救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~   作:ホビット

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第十三章 霧の夜明け

遼がまだ崖の上で、起爆装置を握り締めていた頃。

 

霧の残る落燕谷を、

エリシアたちの主攻部隊が進んでいた。

 

谷内は冷たい霧に覆われ、

兵の足音や、馬の低い嘶きだけが聞こえている。

 

兵たちの吐く息も白い。

湿った冷気が、皮膚をべたつかせる。

視界を霧に覆われ、見えるものは、

谷の岩壁と、ぬかるんだ地面のみ。

 

誰も、言葉を発しないまま、隊列は黙々と進んだ。

 

**

 

先頭を進むエリシアは、白い息を吐きながら、

馬の手綱を握っていた。

 

視線の先には、深い霧。

その奥に、空の死神がいる。

 

怖くない訳がなかった。

肩が強張り、手綱を握る力が強まる。

 

――もし、爆破が失敗したら。

――風が、壊せなければ。

――崖の崩落に、巻き込まれてしまったら。

 

恐ろしい想像ばかりが、

頭に浮かんでは消えていく。

 

それでも。

 

(……リョウ)

目線を上に上げ、

崖上にいる、あの青年を思う。

 

霧に覆われ、彼がどこに居るのか、

それすら分からない。

 

だけど。

今、この瞬間も、

彼はたった一度のチャンスのために、

全てを賭けて立っている。

 

誰かの命を背負う重さ。

それを、彼は一人で背負っている。

 

遼も、ミレイユも。

ゲリラの人々も。

みんな、怯えながら、震えながら。

それでも前を向き、立っている。

 

エリシアは、視線を自分の手元に落とす。

一度、手綱を握っていた手を緩め、

ゆっくりと、拳を作った。

(私も、下を向かない。

 あの旗を握った時に、そう決めたから)

 

そして、前を向き、

しっかりとした声で、兵に命令した。

「進軍を維持してください。

 止まれば、敵に恐怖を悟られます」

 

兵たちが頷く。

誰もが怯えている。

 

だが、

それでも進む。

 

それが、今のエリシアに出来る、

唯一の答えだった。

 

**

 

キィィィィィィィィィィィィ──ン!!

 

空気を裂く、

あの不快な音が谷へ響いた。

 

「来たぞ!!」

兵士が叫ぶ。

 

霧の奥。

黒い影が旋回していた。

 

翼槍隊。

空の死神たち。

圧迫感だけで、呼吸が苦しくなる。

 

兵たちの足が止まりかける。

 

エリシアは、

耳を覆いたくなる衝動に耐えながら、必死に叫んだ。

「止まらないでください!!」

 

その瞬間──

 

ドォォォォォォォォォォォォンッ!!!!

山が、爆ぜた。

落燕谷の側面が、轟音と共に崩落する。

岩盤が砕け、

巨大な土煙が噴き上がる。

 

一瞬、時間が止まったように、

エリシアたちも、風も、全てが止まった。

 

直後。

 

ゴォォォォォォォォォッ!!

谷全体を、暴風が駆け抜けた。

 

**

 

「なっ──!?」

 

翼槍隊が乱れる。

霧が渦を巻き、上昇気流と下降気流が激突する。

 

風が、読めない。

どこへ流れているのか、

誰にも分からない。

――空の“道”が、消えた。

 

キィィィィィィィィィィィィ──ッ!!

飛行音が、悲鳴へ変わる。

 

「制御できねぇ!!」

「上昇しろ!!

 上昇──うわぁぁぁぁぁ!!」

 

黒い影が、

岩壁へ叩きつけられていく。

 

空の支配者たちが、

初めて空に拒絶されていた。

 

**

 

エリシアは、

墜ちていく黒い影を見上げていた。

 

崩れた風。

乱れる空。

消えていく死神の音。

(……リョウ)

 

――風が、変わった。

本当に。

やってくれた。

 

あの恐怖を。

空の支配を、打ち砕いてくれた。

 

心が、ふつふつと沸騰する。

その熱のまま、声を張り上げた。

 

「全軍!!敵の翼は折れました!!

 この好機を逃さず、一気に攻め込むのです!!」 

「おおおおおおおおおおっ!!!」

 

エリシアの号令に、兵が応える。

そこには、さっきまでの不安げな顔ではなく、

勝利を掴むため、希望と決意に満ちた顔色が浮かんでいた。

 

**

 

暴風の中、ガルドは吼えていた。

「クソがァァァァァ!!」

 

異常な技量で、無理やり姿勢を立て直す。

だが、その顔には脂汗が滲み、

ほんの僅かな余裕も無い。

 

「たかが地虫どもが!!

 こんな真似を!!」

 

かつてないほどの激昂。

その怒りが、さらに判断を鈍らせる。

 

その時。

谷底の岩陰から、無数の火花が走った。

パンッ!!

ガギンッ!!

「撃てぇぇぇぇぇ!!」

 

ゲリラたちだった。

粗末な旧式の銃に、狩猟用の弩弓。

 

本来なら、空高く飛ぶガルドたちに

決して届くはずもない。

 

だが今は違う。

乱気流が、ガルドの回避を遅らせていた。

 

「鬱陶しいィ!!」

乱気流の中で、

それでも一瞬だけ、最適な軌道を選ぶ。

ガルドの、凄まじい技量が成せる神技だった。

 

ガルドが急降下する。

ゲリラを殺すために。

怒りのままに。

 

――次の瞬間、誰かが矢を放った。

 

それは、ただの偶然だったかもしれない。

あるいは、踏みにじられた者たちの、

執念が結実した必然だったのかもしれない。

 

矢は乱気流に煽られ、

狙いから外れ、

それでも軌道が跳ね、

そして──

 

ほんの僅か、

姿勢を崩したガルドの肩口へ、深々と突き刺さった。

 

「……は?」

ガルドの動きが止まる。

信じられない、という顔だった。

 

こんなもの。

こんな、虫けらの武器。

普段なら、絶対に避けられる。

 

なのに。

「な……ぜ……」

 

その一瞬の硬直。

それが致命傷だった。

 

ゴォォォォォォォォォッ!!

 

横殴りの暴風が、

ガルドの翼を真正面から叩く。

 

「っ──!!」

姿勢が崩れる。

岩壁が迫る。

 

「ふざけるなァァァァァァァ!!」

 

絶叫。

次の瞬間──

 

ドガァァァァァァンッ!!

黒い翼が、岩壁へ激突した。

 

「……墜ちた」

 

誰かが呟く。

あの死神が。絶対だった怪物が。

地面へ墜ちた。

 

静寂。

谷を吹き抜ける風の音だけが、低く唸っている。

――あの音は、

もう二度と、聞こえてこない。

 

次の瞬間。

 

「うおおおおおおおおおおお!!」

 

歓声が谷を揺らした。

ゲリラたちが叫ぶ。

村人たちが泣く。

武器を掲げる。

 

その空にはもう、

恐怖の影はいなかった。

 

**

 

ひときわ大きな影が落ちた姿を、エリシアは見た。

ガルドは堕ち、もはや勝敗は決した。

 

エリシアは、ゆっくり前を向く。

そして、胸いっぱいに息を吸い込み、

腹の底から声を張り上げた。

 

「皆ッ!!」

 

凛とした声が、

落燕谷へ響き渡る。

 

「我々は、勝ちました!!」

 

一瞬の静寂。そして。

 

「うおおおおおおおおおおお!!」

 

歓声が爆発した。

 

夜明けの光が落燕谷に差し込む中、

高々と掲げた青い旗が、朝日を受け、

風にはためいていた。

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