救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~ 作:ホビット
アイゲンシルト城塞。
帝都を守る最後の関門であり、
帝国が「最も信頼できる将」を置く要衝。
その防衛を任されているのが、
セリア・ヴァルステッドだった。
**
朝霧の中、
整然と並ぶ帝国軍の槍列。
兵たちは静かだった。
無駄口はない。怒号もない。
恐怖すら薄い。
ただ、決められた位置へ、
決められた動きで立っている。
それは、
盲目的な統率ではない。
この陣形にいれば無駄死にはしない。
この将の指示なら、命を賭けられる。
そんな確信が、
兵たちの沈黙に滲んでいた。
その中央。
白銀の軍装を纏った女将が、
戦場を見下ろし、遠く平野の向かい側、
――青い旗を、眺めていた。
セリアが旗に目を向けていると、
背後から、声がかかった。
「セリア将軍、報告いたします。
第三補給線、本日中に再編完了の予定です」
「負傷兵の後送は?」
「既に手配済みです」
「抜かりは無いようですね。
いいでしょう。兵を無駄に疲弊させないように」
打てば響く、淀みないやりとり。
将と兵の間に、確かな信頼関係があることを感じさせた。
**
ルヴァン水城塞、作戦会議室。
長机の上には、
アイゲンシルト周辺の地図が広げられていた。
赤い駒が帝国軍。
青い駒がエリシア陣営。
その配置を見ただけでも、
この戦いが容易ではないことは理解できる。
「……正面突破は厳しいな」
遼が腕を組みながら唸る。
「道幅が絞られすぎてる。
たとえ、大軍で押したとしても、
隊列が伸びたところを上から叩かれる」
「うむ」
ローデンも深く頷いた。
「昔から、あの場所は“帝都の盾”と、呼ばれておる。
正攻法では、簡単に落ちるとは到底思えんわい。
せめて、迂回路でもあれば良いんじゃが……」
軍議へ参加している他の者たちも、
難しい顔で唸る。
誰もが、真正面から挑めば、
大量の犠牲が出ると理解していた。
「ですが」
不意に、静かな声が発せられる。
発言したのは、エリシア護衛騎士団の一人だった。
「アイゲンシルト周辺では、
未だ帝国支配に苦しむ民も多いと聞きます」
まだ若い騎士だ。
真面目そうな顔立ち。
声にも、悪意はない。
「長期戦になれば、
こちらの軍も、避難民の負担も、増え続けるでしょう。
ならば、多少の損害を覚悟してでも、
迅速に突破すべきでは?」
室内が、少し静かになる。
遼は眉をひそめた。
間違ったことは、言っていない。
だが。
「……いや、
“多少”で済む相手ではないぞ」
ローデンが低く返す。
「真正面から兵を突っ込ませれば、
どれほどの死傷者が出るか。
……想像もしたくないわい」
「ですが、姫殿下は民を救いたいと願っておられます」
ローデンの言葉にも怯まず、
騎士は、ただ真っ直ぐ答えた。
「ここで時間をかければ、
帝国側も防備を固めるでしょう。
それこそ、より多くの者が苦しむことになるのでは?」
また、空気が揺れる。
「……それは、
そうかもしれんが」
勢いに押され、ローデンが歯切れ悪く答える。
すると、別の騎士たちも口を開く。
「現在、周辺の支持は我々へ傾いています」
「ええ。
逆に、ここで勢いを止めれば、
失望を招く可能性もあります」
「姫殿下の理想を示すためにも、
前進すべきではないでしょうか?」
誰も、怒鳴っていない。
圧をかけてもいない。
なのに、気づけば、
部屋の流れがじわじわとそちらへ傾いていた。
(……なんだ、この感じ)
遼は、言いようのない息苦しさを覚えた。
まだ自衛隊にいた頃。
災害派遣だったか、訓練だったのか、
細かい記憶は曖昧だ。
ただ、実感として、
ひとつだけ確かに覚えていることがある。
それは、現場より、
“上の都合”が優先され始めた時、
大抵、ろくなことにならないということだ。
誰かが無理をしたり、声を我慢したり。
そうやって無茶を積み重ねて、
――最後には“こんなはずじゃなかった”と裏切られる。
今の空気が、それに似ている気がした。
――気がする、だけかもしれない。
そもそも、そうだったとして。
どうすれば良いのか、今の遼は、
答えを持ち合わせていなかった。
「……リョウ殿?」
声をかけられ、遼は我に返る。
見れば、オルウェンが穏やかに微笑んでいた。
「何か、気になる点でも?」
「いや……」
遼は、一瞬だけ言葉に詰まる。
違和感はある。
だけど、説明できない。
「……別に」
結局、
そう返すしかなかった。
オルウェンは、柔らかく微笑む。
「ご安心ください。
彼らとて、
無意味な犠牲を望んでいるわけではないでしょう」
その言葉に、騎士たちも真剣に頷いた。
本当に、そう思っているのだろう。
だから余計に、
遼の不安はますます大きくなった。
**
軍議は続いている。
誰かが発言し、誰かが頷き、
次々と話が進行していく。
だが、エリシアの耳には、
その内容が半分も入っていなかった。
両脇には護衛騎士たちが控え、固められている。
背後には侍従が控え、エリシアの言葉ひとつで、
なんでも用意してくれる。
けれど。
――自分の意思を言おうとして、
言葉が出る前に、隣の騎士が頷く。
――休憩を入れようとすると、
先に侍女たちが気を利かせ、皆に茶を差し出す。
彼らに、悪意はない。
真剣に、自分のために働いてくれている。
気がつけば。
エリシアは、
ただ、座っているだけだった。
居心地の悪さを紛らわせるように、
エリシアは、ミレイユへと目を向ける。
だが。
「……」
ミレイユはずっと俯いたままだった。
以前なら。
迷った時、不安な時、
ミレイユは、必ず気づいてくれた。
小さく頷くだけでも、
それだけで安心できた。
なのに、今は。
視線が、合わない。
「……姫殿下?
どうなさいました?」
「……え?」
かけられた声に、思考を戻す。
すると、皆の視線が、自分に集まっていた。
どうやら、
重要なことを聞き逃してしまっていたようだ。
「……どうやら姫殿下は、たいへんお疲れのご様子。
本日はここまでで切り上げた方がよろしいかと」
オルウェンが柔和に微笑み、提案する。
エリシアは、気まずそうに俯き、
絞り出すように言った。
「……申し訳、ありません」
「とんでもございません。
姫殿下のお身体以上に優先されるべきことなど、
あろうはずがございませんから」
微笑みのまま、安心させるように、
オルウェンが返礼を返した。
「では、皆さま。
いったん、解散といたしましょう」
オルウェンの言葉に、会議は解散となる。
後ろ髪を引かれるように、
エリシアは、もう一度ミレイユの方を見る。
けれど。
未だ、俯いたまま、
エプロンの裾を、ぎゅっと握りしめていた。
――結局、たった一度も、
ミレイユの目を見ることは出来なかった。