救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~ 作:ホビット
押し流された木材の、腐りかけた匂い。
神崎遼が最初に覚えた匂いは、非日常的なものだった。
あの日、町は水に呑まれた。
ニュースは「百年に一度の豪雨」と言ったが、自然相手にそんな言い訳は通用しない。
ただ無慈悲に、均等に奪うだけだった。
遼は十四歳。妹の結衣は十歳。
避難指示は出ていた。父も母も急いでいた。
だが、結衣は家に残した、小さなぬいぐるみを取りに戻った。
たったそれだけのことだった。
どこにでもありふれた、クマのぬいぐるみ。
誕生日プレゼントとして母から贈られた、彼女の宝物だった。
「結衣、戻れ!」
「でも……あの子が流されちゃう……!」
雨は容赦なく叩きつけ、
遼は妹の小さな手を必死に握りしめていた。
突然、バキッ、と床が割れる音がした。
視界が反転し、世界が崩れ落ちる。
後に知ることになるが、雨で脆くなった床が抜けたのだ。
「結衣!!」
濁流は速かった。
轟音の中で、抗う暇もなく二人の足元を奪った。
――その瞬間。
轟音が、嘘のように消えた。
遼は結衣の手を掴んだ。
爪が食い込むほど、確かに握ったはずだった。
だが、濁流が二人の間を裂いた瞬間——
その手は、空を掴んでいた。
返事はなかった。
水の音だけがあった。
世界には、水の音しか残っていなかった。
**
目が覚めると、遼は見知らぬ男に抱えられていた。
遼を救ったのは、自衛官だった。
泥水に腰まで浸かりながら、彼は遼を抱え上げた。
顔の半分が泥で汚れ、ヘルメットの縁から雨が滴っていた。
「生きろ。今は、それだけでいい」
その声は、祈りのようで、呪いのようだった。
遼はその言葉を、ずっと胸に抱えて生きてきた。
妹を救えなかった。
だから救う側に回りたかった。
誰かの「間に合わなかった」を、一つでも減らしたかった。
**
高校を出て、遼は自衛官になった。
訓練の厳しさも、理不尽な上下関係も、泥にまみれる日々も、妹の手を離した記憶に比べれば軽かった。
だが現実は、彼が思い描いた“救う側”とは違っていた。
遼は災害派遣の現場で、“救える命”と“救えない命”の線引きを、組織の命令で突きつけられた。
ある孤立集落への進入を進言したときもそうだった。
地形、天候、残り時間、隊員の疲労、装備の限界——
すべてを踏まえても、まだ行けると判断した。
進入経路も、撤退の方法も、所要時間も頭の中で組んでいた。
――指揮所の判断は「待機」だった。
理由は正しかった。
二次災害の危険。夜間行動の制約。上位機関との調整不足。
どれも正しい。
だが、その“正しさ”が人を見捨てることもある。
遼はそれを知った。
組織は必要だ。
規律も、命令系統も、責任の所在も、すべて必要だ。
なのに、ときどき――
それらは、ときに“間に合わない理由”にもなる。
その現実を理解してから、遼の中で何かが少しずつ削れていった。
**
やがて自衛官を辞した遼は、
人目を避けるように田舎へ引っ越した。
安さだけで選んだボロアパート。
何もかもどうでもよくなった遼には、その荒んだ部屋が“お似合いだ”と嘲笑っているように思えた。
**
ある夜。
遼はベランダで、ぼーっと星を見ていた。
空は妙に白かった。
遠くで雷のような音がした。
――いや、雷ではなかった。
空が“剥がれる”ような音だった。
振り返るより早く、足元が消えた。
喪失感とも浮遊感とも呼べない奇妙な感覚。
一瞬にも永遠にも思える時間。
そして、冷たい空気が肺を刺した。
湿った土の匂いがした。
遼は目を開けた。
知らない森だった。
そして、空には――
月が二つあった。
**
遼は即座に身を低くした。
訓練で染みついた反射が、状況を理解するより先に身体を動かす。
湿った土。
夜露に濡れた草。
遠くで獣の鳴き声。
手元には、作業服に近い服と、腰のベルトだけ。
訓練用の装備も、通信機も、武器もない。
夢ではない。
そう判断するには、冷気も、泥の感触も、あまりに生々しかった。
「……動かないでください」
背後から女の声がした。
若い、しかし震えを押し殺したような声音だった。
遼がゆっくり振り向くと、そこに“銃口”があった。
古い単発銃に似ているが、金属の質感も形状も見たことがない。
それを構える少女は、十七、八歳ほどに見えた。
銀に近い金髪を後ろで束ね、粗末な旅装の上に青い外套を羽織っている。
泥で汚れているのに、隠しきれない上質さがあった。
手に持つ銃は震えていた。
だが、瞳はまっすぐ遼を射抜き、凛とした姿勢は崩れていない。
その隣に、黒髪の女が立っていた。
メイド服に似た衣装。
だが裾は短く、動きやすいように改造されている。
手には細身の短剣。
その立ち姿には、護衛のそれに近い緊張感があった。
「名を言いなさい。帝国の斥候ですか」
金髪の少女が問う。
声は震えていない。
だが、銃口のわずかな揺れが、彼女の恐怖を物語っていた。
遼は両手をゆっくり上げた。
「神崎遼。敵意はない。……ここがどこかも分からない」
「分からない?」
黒髪の女——ミレイユが眉をひそめた。
「便利な言葉ですね。刺してから考えてもよろしいのでは、お嬢様」
「ミレイユ」
少女が小さく制した。
その一言で、ミレイユは黙ったが、警戒は解かない。
さらに、ミレイユが小声で囁いた。
「お嬢様、名乗る必要はありません。身分を明かすのは危険です」
エリシアは一瞬だけ迷うように視線を伏せた。
隠すべきだと分かっている。
だが、嘘をつくことはもっとできなかった。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……私はエリシア。今は、そう名乗っています」
遼はその名を聞いても何も分からなかった。
だが、その声には奇妙な重さがあった。
身分を名乗ることに慣れた声。
そして、その身分を失った者の声。
遼はゆっくりと息を吸い、状況を整理しようとした。
変わらず、空には二つの月が浮かんでいる。
現実ではありえない光景。
――だが。
冷気も、土の匂いも、少女の震える銃口も、すべてが現実だった。
**
森の冷気は、肌を刺すように鋭かった。
エリシアは銃を下ろし、遼に歩くよう促した。
ミレイユは背後から距離を詰め、短剣を隠そうともしない。
その気配は、闇の中でひどく静かだった。
「……歩けますか、リョウ」
少女の声は、先ほどよりもわずかに柔らかい。
だが、その奥に沈む影は消えていなかった。
「ああ。問題ない」
遼は短く答え、二人の後を歩いた。
森を抜ける道は細く、月明かりだけが頼りだった。
二つの月が、枝葉の隙間から青白い光を落としている。
その光は、どこか現実離れしていて、遼の胸に奇妙な静けさをもたらした。
歩きながら、遼は少女の背中を見つめた。
小柄な体。
泥で汚れた外套。
だが、その歩みには不思議な気品があった。
側仕えのメイドといい、何かを背負っているのだろうか。
問いは喉まで出かかったが、遼は飲み込んだ。
今は、聞くべき時ではない。
ミレイユの足音は静かで、しかし確実に遼を監視していた。
護衛としての緊張感が、夜気の中で鋭く光っている。
やがて、森の向こうに小さな灯りが見えた。
「……あれが、私たちの村です」
エリシアが振り返り、微笑んだ。
その笑みは、どこか寂しげだった。
守るものが多すぎる者の、覚悟の色だった。
**
この夜。
遼は異世界に落ちた。
そして、もう一度。
救えなかったものと向き合うことになる。
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