救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~ 作:ホビット
落燕谷を見下ろす崖の上。
冷たい霧が、遼とミレイユの頬を濡らしていた。
眼下では、霧の奥に明かりが点々としている。
王国軍の主攻部隊が、ゆっくりと谷へ進軍している。
先頭には、青い旗。
そして──
その中央には、エリシアがいた。
遼は、
爆破用の起爆装置を握り締めたまま、動けずにいた。
指先が冷たい。
いや、
冷たいのは手だけじゃない。
(……本当に、これでいいのか)
爆破のタイミングを間違えれば、終わる。
早すぎれば、ガルドは逃げる。
遅すぎれば、主攻部隊ごと谷に取り残される。
数分。
ほんの数分の乱気流。
その一瞬に、全員の命が乗っている。
(俺が……押すのか)
喉が乾く。
耳の奥で、昔の音が蘇る。
**
雪の中。泣きじゃくる少女。
残された少女の父親。
助けられたはずだった。
だが、雪山は無慈悲にも、その表情を変えた。
『もう限界だ!!』
『まだ、彼女の父親が!!』
『ダメだ!!ヘリがもう持たない!!』
伸ばした手。
届かなかった指先。
反応が遅れた。
それだけで、人が死んだ。
(また……間違えたら)
呼吸が浅くなる。
胸の奥が、嫌な冷たさで軋んだ。
**
「リョウ」
静かな声だった。
振り向くと、
ミレイユが立っていた。
霧の中でも、
彼女の視線だけは真っ直ぐだった。
「……顔色が悪いです」
「別に」
「嘘です」
即答だった。
遼は苦笑すらできない。
ミレイユは、
遼の握る起爆装置へ視線を落とした。
「怖いですか」
遼は少し黙り、
やがて小さく、震える声を吐き出した。
「……当たり前だろ。
一つ間違えれば、みんな死ぬ。
エリシアも、ローデンも、ゲリラのみんなも。
――俺の指先一つで、みんな死ぬ」
霧の向こうでは、
谷へ進む松明の列が揺れていた。
「俺は……
こういうの、向いてないんだよ」
言い切ると、遼は俯いた。
二人の間を、しばらく、
湿った夜霧が流れる。
やがて、
ミレイユが静かに口を開いた。
「ですが、
お嬢様はあなたに託しました」
遼は顔をしかめる。
「……重すぎる信頼だ」
「ええ。
私もそう思います」
あっさり言われ、
遼が思わず視線を向ける。
ミレイユは、
わずかに口元を緩めていた。
「本来ならこんな役目、
誰だって投げ出したいでしょう」
「じゃあ、なんで……」
「それでも、
あなたは逃げなかったからです」
小さな風が吹いた。霧が流れる。
「村の時も。今回も。
怖がりながら、震えながら、
それでも考えるのをやめなかった。
だから、
お嬢様はあなたを信じたのです」
ミレイユは、
静かに遼を見つめる。
「……私も、あなたに託します」
その言葉に、
遼の呼吸がわずかに止まった。
その時だった。
バタバタと足音が響く。
「報告!!」
ゲリラの斥候が、
霧を裂いて駆け込んできた。
「翼槍隊が、出撃した!!」
一気に緊張が走る。
「数は!?」
「多数!!谷へ入ってくる!!」
ゲリラの報告とほぼ同時に。
キィィィィィィィィィィィィィィィィィン……
空気を裂く、あの不快な音が響いた。
遼の背筋が凍る。
霧の向こう。
まだ姿は見えない。
だが、
“来る”。
空の死神が。
「っ……!」
思わず呼吸が乱れる。
音が近づく。圧迫感。恐怖。
本能が逃げろと叫ぶ。
顔が、俯く。
だが──
「リョウ」
ミレイユの声。
「前を見てください」
遼は、ゆっくりと顔を上げた。
霧の谷。揺れる灯火。
迫る死神の音。
そして、
自分の手の中にある引き金。
もう、
戻れない。
遼は深く息を吸い、
震える指を強く握り締めた。
キィィィィィィィィィィィィィィィィィン……
さらに、音が近づく。
霧の奥で、黒い影が揺れていた。
「っ……!」
ゲリラの一人が顔を引き攣らせる。
「来るぞ……
もう谷の奥まで入ってる……!」
遼は、起爆装置を握る手に力を込めた。
冷たい。
指先の感覚が、
ほとんどない。
(早く……)
終わってくれ。
本能は、この重圧からの解放を
叫び続ける。
だが同時に、
別の声が頭を締め付ける。
(駄目だ)
失敗すれば終わりだ、と必死に理性がとどめる。
エリシアが死ぬ。皆が死ぬ。
遼の奥歯が、ガチガチと音を立て始める。
「まだだ!!」
崖下を見ていたゲリラの代表格が怒鳴った。
「まだ浅い!!
今崩しても逃げられる!!」
その言葉に、遼の肩が震える。
(まだなのか……!?)
キィィィィィィィィィィィィィィィィィン!!
また、音が近づいた。
まるで頭の中を掻き回されるような不快音。
遼は思わず、ギュッと目を閉じる。
押してしまいたい。
今すぐ終わらせたい。
だが、
押せば終わるわけじゃない。
極限のプレッシャーの中、
だんだん、意識と共に、音が遠ざかっていく。
このまま、何もかも手放してしまいたい。
遼の精神が限界を迎える直前、
不意に、手の甲へ温かい感触が触れた。
(……ミレイユ?)
彼女は、
勇気を分け与えるように、
遼の震える手をそっと握っていた。
真っ直ぐ、
ただ真っ直ぐに、
遼を見つめている。
だが、その瞳もまた揺れていた。
きっと、彼女だって怖い。
それでも。
ミレイユは、震えを押し殺しながら、
決して遼から目を逸らさなかった。
彼女の手の温もりが、
冷え切った指先に熱を戻していく。
遼は、深く息を吸い、吐いた。
そして。
「今だァッ!!」
ゲリラの絶叫が、霧夜を裂いた。
遼の指が、
反射的に起爆装置を押し込む。
一瞬。
遼の世界から、全ての音が消えた。
静寂。
次の瞬間──
ドォォォォォォォォォォォォンッ!!!!
山そのものが、悲鳴を上げた。
落燕谷の側面が爆ぜる。
岩盤が砕け、巨大な崩落が霧夜へ牙を剥いた。
轟音。土煙。
砕けた岩の奔流。
そして──
“風穴”が、開いた。
ゴォォォォォォォッ!!
谷全体を、
暴風が駆け抜ける。
霧が渦を巻き、
上昇気流と下降気流が激突し、
空気の層そのものが引き裂かれていく。
キィィィィィィィィィィィィィィィィィンッ!!
あの不快な“落下音”が、
今度は悲鳴のように歪んだ。
**
「なっ──!?」
「風が!!」
「制御できねぇ!!」
霧の向こうで、
翼槍隊の影が激しく揺れる。
黒い影が、
空中で弾かれるように流され、
互いに衝突していく。
空の支配者たちが、
初めて空に裏切られていた。
「うおおおおっ!?」
「落ちる!!
落ちる落ちる落ちる!!」
「隊長ォォォ!!」
乱気流が、
谷全体を巨大な獣のように暴れ回る。
霧の中で、
何本もの灯火が墜ちた。
岩壁へ叩きつけられる音。
折れる翼。
響く絶叫。
キィィィィィィィィィィィ──ン……
死神の音が、
次々と途切れていく。
**
——さっきまで、
あれほど絶対だった音が。
その光景を見届けた瞬間。
遼の全身から、力が抜けた。
「あ……」
膝が崩れる。
やっと。
やっと、終わった。
まだ戦いは終わっていない。
エリシアたちも、無事か分からない。
それでも。
あの瞬間だけは、確かに越えた。
張り詰めていた精神が、
一気に限界を超える。
「っ……ぅ……」
呼吸が震える。
気づけば、涙が落ちていた。
「……っ、!
よかっ……た……っ!!」
絞り出すような音。
声に、ならない。
崩れ落ちる遼を見ても、
ミレイユは、何も言わなかった。
ただ、
遼の隣へ、静かに膝をつく。
――そっと。
遼の頭へ手を置いた。
優しく、ゆっくりと。
労わる様な手つきで、遼の頭を撫でた。
崖の上を、湿り気を含んだ風が、
静かに、吹き抜けていく。
山の向こうからは、霧でぼやけながらも、
淡い朝日が滲み始めていた。
その中で、
ミレイユの手だけが温かかった。
遼は震えながら、
その温もりへ縋るように目を閉じる。
安堵。疲労。極限の緊張。
全部が、一気に押し寄せてくる。
意識が、ゆっくり沈んでいった。
**
白い雪が降っていた。
吹き荒れる山の風。
凍える視界。あの日の山だ。
遭難した家族。
泣きじゃくる少女。
そして──救えなかった父親。
男は雪の中に立ち、
静かに遼を見ていた。
遼は、何も言えなかった。
謝罪も。言い訳も。
喉が動かない。
やがて男は、
困ったように小さく笑う。
そして。
遼の胸を、軽く小突いた。
──しっかりしろ。
まるで、そう言うみたいに。