救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~ 作:ホビット
霧の残る早朝だった。
河川地帯を覆う湿気が、
視界を白く滲ませている。
ぬかるんだ地面を踏みしめながら、
王国軍の一隊が、静かに前進していた。
先頭に立つ兵たちは、
槍も剣も構えていない。
代わりに掲げているのは――
見慣れぬ旗だった。
藍色の布地に、
オリーブの花があしらわれている。
帝国西方属州、
ラウス地方の古旗だった。
風に揺れるその紋章を見て、
帝国前線の兵士たちがざわつく。
「……なんだ、あれ」
「属州旗……?」
「なぜ敵軍が――」
動揺が、
静かに広がっていく。
**
帝国軍左翼前線。
ラウスの出身兵、
カイラスは思わず目を見開いていた。
見間違えるはずがない。
幼い頃、
祭礼で見た旗だった。
川辺で踊る人々。
葡萄酒の匂い。
母の歌声。
もう戻れないと思っていた景色が、
霧の向こうで揺れている。
「おい。見るな」
本国出身の隊長が、
苛立った声を飛ばした。
「あれは敵の攪乱だ」
だが。
隊列の空気は、
既に乱れ始めていた。
「なんで、
敵があの旗を……」
「誰が渡した?」
「ラウスの連中か?」
ざわめきが広がる。
命令より先に、感情が動く。
**
一方。
少し後方の丘から、
遼は帝国軍の反応を見ていた。
「……止まったな」
隣で、ローデンが低く唸る。
「だが、まだ崩れてはおらん」
「ああ」
遼も頷く。
むしろ、
本当に危険なのはここからだった。
**
帝国軍左翼部隊の前線。
ひとりの若き士官は、苛立ちを隠せずにいた。
「構うな!前進しろ!」
だが、返事が鈍い。
兵たちの視線は、
どうしても旗へ吸われていた。
若い士官――アルヴェスは、苛立ちの奥で、
別のことを考えていた。
(これを即座に封じれば)
誰かに評価される。
その考えが、先に動いた。
「旗を落とせ!射殺しろ!」
「な……!」
周囲の兵が息を呑む。
属州旗への攻撃。
それは、単なる敵旗への射撃ではない。
故郷そのものへの侮辱に近かった。
「待て!その命令は――」
「レクトール閣下ならば、
不確定要素を即刻排除なされるはずだ!」
アルヴェスは、確信した顔で怒鳴る。
「撃て!!」
次の瞬間。
藍色の布にめがけ、
正確に放たれた矢は、
風を裂き、そして。
――オリーブの花を、裂いた。
誰も、すぐには声を出せなかった。
まるで。
その矢が、
布ではなく、
過去そのものを貫いたみたいに。
凍り付くような静寂が、帝国軍に訪れた。
やがて、
「……おい」
誰かの、低い、低い声が響いた。
「今、旗を撃ったのか?」
「俺たちの旗を……?」
絶対零度が、溶け始める。
怒りの熱を帯びた声には、
もう“帝国兵”の響きが無かった。
「誰の命令だ!」
「落ち着け!
隊列を維持しろ!」
「本国の連中は、
俺たちを馬鹿にしてるんだ!」
「違う!命令だ、従え!」
「誰の命令だ!?」
隊列が乱れる。
命令通り前進する者。
足を止める者。
怒鳴り返す者。
兵たちの視線が、
互いへ向き始める。
敵ではなく。
隣の味方へ。
**
怒声の中で、
カイラスだけは動けなかった。
脳裏へ、別の光景が蘇った。
燃える家。
崩れた石橋。
そして。
帝国兵によって、
炎の中へ投げ込まれていく、
ラウスの旗。
『属州に旗など不要だ』
誰かが、笑っていた。
幼いカイラスは、
母に抱き寄せられながら、
ただ震えていた。
――あの日と、同じだった。
**
河岸の向こう。
その様子を見ていた遼が、
目を細める。
「……マジかよ」
本当に、揺らいだ。
ローデンも、
無言で戦列を見る。
帝国軍の動きが、
僅かに遅れていた。
隊列修正が、
一拍遅い。
命令伝達が、
噛み合っていない。
エリシアは、
静かに、旗を見つめていた。
裂けた属州旗が、
朝霧の中で揺れている。
まるで。
忘れられていた感情が、
再び息を吹き返したように。
**
帝国軍の混乱は、
瞬く間に広がっていった。
「隊列を維持しろ!」
本国出身の士官が怒鳴る。
だが、
兵たちの足並みは揃わない。
前へ出る者。
止まる者。
仲間へ詰め寄る者。
統一されていたはずの動きが、
目に見えて崩れ始めていた。
「旗を撃つ必要が、
どこにあった!?」
ラウス出身兵の一人が、
怒鳴るように叫ぶ。
「あれは敵の策だ!
感情に流されるな!」
「だからって、
故郷の旗を撃つのか!?」
「命令だと言っている!」
「だから、誰の!?」
怒声が、
泥濘の上へぶつかり合う。
**
一方。
後方司令陣地。
伝令が、
荒い息で天幕へ駆け込んできた。
「前線、
一部混乱!
属州兵部隊同士で口論が発生しています!」
レクトールは、
机上の地図から視線を上げた。
「原因は?」
「ラウス属州旗を掲げた敵部隊へ、
現場士官が攻撃命令を――」
一瞬だけ。
レクトールの目が、
冷たく細まった。
空気が急速に冷える。
「……誰が撃てと命じました?」
「その……、第三前衛隊、
副官アルヴェスです!」
レクトールは沈黙した。
表情は変わらない。
だが、その静けさの奥で、
思考だけが高速で回転していた。
(愚かだ)
敵の狙いは明白だった。
感情を刺激し、
隊列へ“解釈”を発生させること。
だからこそ、
反応してはいけなかった。
無視し、
機械のように押し潰すべきだったのだ。
だが、
現場は待てなかった。
合理を理解したつもりで、
先回りした。
その結果が、
今の混乱だった。
「命令を出します」
レクトールは思考を整理し、
即座に口を開く。
「現時点より、私の許可が出るまで、
属州旗への攻撃を全面禁止」
「全部隊には、陣形維持を最優先するように通達」
「合わせて、属州兵と本国兵を一時分離。
接触を減らしてください」
極めて正確。
極めて合理的。
混乱を最小限で収束させる、
最適解だった。
だが。
伝令が去った直後、
別の伝令が飛び込んでくる。
「第四線、
命令解釈に混乱!」
「“分離”命令を受け、
一部部隊が後退開始!」
「……後退?」
「現場では、
撤退命令と誤認されています!」
さらに。
「属州兵部隊の一部が、独断で旗部隊へ接近!」
「投降ではありません!説得を試みている模様!」
「本国兵側が、裏切りと誤認しています!」
報告が、
矢継ぎ早に飛び込む。
完璧なはずの指示が、
現場へ届く頃には、
別の意味へ変質していく。
レクトールの磨き上げた、
ダイヤモンドの様に硬い合理性は、
いまも亀裂が走り続けている。
**
その頃。
前線では、
混乱がさらに連鎖していた。
「後退命令だ!」
「違う!隊列維持だ!」
「どっちなんだ!?」
怒号が飛び交う。
泥濘の中、
兵たちが互いの顔を見合っていた。
命令は届いている。
だが、理解が揃わない。
「ラウス兵を下げろ!」
本国士官が叫ぶ。
「接触を避けるんだ!」
混乱を収拾するための命令。
だが、それは。
別の意味に受け取られていた。
「……隔離か?」
「疑われてるのか、俺たちは」
「裏切ると思われてるんだ」
不信が、静かに広がる。
一方で、
命令へ忠実に従おうとする兵もいた。
「持ち場を守れ!今は敵前だぞ!」
だがその声すら別の誰かには
“本国側へ付け”
と言っているように聞こえる。
言葉は同じなのに、
受け取る側の感情で意味が変わる。
**
カイラスは、
混乱の中心で立ち尽くしていた。
向こう岸では、
裂けた故郷の旗が、今も揺れている。
後ろでは、
兵たちが怒鳴り合っていた。
「カイラス!何をしてる!
さっさと、前へ出ろ!」
隊長が叫ぶ。
「……俺は」
何者なんだ。
槍を握る手から、
力が抜けていた。
**
帝国軍司令幕舎。
レクトールは、
矢継ぎ早に届く報告へ耳を傾けていた。
「第三列、進軍停止!」
「第五線、命令確認のため待機しています。
急ぎ、閣下の指示を仰ぎたいとのこと!」
「左翼部隊、属州兵同士の口論で、
一部では、殴打に発展しています!」
「本国兵側が、裏切り警戒で隊列変更を要求しています!」
相次ぐ、現場の混沌を示す報告。
それでも、レクトールの頭脳は冷静さを保っていた。
混乱は、まだ局地的。
致命傷ではない。
一方で。
レクトールには分かっていた。
これは“損耗”ではない。
秩序そのものへの亀裂だ。
そして、
一度疑念を抱いた兵士は、
もう以前と同じ速度では動かない。
彼は静かに、
地図へ視線を落とす。
完璧に制御されていた戦線。
その一角だけが、
微かに歪み始めていた。
「……人間か」
ぽつりと漏れた呟きは、
疲労でも、諦めでもない。
ただ。
これまで排除できていた“不確定要素”が、
初めて戦場へ入り込んできたことへの、
冷たい認識だった。