スローモーションのように、彩葉が重心を失い、後ろへと傾いていく。彼女は最後、最高に満足そうな顔でグッと親指を立て―そのまま、人形のように床へと倒れ込んだ。
どさっと。
「彩葉ぁぁぁーーーッ!?」
完全に失神している。あまりの幸福感に、脳の処理を超えて落ちたのだ。
嘘でしょ!? 推しに名前を呼ばれただけで、人間って本当に気絶するの!?真実もそんな感じだったけどさ!?
ヤチヨに初めて名前を呼ばれた時の私も、似たような感じで悶絶していた気がするけども!
画面の向こうには、端で倒れた彩葉を呆然と見下ろすヤチヨ。
床には幸せそうな笑顔のまま動かない彩葉。
そして、間に挟まれた、私。
『…………藤代』
声が低い。さっきまでのあざとい配信者ボイスとは、明らかに質の違う、深淵を湛えた低い声。
「はい」
『…………後でツクヨミの裏でじっくり話があるからね』
「あっ、はい」
声のトーンがめちゃくちゃ静かで、背筋に激痛が走るほど怖い。
これ、怒っているのもだけど、困惑と、嬉しさと混乱の感情ごった煮になってそう。
「え、えーっと……スタッフさーん……?」
助けを求めるようにスタッフさんを見ると、彼女は「ファンサで失神されるファンの方、たまにいらっしゃいますからね!」と、訓練された素晴らしい笑顔で頷いているだけだった。聞こえていないし助けてくれない。
『じゃ、じゃあそろそろお時間かなー!?』
「……そうだね☆」
一瞬で『月見ヤチヨ』へ戻った。プロだ。この女どんなアクシデントが起きても完璧なアイドルを演じ切ってみせる。もう精神性がテーマパークのメインキャラみたいになっていた。
『沢山お話できて楽しかったよー! 改めて二人とも今日は来てくれてありがとう☆ それじゃあ、またツクヨミで会おうね!さらばーい☆』
画面が眩しく暗転し、通信が切断された。完璧な幕引き。月見ヤチヨの神対応だった。
足元を見る。彩葉はまだ、天国のような笑顔で倒れている。
「……帰るかぁ」
私は深く、今日一番の大きなため息を吐き出すと、彩葉の両脇に手を差し入れた。
「よいしょっと……」
女の子にこんなことを言うのは野暮だが、人間一人分の重量は普通に重い。
「彩葉起きて〜。会話終わったよ〜」
「うふふ……ヤチヨが……私の……名前を……」
「幸せそうな顔で凄まじい寝言言ってる……」
まあ。本人が世界一幸せそうだから、これで良しとしよう。私は、推しとの五分間で命を燃やし尽くした主人公を後ろに背負って、コラボカフェを後にした。
……ちなみに。
この後、帰宅してから私を待っていたのは、八千年連れ添った相手からの徹夜の事情聴取だった。