救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~ 作:ホビット
遼がまだ崖の上で、起爆装置を握り締めていた頃。
霧の残る落燕谷を、
エリシアたちの主攻部隊が進んでいた。
谷内は冷たい霧に覆われ、
兵の足音や、馬の低い嘶きだけが聞こえている。
兵たちの吐く息も白い。
湿った冷気が、皮膚をべたつかせる。
視界を霧に覆われ、見えるものは、
谷の岩壁と、ぬかるんだ地面のみ。
誰も、言葉を発しないまま、隊列は黙々と進んだ。
**
先頭を進むエリシアは、白い息を吐きながら、
馬の手綱を握っていた。
視線の先には、深い霧。
その奥に、空の死神がいる。
怖くない訳がなかった。
肩が強張り、手綱を握る力が強まる。
――もし、爆破が失敗したら。
――風が、壊せなければ。
――崖の崩落に、巻き込まれてしまったら。
恐ろしい想像ばかりが、
頭に浮かんでは消えていく。
それでも。
(……リョウ)
目線を上に上げ、
崖上にいる、あの青年を思う。
霧に覆われ、彼がどこに居るのか、
それすら分からない。
だけど。
今、この瞬間も、
彼はたった一度のチャンスのために、
全てを賭けて立っている。
誰かの命を背負う重さ。
それを、彼は一人で背負っている。
遼も、ミレイユも。
ゲリラの人々も。
みんな、怯えながら、震えながら。
それでも前を向き、立っている。
エリシアは、視線を自分の手元に落とす。
一度、手綱を握っていた手を緩め、
ゆっくりと、拳を作った。
(私も、下を向かない。
あの旗を握った時に、そう決めたから)
そして、前を向き、
しっかりとした声で、兵に命令した。
「進軍を維持してください。
止まれば、敵に恐怖を悟られます」
兵たちが頷く。
誰もが怯えている。
だが、
それでも進む。
それが、今のエリシアに出来る、
唯一の答えだった。
**
キィィィィィィィィィィィィ──ン!!
空気を裂く、
あの不快な音が谷へ響いた。
「来たぞ!!」
兵士が叫ぶ。
霧の奥。
黒い影が旋回していた。
翼槍隊。
空の死神たち。
圧迫感だけで、呼吸が苦しくなる。
兵たちの足が止まりかける。
エリシアは、
耳を覆いたくなる衝動に耐えながら、必死に叫んだ。
「止まらないでください!!」
その瞬間──
ドォォォォォォォォォォォォンッ!!!!
山が、爆ぜた。
落燕谷の側面が、轟音と共に崩落する。
岩盤が砕け、
巨大な土煙が噴き上がる。
一瞬、時間が止まったように、
エリシアたちも、風も、全てが止まった。
直後。
ゴォォォォォォォォォッ!!
谷全体を、暴風が駆け抜けた。
**
「なっ──!?」
翼槍隊が乱れる。
霧が渦を巻き、上昇気流と下降気流が激突する。
風が、読めない。
どこへ流れているのか、
誰にも分からない。
――空の“道”が、消えた。
キィィィィィィィィィィィィ──ッ!!
飛行音が、悲鳴へ変わる。
「制御できねぇ!!」
「上昇しろ!!
上昇──うわぁぁぁぁぁ!!」
黒い影が、
岩壁へ叩きつけられていく。
空の支配者たちが、
初めて空に拒絶されていた。
**
エリシアは、
墜ちていく黒い影を見上げていた。
崩れた風。
乱れる空。
消えていく死神の音。
(……リョウ)
――風が、変わった。
本当に。
やってくれた。
あの恐怖を。
空の支配を、打ち砕いてくれた。
心が、ふつふつと沸騰する。
その熱のまま、声を張り上げた。
「全軍!!敵の翼は折れました!!
この好機を逃さず、一気に攻め込むのです!!」
「おおおおおおおおおおっ!!!」
エリシアの号令に、兵が応える。
そこには、さっきまでの不安げな顔ではなく、
勝利を掴むため、希望と決意に満ちた顔色が浮かんでいた。
**
暴風の中、ガルドは吼えていた。
「クソがァァァァァ!!」
異常な技量で、無理やり姿勢を立て直す。
だが、その顔には脂汗が滲み、
ほんの僅かな余裕も無い。
「たかが地虫どもが!!
こんな真似を!!」
かつてないほどの激昂。
その怒りが、さらに判断を鈍らせる。
その時。
谷底の岩陰から、無数の火花が走った。
パンッ!!
ガギンッ!!
「撃てぇぇぇぇぇ!!」
ゲリラたちだった。
粗末な旧式の銃に、狩猟用の弩弓。
本来なら、空高く飛ぶガルドたちに
決して届くはずもない。
だが今は違う。
乱気流が、ガルドの回避を遅らせていた。
「鬱陶しいィ!!」
乱気流の中で、
それでも一瞬だけ、最適な軌道を選ぶ。
ガルドの、凄まじい技量が成せる神技だった。
ガルドが急降下する。
ゲリラを殺すために。
怒りのままに。
――次の瞬間、誰かが矢を放った。
それは、ただの偶然だったかもしれない。
あるいは、踏みにじられた者たちの、
執念が結実した必然だったのかもしれない。
矢は乱気流に煽られ、
狙いから外れ、
それでも軌道が跳ね、
そして──
ほんの僅か、
姿勢を崩したガルドの肩口へ、深々と突き刺さった。
「……は?」
ガルドの動きが止まる。
信じられない、という顔だった。
こんなもの。
こんな、虫けらの武器。
普段なら、絶対に避けられる。
なのに。
「な……ぜ……」
その一瞬の硬直。
それが致命傷だった。
ゴォォォォォォォォォッ!!
横殴りの暴風が、
ガルドの翼を真正面から叩く。
「っ──!!」
姿勢が崩れる。
岩壁が迫る。
「ふざけるなァァァァァァァ!!」
絶叫。
次の瞬間──
ドガァァァァァァンッ!!
黒い翼が、岩壁へ激突した。
「……墜ちた」
誰かが呟く。
あの死神が。絶対だった怪物が。
地面へ墜ちた。
静寂。
谷を吹き抜ける風の音だけが、低く唸っている。
――あの音は、
もう二度と、聞こえてこない。
次の瞬間。
「うおおおおおおおおおおお!!」
歓声が谷を揺らした。
ゲリラたちが叫ぶ。
村人たちが泣く。
武器を掲げる。
その空にはもう、
恐怖の影はいなかった。
**
ひときわ大きな影が落ちた姿を、エリシアは見た。
ガルドは堕ち、もはや勝敗は決した。
エリシアは、ゆっくり前を向く。
そして、胸いっぱいに息を吸い込み、
腹の底から声を張り上げた。
「皆ッ!!」
凛とした声が、
落燕谷へ響き渡る。
「我々は、勝ちました!!」
一瞬の静寂。そして。
「うおおおおおおおおおおお!!」
歓声が爆発した。
夜明けの光が落燕谷に差し込む中、
高々と掲げた青い旗が、朝日を受け、
風にはためいていた。