救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~ 作:ホビット
二人との邂逅から一夜明けた朝。
遼は井戸の前で、桶に水を汲んでいた。
冷たい井戸水が手に触れるたび、
昨夜の出来事が現実として胸に沈んでいく。
ここはレムル。
森を抜けた先にある、山間の小さな村。
だが、村と呼ぶには、あまりに痩せていた。
石積みの壁の一部は剥がれ落ちており、
藁葺きの屋根には、雨漏りの後が残っている。
村に唯一ある古井戸は、底が見えそうなくらい水は浅く、
畑にある作物は、間隔が広い。
この村に来て、遼が最初に気づいたのは、
子供たちの足音が軽すぎることだった。
走るというより、地面を滑るような足取り。
栄養が足りていないのだと、すぐに分かった。
噂では、帝国がまた戦争の準備をしているという。
備蓄も人手も足りないこの寒村では、次の徴発に耐えられない。
皆、不安を押し殺しながら、日々を過ごしていた。
**
遼が村に入って、何日かが過ぎた。
その間、手持ち無沙汰だった遼は、
村の修繕を手伝い、壊れた柵を直し、井戸の滑車を調べ、
何かと手を動かしていた。
遼はもとより、饒舌ではない。
それに、黙々と手を動かしている間は、
鬱屈としたことを考えずに済んだ。
最初は距離を取っていた子供たちも、
いつの間にか遼の後ろをついて回るようになっていた。
子供たちだけでなく、村の大人たちも、
黙々と村のために働く遼の姿に、少しずつ心を開いていった。
**
遼は、エリシアたちと水汲みをしていた。
水を運んでいると、村の老人がエリシアに深く頭を下げた。
「姫……いえ、エリシア様。いつもありがとうございます」
「い、いえ……そんな、頭を上げてください」
エリシアは慌てて手を振った。
村人は恐縮したように去っていく。
遼はそのやり取りを見て首を傾げる。
「……なんであんなに丁寧なんだ?」
「お嬢様は昔から、そういう扱いを受ける方なんです」
ミレイユが当然のように言った。
しゃっきりと姿勢良く立ちながら、視線だけを遼に向ける。
「幼いころから、周りの子よりずっと“特別”でした。
私は物心ついた頃からお嬢様のお世話をしてきましたから、
姉妹のようなものです」
「ミレイユ……そんな言い方しなくても」
「事実です。
お嬢様は隠すのが下手で、すぐに周りに気づかれてしまうんです」
エリシアは頬を赤らめ、困ったように笑った。
「……ミレイユは、私のことを何でも知っているんです。良いところも、悪いところも」
「悪いところの方が多いです」
「ミレイユ!」
そのやり取りは、主従というより本当に姉妹のようだった。
この時、遼はその光景を見て、“ただの村娘じゃないな”くらいにしか思わなかった。
**
ある日。
村長の家に、帝国の使者からの手紙が届いた。
封書を見た瞬間、
嫌な予感が、遼の背筋を冷たく撫でた。
エリシアと遼は村長に呼ばれ、
古びた机の上に置かれた封書を見つめた。
「どのような内容だったのですか?」
エリシアが静かに問う。
村長は唇を震わせながら答えた。
「……三日後、食料と若者を徴発する、とのことじゃ」
「無理だ」
遼は即答した。
「そんなことをしたら、この村は滅びる」
エリシアが眉根を寄せながら、村長に尋ねる。
「近くの村に、助けてもらうことは出来ないのですか?」
「今から相談したところで、どうせ間に合わん。
……それに、今は、どの村も余裕なぞあるまいて」
「なら、断るしかない」
遼が言葉を重ねる。
「……拒めば、帝国軍に滅ぼされる」
村長は一度言葉を切り、乾いた唇を舐めた。
「隣の村はな……同じように断ったそうじゃ」
薪のはぜる音だけが、やけに大きく響いた。
「……翌日には、焼かれておったと」
村長は視線を落としたまま、
最後だけ小さく吐き捨てるように言った。
「……わしらも、同じじゃろうな」
その声は、諦めというより“覚悟”に近かった。
弱者が踏み潰される未来を、当然のように受け入れる覚悟だった。
**
エリシアは、ゆっくりと立ち上がった。
「私が話します」
その瞬間、ミレイユの顔色が変わった。
「お嬢様、それは危険です」
「だからこそ、私が行きます。
……誰かが、言わなければいけないから」
「話が通じるとは思えません」
「けれど、話さなければ何も変わりません。
そうしなければ、この村は終わりです」
ミレイユは言い返そうとして、言葉を失った。
理屈では止めるべきだと分かっている。
だが、エリシアは昔からこうだった。
人より不器用で、そのくせ頑固で、
だけど、誰よりも優しい。
誰かが泣いている場所へ、自分から歩いて行ってしまう。
こうなったエリシアは止まらない。
ミレイユは深く息を吐き、観念したように言った。
「……承知しました。ですが、お嬢様。
少しでも危険だと判断した場合、私は貴女を担いででも逃がします」
「その時はお願いします。……担がれるのは嫌ですけどね」
エリシアは困ったように笑ったが、その笑みは震えていた。
怖いのだ。
当然だ。
遼はエリシアの横顔を見た。
恐怖を飲み込み、
誰かのために立ち向かおうとする顔だった。
無謀だ、と遼は思った。
言うべき言葉は、分かっている。
止めるべきだと、判断もしている。
何より、そういう人間から先に壊れていくことを、
遼は誰よりも知っていた。
――だけど。
彼女の、その勇気に満ちた横顔を見て。
自分が失った「何か」を感じた。
遼は、何か言いかけて、
しかし、ゆっくりと口を閉じた。
胸の奥が、鈍く痛んだ。