救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~ 作:ホビット
落燕谷での戦いから一週間が経った。
王国軍は、
高地帯の砦群を次々に制圧していた。
崖沿いに築かれた簡素な防壁。
帝国軍の見張り櫓。
放棄された補給箱。
かつて帝国側の監視拠点だった場所には、
今、青い旗が翻っている。
「……信じられねぇな」
砦の外壁へ腰掛けながら、ゲリラ兵が呟いた。
「ついこの前まで、
俺たちゃ谷を越えることすら出来なかったんだぜ」
「でも勝った」
「ああ。……俺たちは、勝ったんだ」
笑い声。
空気は、明るかった。
兵たちの顔から、
長く張り付いていた“敗残兵の顔”が消え始めていた。
だが。
山の向こうから、分厚い雲が流れてくる。
もうじき、雨が降りそうだった。
**
「……浮かれてばかりでは、おれませぬ」
低い声が、その空気を断ち切る。
ローデンだった。
遼たちは、古砦の一室で、地図と書類を囲んでいた。
地図には、勝利を示す×マークが、あちこちに付いている。
破竹の勢い、に見えた。
実際、ガルド撃破の報せを受け、
エリシアに合流する者も、続々と現れている。
後背の懸念も解消し、拠点攻略も順調。
兵力も拡大し、順風満帆に見える。
しかし。
「食糧が足りません」
眉を寄せながら、ローデンが続ける。
「矢も、薬も、馬の飼葉も不足しております」
兵站。
規模が拡大すれば、その問題にぶつかるのは、
必然だった。
ミレイユも、
その言葉に、俯きながら答えた。
「……はい。
負傷した方の手当については……。
傷口の化膿を止めたいのですが、薬草も不足しています」
ミレイユの言葉を受け、ローデンは続ける。
「我々は現在、シュヴァルツ高地周辺の協力者から、
補給しておりますが……長くは持たないでしょう」
「もともと、余力も無さそうだったからな…」
翼槍隊の徴発を思い出しながら、
遼は頭を掻いた。
遼の呟きに、ローデンも眉を下げながら言う。
「一部、合流する者の中には、
食料や物資を調達する者もおります。
……ですが、いつまでも、それを当てには出来ますまい」
「つまり、このままじゃ、
戦う前に飢え死にする、ってことか?」
遼の確認に、
ローデンは重々しく頷いた。
天幕の中へ、深い沈黙が落ちる。
埃っぽい空気が、遼の肺に満ちた。
翼槍隊は倒した。
空の死神を墜とし、奇跡を起こした。
だが、
戦争は終わっていない。
むしろ、
ここからが本番だった。
ここまで、話を聞いていたエリシアが、
静かに、ローデンへ問いかける。
「……ローデン。
何か、当てはあるのでしょうか?」
その問いに小さく頷くと、
ローデンの指が、ある一点を指す。
「……ルヴァン水城塞」
エリシアが、地図に書いてある名を読み上げた。
帝国北方戦線最大級の物流拠点。
複数の河川が交差し、水運の交差点として、
莫大な物資が集まる要衝。
そこを押さえれば、
王国軍は初めて“継戦能力”を得る。
逆に言えば。
取れなければ、いずれ詰む。
「……だが、当然帝国も理解しているでしょう」
ローデンは、地図に視線を落とし、
困ったように言った。
「敵将は?」
ガルドの様な猛将は、そうそう居て欲しくない。
そんなことを頭に浮かべながら、遼が問う。
遼の問いに、ローデンは僅かに顔を曇らせた。
「レクトール・ハーゼ。
確か、帝国軍務局直轄の将だった、かと」
その名に、数人の古参兵が目を背ける。
「知っているのか?」
「詳しくはありませぬ。
私は所詮、元伝令ですのでな」
ローデンはそう前置きし、ゆっくり続ける。
「ただ……
昔の王国兵たちの間では、
妙に嫌がられておりました」
「嫌がられてた?」
「ええ。
ガルドのような猛将ではない。
苛烈な攻撃も、鉄壁の守りも、
どちらも彼の将は持ち合わせておりませぬ」
そこまで言って、
ローデンは僅かに俯いた。
「……ですが、崩れない。
気付けば、戦線がじわじわ後退していく、と」
部屋の空気が静かに重くなる。
窓から差し込む日光が、宙に浮かぶ埃を映した。
「派手な戦には、ならないのです。
大勝も無い。代わりに大敗もない。
なのに――気づけば、少しずつ押し潰されていく」
ローデンは、一段低い声で呟いた。
「まるで、真綿で首を締められるようだ、と」
遼は再び、地図へ視線を落とす。
河川。補給路。輸送網。
派手な強さではない。
だが、こういう“後ろを回す相手”が厄介なのは、
なんとなく理解できた。
「……嫌なタイプだな」
自然と、そんな言葉が漏れた。
「ですが、避けては通れません」
エリシアの瞳が、
地図上の水城塞を見据える。
そして、静かに指を添えた。
「私たちが生き残るためにも。
王国を取り戻すためにも」
指し示す先に、異議を唱える者はいなかった。
皆が指先に視線を集中する中、
ミレイユだけが、エリシアの顔を、じっと見つめていた。
その横顔が、
どこか遠くなっていくような気がして。
彼女はそっと、視線を窓の外に向けた。
窓の外では、雨が降り始めていた。
遠く、帝都から流れてきた様な、冷たい雨だった。
**
帝都オルドハルト・黒曜宮。
長い大理石の謁見廊を抜けた、その最奥。
玉座の間には、重苦しい沈黙が落ちていた。
机上へ置かれているのは、
一枚の報告書。
――シュヴァルツ高地失陥。
――翼槍隊壊滅。
――ガルド戦死。
帝国では、本来あり得ない報告だった。
「……ガルドが、死んだか」
低い声。
皇帝は、静かに報告書を閉じた。
怒声はない。
激情もない。
だが、
その場の空気そのものが、重く沈んでいた。
玉座を挟んで、左右には、
二人の将軍が立っている。
一人は、白銀の軍装を纏った女将。
セリア・ヴァルステッド。
もう一人は、
黒い軍服姿の痩身の男。
レクトール・ハーゼ。
レクトールは、皇帝に頭を垂れながら、
けれど淡々と、感情の見えない声で意見を述べる。
「落燕谷の地形では、
本来あり得ない敗北です」
「だが、実際に起きたことだ」
皇帝の問いに、レクトールは僅かに沈黙した。
一拍の後。
もどかしそうに、考えを述べた。
「……詳細は不足しております。
ただ、地形そのものへ何らかの干渉が行われた可能性があります」
セリアが静かに目を細める。
「谷風を崩した、と?」
「推測です」
即答。感情の無い声。
レクトールにとって、事実と推測は、
絶対に切り離すべきものだった。
セリアに視線を向け、言葉を続けた。
「ですが。
……翼槍隊が制御を失ったという報告とは、
一致します」
玉座の間に、沈黙が落ちる。
巨大な窓の外では、
夜の雨が、静かに降っていた。
やがて、
皇帝がゆっくり口を開いた。
「反乱軍は、次に何を狙う」
「ルヴァン水城塞です」
淀みない返事。
「反乱軍は現在、高地を押さえています。
しかし、所詮“継ぎ接ぎの軍勢”です。
補給線も、輸送能力も脆弱。
いずれ、兵站の限界に直面するでしょう。
それを解決するには――」
その言葉を、
セリアが静かに引き継いだ。
「物資の集積拠点である、
ルヴァンを狙うはず、ということですか。
……妥当ですね」
「依然として弱小勢力ですが、放置すれば、
影響が帝国全域へ波及する懸念があります。
――ゆえに」
レクトールの指が、河川地帯へ触れた。
「ここで止めます」
感情は無い。
だが、
その声音には、
絶対的な確信だけが存在していた。
「可能か」
玉座からの声。
それに対しても、
レクトールは、一切迷わず答える。
「はい。
既に、必要戦力の再配置を開始しております」
淡々と。
事務的に。
「敵軍は、局地的勝利によって士気が高揚しております。
故に、次戦では前進を優先する」
一度、言葉を区切り、続ける。
「そこを、補給線と河川輸送で拘束します。
前進はさせず、さりとて後退もさせず。
補給不足により、自滅させます」
まるで、
最初から結果が決まっているかのような口調だった。
その横で、
セリアは静かにレクトールを見ていた。
彼の言葉は、常に正しい。
無駄がない。破綻もない。
だからこそ、兵たちは彼を恐れる。
戦場で勝っている感覚がないまま、
気付けば全てを削り取られていくからだ。
「……相手はガルドを破っています。
油断は禁物です」
セリアの忠告。
それに対しても、
感情の無い声が返ってきた。
「ご忠告、ありがとうございます。
ですが、問題はありません。
ガルド将軍を破ったことは意外ではありましたが……」
レクトールは一瞬だけ、地図に視線を落とす。
まるで、途中式を確認するかのように。
そして、断言した。
「ーー感情論や勢いでは、ルヴァンは落ちません」
セリアは、
ほんの僅かだけ目を伏せた。
“感情を排除する”。
その言葉が、
どこか引っかかった。
**
窓の外では、相変わらず雨が降っている。
雨が止む気配は、未だ感じられなかった。