救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~ 作:ホビット
灰色の空の下。
巨大な河川地帯が、視界の果てまで広がっている。
ザァァ…という、大きな音が、遼の耳に入った
幾重にも分かれた水路。
水上を行き交う輸送船。
河岸へ積み上げられた物資の山。
そして、その中心。
幾重もの石壁と水門によって築かれた巨大要塞――
ルヴァン水城塞。
「……デカすぎるだろ」
遼が思わず呟く。
その横で、兵たちも息を呑んでいた。
「聞いてねぇぞ……」
「補給拠点ってレベルじゃねぇ……」
視線の先では、
巨大な水門がゆっくりと開閉している。
船が入る。
荷が降ろされる。
兵が動く。
そこには、
戦場というより、
巨大な“機構”のような不気味さがあった。
**
水城塞から少し離れた、平原地帯。
王国軍は、そこに陣を張っていた。
天幕の中、
エリシアは、静かに地図を広げる。
「ここを押さえなければ、
私たちは長く戦えません」
その声に、
場の空気が引き締まる。
食糧。矢。薬。馬の飼葉。
全てが足りない。
今の王国軍は、
勝っているのではない。
まだ、“倒れていない”だけだ。
「しかし……」
ローデンが、
城塞前方へ目を向けた。
「妙ですな」
「妙?」
「敵が静かすぎます」
平野部には、隠れる場所が無い。
奇襲も伏兵も難しい、開けた河川地帯。
にもかかわらず、
帝国側は奇妙なほど、
動きを見せていなかった。
**
ゴォォォォ……
低い角笛が、
河川地帯へ響き渡る。
ルヴァン水城塞の正門が、
ゆっくりと開いた。
現れたのは、
整然と並ぶ帝国軍。
槍兵。盾兵。弓兵。
無駄のない隊列。
鬨の声も無い。
威圧も無い。
ただ、
静かに並んでいる。
その異様な統制に、
兵たちの顔色が変わった。
「……なんだ、あれ」
「今までの帝国軍とは、
空気が違ぇ……」
**
一方。
帝国軍列の中央では、
一人の副官が、
馬上の男へ報告を上げていた。
「反乱軍、
予定地点へ到達。
兵数は事前予測の範囲内です」
黒馬の上。
痩身の男――レクトールは、
静かに報告を聞いている。
黒い軍服に、乱れのない襟元。
きちんと整った軍服は、
軍人というより、官僚のような印象を抱かせる。
灰色の瞳には、ほとんど感情が映っていない。
副官は続けた。
「敵軍の到着は、事前予想より早い時間です。
今なら、行軍の疲れがあるかと――」
「“疲れがあるかと”?」
レクトールは、
僅かに眉根を寄せた。
「……失礼しました」
「確実な情報以外、報告は不要です」
責める口調ではない。
だが、
その静かな声音の方が、
かえって空気を冷やした。
「……失礼しました。
敵軍、行軍速度に上昇傾向。
それに伴い、物資の消費量も
増加しています」
「それで十分です」
レクトールは、
淡々と前線を見渡す。
「河川封鎖は継続。
輸送路へは、監視部隊を追加してください」
「突出部隊が出た場合は?」
「包囲は不要です」
即答だった。
「退路のみ制限してください。
消耗を優先します」
まるで、
既に結果の決まった盤面を確認するように。
レクトールは淡々と、
戦場を見つめていた。
**
帝国軍は、
静かに並んでいた。
ただ、そこに在る。
まるで、
巨大な壁のように。
「……っ」
エリシアは、
無意識に息を詰めていた。
嫌な感覚だった。
ガルドのような、
圧倒的暴威ではない。
なのに。
目の前の軍勢からは、
妙な“揺るがなさ”が伝わってくる。
崩れる姿が、想像できない。
(……なに、これ……)
得体のしれない不安に、胸の奥がざわつく。
だが、ここで動揺を見せれば、
兵たちはもっと不安になる。
エリシアは、
震えを押し込むように、拳を握る。
一呼吸の後、
帝国の隊列を睨みつけ、命令した。
「前進してください。
――ここで止まれば、
私たちに未来はありません」
兵たちが顔を見合わせる。
不安。緊張。
それでも、
エリシアは前を向いた。
「大丈夫です」
自分へ言い聞かせるように。
「敵も、
無敵ではありません」
旗を向ける。
青い旗が、戦場にはためいた。
「全軍――前へ!!」
「おおおおおおおっ!!」
王国軍が前進する。
泥を蹴り、
鬨の声を上げながら。
その先で。
帝国軍は、
静かに槍を構えた。
まるで、
押し寄せる波を待つ防波堤のように。
**
ゴォォン!!
金属同士の衝突する鈍い音が、
河川地帯へ響いた。
「押せぇぇぇぇ!!」
王国軍の先鋒が、
帝国軍の盾列へ激突する。
槍がぶつかる。
盾が軋む。
泥が跳ねる。
「……っ!?」
兵士の顔が引き攣った。
重い。
帝国軍の陣が、
異様なほど崩れない。
押している実感はある。
なのに、盾列が岩盤のように動かない。
少し押し込めたーーそう思うと。
次の瞬間、
帝国軍の後列が淀みなく前進する。
疲弊した前列と、
寸分違わず入れ替わる。
「な……」
兵の一人が息を呑む。
崩れない。
押しても。
削っても。
目の前の壁が、
少しも乱れない。
「右から回れ!!側面を崩すのだ!!」
ローデンが指示を飛ばす。
王国軍の別働隊が、
河岸側から回り込む。
今度こそ崩せる。
そう思った瞬間。
ヒュォォォォッ!!
「ぐぁっ!?」
「っ、伏せろ!!」
正確だった。
狙い澄ましたように、
回り込み部隊だけへ矢が降り注ぐ。
隊列が乱れる。
そこへ。
ズズッ――
帝国軍が、
静かに前へ出た。
たった一歩。
だがその一歩が、
異様な圧迫感を生む。
「……なんだよ、これ」
遼が呟く。
派手さは無い。
強烈な突破力も、
圧倒的武勇も無い。
なのに。
噛み合わない。
こちらの動きだけが、
少しずつ潰されていく。
「押してる……よな?」
若い兵の一人が、
不安そうに呟く。
事実として、少しずつだが、
戦線は押し上げられている。
なのに。
進んでいる感覚が、
まるで無かった。
エリシアの握る拳に、汗がにじむ。
(崩れない……)
何度も揺さぶっている。
側面も突いている。
なのに。
帝国軍の陣形は、
まるで最初から決まった形を保ち続けるように、
静かにそこに在り続けていた。
嫌な感覚だった。
まるで、底の見えない泥沼へ、
少しずつ沈んでいくような。
**
「第二列、前へ」
「槍列、一歩前進」
「弓兵、三列」
帝国軍の陣地の中で、
レクトールは冷静に命令を出していた。
視線には、怒りも、高揚も無い。
「左翼、
押し返され始めています」
副官が報告する。
「想定範囲内です」
動じない。即答だった。
「第三補助線へ後退。
隊列密度を維持してください」
「……敵中央は、やや突出傾向がありますが」
「問題ありません」
レクトールは、あくまで淡々と答える。
「敵は前進を成功と誤認しています。
そのまま、前へ出させなさい」
感情の無い声だった。
**
戦いが始まってから、数時間。
気付けば。
王国軍の兵たちは、
皆、荒い息を吐いていた。
汗がぐっしょりと肌にべたつく。
足を泥に取られ、
槍を握る手は鉛の様に重い。
だが。
帝国軍は、まだ崩れない。
静かに。
ただ静かに、そこに立ち続けていた。
「……限界だ」
遼が重々しく呟く。
「エリシア、これ以上攻めても奴らは崩せない。
いったん、退くしかない」
エリシアは悔しそうに唇を噛む。
頭では理解している。
これ以上攻めても、
兵が消耗するだけだ。
頭では、分かっていた。
それでも、どこかがまだ、諦めたくなかった。
もう一度だけ、もう一度だけ押せれば、と。
「……お嬢様」
背後からの声に、振り返る。
ミレイユが、
心配そうな表情でエリシアの顔を見つめていた。
エリシアは深く、
ため息をつくように息を吐くと、
震える声で号令をかけた。
「……全軍、退いてください」
**
夕焼けの湿地帯。
王国軍が、平原部に向けて、
ゆっくりと後退していく。
乱れた足並み。
疲弊した兵たち。
それを、
レクトールは静かに眺めていた。
「追撃は」
部下が問う。
「不要です」
即答だった。
「反乱軍は既に消耗しています。
無理に圧迫する必要はありません」
淡々とした声。
まるで、
既に解けている計算問題を答えるように。
「ですが、
今なら戦果を拡大できるかと――」
「“できるかと”ではなく、
根拠を述べてください」
部下の言葉が止まる。
レクトールは、
僅かに眉間を押さえた。
「推測を重ねても、
精度は上がりません」
静かな声だった。
だが、
その空気は冷たい。
「反乱軍は兵站に問題を抱えています。
兵の動きには、焦燥も見られる。
ならば、
時間経過だけで戦況はこちらに傾きます」
視線を、
遠ざかる青い旗へ向ける。
「無理に崩す必要はありません。
ただ、崩れる形に誘導すればいい」
言い切ると、背を向ける。
河川を渡る風が、
黒い外套を揺らした。
**
一方。
退却する軍の最後尾で、
エリシアは一度だけ振り返る。
遠い平野。
灰色の空の下、
帝国軍はまだ整然と並んでいた。
追ってこない。
ただ、
静かにそこに在る。
その光景が、
かえって不気味だった。