救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~ 作:ホビット
落燕谷に、朝日が差し込んでいた。
砕けた岩盤。崩れた谷壁。
昨夜まで死地だった場所を、
淡い金色の光が静かに照らしている。
風はまだ少し荒れていた。
だが。
あの不快な飛行音は、
もうどこにも無かった。
**
「酒だ!!酒持ってこい!!」
「こっちまだ生きてるぞ!!担架ァ!!」
谷のあちこちで、
怒鳴り声と笑い声が入り混じる。
ゲリラたちが、焚火を囲んでいた。
泥だらけの男たち。
血まみれの民兵。
腕を吊った王国兵。
誰もが疲れ切っている。
それでも、顔には笑みがあった。
「……本当に、墜ちたんだよな。
……翼槍隊が、……ガルドが」
若い民兵が呟きに、
しばしの沈黙が訪れる。
辺りには、焚火の音と、
谷内を吹く風の音だけが響いた。
やがて。
誰かが、吹き出した。
「はは……信じられねぇ……」
笑いながら、泣いていた。
**
少し離れた岩場。
ローデンは、静かにその光景を眺めていた。
手には、薄い酒の入った木杯。
その視線は、どこか遠い。
──昔も、
最初は皆、顔を上げていた。
帝国が攻めてきた時。
王国軍はまだ健在で、
皆、“勝てる”と思っていた。
だが。
負けが積み重なる。
一つ村が消える。一つ砦が落ちる。
補給が遅れる。援軍が来ない。
すると、少しずつ人は口にし始める。
『もう無理だ』、と。
その空気が、国を殺す。
かつて、伝令だったローデンは、
崩れた前線を走り、燃える村を抜け、
“間に合わなかった場所”を、何度も見てきた。
一人が、下を向く。
すると、また一人が、下を向く。
気づけば、顔を上げている者は、誰もいなくなった。
けれど。
今は違った。
焚火を囲む者たちの視線は、
誰一人、地面へ落ちていなかった。
「……姫殿下は。
本当に、この国を変えられるかもしれませぬな」
ローデンは、小さく、
どこか寂しそうに笑った。
**
柔らかな光が、瞼越しに滲んでいる。
眩しさとともに、遼は目覚めた。
どうやら、どこかで横にされているらしい。
ぼやけた視界を何度か瞬き、
ゆっくりと目線を動かすと、
簡素な天幕から、朝日が漏れている。
「……ここ、は……」
喉が掠れる。
身体が重い。
頭もまだ鈍く痛んでいた。
その時。
「……リョウ?」
静かな声。
遼が視線を向けると、
すぐ傍にエリシアがいた。
彼女は、安堵したように小さく息を吐く。
薄く微笑むと、遼に声をかけた。
「よかった……目を覚ましたんですね」
「……エリシア」
遼は、しばらく、ぼうっと彼女を見つめていた。
記憶が、少しずつ繋がっていく。
爆音。崩落。暴風。
そして──
「……作戦は!?
成功、したのか……?」
声が震えた。
言った直後、聞いたことを後悔した。
――結果を聞くのが、怖い。
けれど。
遼の不安をよそに、
エリシアは目を丸くしたあと、
ふっと力が抜けたように笑った。
その笑顔は、
今まで見たどんなものより、柔らかかった。
「はい……
大成功です」
静かな返答だった。
遼の呼吸が止まる。
「翼槍隊は壊滅。
ガルドも討たれました」
「…………え?」
遼は、
本気で理解できないという顔をした。
「いや……そんな、上手く……」
「上手くいったんです」
エリシアは、
少しだけ目を伏せる。
「あなたが、やってくれました」
その言葉に、
胸の奥がじわりと熱くなる。
「……俺。最後の方、
ほとんど覚えてなくて」
「はい。
泣きながら気絶してました。
『運んでくるのが大変だった』と、
ミレイユが愚痴を零していましたよ?」
悪戯っぽく、エリシアが笑う。
「やめてくれ……。」
憮然とした表情で、肩を落とす。
遼の子供みたいな様子に、
エリシアは、思わず吹き出す。
だが、
笑いながらも、その目は少し赤かった。
「……本当に、怖かったんですよ。
でも、進めました」
一度だけ、目を伏せる。
「もし失敗しても、ミレイユが、
皆を逃してくれると信じていたから。
それに何よりーーあなたが、逃げずに、立ってくれていたから」
その声は、誇るようでもあり、
どこか泣きそうでもあった。
「だから……ありがとうございます、リョウ」
遼は、
何も返せなかった。
ただ、
胸の奥に張り付いていた重石が、
ほんの少しだけ軽くなった気がした。
――エリシアの顔に、天幕から漏れた朝日が差し込む。
泣き笑いのような表情。
朝日にきらめく金髪。
遼は、何も言えなかった。
言葉にできない何かが、胸の奥に残っていた。
しばしの沈黙。そして。
バサッ!!
唐突に、天幕が勢いよく開いた。
「おお!!
起きやがったか兄ちゃん!!」
入ってきたのは、
あのゲリラの頭領だった。
……酒臭い。
「よう英雄!!
いつまで寝てやがる!!」
「……は?」
次の瞬間、
頭領が遼の腕を掴み、
無理やり寝台から引き起こした。
「祝勝会だ祝勝会!!
主役が寝ててどうすんだ!!」
「ちょ、待っ──」
「おら行くぞ!!
今日は飲め!!騒げ!!」
「いや、まだ起きたばかりっ──!!」
ズルズルと、半ば引きずられる遼。
エリシアは、その光景を見て、
堪えきれず吹き出した。
外からは、
笑い声と喧騒が聞こえてくる。
勝ったのだ。
あの絶望的な夜を越えて。
(……本当に。
あなたは、とんでもない人ですね)
エリシアは、
引っ張られていく遼の背を見つめながら、
そっと微笑んだ。
少し離れた場所。
負傷した兵士の手当てをしながら、
ミレイユも同じ背中を見ていた。
その表情は、エリシアとは少しだけ違う色をしていた。