救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~ 作:ホビット
遼たちは、
エリシアの天幕に集まっていた。
夜明け前だというのに、
誰も眠ってはいない。
机の上へ広げられた地図。
河川。
湿地。
帝国軍布陣。
赤い駒で示された敵前線を見ながら、
遼が口を開く。
「まず、大前提として。
レクトールの軍は、あいつの指示で動いてる。
指示が完璧だから、綻ばない」
遼の言葉に、部屋の全員が頷く。
綻ばない――それは、これまでの戦いで明らかだった。
「だから。
俺たちが勝つためには、
レクトールの軍の中を、意図的に乱す必要がある」
天幕の空気が、
僅かに張り詰める。
ローデンが眉をひそめた。
「どうやってじゃ?」
「あの帝国兵、
故郷の話をした時、顔が変わっただろ。
――あれは、ただの郷愁じゃない」
ミレイユは、
静かに目を伏せた。
「……分かります」
古い記憶を噛みしめるように、続ける。
「属州出身者は、
帝国へ従っていても、
本心では“帝国人”ではありません。
食事の作法も、祈りも、言葉も違う。
故郷を侮辱された時の感覚も、
本国の兵とは違います」
木椀を持つ、あの仕草。
あれは、
土地に根付いた癖だった。
帝国へ組み込まれても、
消え切らないもの。
ミレイユは、
それを知っていた。
「だが、それで軍が崩れるか?」
ローデンが、眉根を寄せる。
「戦場では、命令が優先される。
敵が無視すれば終わりじゃ」
その通りだった。
感情論だけで崩せる相手なら、
ここまで苦戦していない。
レクトールは、
そんな甘い将ではない。
「……たぶん、
レクトール本人は乗らない」
遼が、
地図を見たまま呟く。
「あいつらは、
追撃のチャンスがあったのに、動かなかった。
たぶん、こちらの消耗を狙っているんだと思う。
無駄なリスクは嫌うはずだ」
ローデンが、更に眉を寄せた。
「なら、意味が無いではないか」
「……いや」
遼は、遠い目で、少し顔を伏せた。
「こういうのって、
上が正しくても、
現場で勝手にズレる時があるんだ」
「ズレる?」
「ああ」
苦笑しつつ、遼は、
静かに言葉を続ける。
「組織って、
トップ一人が優秀でも、
案外その通りには動かない」
「現場は、
“上の思想”を自分なりに解釈するんだ。
しかも、
自分では正しいと思ってる」
合理性。効率。
無駄の排除。
そういう言葉だけが、
いつの間にか一人歩きする。
遼は、
昔見た光景を思い出していた。
命令そのものじゃない。
“こう動くべきだ”
という空気だけが肥大化し、
現場が勝手に先回りを始める感覚。
「正直、
俺も賭けだと思ってる」
遼は、素直にそう言った。
「狙うなら、ここだ」
地図の一角――赤い駒の、左翼を指差す。
「属州兵が多い区域。
まずはここへ揺さぶりを入れる」
「なぜ、そこに属州兵が多いと分かるんじゃ?」
ローデンが、怪訝そうに問う。
「何日か見てたら、ここの部隊だけ、少しだが押せてたんだ。
理由が気になってたところに、あいつの話が来た」
「……無理やり、戦っている、
ということですか」
エリシアの言葉に、遼は頷く。
「ああ。
それでも崩せないのは……
たぶんだけど、現場で見張ってるヤツがいる。
――崩すなら、そこだ」
「――なら、シンボルには、
属州旗を使うといい」
天幕の外から、若い男の声が聞こえた。
あの、若い帝国兵だった。
「お主は……」
ローデンは、複雑そうな目を向ける。
遼が立ち上がり、天幕の入口を開けた。
「……来てくれたか」
「呼ばれたからな」
それだけ言って、天幕の中を見渡した。
少し間を置いてから、続ける。
「……あんたたちには、命を助けられた」
複雑そうな表情。
「せめて、その分の借りは返す。
古臭い教えだけど、俺の故郷――ラウスの、教えなんだ」
「ラウスの……」
ミレイユが、遠い目をした。
「あの旗は、祭の時に掲げられるんだ。
みんな、目にしたことがあると思う。
……帝国に攻められたときに、
全部燃やされちまったけど、な」
目を伏せながら、帝国兵は続ける。
「だから、もし掲げるなら、それが良いと思う。
――きっと、みんな、忘れられないから」
兵士の言葉に、しばしの間、沈黙が訪れる。
やがて、ローデンは、深く息を吐いた。
「……危うい策じゃ」
「ああ」
遼も否定しない。
「だからこそ、本当に崩れるかは、
やってみるまで分からない」
「……でも」
その時。
エリシアが、
静かに顔を上げた。
「私は、
無意味だとは思いません」
全員の視線が、
彼女へ向く。
エリシアは、
少し迷うように言葉を探した。
「あなたは……
故郷を口にした時、とても苦しそうでした」
エリシアは、帝国兵を見た。
「帝国に従っても、名前を変えられても。
それでも消えないものが、あるんだと思います」
「……姫殿下。
我が軍は、もう後がありません。
失敗したら、終わる賭けですぞ」
ローデンが、重々しく
確認するように口を開く。
「分かっています」
補給も、兵力も、
もう余裕はない。
次に崩れれば、
本当に押し切られる。
だが。
エリシアは、
小さく首を横へ振った。
「それでも」
静かな声だった。
「人の心は、
そんなに簡単に消せないと、
私は信じたいんです」
誰も、
すぐには言葉を返せなかった。
ただひとり、ミレイユは、
眩しいものを見るように佇んでいた。
それは、故郷への郷愁なのか、
それとも、主の光なのか。
誰にも、分からなかった。
夜明け前の冷たい風が、
静かに幕舎を揺らしていた。