救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~   作:ホビット

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第十八章 郷愁の戦列

 霧の残る早朝だった。

 

 河川地帯を覆う湿気が、

 視界を白く滲ませている。

 

 ぬかるんだ地面を踏みしめながら、

 王国軍の一隊が、静かに前進していた。

 

 先頭に立つ兵たちは、

 槍も剣も構えていない。

 

 代わりに掲げているのは――

 

 見慣れぬ旗だった。

 藍色の布地に、

 オリーブの花があしらわれている。

 

 帝国西方属州、

 ラウス地方の古旗だった。

 

 風に揺れるその紋章を見て、

 帝国前線の兵士たちがざわつく。

 

「……なんだ、あれ」

 

「属州旗……?」

 

「なぜ敵軍が――」

 

 動揺が、

 静かに広がっていく。

 

**

 

 帝国軍左翼前線。

 

 ラウスの出身兵、

 カイラスは思わず目を見開いていた。

 

 見間違えるはずがない。

 

 幼い頃、

 祭礼で見た旗だった。

 

 川辺で踊る人々。

 葡萄酒の匂い。

 母の歌声。

 

 もう戻れないと思っていた景色が、

 霧の向こうで揺れている。

 

「おい。見るな」

 本国出身の隊長が、

 苛立った声を飛ばした。

 

「あれは敵の攪乱だ」

 

 だが。

 隊列の空気は、

 既に乱れ始めていた。

 

「なんで、

 敵があの旗を……」

「誰が渡した?」

「ラウスの連中か?」

 

 ざわめきが広がる。

 命令より先に、感情が動く。

 

**

 

 一方。

 

 少し後方の丘から、

 遼は帝国軍の反応を見ていた。

 

「……止まったな」

 

 隣で、ローデンが低く唸る。

 

「だが、まだ崩れてはおらん」

「ああ」

 

 遼も頷く。

 

 むしろ、

 本当に危険なのはここからだった。

 

**

 

 帝国軍左翼部隊の前線。

 ひとりの若き士官は、苛立ちを隠せずにいた。

 

「構うな!前進しろ!」

 

 だが、返事が鈍い。

 兵たちの視線は、

 どうしても旗へ吸われていた。

 

 若い士官――アルヴェスは、苛立ちの奥で、

 別のことを考えていた。

 

(これを即座に封じれば)

 

 誰かに評価される。

 その考えが、先に動いた。

 

「旗を落とせ!射殺しろ!」

 

「な……!」

 周囲の兵が息を呑む。

 

 属州旗への攻撃。

 それは、単なる敵旗への射撃ではない。

 故郷そのものへの侮辱に近かった。

 

「待て!その命令は――」

「レクトール閣下ならば、

 不確定要素を即刻排除なされるはずだ!」

 

 アルヴェスは、確信した顔で怒鳴る。

 

「撃て!!」

 

 次の瞬間。

 

 藍色の布にめがけ、

 正確に放たれた矢は、

 風を裂き、そして。

 

 ――オリーブの花を、裂いた。

 

 誰も、すぐには声を出せなかった。

 

 まるで。

 

 その矢が、

 布ではなく、

 過去そのものを貫いたみたいに。

 

 凍り付くような静寂が、帝国軍に訪れた。

 

 やがて、

 

「……おい」

 

 誰かの、低い、低い声が響いた。

 

「今、旗を撃ったのか?」

「俺たちの旗を……?」

 

 絶対零度が、溶け始める。

 怒りの熱を帯びた声には、

 もう“帝国兵”の響きが無かった。

 

「誰の命令だ!」

「落ち着け!

 隊列を維持しろ!」

「本国の連中は、

 俺たちを馬鹿にしてるんだ!」

「違う!命令だ、従え!」

「誰の命令だ!?」

 

 隊列が乱れる。

 命令通り前進する者。

 足を止める者。

 怒鳴り返す者。

 

 兵たちの視線が、

 互いへ向き始める。

 

 敵ではなく。

 隣の味方へ。

 

**

 

 怒声の中で、

 カイラスだけは動けなかった。

 脳裏へ、別の光景が蘇った。

 

 燃える家。

 崩れた石橋。

 

 そして。

 

 帝国兵によって、

 炎の中へ投げ込まれていく、

 ラウスの旗。

 

『属州に旗など不要だ』

 

 誰かが、笑っていた。

 

 幼いカイラスは、

 母に抱き寄せられながら、

 ただ震えていた。

 

 ――あの日と、同じだった。

 

**

 

 河岸の向こう。

 

 その様子を見ていた遼が、

 目を細める。

 

「……マジかよ」

 

 本当に、揺らいだ。

 

 ローデンも、

 無言で戦列を見る。

 

 帝国軍の動きが、

 僅かに遅れていた。

 

 隊列修正が、

 一拍遅い。

 

 命令伝達が、

 噛み合っていない。

 

 エリシアは、

 静かに、旗を見つめていた。

 

 裂けた属州旗が、

 朝霧の中で揺れている。

 

 まるで。

 

 忘れられていた感情が、

 再び息を吹き返したように。

 

**

 

 帝国軍の混乱は、

 瞬く間に広がっていった。

 

「隊列を維持しろ!」

 

 本国出身の士官が怒鳴る。

 

 だが、

 兵たちの足並みは揃わない。

 

 前へ出る者。

 止まる者。

 仲間へ詰め寄る者。

 

 統一されていたはずの動きが、

 目に見えて崩れ始めていた。

 

「旗を撃つ必要が、

 どこにあった!?」

 

 ラウス出身兵の一人が、

 怒鳴るように叫ぶ。

 

「あれは敵の策だ!

 感情に流されるな!」

「だからって、

 故郷の旗を撃つのか!?」

「命令だと言っている!」

「だから、誰の!?」

 

 怒声が、

 泥濘の上へぶつかり合う。

 

**

 

 一方。

 後方司令陣地。

 

 伝令が、

 荒い息で天幕へ駆け込んできた。

 

「前線、

 一部混乱!

 属州兵部隊同士で口論が発生しています!」

 

 レクトールは、

 机上の地図から視線を上げた。

 

「原因は?」

 

「ラウス属州旗を掲げた敵部隊へ、

 現場士官が攻撃命令を――」

 

 一瞬だけ。

 

 レクトールの目が、

 冷たく細まった。

 空気が急速に冷える。

 

「……誰が撃てと命じました?」

 

「その……、第三前衛隊、

 副官アルヴェスです!」

 

 レクトールは沈黙した。

 表情は変わらない。

 

 だが、その静けさの奥で、

 思考だけが高速で回転していた。

 

(愚かだ)

 

 敵の狙いは明白だった。

 

 感情を刺激し、

 隊列へ“解釈”を発生させること。

 

 だからこそ、

 反応してはいけなかった。

 

 無視し、

 機械のように押し潰すべきだったのだ。

 

 だが、

 現場は待てなかった。

 

 合理を理解したつもりで、

 先回りした。

 

 その結果が、

 今の混乱だった。

 

「命令を出します」

 

 レクトールは思考を整理し、

 即座に口を開く。

 

「現時点より、私の許可が出るまで、

 属州旗への攻撃を全面禁止」

「全部隊には、陣形維持を最優先するように通達」

「合わせて、属州兵と本国兵を一時分離。

 接触を減らしてください」

 

 極めて正確。

 極めて合理的。

 

 混乱を最小限で収束させる、

 最適解だった。

 

 だが。

 伝令が去った直後、

 別の伝令が飛び込んでくる。

 

「第四線、

 命令解釈に混乱!」

 

「“分離”命令を受け、

 一部部隊が後退開始!」

「……後退?」

「現場では、

 撤退命令と誤認されています!」

 

 さらに。

「属州兵部隊の一部が、独断で旗部隊へ接近!」

「投降ではありません!説得を試みている模様!」

「本国兵側が、裏切りと誤認しています!」

 

 報告が、

 矢継ぎ早に飛び込む。

 

 完璧なはずの指示が、

 現場へ届く頃には、

 別の意味へ変質していく。

 

 レクトールの磨き上げた、

 ダイヤモンドの様に硬い合理性は、

 いまも亀裂が走り続けている。

 

**

 

 その頃。

 

 前線では、

 混乱がさらに連鎖していた。

 

「後退命令だ!」

「違う!隊列維持だ!」

「どっちなんだ!?」

 

 怒号が飛び交う。

 

 泥濘の中、

 兵たちが互いの顔を見合っていた。

 

 命令は届いている。

 だが、理解が揃わない。

 

「ラウス兵を下げろ!」

 

 本国士官が叫ぶ。

 

「接触を避けるんだ!」

 

 混乱を収拾するための命令。

 だが、それは。

 別の意味に受け取られていた。

 

「……隔離か?」

「疑われてるのか、俺たちは」

「裏切ると思われてるんだ」

 

 不信が、静かに広がる。

 

 一方で、

 命令へ忠実に従おうとする兵もいた。

 

「持ち場を守れ!今は敵前だぞ!」

 

 だがその声すら別の誰かには

 

“本国側へ付け”

 

 と言っているように聞こえる。

 

 言葉は同じなのに、

 受け取る側の感情で意味が変わる。

  

**

 

 カイラスは、

 混乱の中心で立ち尽くしていた。

 

 向こう岸では、

 裂けた故郷の旗が、今も揺れている。

 

 後ろでは、

 兵たちが怒鳴り合っていた。

 

「カイラス!何をしてる!

 さっさと、前へ出ろ!」

 

 隊長が叫ぶ。

 

「……俺は」

 

 何者なんだ。

 

 槍を握る手から、

 力が抜けていた。

 

**

 

 帝国軍司令幕舎。

 

 レクトールは、

 矢継ぎ早に届く報告へ耳を傾けていた。

 

「第三列、進軍停止!」

「第五線、命令確認のため待機しています。

 急ぎ、閣下の指示を仰ぎたいとのこと!」

「左翼部隊、属州兵同士の口論で、

 一部では、殴打に発展しています!」

「本国兵側が、裏切り警戒で隊列変更を要求しています!」

 

 相次ぐ、現場の混沌を示す報告。

 それでも、レクトールの頭脳は冷静さを保っていた。

 

 混乱は、まだ局地的。

 致命傷ではない。

 

 一方で。

 レクトールには分かっていた。

 

 これは“損耗”ではない。

 秩序そのものへの亀裂だ。

 

 そして、

 一度疑念を抱いた兵士は、

 もう以前と同じ速度では動かない。

 

 彼は静かに、

 地図へ視線を落とす。

 

 完璧に制御されていた戦線。

 その一角だけが、

 微かに歪み始めていた。

 

「……人間か」

 

 ぽつりと漏れた呟きは、

 疲労でも、諦めでもない。

 

 ただ。

 

 これまで排除できていた“不確定要素”が、

 初めて戦場へ入り込んできたことへの、

 冷たい認識だった。

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