救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~ 作:ホビット
第十六章 泥濘の中で
鈍色の雲が、
河川地帯に冷たい雨を降らしていた。
ルヴァン水城塞への攻勢が始まってから、
既に十二日。
その間、
王国軍は何度も前進し、
帝国軍と衝突していた。
河岸の奪取。
輸送路への襲撃。
夜間の揺さぶり。
小競り合いだけなら、
何度か押し勝っている。
実際、帝国軍側にも損害は出ていた。
だが。
それだけだった。
翌日になれば、
帝国軍は何事もなかったように隊列を立て直し、
また同じ場所に並んでいる。
崩れない。
押し込めない。
少し削ったと思えば、
河川の向こうから新たな兵と物資が補充される。
一方で、
王国軍の消耗だけは、
確実に積み重なっていた。
戦う――矢弾が減る。
戦う――薬が減る。
戦う――馬が痩せる。
戦いを繰り返すたびに、
兵士たちの顔から少しずつ余裕が消えていく。
勝てない訳ではない。
だが、勝ちへ近づいている感覚も無かった。
まるで、
前の見えない海の底で、
静かに溺れているようだった。
**
薄暗い天幕の中。
湿った空気が、
重く沈んでいた。
机の上には、
消耗報告が並んでいる。
矢弾残数。薬草在庫。
負傷兵数。馬匹損耗。
どれも、少しずつ悪化していた。
「……思ったより減りが早いな」
遼が、
報告書を見ながら眉をひそめる。
「河川地帯の泥で、
馬の消耗が激しい。
矢も湿気で駄目になるのが多い」
ローデンが低く唸った。
「加えて、
敵は補給路を細かく潰してきておる。
……嫌な相手じゃ」
遼は舌打ちした。
「……レクトールか」
派手じゃない。
なのに、気付けば首が締まっている。
そんな感覚だった。
二人の会話を横耳に、
エリシアは、静かに報告書へ目を落としていた。
数字が、じわじわと重くなる。
兵の疲弊。
物資不足。
増えていく負傷兵。
(……このままじゃ)
天幕を濡らす雨の様に、
不安が、胸に沁み込んでいく。
重苦しい苦悩に押しつぶされそうな主人に、
ミレイユも心配そうに見つめていた。
**
遼たちが頭を悩ませていると、
にわかに、天幕の外が騒がしくなった。
「……?」
ミレイユが天幕を開け、
外の様子を伺う。
すると、そこには、
雨に濡れ、全身が泥だらけの兵士たちがいた。
数人が、
負傷した帝国兵を運んでいる。
「敵兵?」
遼が眉をひそめる。
「河岸近くで倒れていたそうです。
流れ矢を受けたとか」
敵兵を抱えながら、
救助した兵士が説明する。
若い帝国兵だった。
まだ十代後半ほど。
意識はない。
顔色は悪く、荒い息を吐いている。
肩口に矢を受け、出血の状態は悪そうだ。
「……放っておけば死ぬな」
誰かが、
ぽつりと呟いた。
蝋燭の火が、湿気った空気で揺らめく。
その言葉に、天幕の空気が沈んだ。
皆が、悩まし気に顔を見合わせる。
しかし、表情は同じだった。
――今はこちらも余裕がない。
――薬も不足している。
敵兵へ使う余力など、無い。
誰も口にしないが、考えることは、同じ。
冷たい雨が、天幕を叩く。
バラバラと規則正しい音が鳴り続ける。
その時だった。
「……治療してください」
エリシアの口から、
静かな声が発せられた。
「……姫殿下」
ローデンが、一段低い声で唸る。
「今は、
薬も、食糧も、余裕は――」
「分かっています」
エリシアは俯きながら、
苦しそうに答えた。
「それでも、
見捨てたくありません」
その言葉に、
ミレイユが僅かに目を伏せる。
分かっている。
今の状況なら、切り捨てる方が正しい。
けれど。
エリシアは、そう出来ない。
ミレイユには、その理由が分かった。
分かるから、何も言えなかった。
そっと、エリシアの顔を覗く。
不安そうだった。
優しさが、今の軍を苦しめるかもしれない。
そんな予感を、彼女も感じている。
「……薬を持ってきます」
もどかしい思いを抱えたまま、
ミレイユは、小さく言うと、
静かに、準備に取り掛かった。
「……ありがとうございます」
力ない感謝の言葉。
エリシアは、それだけ言い、
少しだけ寂しそうに微笑んだ。
**
一方。
河川の向こう側。
帝国軍陣地。
レクトールは、書類を眺めながら、
兵士からの報告を受けていた。
「敵軍、負傷兵を収容しています。
……中には、帝国兵も含まれるようです」
レクトールは一瞬だけ、目を上げた。
「……非効率ですね」
一言だけ呟き、紙面に戻る。
報告書をめくりながら、指示を続けた。
「補給封鎖を継続してください」
「追撃は?」
「不要です」
淡々とした声。
「敵軍は既に、
消耗と停滞へ入っています」
ペン先が、
地図上の補給線をなぞる。
「焦る必要はありません。
削れば、いずれ崩れます」
その口調には、
確信しか無かった。
まるで。
戦場ではなく、
ただの計算結果を見ているように。
**
夜。
負傷兵たちの天幕内。
相変わらず止まない雨が、
天幕を静かに叩いていた。
負傷兵たちのうめき声。
煮炊きの煙。
湿った土の匂い。
長引く戦いの疲労が、
陣地全体へ重く沈んでいる。
天幕の隅で、ミレイユは、
小鍋を火へかけていた。
薄い豆のスープ。
本来なら、
負傷兵用の貴重な保存食だ。
「……少ないですね」
ぽつりと、ミレイユが呟く。
鍋の中身は、
以前より明らかに薄かった。
それでも。
冷え切った身体には、
多少なり温かい方がいい。
エリシアは、
眠ったままの帝国兵を見下ろす。
まだ若い。
敵兵というより、疲れ果てた少年に見える。
肩には包帯が巻かれ、
拾ってきた時よりは、顔色も良くなっていた。
「……起こしますか?」
「ええ」
主の許可を取り、
ミレイユが肩へ触れる。
「起きられますか?」
帝国兵が、ゆっくり目を開いた。
ぼやけた視線。
そして、目の前の青旗を見る。
瞬間。
身体を強張らせた。
「っ……!?」
逃げようとして、
激痛に顔を歪める。
「大丈夫です」
エリシアが、静かに声をかけた。
「治療しました。
あなたは保護されています」
帝国兵は、
理解できないものを見るような顔をした。
「……なぜ」
掠れた声。
「敵、だぞ……」
エリシアは、
少し困ったように微笑む。
「目の前で倒れている人を、
放っておけませんでした」
帝国兵は、
しばらく言葉を失っていた。
その様子をよそに、
ミレイユがスープを注ぎ、
木椀を差し出した。
「熱いので、
気を付けてください」
帝国兵は、戸惑っていた。
警戒し、何度か、視線を往復させた。
寂しそうに微笑む、エリシアの顔。
真っ直ぐ見つめる、ミレイユの表情。
湯気をたてる、木椀の中身。
やがて、空腹に逆らえなくなったのか、
おそるおそる、椀を受け取った。
そのまま、スープに口を付ける。
その時だった。
「……あ」
ミレイユが、
小さく目を見開いた。
帝国兵の手つき。
椀の持ち方。
口を付ける前、
僅かに指を添える仕草。
帝国の習慣ではない。
(この作法……)
ミレイユは、
思わず帝国兵を見つめる。
「あなた……
どこの出身ですか?」
帝国兵の肩が揺れた。
「……え?」
「帝国北部では、
その持ち方はしません」
静かな声だった。
「南方沿岸……
いえ、もっと西側?」
帝国兵は、図星を突かれたように
目を見開いた。
「なんで、分かる……」
ミレイユは、
少しだけ懐かしそうに目を細めた。
「昔、見たことがあるんです」
ミレイユ自身が、孤児として、
異国でエリシアに拾われた身だった。
だから分かる。
土地ごとの癖。
食事の作法。
言葉に出ない文化の違い。
帝国兵は、
観念したように俯いた。
「……ああ。
俺は、帝国生まれじゃない」
ぽつりと漏れる。
「西方属州だ。
徴兵されて、ここへ送られた」
天幕の空気が、
僅かに変わった。
遼が、ゆっくり顔を上げる。
「……属州?
帝国軍、全部が帝国人じゃないのか?」
帝国兵は、苦い顔で笑った。
「そんな訳、ないだろ……」
苦々しく続ける。
「金が無い場所から、
順番に兵を出させる。
そういう場所はいくらでもある。
俺も、俺の故郷も。
クソッタレなことに、そうだ」
ぽつりと落ちた言葉に、
天幕の空気が静まる。
遼は、無意識に帝国兵の顔を見ていた。
痩せた頬。荒れた手。
(……こいつも、選んでここにいるわけじゃない)
それだけを、静かに思った。
「……なあ」
遼が、
低く呟く。
「レクトールってさ」
誰へ向けた訳でもない声だった。
「兵を、
“同じ人間”として見てないんじゃないか?」
エリシアが顔を上げる。
ミレイユも、
静かに耳を傾けた。
遼は、
ゆっくり言葉を続ける。
「崩れない理由、
分かってきた気がする」
「……?」
「レクトールは、
軍を“部品”として扱ってる」
淡々と。
消耗。補充。交代。
必要な場所へ、
必要な兵を当て込む。
そこに感情は無い。
だから強い。
だが――
遼の視線が、
椀を握る帝国兵へ向く。
「逆に言えば、
あいつは“人間の違い”を見てない」
ミレイユが、
はっとしたように目を見開いた。
「……文化の違い」
「価値観。故郷。誇り。
そういうの全部、
“同じ兵力”として計算してる」
静かに続ける。
「でも実際は違う。
西方属州。帝国本土。
徴兵兵。正規兵。
同じ帝国軍でも、中身はバラバラだ。
もし、
そこへ揺さぶりを入れられたら――」
最後まで言わず、
遼は口を閉じる。
だが。
エリシアの瞳へ、
僅かな光が戻っていた。
ミレイユも、
静かに帝国兵を見る。
今まで見えていなかったもの。
“崩れない軍”の内側にある、
人間の揺らぎ。
誰もしばらく、
言葉を発さなかった。
遼は、ゆっくりと帝国兵へ視線を向ける。
「ひとつ、聞いていいか」
帝国兵は、包帯を押さえながら頷いた。
「ラウスの旗は……今でも、残ってるか」
誰かが、息を飲む音がした。
雨音でかき消されそうな音。
気づけば、天幕を叩いていた雨音は消えていた。